しんしんと降る雪は冷たく頬に触れ、また宙へ帰るように蒸発していく。
雨よりやさしくて、でも、雨より冷たく人の心を打つ結晶。
息を吹きかけただけで消えてしまいそうな、ひどくもろい宝石の向こうに何が見えているのだろう。
一面、真白のはずの地面はもうすっかり闇色に染まり、光がなければ雪も白く輝くことはない。
降る雪はこんなにも美しいのに、一度地面に着くと力尽きたように暗闇へ次々と身を投じていく。
まるで、今のあたしたちのようね……。
柳宿は、黒い上着の襟を上げ、首をすくめた。
……寒い夜だった。
北国は寒冷地だとは聞いていたけれど、まさかこれ程とはと、白い息の中で手を洗う。
ついさっき飲んだお酒の熱も、身体からすっかりぬけてしまっていた。
柳宿がいたのは、今夜美朱と鬼宿と一緒にとった宿の裏手にあった林の中。
もう真夜中をとうに過ぎているにもかかわらず、彼は林の奥で木の下に都合良く、
積もった雪の中から突き出て顔を出していた岩に腰掛けて、ずっと降ってくる雪ばかりを眺めていた。
神座宝を探し出すために、北甲国に赴いたところまではよかったんだけど、
まずそれ自体どんなものかしらってところなのよね……。
手分けしてやっと可能性のありそうな“黒山”というキーワードに行き着いた。
けれどそれは、それだけであって、決して黒山に神座宝があると確信を持って言える情報ではない。
それに、昼間襲ってきた青龍の新顔。
憂いだらけだ……。
そう。今の自分たちは丁度、宙を舞う雪そのもの。
夜の大地に吸い込まれていく者もあれば、昼間の雪原に散る者もいるかもしれない。
どちらがいいとか、そんなのはわからない。
だって、どちらもいつかは融けて水になる。純粋に春に向けて流れていく水が、花を咲かせ、実を実らせ、
そしてまた散った葉の上に雪が積もって四季は巡っていく。
人の生命も全く同じようにして、巡っていくのだ。
舞い散る雪の行き先は、わからない。
今のあたしたちと同じ。全く先の見えない迷路の中で、ただ風に身を任せて旅をする。
だったら、風は知っているのだろうか。
あたしたちの行き着く先を……。
夜でも昼でもいい。みんな一緒に地に降り立てるのならば、どんなにもろい足場でも、
ひとりひとりが支えあって乗り越えていける。
少なくとも、今自分はひとりで宙に舞っているわけではないのだから。
寂しく散り散りに舞う雪との唯一の相違点。
あたしには頼れる仲間がいるから大丈夫。一緒に激しく吹きつける風の中で希望を見出せる、大切な仲間。
頼られることには昔から慣れていた気もする。この力だから、誰にでも様々なかたちで頼られてきた。
でも、頼れる存在は無かった。
七星士の中で支えあっていくうちに、自分も仲間に頼ること。頼ってもいいのだということを知った。
親友と親族以外で妹のことを話したのは、彼らが初めてだった。
親友とはまた違った“仲間”という言葉の響きがこんなにいいものだとは思わなかった。
おかげで今、心は極めて穏やかだ。
自分の中の康琳の存在が、前よりももっとずっと温かいものに変化していくのがわかる。
彼らのおかげだ。
天から与えられた仲間に話せた……。そのことが柳宿の中で、彼が思っているよりも大きな意味をなしていたのだ。
“生きていれば辛いこともいつか笑って話せるときが来る”
生き続けよう。これからも康琳とずっとずっと一緒に。
柳宿は自分の髪……否。康琳の髪の入った袋を懐から取り出した。
なぜだろう……。
女装やめて、自分から切り離したはずの康琳の部分が、以前よりもずっとずっと近くに感じるなんて。
「……柳宿?」
聞き覚えのある声がして、柳宿は驚いて後ろを振り返った。
それというのも、この声が少なくとも今行動を共にしている美朱や鬼宿のものではない、まったくの別物だったからだ。
