閑静でなんとも物に乏しい部屋で、十代半ばの少女は無造作に床に腰を落ち着けていた。
その身体が小刻みに震え、縮こまっているのは夜半の寒さがその白い肌に応えるからだろう。
そうでなくとも外は雪。室内はさながら氷室と化し、寝間着に上着一枚では暖をとれるわけがなく、
少女にもそれはよくわかっていた。
だのに、少女はそれ以上暖を求めることもなく、そうしたのには確かにそれなりのわけがあったことを、
少女は寒さでぼやけてきた頭で何度も思い返し、それについて只孤独に考え続けていた。
頭を冷やす必要があった。
自分は他人、自分の最も身近な者にでさえ、無神経であったことを先刻思い知ったばかりなのだ。
あまりに急に、自分というものがひどく利己主義な人間であることを、無論本人はそのつもりで言ったわけではないのだろうが、
それでも好いている人間の口から告げられたのには、正直その瞬間、胸がえぐられるような気分になった。
“好きだった”
初めてではない、想い人以外の口から聞くその言葉に、心の中で最初に浮かんだ単語は“ありがとう”と、次に“ごめんなさい”
後者のほうがむしろ口を突いて出そうになり、盗み聞いていたその場を逃げ出した。
もしこれが、初めてのことで、初めての体験であったなら、まだ予期せぬ人物からの予期せぬ言葉に驚いて逃げてしまった、
で、許されるのかもしれない。
しかし、そうではないのだ。
少なくともこれで二度目となることを、自分の心と身体とがよく覚えている。
初めはそうと知っておきながら、いざそれと告白されて戸惑い、結局何度も相手を傷つける結果となってしまった。
自分が心にけじめをつけられず、不安定であったばかりの過失。
相手はそれをそれとわかってくれる、少なくとも自分よりは遥かに大人だった。
相手が許してくれた。だからいいというわけではないだろうに、どこかそんな相手に甘えている自分が余計に腹立だしかった。
永い永い沈黙が部屋に満ちる。今まで生きてきて、こんなに永い間静かな空間で独りでいるなんて初めての経験だ。
自分からそれを破る気にならなかったのは、床が暖かいせいかもしれないと、今になって納得した。
この下は酒場だ。流石にこんな時間になっても、大人は夜を知らず騒いでいるのだろう。
下は酒場といっても、二次元的にはかなりずれている下の音が、わざわざ大きく斜めにとんできてまで直接聞こえはしないが、
それでも時折聞こえてくるどすの利いた男の笑い声は聞く者によっては不快だが、定期的に沈黙を破ってくれるので今のところ、
少女にとっては程よい時の音であった。
音量もそれほど苦にならないのもよかった。
人の声ってこんなに小さかったっけ……。と、少女は初めて世に目を向けたような顔になった。
そうでないと知ったのは、ギィッという木の軋む音を聞いた後だ。
今まで聞こえていた下の階の名も知らない男の笑い声よりかよほど大きく、そして近かった。
音が近かったことに、一瞬恐怖覚えて誰何(すいか)しようとしてやめた。
ここが、二階の突き当たりの部屋であることを思い出したからだ。ここへ誰かが来るのであれば、音はもっと近くなるはずだった。
通り過ぎるということはないのだから。と、少女は瞬時にそこまで考えたのだ。
ギィッ、ギィッ……
と、半ば途中で音がやみ、ここ以外の戸の開く音を期待したのだが、どうやらそれに応えてくれる気はないようだ。
音が極めて近くなって、もうこの部屋を目差しているのだということが理解できてからは、今度は別の理由で何者か問うのを諦めた。
落ち着いて考えてみれば、この時間、この部屋に入ってくるものといえば、だいたいの見当がついたからだ。
それが、よく知っている者だから余計に誰何の必要は皆無だった。
音は案の定、この部屋の前で止まった。と、同時に静かにドアノブに手がかかったのが気配でわかった。
室内の者が寝静まっているものと思ったのだろう。極力やさしく、しかし木製の戸の軋む音が長引かないように手早く、
少女が部屋の反対側から見ている目の前で戸は開いた。
小柄な陰がひとつさっと、しかしやはり極力音は立てずに入ってきて、最後の最後にパタンッと閉まる音だけを響かせて、ほぅと息をつく。
近くに誰かいたのなら、陰が漏らしたその息が酒気を帯びていることに気が付いたはずだ。
だが、生憎と少女はそれだけの距離のところにはいなかった。
いたのなら陰は、部屋に明かりを灯す前にその存在に気付くなりなんなりしていたはずだ。
戸脇の小卓の上にある燭台から一本の蝋燭(ろうそく)を手探りで、しかし危なげなくとると、常備の火打ちで明かりを点けた。
