惜桜小屋日記

2005年4月1日(金)


 共生という言葉は、確かにあちこちで、都合よく使われている。
このHPでも「人と熊の共生」など、しかつめらしく何回も使っている。
 これらは「同じ所で共に生きる」といった、辞書にある程度の、軽い感じで使っているケースが、ほとんどだろうと思う。
 「生物の世界にあっては、それでは意味合いが軽すぎる」と、隔月刊の雑誌『風の旅人』で、植物学者の岩槻邦男さんがたしなめている。
 「人は特別の存在でも、まして支配的存在でもない。ほかの生き物と同じ自然の一部にすぎない」「すべての生物は、この地球で直接、間接に共に支えあって、生命系を生きている」
 「しかし今、人の営みによってたくさんの生物の種が絶滅の危機にある」
 「だからこそ、人と自然の共生という標語が必要になってきた」
 「ただ現状をみると、事実を正確に知る努力も認識することも、この言葉の真の重さも知らずに、言葉だけがあふれている」
 「言葉遊びをしている間に危機は進行している」
 「今、自然と共生できる人の生きようを求めて、世界中の人々が協力するとき」と、その言葉の奥にある、重い現実を説いている。
 う〜ん、素人の我々には、ここまでの見識を持つのは難しいけれど、言葉をもてあそぶ"軽さ"には、忸怩たる思いがある。(今日の一言参照)

共生を実現する手立てのない今は、駆除が優先されているけれど=04年諏訪湖西山の森で