いつの頃からか、心にぽっかり穴が開いたようなそんな虚無に捕らわれる。
今まで決して満ち足りた生活を送ってきたわけではないから、はじめのうちは不思議にさえ思わなかったのに、
いつの間にか寂しい心の空間にどうしようもないやるせなさを感じるようになっていたのだ。
穴があること自体は疑問でもなんでない。
ただ、どうしようもなく寂しいのだ。そんな虚無感に襲われるようになってからというもの、
なんだか自分で自分がどうでもよく思えて仕方が無い。
だから、継母に「あんたは芸が無いんだから自分の身体で稼ぐのよ」と言われた時、
その意味するところがわからない年でもないだろうに、抵抗する気さえ起きなくなっていた。
この時10歳、当時継母とは名ばかりの妓楼閣の女主人からは小ばかにする意味で粗(「粗末な」程度の意)と呼ばれており、
貧困のためどのような心境で娘を妓楼に売ったのか、今となっては定かではない実の両親が付けた花婉(かえん)という名さえ、
記憶の隅に追いやられかけていたときのことだ。
意味するところはなんとなくわかっていた程度に過ぎない。それより、子供にとって親に捨てられた事実だけが重要だったのである。
倶東という国の国情は庶民の子供でも見知っていることだ。娘に限らず子供が売買されること自体が、
裏路地からその必要性に応じて表通りに進出しつつあるというから、少しでも金銭面に憂いのある家の子の耳にはどんな嫌でも届いてしまう。
もちろん公の場でそのようなことをしようものなら、刑罰に引っかかるのは必至だ。
表といっても、自己破産制度のないこの国でそれが貧困の窮地を救う最後の手段として、人の口から口へと広がりつつあるということなのだ。
ある程度その噂が衛兵の耳に入ったところで、身に覚えのある兵士のひとりやふたりいるのではないか。事実証拠が無い以上よほどのことが無い限り、
黙認。あるいは根も葉もない噂を信じたと、逆に非難されかねないし、最悪、上司よりやっかいな庶民階級の全てを敵にまわしかねない。
そんなこともあって、人身売買に関する処罰はほぼ事実上の緩和状態だった。それ程、国情が荒廃していたといえば、一言で片付く。
子供は少なからずそれを知っているのだ。
しかし、親を猜疑の眼で見たところで何かが変わるわけでもない。
それこそ必死に、いかに自分が家の労働力として良き働き手となるかを親に示し、売られるのを避けようと努力する。
花婉もそんな倶東国の最も荒れた時期の子供の一人だった。努力など意味が無かったのだ。
その後彼女は2年もの間、無心となった。
もう、誰も信じられなくなっていたのだ。ただ、生きるためだけに小さな身体を差し出し続けていた。
生きるというのは子供の本能だ。
しかし、彼女は気付いてしまった。
これがどんなに悲しいことか。年頃になってようやく、娼婦という言葉の意味するところの真意を知ったのだ。
もうすぐ花婉は13を迎えようとしていた夏のことだった。
花婉ははじめて房中術の指南のためという名目で、
同じ妓楼の姐さん(先輩。妓楼には主人を義理の親と呼び、先輩後輩は義姉妹と呼ぶ習慣がある)と引き合わされた。
その時、彼女は自分の将来像を垣間見た気がしてならなかった。
ここに来た当時は、半ばやけに近い状態だったことを、今更のように後悔した。
しかし、いつだったか反抗の意を見せた花婉にその袁姐々は語った。
「房中術は気を高めるための神聖な技術なの。それを忘れないで。特にあなたはどの妓女よりももともと気が高いという特性があるわ。
いい?それを誇りなさい。きっといつか心を許せた人にだけに使うの。ううん。心を許した相手でないと、できないことなのよ。
その人はいつかあなたの前に現れる。これは、こういう世界でしか愛情を示せない女たちの唯一の誇りであり、自由なのよ」
自分をはじめとするここにいる娼婦のほとんどが、かつて親に捨てられたという共通の境遇の持ち主だということを、
花婉は涙して知り得た。主人を義母と呼び、互いを姉妹と親しみを込めて言い合うことで、
各々得られなかった家族の温もりを確かめ合っているのだということを、同時に知った。
「姐さん……!」
その時、ほぼ三年にわたる間誰にも打ち明けれず、自分に対してでさえ辛さのあまり心に閉じ込めてしまっていた感情が爆発した。