軽やかで、限りなくやさしい響きの奥でどこか低い、そんな響きを併せ持つ声。その低さは、わかる者にしかわからない。
それは辛さや悲しさからくる、限りない慟哭の深さそのもので、だからこそ彼の声は聞く者を安心させる効果を持つ。
あぁ……。この人も同じだ。
心の奥底に悲しい涙の泉がある……。
柳宿は彼に初めてあったときもそう思った。
「井宿」
「……やっぱり、柳宿なのだ」
いつもの仮面が笑う。
「この近くに宿をとってて、鬼宿たちの気を感じたのでもしかしてと思って張宿が寝入ってから、様子を見に来たのだ」
「なぁに、それ。それじゃ手分けした意味ないじゃないの」
「そんなことはないのだ。オイラが何故、張宿と組んだのか……柳宿なら気付いていると思うのだ」
「……まぁね」
張宿が北甲国へ旅立つ少し前に、与えられていた自室で泣いていたのを知っている。
“自分さえ……もっと、早く巫女のもとへ来ていれば……”
ひたすら後悔して、自分を責めて……。
船が難破して柳宿たちが大河へ投げ出され、なんとか無事帰艦できたときも、張宿は必要以上に心配してきた。
あぁ……。この子、責任感の塊ってタイプね。と、実はそのときは柳宿もたいして、
彼の行動を気にかけることはなかったのだが、北甲国のこの蘭烏特に入ってからは妙に無理をしているように見えて仕方がなかった。
別にこれといった行動には現れてはいないのだけれど、……これは、きっとその位置から見ている者にしか感じ得ない違和感。
仲間を常に保護者席で眺めていたこの二人には、それがわかったのだ。
「よく見てるわね、あんたも」
「柳宿ほどではないのだ。張宿は責任感のある子供だから、その分必要以上に自分で何でも背負い込もうとしてしまう。
だから、オイラと組んで少しでもその気負いする心の重みを取り除いてもらえれば、と思ったのだ」
「あの子には大人に“頼る”ってことが必要なのよ」
柳宿がわかったように言う。
しかし、次に井宿はためらうことなく柳宿が全く予想していなかったことを口走った。
「それは柳宿にも言えることなのだ」
柳宿は途中から岩の後ろの木にうつかって、こちらは見ずに、ずっと今までやりとりをしていた男をはっと凝視した。
そして次には、はぁ〜、とため息。
「ほんと、あんたには敵わないわ」
「何か悩みがあるのだ?オイラなんかでよければ聞くのだ」
「そりゃ、どうも。でも、あんただってそれは同じでしょう?」
「!」
「……その仮面の下、あたしが知らないとでも思った?」
井宿は少しだけ動揺し、しかし柳宿の手前、敢えてそれは隠さずに言った。
「美朱ちゃんに聞いたのだ?」
しかし、柳宿は首を横に振る。
「ううん。カンよ。あんた……、なんかとんでもなく重いものしょってるでしょ?そして、それを何故か知らないけど仮面という形で隠してる」
柳宿に指差されて、仮面に触れる。
隠してる……か。まぁ、確かに古傷を人目を避けて隠しているということにかわりはない。
「……話が長くなりそうなのだ。ここは寒いから、とりあえず屋根のあるところで話すのだ」
「……そうね。こんなときに風邪なんて、ひいてらんないわね」
「そういえば、柳宿はなんでまたこの真夜中にこんなところに来てたのだ?」
「……あんたが言えたことかしら?……ちょっと、ね。お酒で身体が温かかったから、酔い覚ましがてら涼みに来てたの」
やや無理のある言い訳だったが、井宿はそれ以上は何も訊かずに宿へ戻る柳宿の後に黙ってついていった。
「……そう。そんなことがあったの」
「人はこの傷を見てあまりいい気分はしないのだ」
「だから、この仮面を付けたってわけ?……違和感ない?こんなのずっとつけてて」
「大丈夫なのだ。それは昔、娘娘から……太一君から授かった物なのだ。つけるとまるで、自分の肌そのもののようになる特別製なのだ」
「あ、そ」
