マルティン・ルターは、14831110日、中部ドイツのザクセン選帝侯領アイスレーベンに生れた。

 父親ハンスは農民であり、マルティンが生れた翌年には粗銅生産業を始め、そこそこの社会的地位を得た。

 ルターはマンスフェルトのラテン語学校、マグデブルクで共同生活兄弟団の指導を受け、150118歳のとき、エルフルト大学に入学し、優秀な成績をおさめ、150521歳のとき、教養学科を終了し、法学科に進んだ。

 ルターが属していた「共同生活兄弟団」とは何であろうか。中央公論社の『世界の歴史17』は次のように述べる。


 十四世紀後半から、ネーデルラントを中心に個人的で内面的な信仰運動が出現した。「新しい信仰(デヴォーティオ・モデルナ)」である。デフェンテルの人、助祭フローテは、自己のみならず民衆の魂の救いに心を砕く。聖職者の堕落を告発する説教を行なう一方、友人とともに、平信徒と聖職者から成る共同体「共同生活兄弟会」を創設する。
 「兄弟会」のメンバーは、祈りと禁欲生活と瞑想によって各自、魂の救いを追求しなければならない。しかし、祈りも、儀式への参加も、禁欲も、神への熱烈な愛、すなわち篤(あつ)い信仰心が生き生きと心に保たれていなければ、すべて空しいものとなる。 したがって、とりわけ重視されたのは、宗教書とともに行う深い瞑想である。書物のなかにテーマを見つけ、それについて瞑想しながら自己の魂のなかに静かに沈潜してゆき、やがてイエスが魂のなかに宿るのを待つ。メンバーはそこで教父の著作やさまざまな信仰書から重要と思われる箇所を抜粋して筆写する。自分が読むためでもあり、また多くの人びとに安く売って読ませるためでもある。と同時に、この作業がかれらに生活の資を与える。かれらはこうして読書と瞑想とを信仰のために結び合わせる習慣を世の人びとの間に広める。
 メンバーのうちの平信徒は、自分自身の信仰生活のあり方を外部の人びとに手本として示す。聖職身分の者は、説教を通じて世人を感化する。いずれも、「兄弟会」での信仰のあり方を民衆の間にも定着させるよう試みるのである。「兄弟会」はとくに十五世紀中葉からは、青年のための学校教育に熱心に取り組む。「兄弟会」が推進した「新しい信仰」の運動はこうしてネーデルラントからドイツ、北フランスへと波及してゆく。


 ルターが後年、典礼儀式の形式にこだわらないキリスト教を求めた背景には、このような幼年期に受けた教育の影響が大きかったものと推測される。

マ ル テ ィ ン ・ ル ター

 これまで神秘体験Bでわれわれが調査してきたケースは全て、初めに明るい生命体験、すなわち神秘体験Aを体験した人たちが、引き続き暗い経験、神秘体験Bを体験して、もがき苦しみながらもその体験に哲学的な意味合いを求め、あるいはそこから脱出しようと努力し、はたまたどん底に飛び込んでいった人たちの魂であった。

 このような努力は、西洋流にいえば、オプティミスティックな世界観を構成するプラトンのイデア論にたいする、果敢な挑戦であったと評することができよう。聖霊ですべてを片づけることができると信じた、聖アウグスティヌスの宗教観にたいするきわめて大胆なチャレンジである、と断定できるかもしれない。

 各人がその位置づけ、哲学的な意義づけ、魂の救済に成功したかどうかはここで論ずべき問題ではない。

 ところで15世紀の終わりころ、西洋世界にきわめて革命的な思想を創り出した人間が現われた。プラトン以降の西洋世界にあって、過去の誰にも似ていないタイプの人物であったから、彼の出現はその当時の西洋世界をあっといわせた。

 それがマルティン・ルターである。

 しばらく、彼の生い立ちと青年時代の経歴を追ってみることとしよう。

画題:Jan Provoost(1465-1529)
           "Crucifixion"

     Groeningemuseum, Bruges
     Dirk de Vos,
      "Broeningemuseum Bruges"

          Ludion S.A.- Cultura nostra - Brussels
             1987