「ふたりとも……無事なのだ?」
「芳准……お前!」
なんてことだ……。
飛皋は思った。
自分は香蘭を守ったつもりだった。けど、後から芳准が飛び込んできて自分たちを洞窟の奥へと突き飛ばした。
……そうしなければ、俺と香蘭は今ごろ岩の下敷きだったのだ。
芳准が捨て身になって飛び込んで来てくれなかったら、間違いなく生き埋めになっていた。
「芳准、ありが……」
香蘭は言葉を呑み込んだ。
可愛らしい顔が、はっと驚愕に満ちて大きくゆがむ。
芳准の下にあった体を抜いて起き上がろうとして、彼のほうを見、ある事実を知ったからだ。
「芳准……足が!!」
「うぅ……っ!!」
芳准の顔が苦痛にゆがむ。
彼の右足の膝から下が、落ちてきた岩に押しつぶされ、大量に出血していた。
ふたりを庇って覆いかぶさったまではよかったのだが、まるで自分のことは考えておらず、
芳准は今それに気が付いたように「くっ……」と舌打ちした。
それを聞いて、飛皋も体を起こす。
流れ出た血で、芳准のズボンは足の付け根まで赤く染まり、そのすぐ近くにあった飛皋のそれも、
少し彼の血を吸っていた。
ひどい傷だ……!!
「芳准、待ってろ!今、岩どけるから」
「飛……皋お前、頭から……血が」
「バカ!お前よりマシだ!!」
火の消えた松明の枝を使って、てこの原理で大岩を持ち上げ、わずかにあいたその隙間から絶妙のタイミングで、
香蘭が渾身の力を込めて芳准の体を引っ張り出す。
「芳准……」
香蘭は何かを思い付き、ばっと自分の着物に手をかけた。
「香蘭……!?」
「飛皋、あなたの頭の傷も診せて。……こんなので止血できるといいんだけど」
香蘭は羽織っていた薄い生地の上着を勢いよく引き裂いた。
「……こうして、結び目に枝を通してひねる。そうすると、より強く締めることができるの。
でも、これずっとやっておくと、完全に血が通わなくなってしまうから、定期的に緩めないといけないわ。
飛皋の傷のほうは擦り剥いただけね。よかった……」
いつになくテキパキとことを運ぶ香蘭に、飛皋と芳准はあっけにとられていた。
「……どうしたの?」
「あ……いや」
「香蘭、実はしっかり者だったのだ……」
「芳准、それどういう意味かしら……」
さりげなく怒ったようにも聞こえる彼女の声の裏には、しかし、止めどない後悔の念が渦巻いていた。
「……これ、あまり無理しないほうがいいわ。芳准。もしかしたら、折れてるかも……」
洞窟の壁にうつかって、片足を投げ出すかたちで香蘭に診てもらっていた芳准は、止血の済んだその足を見た。
そして、次に、今にも彼の足を見て泣き出しそうな顔になっていた香蘭を見る。
「大丈夫。このくらい平気なのだ。さっきだってこの壁までなんとか自力で来れたわけだし、
あまり痛くないから、多分折れてはいないと思うのだ」
「やせ我慢しやがって……。ったく、お前はいつもこうだ」
「飛皋、もしかして怒ってるのだ?」
「あぁ!怒ってるとも!いい加減にしろってんだ。いつもいつも……。お前ばっかいいとこ取りだよな」
「……あー。ごめんなのだぁ。それで怒ってたのだ?それじゃ、今度からはお兄さんにいいとこ全部、
この弟が譲ってあげるのだ!」
「だぁ !!だから、それはやめろって言ってんだろう!お前みたいな弟持ったら、
十中八九苦労すんのはこの俺だっつーの!」
「……んじゃ、オイラがお兄さ 」
「もっとヤだ!!」
……クスッ。
『?』
ふたりは会話を中断して、香蘭のほうを見た。
香蘭は顔を伏せ、小刻みに肩を震わせていた。泣いているのかとも思ったが、それにしてはやけに不自然な顔の伏せ方だ。
まるで、今にもふきだしそうになるのを必死になって堪えているといった感じに近い。そんな……。
「……香蘭」
「飛皋……ご、めんな、さい。だって……」
声が震えている。
「いいのだ、香蘭。良かったのだ。香蘭がまた笑ってくれて」
「芳准……」
「オイラが守りたかったのはその笑顔なのだ。君にとっても、オイラたちにとっても大切なもの。守れてよかった……」
「……んで?さしずめそれは名誉の負傷か」
「ま、そんなことなのだ」