甘える人が欲しかった。
ただ、それだけなのだ……。純粋にそれだけを求める人間がここにはたくさんいた。
……寂しいところだと、彼女は思った。
「……こんな時に思い出話とは、どんな心情の変化だ?」
寒い土地柄と度重なる心労のせいか、北甲国に来てからというもの気の減りが激しい心宿のテントに、房宿は毎晩のように訪れていた。
といっても、それと同数の房事を行っていたかというとそうではなく、房宿はそっと、奥の寝台に湯気の出る飲み物を運んだ。
「いいじゃない。たまには、私に付き合ってくれたってさ」
照れたように言って不器用に差し出した彼女の手から、心宿がそれを受け取り、くっと口に持っていく。
「……まぁいい。どうせしばらくは暇だ。次の手もうってある」
「尾宿のことね」
「あれに完勝ははなから期待してはいないが、相打ち程度にはなるだろうな。少なくともそうでなければ、拾ってやった意味が無い」
「拾った……ねぇ」
房宿の様子がいつもと違うのに気が付いた心宿だったが、自分からは訊こうとないのが彼らしいところだ。
ふっと笑って見せただけで、その後は無言で二口ほど飲んでいた。
傍らに座っていた房宿は、わかっていたように自分も何回か口に含んでから続けた。
「私も……あなたに拾われたのかしら」
これは意外な言葉だったらしく、心宿の手が止まった。
いきなり何を言い出すかと思えば……。
そんな心宿の反応を知ってか知らずか、
「丁度あの頃に私は心宿、あなたに助けられたわ」
と、遠い瞳でありし日の光景を見た。
「助けたつもりなどない」
「じゃ、やっぱりあの時私を房宿だと知ってて、尾宿のように拾ったってことね」
「……違う」
違うから違うと答えただけなのに、房宿は何がおかしいのか、そんな心宿の顔を見てふいた。
多分ここで、「じゃあ、どうして?」と尋ねても、素直に答えたりはしないだろう。
ならば、質問の仕方を変えてみるまで。
「あの時、心宿、あなたはあんなところで何をしていたの」
「昔のことだ。覚えていない」
「……そう」
また何がおかしいのか、嬉しそうな表情で心宿の腕を抱く。
今更、照れる仲でもない彼らはそっと、互いの顔を覗き見る。
心宿の心が今、ここにないのはよく知っていた。
今は、大事な時期。朱雀の連中より早く神座宝を手に入れなければならない。
その顔は自分を見つめてくれているが、その青い眼がまるで外を向いていた。
それでも、構わない。
誰を愛し、誰に気を与えるか。それは、女として貧しいながらも生き抜いている娼婦、妓女たちの唯一の自由。
たとえこの人が今は振り向いてくれなくとも、私は知っている。
あの時の言葉に嘘は無い……。
誰からも愛されなかったのは、同じ境遇の二人だから、きっと青龍が導いてくれたのだ。
12歳の秋の初め、花婉は青龍というものは慈悲深い生き物なのだとそう理解した。自分がそれに使える運命にあると知り、
寂しいこの人も同じ使命を背負っているのだと知ったのもその時で、これ以上ないくらいの幸せをいっぺんに貰った気がした。
自分の人生もまんざら捨てた物じゃなかったのよね。
房宿と呼ばれるようになってからというもの、あの頃のことを思い描くのははじめてのことだったと、今更のように思った。
だって、あの時心宿が言ったこと覚えるんだもの。
「今を生きろ」って。
「嫌です!!」
「粗!いい加減にしなさい!!袁姐々の部屋に通うようになってからやけに反抗的じゃないか。あたしはそんなつもりであんたのために、
房中術の指南を頼んでやったんじゃないよ!」
「でも、嫌なんです!これ以上、……これ以上」
私を、私の身体をいぢめないで……。
「あんた、何か誤解しておいででないかい?袁姐々もあんたにそんな態度とらせるために指導したつもりはないと思うがね」
「……」
「いいかい?あたしはあんたの親から金払ってあんたを買ってんだ。それなりに働いてもらわないと、只でさえもとも取れてない状態なんだよ。
うちだって厳しいんだからね。職が無い以上は身体で払ってもらうしかないんだよ。今更嫌とは言わせんよ。あんたは二年前、この道を自ら選んだんだ」
「違う!!」
「違うもんかね。ここの娘たちはちゃんと私に恩返ししなきゃいけないんだよ」
「恩返し……!?」
