そうであれば、病気にやられたのではなくて、妄想に食い殺されたのであろう。まことに妄想は虎狼よりも恐ろしいものである。虎狼は戸や垣根のなかへは入れないが、妄想の狼は座禅をして精神を集中している所にも、立派な袈裟をつけた坊主の中にも乱入してくるやつだ。 (同上)
基本的に、人間がそのような構造なのだと理解すれば、配線ミスによる誤作動が、つまり妄想が、あらゆる人間の階層に一様に観察されることも理解できるだろう。妄想は、貴賎の差、貧富の差、男女の差、に関係なく、一様に現われる。
ある病人はぼろぼろ涙を流し、自分ほど不幸な者はいないと泣く。偶然に人間として生れ、貴い僧となりながら、弁道工夫をつまず、仏道の光明を見ることなく死んでゆくことは何と悔しいことかなど、泣きながら愚痴をいうのは、たいへんかわいいが、これこそ怠惰、油断の愚か者のなれの果てであるのだ。 (同上)
配線ミスがそこにあるということを知りながら、やるべきこともやらず、道理をわきまえることもなく、泣きごとばかり言っていては死んでも死に切れまい。……と正受ははなはだ手厳しい。
正受は続ける。
このように病み苦しんで死んだなら、あの世の様子も推して知るべし。思いわずらって薬にも養生にも効くといえば、われわれも寄りそって手伝い、心配させないようにするが、あまりに思い悩めば、心火が逆上して肺臓が痛み衰え、水分が枯れはて、熱で寒気がして、普通の汗ばかりでなく寝汗をぐっしょりかき、はては命もあぶないようになる。これはみな平生の志が怠慢で、少しの病を妄想が起って大きな病にしてしまったからである。 (同上)
貴君はきっと「死ぬ」ことを考えているのだろう。人間は、このような場合、逃げ道はあの世に行くことだけ、と考えるものだからだ。だが、この現世で現に君が苦しんでいるのだから、現世を逃れてあの世に行ったとしても、地獄と極楽と、どちらの方に行くことになるのか、貴君にも多分推察がついているはずだと思うがどうだろう、と正受は先制攻撃をかけた。
私の見立てによると貴君の状態は、かなりひどい。薬石効なし、の状態と見受けられる。これがまだ軽症の状態であったなら、われわれも君に協力して、薬を飲ませたり、養生をさせたりして事態改善のお手伝いもできようが、ここまでくると基本的なスタンスを変えてもらわなければ直しようがない。
前にも言ったが、これは思考経路の混乱である。
思考経路のどこかの回路に配線ミスが生じているのである。
配線にミスがあるのだから、思考がうまく噛み合うわけがない。
このような状態のときには、思考は空回りし、お互いに軋轢を起こし、スタックする。コンピューターの場合はいったん電源を切り、リセットすればまたうまく立ち上がることもある。
人間の場合はそうは行かない。
病気になる。
思考経路が整わぬから、始終胸がドキドキする。心悸亢進が昂じて内臓に不都合が生じる。自律神経失調症というのか、喉がカラカラになったように感じ、寒気がして、寝汗をぐっしょりかく。このまま放置すると物理的に死んでしまうこともある。
もともと人間は完全な思考の回路をもって生れてくるのではない。生れてからいろいろと経験を積み、思考回路を自分で組み立てる。いわば、「ドゥ・イット・ユアセルフ」なのである。生まれたときに人間は、沢山の部品、抵抗器とか、キャパシターとか、トランジスターとか、スピーカーとかと、配線に必要な電線をもって生まれてくる。それらの部品をいちいち試してみて、組み立てていく。
自分で組み立てた回路に配線ミスがあったときは、自分でそれを配線しなおさなければならない。ところが、どこに配線ミスがあるのか、それがわからない状態なのである。
この状態にあるときの思考を私は、「妄想」と呼ぶことにしている。
妄想を、配線ミスを直さないまま、無理矢理現実にあてはめ、強行突破させるときに、貴君は病気になってしまう。
画題:河鍋暁斎(きょうさい)
『月次(つきなみ)戯画巻』
江戸時代後期(19世紀)
紙本淡彩 巻子
ジェノヴァ東洋美術館、
Museo d’Arte Orientale
“Edoardo Chiossone”,
Genoa
平山郁夫
『秘蔵日本美術大観十二
ヨーロッパ蒐蔵日本美術選』
講談社 1994
どこかの祭礼帰りか、
羽目をはずした太った女性が
酔いしれて大あばれ。
鉢巻きに豊饒多産祈願の
飾り物を挿し込んで、
乳房もあらわに片肌脱いで
大声を上げる。
こんな女は早く籠に乗せて
帰してしまえと
大わらわの男衆たち。
つい笑いを隠せずほほえむ
連れの娘や通行人たち。
のどかで楽しい情景。
(安村敏信)
これもまた配線ミスによる誤作動か?