Aの認識のない場合、恨みつらみは加害者との関係に終始するが、(言
葉を換えると、外界との関係を抜け切れないが)、A認識の後のB認識の
追究の時点においては、問題は120%内面問題となる。
藤村操の遺言を繰返し読んでみるがよい。外界の事象は一切含まれて
いない。
A認識の後にくるB認識の追究は、自分の他に加害者を求めない。そし
て、その追究の過程は、第三者から見れば「大逆心」に映る。
こう考えてみると、若輩ながら秀才であった藤村操が、「B after A」人
間のカテゴリーに入ることは明らかである。Aの経験を持ちながらも、B
の探検に出発したのだと考えてよさそうだ。そして、シェイクスピアの
ように訳知り顔で命題の解決を先送りにせず、Bの正体をつきとめるべく
行動をおこしてしまったと理解してよい。
ホレーシオが「ハムレット」の終盤で述べるように、人生とは「結局、
手はず狂うた謀(はかりごと)がその発頭人自身の身の上に禍(わざわ
い)をもたらす」もの、……という偶然性依存の定義では、藤村操の哲
学にはなり得なかったのだ。
ハムレットの煩悶と藤村操の決断
第三幕 第一場 拝謁の間の廊下
(クローディアス王とポローニアス侍従長がカーテンの蔭へ隠れたところへ、
ハムレットが沈うつな顔にて登場し独白する)
挑戦する相手は明らかに、「死」なのだ。「死」の本性なのだ。残るは「死」の正体を
解明することだけなのだが、その向こうに何がねむっているのか、訳がわからないから、
怖くて、実行に移せないのだ。そして大命題の解明も宙に浮いてしまう。そんなものなの
だ……と、シェイクスピアは主張する。
シェイクスピアの書き綴ったハムレット哲学は以上の三点で終了しており、最後の謎の解明はされていない。この中途半端な、結論を出さないハムレット哲学を、藤村操は槍玉に挙げたのだと理解して間違いはなさそうだ。
年が若かったから、彼は自らの主張を十二分に言葉で表現する術を心得ていなかった。しかし、藤村操は、断固として、純粋経験Aのみの世界より一歩踏み出し、Bの世界の探検を行おうとしたのである。
写真:
Sculptural Portrait of a Roman
30s BC
Bronze; h 39 cm
The
Hermitage
http://www.hermitagemuseum.org/
html_En/03/hm3_1_3a.html
詳細説明は下。
本文とはまったく関係のない画像なのだが、
ポンペイウス大帝の末子
Sextus Pompeiusの像であるといわれている。
父ポンペイウスがシーザーに破れ、
紀元前48年エジプトでかれの眼前で殺されたのちも、
シシリー島でローマ帝国と戦い続けた。
紀元前36年アグリッパに破れ、シシリーより撤退。
同年小アジアのミレトスで無法に殺戮された。
一生涯を、無法と戦い続けたその悲しみを見よ。
also ref.
as to Sextus Pompeius:
http://encyclopedia.thefreedictionary.com/
Sextus%20Pompeius%20Magnus%20Pius