「おお、こんなところに海老が」
「それはザリガニ。あっ、今あそこの草の下にドジョウが逃げ込んだ」
「数年前まで蛍が発生したんだが、どこへいっちまったんだろう」
「そういえば最近見ないね。エサのカワニナがいなくなったせいだろう」
「生活排水が流れ込まなくなって、水はこんなにきれいになったに、どうしてなんだ」
「川底をもっと砂地にしたほうがいいのかもしれん」
「セリが増えすぎて、流れをせき止めている。もったいないから採っていって食べないか。いやもう堅いかな。春先だったらうまいのに」
 私の住む新興住宅地は、駐車スペースともなっている広場を囲んで、12軒がコの字に建ち、中央の舗装された道路脇に小さな川が流れ、片一方は雑草の土手になっています。
 近所の小学生の姉弟が、網を手に小川で魚を追う姿を見て、三々五々集まってきたのは、リタイヤ組と定年も近い熟年世代の大人六人。たわいもない会話を弾ませながら、楽しげに水面を覗き込んでいます。みんな生まれたところは異なるけれど、同じようなふるさと原体験を持つ年代です。
「今度メダカを放そうか。ただ、大水にでもなれば、たちまち流されてしまうかもしれんね」
「だいたいメダカを探すのが大変。この辺ではもうめったにみられんもの」「ならば土手の上に池を造って、水はこの川水をポンプアップし、ビオトープにするか」
「Yさんの庭にオミナエシがいっぱいあるけれど、株分けしてくれないか。キキョウやユリも一緒に植えて、お盆花は買わなくてもここで自由に採れるようにすればいい」
「ああ、あれは増えて困っている。いくらでもどうぞ」
 土手に続く駐車場には、ざっと見ただけで20種類近い雑草が生え、郷愁を誘うヒルガオも数輪咲いています。
 昔の野原を懐かしむあまりに、刈り取りがたいというより、単なるずぼらからと、自覚はしています。

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惜桜小屋日記

2005年6月25日(土)