「……カッコつけやがって」
飛皋は、「はぁ……」とため息をついた後、芳准の足元にひざまずいた。
「……」
じっと芳准を睨んだ後、彼の足に巻かれた香蘭の着物の上に軽く手を置いた。
「!?って !!」
否。やや強く握り締めた。
芳准の顔がその痛みに思わずゆがむ。
「ひっ……!」
『飛皋!』と叫ぼうとして、……やめた。
固く閉じていた目を開けた瞬間、芳准の目に飛び込んできたのは、飛皋の背中だった。
「……早く負ぶされ」
「飛皋……」
芳准は、背中の向こうの友の赤面した頬を見て、わずかに笑んだ。
何も言わず上体を起こし、片足を庇うようにして彼の背に近付こうとすると、
あちらのほうから痺れをきらしたようにやってきて、無理矢理芳准の身体をすくい上げた。
おかげで、芳准のほうの負担は最小限にくい止められた。
これができたのは、このときやや飛皋のほうが芳准に比べて体躯がよかったためで、
背負った後も双方ともたいして苦はなかった。
こうすると本当に兄弟のようだ。
最も、彼らがこのときそう思ったかは知れない。
そのとき、それを見ていた香蘭がはっと立ち上がる。
「ちょ、ちょっと待って飛皋。なんで、芳准を背負う必要があるの?
この落盤……あの外にいた子供達だって見てたわけでしょう。なら、きっと誰かが大人に報せてくれるわ。
大人が来てくれればきっと、この大岩どけて助け出してくれる。それまで、ここでおとなしく待ちましょう?」
だが、飛皋は首を横に振った。
「なんで……」
次に、くいっと視線を上へ。
香蘭もその後を追う。
……ピシィッ!
「!!」
彼らの真上で不気味な音がして、香蘭の顔がはっと固まる。
岩が……。
「わかったろう。落盤は一度や二度では終わらない。今の出このあたりの岩にも亀裂が入った。
いつ同じようにまた崩れるかもわからないんだ。こんなところにずっといたら、危険だ」
「そんな……」
「助かるには奥へ行って、どこかこことは別の出入り口を探すしかないのだ」
あるいは、やや奥まったところで落盤の手が届かないところで、大人を待ってもよかったかもしれない。
でも、このとき、彼らには助けをただ待つということができなかった。
飛皋にしてみれば、このとき、何も出来なかった自分に腹が立っていたし、このまま大事なふたりの親友を、
いつまでもつらい目に遭わせたくはなかった。ことに、芳准の傷は一刻を争う事態であることを、
彼を負ぶってみて、改めて痛感した。
……熱い。
考えてみれば、自分たちがあの落盤の後、どれだけ気を失っていたのかはっきりしない。
落盤だ!と思って目をつむり、次に開けたときには既に暗闇の中だった。
一体、どれだけの間気を失っていたのか。そこのところが、どうにもわからない。
一瞬か、それとも……。
だとしたら、その間中芳准の足からは血が流れ続けていたというのか……。
香蘭に至ってもそれは同じで、さらにもうひとつ彼女にはその場から、生きるために自ら動く大きな理由があった。
「……わかった。行きましょう。大丈夫。きっと助かる……助かるわ」
ふたりとも自分のせいで傷を負ってしまった。
自分があのとき、何を言われてもこの洞窟に入るのをかたくなに拒んでさえいれば、
もしかしたら、この現実はなかったのかもしれない。
私が悪いんだ……。私が……。
歩き出した飛皋の後ろについていく足どりは、限りない後ろめたさからくるものだった。
ゆっくりというわけでも、特に早いというわけでもない。ただ、彼らの後ろから黙ってついてくる足音が、
歩みを進めるたび、謝っているようにも聞こえてくる。
「……大丈夫」
「芳准……」
芳准は振り向かずに、飛皋の肩に顔をうずめたまま言った。
「大丈夫。絶対出口は見つかるのだ。……信じるのだ」
「香蘭、ごめんな。俺達が誘わなければ……」
飛皋も、しかし、彼もまたまっすぐ前を見たまま、歩みは止めずに小さく言った。
今は、“止まって過ごす時間”が何より恐ろしい敵だった。
それは香蘭もわかっている。
このとき、香蘭は嬉しい言葉を彼らにくれた。
それが何だったのか、残念ながら今の井宿は覚えてはいない。
