つぎに、筆者が先に量子力学モデル(体験の履歴によるカテゴライゼーション)の項で述べた人間の(5種類の)体験的思考パターンを頭にいれてから、カントという人間がどのパターンに属する人間であるかを逆推定し、カントという人間のメンタリティーを確定してしまう。こうしてカントの頭脳構造を解剖してしまってから、改めて「純粋理性」の意味を特定するほうがはるかに話が早くて手っ取り早い。
まず、「経験の限界を超出」という言葉を使っていることに注目する。このことから、彼がexited
level に到達した人間であることが判断される。
さらに、「純粋」という言葉に注目する。この言葉は、たとえば西田幾多郎が、「善」体験に「純粋経験」という言葉を使うことからもわかるように、exited level に到達したときにその「境地」を表現しようと努力するときに使う言葉であるから、(+)か(−)かいずれかはわからないが、とにかく exited level (神秘体験)到達表現であると理解する。
次に、「絶対」という言葉が使われていることに注目して、この人間が経験した神秘体験は、AかBのどちらか一方であって、両方ではないことがわかる。両方を経験した人間は必ず「相対」という表現を使うからである。
また、「存在」という言葉が使われていることから推して、彼が経験したのは神秘体験Aであることが確定できる。Bを経験した場合は「不存在」とか「虚無」などという言葉を使うはずだからである。
こういう推論を使えば、カントが単なる神秘体験Aの経験者であって、カトリックの主張する「聖霊」の恩寵を授かっただけだ、という事実が判明する。この際、カントの家系がプロテスタントであったという史実は、(よく学者が彼の学識をひけらかすときに使うトリックなのだが)、議論の要件を構成しない。カントの理論を支える彼自身の内的体験についての議論なのである。
つまり、プロテスタントであったカントは、カトリックが主張する「聖霊」(神秘体験A)を体験した男であり、プロテスタントの主張する「死霊」(神秘体験B)を体験していない事実が明らかになる。後年のカントの著述『実践理性批判』に表現されるカントの「敬虔な」態度は、もっぱら彼が幼年時代に受けたプロテスタントの敬虔主義の教育に根ざしているものであって、カントがプロテスタントの主張する「死霊」を体験した事実を意味しない。
このような説明をしてもなにがなんだかわからないはずだから、ここで、一般に行われている(つまり現在大学で教えている)アプローチ方法をいったん捨てる。つまり、真正面から字句通り理解することをいったん放棄する。言葉をかえると、「純粋理性概念」だとか、「先験的理念」だとか、「経験的認識」だとか、「条件の絶対的全体性」などという言葉は、カントが自分勝手に自分の論理でつくりあげた言葉なのであり、これをわれわれが理解できないことは、この本の著者であるカントの責任であって、本を読むわれわれの責任ではないことを、まず理解し納得する。言葉というものは聞くものが理解できなければ、その本来の役割である「伝達の手段」という意義を失うことをまず理解する。
画題:青木繁(1882-1911)
『わだつみのいろこの宮』1907
油彩 カンヴァス
ブリジストン美術館
『現代日本美術全集7
青木繁/藤島武二』
集英社1973
日本の神話
ある日、弟の山幸彦が兄の海幸彦と仕事をかえて海に出たところ、大事な釣針を失った。これを探し求めて行きついたのが、海底の魚鱗の形の宮室で、すなわち「わだつみのいろこの宮」である。その門の傍の井戸の上の香樹に登っているとき、水を汲みに来たのがと豊玉姫(とよたまひめ)で、やがて婚を結んでしばらくこの宮に住むことになり、釣針を取り返した上、姫の父から干珠満珠の二つの珠をもらって帰るという物語。絵はそのだいじな姫(左側)との出会いの場が描かれている。(作品解説:河北倫明)
青木繁の高邁な精神には胸打たれる思いであるが、
この絵はまさしくKantianである。自分には何一つ「悪」はなく、良いことは向うから飛び込んできてくれる、と考える点が、まさしく「カンちゃん」なのである。