「そうさね。特にあんたなんて、痩せこけて今にも死にそうな眼してたよ。しかも、女でさえなかったんだから。
口減らしのために殺されてたかもしれないところを、このあたしが保護してやったんだから感謝こそされ、恨まれる筋合いはないよ」
「そんな……」
お母さんや、お父さんが私を殺すだなんて……。
しかし、無いとも言い切れなかった自分がたまらなく悔しかった。
思い当たるふしがなかったわけでもないから、その後、彼女は反論の言葉を失くして立ち尽くした。
となると、義母の言っていることは正しいのだろうか。
……わからない。
確かに、もう十分恩を返したといって、この妓楼で頂点に立った者、つまり大人気の遊女だけに限り独立の自由は与えられている。
いなくなっても、それまでに客が彼女に貢いだ物を換金すれば、退職金を払ってやったところで十分こちらにおつりが来るからだ。
無論、その女が妓楼に売られてきた金額など、任期の課程をある程度こなしていればとっくに返済している。
しかし、現実を見ても、女が一人暮らしていく上で妓楼閣が一番金銭面の環境が豊かなのも事実で、大概が舞い戻ってくるか、
そのまま一度も外に出ず妓女として一生を貫くかだ。
定年の35を超えても、それまでに義母に奉仕していた分を汲まれ、縁談の面倒を見てもらえるし、使用人として再雇用もしてくれる。
商売手段さえ違ったなら、至れり尽くせりの施設と言えるのではないだろうか。
だが、花婉はいまいち納得いかず、その年で男尊女卑の国柄に疑念さえ抱いていた。
どうして女ばっかり……。どうして、私ばっかり泣かされなければならないのか。
女主人は慣れたもので、思春期に入ったばかりの少女をしばらくは店頭に出さなかった。
妓女の誰もが一度は通る道だったからだ。
姐々の中にはこの時期に悩みぬき、ここしか己を咲かせる場所が無いのだという核心に触れた者、人気の妓女になれば自由になれると目標を持った者、
かと思えば、耐えられずに壊れてしまった者さえいる。
まさに、天国と地獄が共存する世界がここに展開していたのである。
「これはあなたが決めることじゃなくって?」
花婉が唯一心を許せたのは、袁姐々だった。
「でも……、私、わからないよ」
「いい?弱気になってはダメ。いつか言ったでしょう。私たちには常にひとつの自由があるって」
「好きになった人にだけ気を与えられるっていう……?」
「そうよ。私の蓮(彼女の実妹)は15でそれを解放したの」
「好きな人ができたの!?」
「そう。それは客でもなく、貴族の公子でもなかった。……けど、私たちは一丸となって、そんな彼女を応援した。男の人も蓮を愛してくれていたの」
「どうなったの!?その人たち」
袁姐々は寂しそうに、しかし、嬉しそうに語った。
「私たちはそういうとき、ひとつになれるのよ。義母さんもとうとう折れてくれた。私や他のみんなが妹の分も稼いで、
妹も義母に毎月小額の仕送りをする程度で許してくれたの。蓮は当時ある程度人気の出てきた娘だったからかは知れないけど……義母さん、寂しそうにしてたわ」
信じられなかった。
「とにかく、そんなこともあるのよ。だから、負けないで。ここにいる妓女のみんながあなたの味方で、あなたも私たちの仲間なのだから」
私に好きな人ができたら……。そんなことがあるのだろうか。
数日後、花婉は義母の留守中、主人代理の彼女の息子によって店に引き出された。
反抗もむなしく、半泣きの顔で個室に放られた。
「きゃあ……!?」
「へぇ、この子かい。最近反抗的だってのは」
嫌な眼だ……!
花婉はこの時はじめて男に対し恐怖を覚えた。
「そうなんだ。おふくろはまだ店に出すなって言っていたけど、甘いんだよ。ちょっと甘やかすと図に乗るんだ女ってやつは」
「かまわねぇのかい?」
「あぁ。少し、己の身分って奴を思い知らせてやってくれ。あんたは常連だしな」
妓女の中では道楽息子として名を馳せていた、女主人の息子はそ知らぬ顔で、部屋を出て行ってしまった。
「よ、寄らないでよ!」
「へぇ。こいつはいいや。黙ってさえいりゃ結構美人じゃねぇか」
どんなに反抗しても男の力に12の少女が敵うわけがないことを、よく知っていた彼女は必死に魔の手から逃れようと、部屋中を逃げ回った。
怖い……!やだ!誰か助けて!!