微熱でぼぉっとしていたため、仕方がないといえばそうなのだが。
だが、このときを境に彼らの絆がより一層深くなったのは、確かだった。
自然と歩みも力強さを増していく。
三人は生きるために、敢えて闇を目差して歩いていったのだ。
だが、現実は時として残酷なのだということを、彼らはこの数分後、身をもって知ることとなる。
はぁ……はぁ……。
丁度、肝試しの折り返し地点の台座にさしかかった辺りで、妙に生暖かい風が飛皋の耳を討った。
「芳准?」
まさかと思って、肩の上の友の顔を見てはっとなった。
「飛皋!芳准を下ろして」
彼の身体になるべく負担がかからないように、壁にうつからせるかたちで座らせる。
脂汗のにじみ出た額に手を当てて、飛皋は絶句した。
「……ひどい熱だ」
ややあって、その言葉を吐く。
見たところ、出血もまだ止まってはいない。
「……くそっ!」
「芳准、しっかり。大丈夫!?」
「……水」
「水……?水が欲しいのね?芳准」
水……。
しかし、飛皋はこのとき、芳准の言ったことのもっと深いところの意味を瞬時に悟った。
チロロロ……。
水の音……。右の道の奥のほうから、かすかに水の流れる音が耳に届いた。
「奥に水が!」
芳准が飛皋の声に小さく頷く。
「飛皋、これを持って行くといいのだ……」
「は?だってこれ……、妹にあげるっつってた玉じゃないか」
「これは、夜光珠の微粒子が入った玉なのだ。……気休め程度にでも明るいから、持っていくといいのだ……」
「……あ、あぁ」
飛皋は芳准の手からそれを受け取った。
「待ってろ!ふたりとも」
飛皋は礼は言わずにそれだけを言い残し、だっとその道を駆け出した。
きっと、玉はすぐに返すつもりであったのだろう。……そう。大きな恩返しとともに。
「飛皋!?」
香蘭が叫ぶと、止めたのは芳准だった。
飛皋は走った。ふたりを残し、ただひたすら音のするほうを目差して、無我夢中で走り続けた。
水の音……。それは、そこに水があるということのほかに、別のあるものが存在してることを教えてくれる。
この密閉された洞窟の中で水が流れる。それは同時に、その浸入口あるいは出口の存在を意味していることになる。
さらに、その水の中に魚がいたのならば、余計にその確率は高い。つまり、魚が入れるだけの大きな浸入口が、
どんなものであれ、確かに存在するからだ。
これに賭けてみる価値はあった。
芳准はそれを彼に伝えたのだ。
さらに彼は、自分が負ぶさっていることで、飛皋の自由を少なからず奪ってしまっていることを知り、わざと下ろさせた。
最も、彼の熱は本物に違いなかったのだが……。
小さな確率だった。でも、それは同時にわずかな希望でもあった。
芳准はそれを飛皋に託したのだ。
お兄さんに、いいとこ……ね。
「まったく……」
走って言いながら、彼の顔はわずかに嬉しさを噛み締めているふうでもあった。
だが、その表情はこの後すぐに絶望に満ちたものとなってしまうのである……。
現実はとことんこの三人を毛嫌いしているようだった。飛皋はこのとき、その現実とやらに怨みさえ抱いた程だ。
水はあった。右の道の奥には小川ともいえる規模の水の流れが確かにあった。水中には魚もいた。
そこまでは良かった。そこまでは良かった……。なのに。
チロロロ……。
それは小さな滝だった。子供の拳ひとつ入るか否かの小さな岩の隙間から、水は降り注いでいた。
同時にその穴からは、流れに身を任せた魚達が、一匹一匹という単位で入ってくる。
「は……はは……」
……疲れた。
それを見た瞬間、どっと今までの疲労がまとめて彼を襲った。
腰が抜けたように、その場に座り込む。
こんな……はずじゃなかったのに……。
肝試しか。面白そう。そう思っただけなのに……。
「……ごめんな。芳准、香蘭。出口なかっ 」
小さく呟いていた声は途中でぷっつり消えた。
過労で力尽きた……というわけではない。彼は何かに気付いて意図的にそれを中断したのだ。
さっきから、彼の目の前で何かがうっとうしく揺れている。
髪の毛……。
次の瞬間、はっと表情が変わった。
風……!!