だが、それだけでは部屋全体に明かりは射さない。せいぜい陰の下あごと戸、小卓の輪郭が浮き上がったくらいだ。
小さな灯火でひとつの空間を最大限照らそうと思うのなら、方法はひとつ。中央に持ってくるより他はない。
中央に夕刻まであった机は宿屋兼酒場の主人が、夜になる前に今日は下に団体客が来るからと頭を下げて持っていってしまっているため、
思いっきり行って机の脚に当たる心配もなかったので、陰は蝋燭の光の輪が部屋全体を照らし出すまで遠慮なく歩みを進められた。
しかし、陰が突然何かの気配に気付き足を止めた。中央に差し掛かる少し前である。
目の前に……何かいる。
不安に思って、手に持った蝋燭だけをぐいっと四角い部屋の丁度中央にすえたとき、わずかに浮かんでいた陰の細目は驚くよりも先にひくついた。
「み、……美朱?」
それまでなぜだか自分でもわからないままに、無意識に息を殺していた少女は、
蝋燭に照らし出された青い顔を観念したようにそっとほころばせた。
「柳宿……」
互いの名がはじめて呼び合われた。
氷雪の舞う幻想的な夜を、天の半月と地の市街の明かりとが包み込むように、しかし、あくまで脇役に徹して主役の雪をよく持て囃してやっていた。
その雅劇の役者がまた、ひとつ静かに増える。
とある宿屋のとある部屋に、燭台一つ、蝋燭三つ分の暖色が浮かび上がった。
「なぁに。あんたまだ起きてたの。子供はもう寝る時間よ」
明かりが点いたのと、その言葉とはほぼ同時であった。
ようやく全体像の明らかになった陰が、燭台を持たずに空いているほうの腕を口と同じく“く”の字に曲げた。
「柳宿」と呼ばれた彼は、なるほど名に恥じぬだけの条件を全て兼ね備えているようだ。
今朝、自ら切ってしまった髪が唯一短いのが残念であるが、それでも柳のようにしなやかな美と仕種は相変わらずなのは流石と言えた。
知らぬ者がその姿だけを見れば、どこかの令嬢か、少なくとも一男児には見えたりはしないであろう。
でも……。と、思ったのは少女「美朱」。
でも、私たちにはわかる。以前とはどこか違う彼の雰囲気が、
やや突飛かもしれないとは思いつつも、自分たちに貴公子という言葉さえ連想させる。
“美”という言葉は女性だけに当てはめるものではないのだ。
いつかの彼の自論だが、“美”とは心に当てられる敬称であって、心がそうであるから自然と外貌もそうなっていくのだという。
あぁ。そうだ。その通りだ。なによりそう言った本人が生きた証拠に他ならない。
「どうしたのよ……?あたしの顔に何か付いてる?」
「う……ううん。そういうわけじゃ……」
無意識のうちに呆けていたのだろう。柳宿が不思議そうに上から覗き込んできたので、美朱は慌てて手を泳がせた。
そのとき、はっと息を呑んだのは柳宿のほうだった。
「美朱……あんた……」
「え……?」
一瞬、呆然となったときよりも間の抜けた顔になった美朱を見て、目を見張ったのは紛れもなく柳宿だが、
只彼が見ていたのはその少女の蒼白な顔だ。
光の色があるにもかかわらず、そこに浮かび上がった顔が燭台に一番間近なところで照らされた自分の手よりも、
真っ白であることに気が付き、唖然とした。
この子……。
そう思った瞬間、なりふりかまわず身体が動いた。
ゴトッ
ふぁさっ……。
「!!」
燭台を床に置いたのはほぼ無意識のうちだった。
突然のことで言葉を失った美朱の背を右手のひらで、先が冷え切った髪の毛を左手でそっと触れてやる。
「……あんた、いつからこんな……」
「……柳宿、温かい」
「あんたが冷たすぎるのよ。氷みたいじゃない。何考えてるのよ」
柳宿の体温が高いのはお酒が廻っているせいだと、美朱は初めて知った。
なのに、これまでにその気配さえ感じさせなかった彼は、やはり先に潰れてしまった鬼宿をとりあえず店に預け、
部屋を整えてから運んでやるつもりで、一端美朱の寝ているであろう部屋に戻ってきたというわけだ。
「まさか、あたしが下に行った時から、とか言わないでしょうね。
あたしが今戻ってこなかったらどうする気だったのよ。……バカなんだから」
暖かい言葉と身体に触れられて、麻痺していた感覚がじわじわと蘇ってきた。
「……寒い」
「そりゃ、寒いわよ。外は大雪なのよ」
紅南国の感覚で言えば、軽く吹雪いている程度でも大雪という言葉に当てはまるのだが、
それにしたって、一晩中部屋で縮こまったりなんてしていたら、十分風邪を引くだけの規模に違いない。
「……何かあったの?」
「……」