興味無さそうに見せてもらっていた仮面を井宿に返す。
宿の一階の酒場に着くと柳宿はまず、井宿に仮面を外して欲しいと言った。
その下に何か見られたくないものがあると、知った上で。
井宿は言われるままにキツネ面をはがすと、その傷ついた素顔で傷だらけの過去をゆっくり柳宿に語り聞かせた。
その話し方はどこか、美朱に語った時とは違った響きを持っていて、その間中、柳宿はそれを知ってか知らずかじっと黙って最後まで聴いていた。
「その仮面をつけている理由はよくわかったわ。……でも、今は外したままでいてくれるかしら。
今は、……邪魔な物でしかないでしょう?こんなの」
「じゃ、邪魔?」
「そうよ。邪魔なの。だって、そんなのつけてたら、あんたの頼ってくる顔が見れないじゃない。普段はそれでいいかもしれないけどね、
仲間に頼る時はきちんと頼ってもらわないと聴いてるほうも気分悪いわ。いい?人に頼る時は強がる必要なんてないの。
ありのままを見せて語った以上、今、あたしの前では潔くその傷さらしときなさい」
井宿はそのとき、心底驚いたという顔で柳宿を見た。
「……不思議なのだ」
「ん?」
「柳宿に今、……言われて、心が急に軽くなったのだ。そんなこと言われたの、初めてなのだ」
「……それって、褒めてんのよね?」
「頼れなんて言われたの久しぶりなのだ。……やっぱり、柳宿はオイラなんかよりずっと大人なのかもしれないのだ。
オイラが柳宿くらいのときにそれだけ大人だったら、今頃は……」
すると、柳宿の顔が変わった。
「……あんたね!過ぎたことそんな風に言わないの。生きてりゃ、悲しいこともいつか笑って話せるときが来るんだからね!
自分に腹が立つのはわかるけど。ずっと、後悔ばかりしてると前には進めないのよ!?
そんなあんた見て悲しむのは、誰より亡くなったそのふたりなんだからね……!!」
「柳宿……!?」
井宿がさっきとは違った驚き方で、彼を見た。
柳宿ははっと、自分の顔を片手で覆う。
「やだ。ちょっと、あんたがあんまり腹立つこと言うから、涙出てきちゃったじゃないさ!」
「……」
呆気にとられる井宿の前で、素早く涙をぬぐった。
……クスッ
「なっ……なによ!?」
「……ほんとに柳宿は不思議なのだ。……すまなかったのだ。頼れって言われて、つい嬉しくて甘えすぎたのだ」
はっと、柳宿の顔が井宿のその素顔を見る。その瞳はやさしかった。
「柳宿は“悲しいことも笑って話せる”ようになるまで、頑張って今まで生きて来れたのだね……」
井宿のそのニコニコした顔を見て、柳宿は一言、
……ずるい。
と思った。
柳宿が康琳のことを語る間中、井宿は何も言わずに聞き入った。
素顔のままの顔は、真剣そのもの。一語一句聞き逃すまいと聴いていてくれた。
まるで、さっき柳宿が井宿に対してしたように。
そして、語り終えたとき、井宿は彼の一番欲していた言葉をくれたのだった。
「康琳ちゃんは幸せなのだ。こんなに思ってくれる兄がいて」
「……そう思ってくれるの?」
柳宿は、それに少し驚いたようにまじまじと彼を見た。
「未練がましい……とか、自己満足だとか、親や近所の子供に散々言われてきたのに」
「そんなことないのだ。……オイラにもひとり、妹がいたのだ。だから、その気持ちは痛いほどよくわかるのだ」
妹が……いた。
その言葉の裏に秘められた意味を柳宿は瞬時に悟った。
「そっか……」
短く言って、一口だけお酒を飲む。
「……本当に、康琳は幸せだったのかしら」
「何言ってるのだ。その髪が……なによりの証拠なのだ」
柳宿は涼しくなったうなじに手をやる。
“康琳、僕たちは髪質も顔もそっくりだね。まるで、双子みたいだ”
“兄様の服とあたしの服、取り替えたらきっとみんなわからないね”
“あ、それ、面白そう。やってみようよ。きっとみんな驚くぞ”
“うん!”
