聖徳太子という方は、とにかく大秀才だったようだ。叔母の推古天皇からもとて
も可愛がられたようだ。
推古天皇二年のときに、天皇は仏教を興隆すべく詔を下されたのだが、上記の憲
法第二条で、仏教は実質上、日本の国教となったのである。
前段階として推古二年二月の詔(みことのり)があったことも見逃せない。
(推古天皇二年)
二年の春(はる)二月(きさらぎ)の丙寅(ひのえとら)の朔(つい
たちのひ)に、皇太子(ひつぎのみこ)及(およ)び大臣(おほおみ)
に詔(みことのり)して、三寳(さむぼう)を興(おこ)し隆(さか)
えしむ。是の時(とき)に、諸(もろもろの)臣連等(おみむらじたち)、
各(おのおの)君親(きみおや)の恩(みめぐみ)の爲(ため)に、競
(きほ)ひて佛舎(ほとけのおほとの)を造(つく)る。即(すなは)
ち是(これ)を寺(てら)と謂(い)ふ。
(日本古典文学大系68 坂本太郎ほか『日本書紀』下
岩波書店 昭和40年)
第二条では、仏教を基本とせよ、と命令されている。
二(ふたつ)に曰はく、篤(あつ)く三寳(さむぼう)を敬(ゐやま)へ。
三寳とは佛(ほとけ)・法)のり)・僧(ほふし)なり。則(すなは)ち四
生(よつのうまれ)*1の終歸(おはりのよりどころ)、萬(よろづ)の國
(くに)の極宗(きはめのむね)*2なり。何(いづれ)の世(よ)、何(い
づれ)の人か、是(こ)の法(みのり)を貴(たふと)びずあらむ。人、尤
(はなはだ)惡(あ)しきもの鮮(すくな)し。能(よ)く�ヘ(をし)ふる
をもて從(したが)ふ。其(そ)れ三寳に歸(よ)りまつらずは、何を以て
か枉(まが)*3れるを直(ただ)さむ。
注:
*1 仏教で卵生・胎生・湿生・化生、即ち一切の生類。
*2 欽明十三年十月条に「是法於二諸法中一、最為二殊
勝一」とある。(百済の聖明王による釈迦佛金銅像
献上の段)
*3 菅子、九変に「欲撓レ曲直レ枉也」とある。
(日本古典文学大系68 坂本太郎ほか『日本書紀』下
岩波書店 昭和40年)
写真:
(慧慈法師・卒末呂王坐像)
慧慈(右)は推古天皇3年(595)に百済僧慧聰とともに来朝した
高麗僧。慧聰とともに推古4年には法興寺に住み、仏法を弘演
し、三法の棟梁と称せられ、聖徳太子の師となる。推古23年
に本国に帰る。卒末呂は聖徳太子の異母弟。
(国宝・法隆寺)
『奈良仏教』
図説 日本の仏教 第一巻 奈良仏教
平田寛(ゆたか)
新潮社 1989
第一条は、あの有名な「和をもって貴しとす
る」ではじまるのだが、彼には家庭教師が二人
ついていた。
仏教 高麗僧の恵慈(推古天皇三年に
来朝、同二十三年に帰国)
儒教 博士覺�煤iこの人の背景はよく
わからない)
また、漢文と仏教に関する完璧な教養を身に
つけておられたようだ。また、サンスクリット
語も理解しておられた形跡もある。

憲法十七条を通覧すると、各条は必ず命令の意を含み、
・・・セヨ・・・スベシのような命令形を持つ。
(日本古典文学大系68 坂本太郎ほか『日本書紀』下 岩波書店 昭和40年)
(法隆寺 2003年3月撮影)
日本の国体がいつ成立したのか、という問いにかんしては異論はほとんどなく、聖徳太子による憲法十七条の発布であって、その時期は推古天皇十二年、西暦604年である、ということでよいのだろう。
もちろんその頃にはまだ上の写真の法隆寺は存在せず、聖徳太子は、現在の法起寺のある場所、岡本の斑鳩宮にお住まいだったらしい。
法起寺の場所と写真を見ておこう。
日本でのはじめての憲法の最初の第一条を『日本書紀』の記述で読んでお
こう。
(推古天皇十二年)
夏四月(うづき)の丙寅(ひのえとら)の朔(ついたち)戊辰(つちのえ
たつのひ)*1に、皇太子、親(みづか)ら肇(はじ)めて憲法(いつくしき
のり)十七條(とをあまりななをち)*2作りたまふ。
注: *1 (三日)
*2 弘仁格式序に
「曁二干推古天皇十二年一、上宮太子親作二憲法
十七条一。国家制法自レ茲始焉」と見える。
一(ひとつ)に曰はく、和(やはらか)*1なるを以て貴(たふと)しとし、
忤(さか)ふること無きを宗(むね)とせよ。人(ひと)皆(みな)黨(た
むら)有り。亦(また)達(さと)る者(ひと)少し。是(ここ)を以て、
或いは君父(きみかぞ)に順(したが)はず。乍(また)隣里(さととなり)
に違(たが)ふ。然れども、上(かみ)和(やはら)ぎ下(しも)睦(むつ)
びて、事を論(あげつら)ふに諧(かな)ふときは事理(こと)自づからに
通(かよ)ふ。何事か成らざらむ。
注: *1 礼記、儒行に「礼之以レ和為レ貴」。
論語、学而に「礼之用、和為レ貴」。
これらの儒書と異なることは、礼との関係を述
べていないことである。その点から、憲法の和
は、仏教の和合の精神を説いたものと解する説
もある。この説の可否はともかくとして、憲法
は儒教を建前としているとみられるにもかかわ
らず、仏教思想がかなり濃厚なことは、特に第
二条・第十条などに著しい。