「袁!大変よ!」
「どうしたの!?」
たまたま勅令で遠征中だった心宿は上司の命で手ごろな宿を探索中、女の切羽詰った声を聞いた。
小川のほとりで座っていた17,8の女に、血相変えて走り寄ってきたやはり同年代らしき女が耳打ちすると、
はっとその表情が揺れる馬上の遠目でわかるほどはっきりと変わった。
「うそっ!!ダメよ!あの子はまだ客を相手できるような状態じゃないわ!」
「えぇ。でも、義兄が無理矢理……」
「義母さんは知っているの!?」
「わからないわ。けど、義母様はこんなことする人じゃないわよ」
……なるほど。妓楼の女か。
心宿は何故か、いつになくその会話に興味を示した。
「副隊長?いかがなさいました」
「お前、あれを知っているか?」
そういえば、ここらの出身ということもあって同行を許されていた兵士が確か、今自分に声を掛けた男であったことを思い出し、問うた。
男は、なんだなんだ?という顔で心宿の見ていたほうを馬上から眺める。
「あぁ!知ってますよ。ここいらじゃ有名な姐さんですよ。あの座っているほう。かがんでいるほうも結構人気の妓女でして」
「どこのだ?」
「えっと、呂姫笙(りょきしょう)ですな。通りを南です。ここからたいして距離もありません。行かれるおつもりで?」
「バカ。そうではない。……所用を思い出した。お前は引き続き大所帯の泊まれる宿の探索にあたっていてくれ」
「え!?ちょ……」
言うや否や。手綱を強く引きもと来た道を戻っていってしまった。
会話の流れからして、まだ子供。それも情緒不安定な少女が無理矢理客の相手をさせられている、そんなところか。
だが、俺は何故、馬を歩かせている。自分でも不思議でしょうがなかったが、敢えて深くは考えないことにした。
嫌な話だが、自分とあの女たちの眼は同じだ……と思った。
子供の頃の忌々しい記憶……。思い出すとき自分はどうしようもない怒りの衝動にかられる。
動悸がして、おさまらない。どうにかしてくれ……。
いつの頃からかそういうときは、ただ身体のしたいようにさせてやればいいことを知った。
自分の身体はその少女とやらを助けに向かっているのか。
それも……いいかもしれない。敢えて追求しないことでそう思うようになっていた。
いいだろう。とっとと済ませろ。
どうにも素直になれない本意がひねた物言いで、身体に拍車をかける。
わずかに、馬足が速まったのは気のせいではないだろう。
「いや !!こないでぇー!」
呂姫笙の前まで来たとき、裏手から絹を裂くような悲鳴が上がった。
「……外か」
花婉は一階の部屋を抜け出し、裸足のまま中庭に走った。
しかし、男は諦めが悪いのかなおもしつこくつきまとった。
「おじょーちゃん!いい加減に鬼ごっこはやめにしようや。俺だってちゃんと金払った客なんだぜ。そう邪険にするもんじゃねぇよ」
「な……何が客よ。好きでこんなことしてるわけじゃない!」
好きでこんなこと……その言葉は、馬を降り声を頼りに中庭へ回り込んでいた心宿の耳に、痛かった。
『いいわねぇ。新入りさん』
『陛下のご自慢だものねぇ』
『でもこんな子供を相手にするなんて、陛下も好きよね』
『あら、この子なみだ目になってるわ』
『嘘でしょう。冗談やめなさいよ。陛下に気に入られるなんて光栄なんだからね』
あの時からずっと聞いてきた言葉。
好きでこんなことしてるわけじゃない!!
庭の脇で立ち尽くしていた心宿に、花婉も男も気付くはずは無かったが、彼の眼にはその光景は痛いほど入っていた。
花婉の姿が昔の自分とひどく重なって見えた。
……やめろ。近付くな。
「いや!近付かないで!!」
「ふざけるのも大概にしろよ、このガキ!さっさと客の相手すりゃいいんだよ!服脱げよ、おらっ」
痺れを切らした男のごつい手が、逃げ場を失い木にしがみついていた少女に伸びた。
「ひっ……!!」
恐怖のあまり、失神寸前になった少女に、しかし、魔の手は及ぶことはなかったのである。
「……がぁ。くっ……!!きっ、貴様ぁ!?誰だ!」
「その汚らしい手を離せ、ゲス」
花婉は震えるまぶたの下の曇った眼で、突然現れた青年を見た。
その手には小石が握られている。
見ると、男の抑えた額からは大量に流血してた。青年が投げた石が命中したのだ。
花婉は貧血気味に揺れる頭で考えた。
……もしかして、助けて……くれたの?
