伊藤のお父さん

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平成十二年二月二十五日
室田 堯

  この人のことを仲間うちで「いとうの父さん」と呼ぶようになったのはいつ頃からだったか。いとうさんの本名は伊藤喜多男、私が伊藤さんに初めて出会ったのは私が広告代理店に勤務し、日本で最初に行われた第一級国際博覧会「大阪万博」の仕事を始めた1968年のことだった。

伊藤さんは私たちの万博プロジェクトの確か電気・音響部門の外部スタッフというふれ込みで、殺伐とした我々スタッフの中にひょっこりと現れたのだった。当時は戦後最大級の国家的イベントという趣の大阪万博だったから、企画からして妙に力が入り、私もその一員として仕事を仰せつかっていたのだった。このプロジェクトのスポンサーは今は無き専売公社、三公社五現業などともてはやされていた大どころであり、我々はそれでも大まじめに「万博」なる仕事を、この国家機関たる「専売公社」のために取り組んでいたのだった。

そんなある日、専売公社での設計会議に一人の場違いな紳士が遅れて出席した。お役人の居並ぶネズミ色一色の会議室に、ウグイス色の千鳥格子のスーツにソフトを少しばかりあみだにかぶり、胸には赤いポケットチーフをのぞかせての登場だった。緊張していたせいか「殺人狂時代」のチャップリンのような足取りで会議室にその紳士が現れたとき、私はとっさに、この訳の分からない万博という仕事の中に、私好みの手応えのようなものを感じ取っていた。

工事には会場全体を取り仕切る電気業者と、伊藤さんのように映写と音響設備を担当する業者が入っていて、その両方を自動制御する回路の設計をどちらが担当するかで、いわば責任のなすり合いおうような状況になっていたのだった。もっとハッキリ言えば、電気業者は会場全体の自動制御などという複雑な回路の設計は苦手で、その仕事は逃げたかったのだ。

「ようござんすか、本線をここまで出せ!とおっしゃれば、わたくしども電気屋でございますから、みょうにちでも図面お持ちしてもよござんすが・・・」嬉しくなるような歯切れの良い下町ことば。そのウラには「どうなんでい、言いてえんなら、はっきりいってみろい!」といった気分が張り付いているような言いっぷり。私なんぞは五分でこの人のファンになってしまった。都会人にしかない男の色気を漂わせたこの紳士は、しかしどう見てもこの役所の会議室には不釣り合いだったが、そうであればあるほど私の胸は踊ってしまうのだった。

伊藤さんは八百屋の一人息子として上野で生まれた。八百屋といっても当時の一流の料亭専門に仕出しをする八百屋で、その張り店は河岸でも日本橋「ヤッチャ場」のすぐ下手にあったという。そのころの料亭は今どきの「築地」や「赤坂」と違って、「柳橋」「浅草」あたりで酒をたしなみ料理をめでながら友好を暖めにやってくる粋な客が多かったそうだ。
友達同士や仕事仲間といった組み合わせの客も多く、酒を飲みながら商売の話もしただろうが、そう言う話よりも美術や建築、小説や音楽、映画や芝居などについても盛んに語り合っていたというから、料亭での飲食は一種の切磋琢磨の場だったのだろう。だから、店の方でもお得意が連れてくる客の好みが頭に入っていて、その人を考えながら献立を組み立てる。それを八百屋に伝え、八百屋はそれを頭に入れて仕入れに向かうという風だったらしい。

当時慶応の幼稚舎に通っていた伊藤さんは、市電を使って学校に行くが、当然その行き帰りには銀座を通ることになる。そこで十字屋などのウィンドウに額を押しつけ、当時としてもいぶし銀のような怪しい光を放つ高級ラジオや電蓄の部品、銀座通りのショーウィンドーの中で照明を当てられた、舶来のトランスや真空管に見入っては、そこにくっきりと刻まれた「Western Electric」や「ArmaTran」などのロゴなんかをうっとりと眺めては過ごしていたというから、伊藤さんはそういう品々を通して、まだ見ぬアメリカやイギリス、ドイツなどの国々に心を馳せていたに違いない。そんな少年だった伊藤さんは、あるとき親の命令で学校に通いながら料亭の厨房に丁稚に入ったことがあるそうだ。そこで野菜の運搬や整頓、数量のチェックなどをさせられながら客の名前を覚えさせられたという。

