当時の新聞記事(1)

 本件に関する新聞報道は当時の報知新聞が最も優れており、
 それをここにご紹介しよう。




              明治36524

        學生の行方不明

  小石川區諏訪町六 藤井操(ふじみさお)(18)
 は第一高等學校の生徒にして勉強家の評判なりしが
 一昨朝學校へ出懸くるに際し所持品の分配を母のお
 春に頼み遺書(かきおき)様の手紙を殘して家出せ
 し儘歸宅せぬ故お春は大(おおい)に心配し八方捜
 索せしも見當らぬ處より昨朝其筋へ捜索方を願出
 (ねがひい)でたり。

画題:

  「夜汽車」
  赤松麟作 1901
   161 X 200cm
  東京芸術大学大学美術館
  朝日クロニクル
  「週間
20世紀1901明治34年」
  朝日新聞社、19991212日発行

  赤松麟作の卒業制作

  当時の汽車の内部を物語ってくれる。
   背板がない。

明治36527
             

              華厳瀧の悲事

去る廿一日飄然(へうぜん)として家を出でたる那珂博士の甥藤村操
(十八)は日光華厳の瀧に身を投じて死したること判然せしも遺骸は今
に索むるに至らず一家近親の嘆きとなり居れるが今同人の性情及出家前
後の模様を記せんに同少年は故藤村胖(ゆたか)氏の遺(ゐ)三男にし
て兄の二人は故ありて居らず家には母堂と弟妹(ていまい)のみにて家
庭は至極圓滿なりと且つ同人は常に温良學に篤かりしが平素は沈鬱性と
いふより寧ろ快活の性にて從て友人間の交際も圓滑に温良謹慎の好少年
と友人の間の評判もよろしかりしが出家(いへで)以前は家人には別に
心付くほどの擧動もなかりしが彼れが日頃傾心の友たりし同級の生徒藤
原正氏の直話(じきわ)に依れば平素讀書を好み寸暇あれば必ず圖書館
に入るを樂みとせしも事變あるのに前週間以來何時もの快活も何となく
打沈み圖書館に赴くの風もなく亦讀書に親しむ事もなさず時あれば必ず
校裏の芝生に横はりて眠れるが如く亦睡むるざる如く鬱々として人と語
を交ふるさえ進まざりし様子にて出家(しゅっか)せんとする前日の如
きは晝暇(ちゅうか)何處(いづこ)へか身を匿し授業開始に至らんと
するも出で來らざれば藤原氏大に怪み校内を隈なく捜索したれども見當
らず已にして授業開始して後忽然駈け來れり人之を訝みて其由を訊ねた
るにた
芝生に午睡を貪れるのみと答へ平常の如く談笑し居たるが越へ
て翌日は家出せし日にて出校もせざりしが察するに廿一日午前九時發の
上野列車にて死出の旅路に就きたるものと覺(おぼ)し扨て少年の家出
後遺書を發見して吃驚(びっくり)したる母君弟妹は倉皇(さうくわう
)として八方に人を出し一向(ひたすら)に其行衞を索(たづ)ね居る
内二十二日午後八時頃始めて日光(につくわう)より遺書に接し今回(
こんくわい)の事變を知るに至りたり文意簡なれども句々涙痕(るゐこ
ん)を帶び己れの親に先立不孝を詫び「浮世は是悉く涙なり」と文末を
結びてありしと同人は京北中學校を出て目下高等學校文科第一年に學び
哲學宗教を専攻しつ
ありたれば此結果厭世の感を萌(きざ)せしなる
べく日光に到しりては其翌曉即ち二十二日の五時頃旅宿に命じてビール
少許(せうきょ)を呑み、鶏卵を食し服装を整へて華厳に至り此處を死
地と定めて懸崖の巌端より滝壺目掛けて眞向(まつかう)に身を躍らし
永劫の眠を致せしものならん巨巌(きょごん)の上には蝙蝠傘の地に突
きさしあり亦傍の大樹を削り白げて左の文を記(しる)しありと


           (前頁に引用した巌頭の感)

樹の傍(そば)には大なる硯と墨と太き唐筆とナイフありて儘(た)
は悉く之を燒き捨てたるの形跡あり死體は今に發見されずして飛瀑の空
しく悲音を傅へて咽ぶのみ復(ま)た同少年の日光より前記藤原氏に遺
したる絶筆あり筆路穏健臨終猶(な)ほ紊(みだ)れざるを思ふに足る

           宇宙の原本義

                         人生の第一義

       不肖の僕には到底解きえぬ事と斷念(あきら)め候(そろ)
     程に敗軍の戰士本陣に退(しりぞ)かんずるに候


             二十一日夜                   操
                         正 兄

写真:

華厳の滝
http://lib.nikkocity.jp/picture/doc.shtml?768:0
日光市立図書館所蔵の
古写真・絵図・絵葉書の画像


この藤村操の自殺は、仏教に説く(『涅槃
経』)雪山童子の「捨身問偈」と酷似して
いる。だから、彼にたいする文句がつけに
くい。なにしろ玉虫厨子以来の伝統を
精確
に踏襲しているのだから。