しかし、男の片手は尚も花婉を掴んだまま放そうとしなかった。
「その手をどけろと言っている!」
歩み寄りながらの二投目は、男の右手に見事にあたった。
男が苦痛に顔をゆがめうずくまっている間に、心宿はすぐそこまで来ていた。
「いってぇ。っ野郎!!」
……クズめ。
心宿の拳のほうが後に出したにもかかわらず、先に決まった。
男は正拳を喰らい、あえなく絶えた。
その場に重量のある音を立てて倒れる。
「……ちっ」
しびれた右手についた男の感触を邪険に払い落とした。
「あ、……あの」
「勘違いするな。助けたわけじゃない」
「……はい」
しかし、少女の目は興奮が冷めないのか大きく見開かれたまま、わずかに喜の感情を窺わせた。
「……ふん」
泣いた少女の顔は、確かに美しいと言えばそうだった。
なるほど、男が執着したわけだ。
「花婉!!」
「粗!無事かい!?」
「袁姐さん!……義母さん」
先程川辺にいた妓女の後から、事情を聞きつけた中年の女主人が思い身体を引きずって駆けて来た。
厄介なことになる前に退散しようと、心宿は反対側へきびすを返した。対照型の妓楼だから、こちらからも表玄関へは行けた。
「……待って」
少女の消え入りそうな声に、我ながらどんな心境の変化か、一応振り返らずに立ち止まった。
「お名前を」
「……心宿」
……心宿!?七星士の。まさか……。
少女の反応は初めからわかっていた。だから、心宿は敢えて、彼女の次の言葉は待たずに口ずさんだ。
「過去に縛られるな。今を生きろ」
何より自分に向けた言葉に違いなかった。
むしろ、過去を恨みに転じて今を生きている自分が言うべきセリフではなかったのだが、
それはもしかしたら願望に近いものだったのかもしれない。
少女の返事も聞かず、心宿はその場を逃げるようにして去った。
去ってから気付くとは、我ながらどうかしていたとしか思えない。
「あの気は、七星士か……」
ならば、また逢うこともあろう。
……運命とは皮肉なものだな。あの娘……。おそらく、七星士の房宿。
己の力をどう受け止めるのか。見ものだな。
「花婉!大丈夫!?」
「袁姐さん!」
「あの人に助けられたの?」
「うん。……ごめんなさい。私……」
「謝ることなんて無いよ。悪かったのはこっちだ」
「……義母さん!?」
「息子は何か勘違いしてるようだから、この際ビシッと言ってやんなきゃね。ちょっと目を放した隙にこんなことんなっちまって」
花婉が不思議そうな顔で袁姐々と見ると、
「言ったでしょ。こういう人よ、義母さんは」
と、小さい声で囁いた。
すると、今までの緊張が一気に解けてしまったかのように、涙がとめどなくこぼれ出した。
それは、永遠に止まらないんじゃないかと不安になるほどたくさん、長い間ずっと袁姐さんの腕の中でビービー泣いていたっけ。
房宿はふと、目が覚めた顔で現実を見た。
……なんと、心宿が自分にもたれかかって眠っているではないか。
道理で重たかったわけだ。
でも……。
「たまにはこういうのもいいかもね」
それが、狸寝入りかもしれないなどと、考えるところまでいかない彼女の性格が居場所の悪くなった心宿を救った。
決して居心地が悪いわけではないのだが、房宿が昔を思い出しているのに乗じて自分も当時の頃を思い出していたのだ。
それがたまらなく、恥ずかしかった。
房宿は過去に縛られていない。むしろ、あの時のことを励みにこしてこまで心宿を慕ってきたのだ。
そんな彼女を見ているうちに、言った本人である自分がまるで置いてけぼりくわされてるように思えてしまった。
けど、今はいい。まだ……このままの自分であり続ける必要がある。
全てが終わって、心の安寧を求めてもいい時が来たら、その時は……彼女のように。
彼女と共に……生きてみるのもいいかもしれない。
終
お待たせしました。紫苑さまに捧げます。
8000HITキリリクの心宿と房宿でシリアスです!
最初房宿主体にしようと思って、大体のシナリオは頭にあったんですが、なかなかそれではまとまんないってんで、
ちょっとつかみ所の無い(?)心宿の心情に触れてみました。
北甲国に青龍軍たちが乗り込んできたあたりの話です。主に過去ですが…。
青藍伝…ですか?あれ、読んでないんですよ^^;
なので、別物として呼んでいただければ幸いです。
いや、書けば書くほど、彼らは本当ほものすごく生きたかったんじゃないかとか、
世の中が違ったらもっとふたりは幸せな出会いをしていたんじゃないかとか思えてきちゃって。
いつか紫苑さまの絵でありました、ありし日の心宿と房宿ちゃんということでお送りします。
〔参考資料→中国物作家井上祐美子先生の作品を少々〕