又ある時は父親の運転する、当時としてはとても珍しかった自家用の小型トラックで芋を買い出しに出たこともあった。その買い出しは朝まだ暗いうちに家を出て、茨城あたりから群馬、埼玉を回り荷台一杯に芋を買ってきたという。その芋はある客の好みの「小芋の煮ころがし」を3人前作るためのものだった。小芋といっても芝栗大のものが10個か20個もあれば充分だったはずだが、そのために小型トラック一杯の芋を買い出したのだという。それは形も色も大きさも味も揃った「小芋の煮付け」の一鉢を膳に供するための、料理の自然の筋だったという。

伊藤さんはあるとき「ですからね、日本料理ほど贅沢なものは世界中、ほかにありゃしませんよ!」と私に啖呵を切った。私はそれを聴いて、その時の料亭の座敷と、その客と、その会話と、厨房の板前などを想像しないわけにはいかなかった。当時の遊び人とはどういうものだったか。店と客との緊張関係、遊びの中の切磋琢磨。そういったものが、そのときすでに伊藤さんの胸に強く刷り込まれたことは想像に難くない。

ある日のこと、伊藤さんのお父さんが同業者の寄り合いから帰ってくると伊藤さんを座敷に呼んでいきなりこう云った。「おまえ、電蓄がつくれるか?」伊藤さんが何のことか分からずに黙っていると今度は「金なら幾らでも出してやる!だけど、あいつの倅(せがれ)にだけは負けるな!!!」と云ったという。

銀座十字屋のウィンドウでの夢が俄然現実味を帯びる中で、伊藤さんは一つのプランを思いついていた。「よし、俺は最初から5球スーパーに挑戦してやる!」そう決めた伊藤さんは本来の凝り性にもの言わせて短期間でそれを完成させた。そしてすぐに7球スーパーに挑戦していった。完成させるとすぐにお父さんの友人の息子に見せに行くが、その息子はさらに凄いヤツを完成させていた。これではいつまでたっても彼を追い抜けないと感じた伊藤さんは、すぐさま当時の日本橋「丸善」へ飛んでいったという。そこには電気、電波に関する洋書がずらりと並んでいて、無い書物はいつでも取り寄せてもらえた。

「ラジオや電蓄は西洋から来たもんだ。なら、英語で勉強した方が早い!!」これが伊藤さんの考えた必勝法だった。凝り性と徹底主義の伊藤さんが、中学生の年齢でどれだけ早く英語と電波技術を習得したかは想像に難くない。ある程度まで一気に登り詰めた伊藤さんはやがて、電波のことなら英語の方が早く解るようになっていた。伊藤さんが丁度四十歳になったとき、アメリカのウェスターン・エレクトリック社が日本に上陸してきた。そしてその会社が日本の技術者を捜し始めたときに、英語でしか電波のことが解らない伊藤さんを見過ごすはずはなかった。

伊藤さんは四十歳でウェスターン・エレクトリック社の日本人技術部長になっていた。ウェスターン社での伊藤さんの仕事は映画用音響装置の売り込みだった。この洒落もので気むずかしい技術部長は全国の映画館を駆け回り、やがて京都は太秦の撮影所に入り浸ることになるのだ。

昭和の初期に、たかが中学生で父親から16ミリのARIFLEXの映写機を買って貰い、御殿場線の山北駅付近で、走行中に連結器を切り離す、当時の国鉄の「離れ業」の存在を知っていて、それを16ミリ映写機で撮影に出かけてゆく子供というのは、一体どんな風だったのだろう。さぞかし箸にも棒にもかからないコマシャクレれた子供だったに違いない。しかしそれは技術部長という役柄を仰せつかった伊藤さんにとって、その「ませガキ」時代を含めての人並み外れた経験からくる物腰が、どれほど役に立ったかは計り知れない。そのセンスで、あの一見保守的で取っつきにくい、京都の旅館だの料理屋だのという世界を、開拓していった伊藤さんの後ろ姿を想像すると、何とも言えない楽しさが湧いてくるようだ。

