価 値 の 逆 転

画像:
Graham Sutherland
Cornish Tin Mine, Emerging Miner
1942
紙 グワッシュ
116.8 x 73 cm
Leeds Museum and Galleries City Art Gallery
世界美術大全集 第27
ダダとシュルレアリスム
小学館 1996

 純粋経験Aと純粋経験Bでは価値観が逆転する。

 人間がいったん純粋経験Bへの探究を開始する
や否や、価値観は逆転する。この価値観の逆転は、
その人間が純粋経験
Aを体験しているか、してい
ないかにこだわらず直ちに発生する。

 『若きウェルテルの悩み』1771.7.20の項で、筆
者はすでにこの現象を記述した。

 龍之介の『或阿呆の一生』の各項で、通常の状
態と対比させる形で
Bの探求者の価値観が逆転し
ていることを記述した。

 Bは、感覚上では「死への道行き」であり、意
識上では「死の希求」という人間の本能であるか
ら、その立場に身を沈めてしまえば価値観は逆転
する。

 生命への執着、拡充、拡大という道徳的神秘論
の観点からすると、例えば、

             「他人を助けることは良いことだ。助け
        られた人は必ず、いつの日か、私を助け

             返してくれる。助けかえせない場合でも、
        その行為が私の心の支えとなってくれ
る」、

              「お金もあればあるほど有難い。恒産あ
         れば恒心ありというではないか。心の平
              衡を保つにも、お金あるいは財産はあっ
         たほうがよい」、

              「努力と財産が結局最終的に名誉につな
         がるわけだが、名誉は結局外界での生命
              の証となって結実する」

・・・・という論理となるが、「自分の額に一発の弾」しか閉鎖
空間を切り開く手段がないと考え出すと、

              「金や名誉やそのほかのもののためにあくせく働く人
         間は愚者だよ」

・・・・という論理にすりかわる。

 子供が生まれると、

              「何の爲にこいつも生まれて来たのだらう? この娑
         婆苦の充ち満ちた世界へ」

と子供に対して憐れみを感じ、

              「何の爲に又こいつも己のやうなものを父にする運命
         を荷ったんだらう?」

と自己否定まで発展し、

              「誰も彼も死んでしまえば善い」

となり、価値観は逆転している。

 元々純粋経験Bというのは、自らの身体に内在する死の本能で
あり、これを意識の下に隠れている死の希求意識という形で認識
されるものであるから、価値の完全なる逆転が生じて当然なので
ある。死に急ぐ者にとっては、死を肯定することはすなわち善で
あり、死を妨害するものはすなわち悪となるのである。