どきりとして、それが柳宿にも伝わったのがわかった。
その証拠にあとは何も追求せず、只次の美朱の言葉を待つ柳宿の、
その手だけは忙(せわ)しく、けれどやさしく彼女の背中をさすってやっていた。
少なくとも三回はしっかりと深呼吸した後、美朱の口は小さく開いた。
「……柳宿。ごめんなさい」
その一言で、今度は柳宿がはっと肩を上下させたのが美朱に伝わってきた。
次には静かに、氷像のようになっていた少女の身体を温めるために絡めていた両腕を外して言った。
「聞いてたの……」
「……うん」
「身体、冷えすぎて眠れないでしょうから、後で少しだけお酒でも持ってきてあげるわ。それ飲んで身体があったまればすぐ眠れるわ」
まるで、子供を寝かしつけるように、寝台の上で横たわった美朱に毛布を掛けてやり、自分はその寝台の脇に腰掛けた。
「あ、そういえば。下で伸びちゃってるどっかのお子様も運んであげないとだったわ。まったく、世話のやける……」
だが、言葉とは裏腹にその表情は軽かった。
「柳宿……」
美朱の口から申し訳無さそうな、むしろ情けない程小さな声が漏れた。
柳宿の表情は変わらない。
「だから、言ったでしょう?何も変わらないって。何をそんなにあんたが自分を責める必要があるってのよ」
さも、当然のように言われ、
「……そっか。……そうだよね」
そう答えが出た。あれだけ悩んでいたのが嘘のように、彼との一問答で全ての答えが思いがけず出てしまったわけだ。
「そうよ。そうでないと、あたしがわざわざあんなふうに言った意味が無くなるじゃない。
いいのよ、あんたはそのままで。あたしはそういう美朱が好きなんだから」
“いいのよ”
頭の中で、もう一度今聞いた言葉を繰り返す。
「……なんだか、柳宿少し変わったね」
「……そう?」
「うん。前も今もあるものは変わらないけど、……なんていうんだろう。
そのあり方が少し変わったっていうか……。うん。“覇気”が少し違うよ」
「“覇気”?」
思いがけず耳にした言葉に、柳宿は小首をかしげる。
そんな彼を見てから、我ながら良い言葉を見つけたとばかりに、布団に包まれた顔にようやく赤みが差していく。
「前は、女性特有の……少し意地の張った、それでもどこか人とは違って、
自分にしかないものを他人に見せようとするような、そんな覇気が感じられたんだけど、今は少し違うの。
なんだか、地の底から湧き上がってくる大きな、でも人をやさしく包み込んでくれそうな、
そんな覇気みたいなものが、柳宿を取り巻いているのがわかるの」
「……超柳娟」
「……え」
「柳娟」
柳宿は、同じ名を二度、しかし二度目はわざと短く答えた。
「あたしが親から貰った名前よ。多分、鬼宿にも言ったと思うけど、今ここにいるのは男のあたし。柳娟のほうよ」
「柳娟……。じゃあ、今の覇気の持ち主はきっと……」
「本当のあたし」
言ったと同時に立ち上がって、ずっと床に置きっぱなしになっていた燭台を持ち上げた。
「さぁ、子供はもう寝る時間よ」
と言うと、三つのうち二つの明かりを吹き消した。
途端、また視界が狭まるが、今度はそのままじっと光を見つめることはせずに、目を閉じた。
「おやすみなさい」
美朱はようやく苦悩から解放され、さらにそこまでに募りに募った心労も重なってか、
目を閉じると泥のように睡魔に襲われる自分がわかった。
それでも、おやすみと言った自分に柳宿が同じ言葉を返してくれるまでは、なんとか意識を保とうと思って頑張った。
けれど、結局、柳宿の声でその言葉を聞くことは叶わなかった。
自分がそれより先に眠ってしまったか、でも、それなら完全に意識が途切れる寸前、
わずかに額に感じたやわらかい感触を覚えているのは何故だろう……。
季節の移り変わりというのは、時に残酷に、しかし時にはやさしく生きとし生ける物を包み込む。
明日の雪はどうかやさしいものでありますように……。
終
eltamaさまに捧げます。柳×美朱でシリアス。「おやすみなさい」
北甲国のお話。柳宿が死地に赴く前夜の美朱と彼のやりとりです。
美朱のセリフ多目にということで、一応主体は彼女においてみました。
最近、中国小説に入れ込んでてちょっと漢字頑張ってみました(笑)
シリアスものはこのテスト開けの時期になんともぴったりだ。いつになく、深く書いた気が!(たぶんするだけ/笑)
結局、美朱ちゃんってば柳宿に甘えちゃってるし^^;
でも、やはりここが彼女の凄いところであり、彼女が好かれる所以なのかもしれません。
美朱ちゃん。私は君のそんな(健気な)ところが大好きだv