子供の頃、本当によく似ていたあたしたちは、ときたまそうやって衣装交換しては、友人や大人を混乱させて遊んでいたものだった。
だから、あたしも長い髪を垂らすのに慣れていたし、女言葉にさほど抵抗もなかった。
あたしは康琳。事故で死んだのは兄の柳娟なのだ、と。
でも今、あることに気が付いた。
自分が妹を失って、こんなに悲しいのなら、康琳だって……あの子だって事故で死んだのは柳娟なのだと、
態度で示し続けるあたしを見てて同じくらい悲しいに違いない……。
柳宿は、昼間切り取った自分の髪を懐から取り出した。
今までは、どちらか片方が死んでいる状態だった。
だから、なかなか互いにその慟哭から抜け出せずにいたのだ。
康琳、……これからはふたりで生きていこうね。
あたしは柳娟、あなたは康琳。あなたはあたしで、あたしはあなた……。
「じゃ。今日はありがとうなのだ」
「それはこっちのセリフね。おかげで、だいぶ頭の中でもやもやしてたものがふっきれたわ」
仮面の笑顔は、その下も限りない笑顔で自分を見つめる。
「オイラはだいぶ心の重みが和らいだ気がするのだ」
「……なんだか、あたしたち、お互いに依存できる間柄のようね」
「……そうみたいなのだ。六つも違うのにオイラ、柳宿のこと兄のように思えた瞬間があったのだ」
あぁ……。それでやたら『不思議』を連発していたのね。と、柳宿は納得する。
「あら、それならあんたなんて朱雀七星士全員のお兄さんじゃないの。
あたしには実の兄がいるけど、今夜話聴いてもらってて……あなたのこと実の兄のように感じたわ。最も、実の兄ってのがこれまた頼りないんだけど」
井宿は嬉しそうに、いっそう顔をほころばせた。
「兄と言われると、ちょっとくすぐったいのだ。……でも、柳宿の話を聴いているとき、オイラも柳宿のことを実の……」
「妹のように思ってくれた?」
柳宿が悪戯っぽく尋ねると、井宿は首を振った。
「いや、妹とか弟とかそんなじゃなくて、柳宿は……柳宿なのだ。今日は本当にありがとうなのだ。
張宿が心配だからもう戻るけど、お互いまた明日から神座宝の情報収集、頑張るのだ!」
「えぇ。そうね。早くあの子の傍にいってやんなさいな。夜泣きしてたら大変よ」
冗談混じりにそう言って、柳宿はこのとき、自分が何かを忘れてしまっていることに気が付いた。
……しかし、それが何なのかはわからない。
何か、伝えなければならない重要な事があったはずなのに、まるで何かが邪魔をしているかのように、柳宿はどうしてもそれを思い出せなかった。
宿の戸口から手を振って出て行った井宿の背中を一瞬追って、そこまで行ったが、結局その呼び止める理由が思い出せずにそこに留まった。
今思えば、このとき既に運命は柳宿の星を翳らしていたのかもしれない。
この先、彼が単独行動中に朱雀の星に殉ずる運命下に置かれているのだということを、今の仲間はおろか本人さえも知る由はなかったのだ。
黙って、井宿の背中を見送る。
“黒山”というキーワードを柳宿が思い出したのは、この夜、彼が床に着いたときだった。
あぁ。言い損ねちゃった……。ま、いっか。
それよりもこのとき、彼の頭にはあのとき……井宿を見送った後に、不意に聞こえてきた声のほうがひっかかっていた。
あんな時間、あんなところで、小さな女の子の声をわずかに聞いた気がしたのだ。
なんだ。康琳。いつからそこにいたの……?
終
久しぶりのキリリクじゃない短編小説UP。シリアス物で柳宿&井宿です。
これは、同時UPのキリリク「おやすみなさい」の続編として読んでいただければ幸いです。
最近、訪問者に柳宿ファンが多いこともあって、なにげに取り出したるはふし遊ビデオ北甲国編!
レンタルです。だから、劣化が凄いのなんのって。いつか金に余裕があったらDVDに手が届くんでしょうが……って、話ちっがーう!
とにかくそれを見ていて、はっと思いついた話がこれと上記のもうひとつの作品。
私はまた、彼の散るところを視て枕を濡らすのです。これでも、やっと落ち着いて視れるようになったほうですが。