さて、我々の万博の仕事はやがて現場入りをし、関係者はほとんど全員大阪に住み込みとなっていった。当時の私はといえば家庭でのいざこざを起こし、家出をしたような状態だったので、他の仲間達とは違って、単身赴任がそんなに嫌ではなかったような気がする。そのことを知ってか、伊藤さんは私に対して少しだけ父親のような物言いをするようになった。

それはたった一言、私のことを「たかスー!」と呼ぶようになったのだ。私の名前は「タカシ」だから、少し照れてズーズー弁崩れにしていたのだと思うが、とにかく他の人はどんなに若造でも、きちんと「さん付け」で呼んでいたから、私だけが何故か名前の方をよびすてに「たかス」と呼ばれることに、どことなく気の弾みみたいなものを感じていた。その伊藤さんが一度だけ私に小言を言ったことがあった。

「女房なんか、あんなものはくそ食らえですがね、子供はどうなさってらっしゃるんるんですか?」そのひとことは、父親の遺言のように私の心に貼り付いた。このとき私の中に「伊藤の父さん」という呼び方が生まれたような気もするのだ。

万博の現場でプレハブ事務所のストーブにあたりながら、伊藤さんはよく自分の会社の社長のことをぼろくそにけなしていた。「あのバカヤローが・・」というのが口癖だったが、その頃伊藤さんは社長を含めて3、4人の小さな会社に所属していて、確か技術部長という肩書きがついていたと思う。私の目にはどう見てもその社長よりは伊藤さんの方がずっと社長のようで貫禄があり、弁が立ち、頭が切れ、そのうえお金もありそうに見えていた。だから私は、「あのバカヤローが・・」は伊藤さんの軽い口癖だったと思っていたが、しかし万博が終わると彼はさっさとその会社を辞めてしまった。今思えば辞めてしばらくは仕事が無い無為の時間をやり過ごしていたに違いなかったが、そんなある日私は伊藤さんに電話で呼び出された。

指定された場所は銀座資生堂ビルの最上階にあるレストランだった。まだ明るい時間だったが、そのレストランには我々の他には誰も客はいなかった。その店は、昔の銀座を知っている人のお目道理にかなっている店に違いない雰囲気が漂っていた。

「たかス〜!世の中、捨てる神あれば拾う神ありでございますね、有り難いもんでございますよ。」開口一番、伊藤さんは嬉しそうにそういって声を出して笑った。何でもドイツのシーメンスという会社のスピーカーを、日本で独占的に売るのだという。そしてそのスピーカーは劇場用の大型ながら、「四畳半のホンモノの三味線の音が、完璧に出せるんでござあすね、これが。ウッシッシー!」。まことに優れた逸品だと言って伊藤さんは嬉しそうに胸を張った。
一人の若いオーディオ狂いの資産家が、伊藤さんの人生の哲学とも呼べる、この道一筋の情熱を看破してのスカウトだったことを熱心に語り、「西洋人でも一つのことを突き詰めるとでござ〜あすね、我が東洋の三味線と四畳半を導き出すんでございますよ。」そんな話題がその物静かなレストランの壁に響いては消えた。

しかし伊藤さんと私は親子ほども年が違うのだ。その伊藤さんが、いわば人生の転換点のような重大な出来事を、同世代の悪友にでもしゃべるみたいに話してくれていることが、若造の自分を、何か不良仲間として認めてくれているようで、私の心は浮き浮きした気分に満たされてしまった。

帰りぎわ、銀座の歩道を歩きながら「室田っさん、わっつしゃね、ホントに幸せものでござ〜あんすよ。」

私はこのときの「さん」づけは「なんて粋な響きなんだろう」と感じていた。6丁目の角で別れて私は伊藤さんの後ろ姿を目で追った。伊藤さんは銀座通りの歩道を、あの懐かしいチャップリンの足取りで、目線は立ち並ぶ店の二階のあたりをゆっくりと流しながら、遠ざかり、やがて人混みの中に消えていった。