この日、村中の子供がその親に一斉に叱られた。
そう……、彼らが閉じ込められてから、まだ半日も経ってはいなかったのだ。
飛皋が林の奥のほうで発見されたとき、村中の人間が彼を取り巻いた。彼は自力で脱したと言い、
さらにまだふたりが中にいることを大人に話した。しかも、彼がやっとのことで見つけたその出口は、
子供がひとり通過するのがやっとだったことも。
彼は、大人たちがとりあえず後は任せて休めと勧める中、それを拒否した。
すぐさままた洞窟に入り、芳准を背負い、助かったのだと聞いた途端、とうとう緊張の糸が切れてしまったのか、
泣き出してしまった香蘭の手を引いて、出口へふたりを導いた。
芳准は怪我は、そのとき偶然隣町から臨時往診に来ていた医者に、早くに診せることができたおかげで、
大事には至らず、香蘭のとっさの機転もあって、出血も最小限度で済んだ。
骨も折れてはいないようだ。
それを聞いた瞬間、今度は飛皋のほうの緊張が解けた。彼はその場で気を失ってしまったのだ。
その後、彼らは大事をとって四日、その医者の仮診療所での入院を余儀なくされた。
香蘭は初めの日こそ来れなかったものの、その後、彼らが退院するまで毎日見舞いに来てくれたし、
事故のあった日の夜は、こっぴどく親に叱られたことも話してくれた。
彼らもまた、退院したらしたで、それを覚悟しなくてはと互いに顔を見合わせて笑いあった。
大人の話によると、あそこは昔、この村が玉の産地として栄えていた頃に、玉石発掘のために丘陵の崖に穿たれた、
旧・採掘場跡だという。
この事件の後、そこは完全に封鎖されたと聞くが、彼らはもう二度とあの場所に行くことはなかった。
「芳准、これ返すよ」
「玉……。いいのだ。それは、飛皋にあげるのだ」
「……いいのか?」
「……いいのだ。助けてもらったお礼なのだ」
「何を今更。それを言ったら、お互い様だろうが。それなら、俺も何かやらなきゃならなくなるだろ」
オイラ……、病室で飛皋にこの後何を言ったのだろう……。
あれから十四年後、井宿はふっと思い出の断片の一番最後の言葉を思い出した。
それなら、ずっと親友でいて欲しいのだ……。これからも、ずっと……。
終わり
「思い出の断片」下。やっとUPしました。
いやぁ。実に長い。よっぽど、上中下にしようか迷ったくらい。
でも、なんとか収まりましたね。
さて、皆さんお気づきかと思いますが、この話にはいろいろと伏線がありまして、
まず、玉。これは知っての通り、飛皋がずっとつけていたあの玉です。芳准が昔彼にあげたという。
そして、次にあげるのはこの事件現場!
実はここ、第二部で井宿と飛皋が二度目の別離れをした、あの洞穴だったりするのです。
それから、途中うやむやに終わらせた香蘭のセリフ。
これは敢えてそうしました。(思いつかないからって逃げたわけではござんせん)
内容は読者様のご想像にお任せします。
なにせ、香蘭というお方は元がいないので、真意がなかなか見えてこず、大変でした。
なんにせよ、上下セットの短編やっと仕上がりました。
最後に、井宿ファンの皆様、井宿いぢめてごめんなさい。文句はいくらでもBBSで受け付けますんで(笑)
追憶編シリーズまだまだ続いたりして(をい)次は誰にしよっかな。では。