須坂市 2006・7・16
呼びかけに応える滝の水
米子瀑布は菅平高原を形づくる根子岳(2207m)、四阿山(あずまやさん2354m)の東面大懸崖にある。
かつてはここに、四阿大火山があり、高さ100mにも及ぶ大岩壁は、その上半分あまりを噴き飛ばした大爆発の名残といわれています。
不動滝は落差85m、あまりの高さに水の半分は霧状に四散してしまうこともあるそうです。
すぐ近くには、権現滝(落差75m)があり、まっすぐに伸びる美しい滝でした。
不動滝
マイナスイオンをいっぱい浴びて。。
遠く不動滝を望む
権現滝
クルマユリ
タケシマランの実
センジュガンビの花
カラマツソウ
米子大瀑布から右を望むと、昔の米子鉱山の跡地が見えました。
草が刈られて、地域の方が、きれいに大切に保存されている様子が伺われました。
こんな山深いところに集落があり、人々の暮らしがあったなんて驚きでした。
遊歩道で行く事が出来、そこからの遠く見える「不動滝」「権現滝」の2本の滝の眺めは
絶景だそうです。「日本の滝百選」の標柱が立っているそうです。。
こちらからも、標柱の立ってる様子が見えました。
米子硫黄鉱山跡地
米子硫黄鉱山
この地で硫黄の採掘が始められたのは、江戸時代前期からとも言われていますが、詳しい事はわかっていません。
亮保年間(1716〜1735)頃、米子村の竹前権兵衛は、幕府に良質な硫黄を売り、その資金を用いて現新潟県紫雲寺町の干拓事業を行い、同町に米子新田を開いたと伝えられています。
このことから現在、須坂市と紫雲寺町は姉妹都市の提携を結んでいます。
明治になり、須坂硫黄会社、信濃硫黄株式会社などが採掘をおこない、昭和9年には中外鉱業株式会社に引き継がれ、昭和35年の閉山まで、硫黄を中心に蝋石(ろうせき)などを産出しました。
米子鉱山から、須坂駅まで全長14kmを超える索道(リフト)が架けられ、硫黄が搬出されました。
硫黄の需要が増大した第二次世界大戦当時には、この地に生活する鉱山従業員とその家族は1500人を超え、診療所や共同浴場、学校などがそろい、鉱山集落へは、この索道を使って須坂から多くの物資が運ばれたそうです。