道 徳 的 な る 神 秘 体 験 (2)
絵かきとしての私の人生にとっては、この夏の里芋畑の体験は、大きなエポックを画する出来事として忘れることのできないものになった。
その後も私は、この体験について何度も振り返り、どんな条件であのような恍惚境に到達できるのか考えた。健康であって、精神が統一されていて、静かに対象に打ち込む時間があって、という具合に条件がそろった時に、自然の中に没入する雰囲気になり、あの境地に達することができるようだ。
我々のような凡人は勉強を繰り返し、修行を積んだうえ、体調を整えて努力をしなければできないが、天才と呼ばれる人たちは、私が一ヶ月間芋の葉を見つめて「実在」に触れたことを、一瞬のうちに感得するのだろう、とも思った。
それから約三十年たって、私の修行も多少は進んだとみえて、最近では一ヶ月もかからず、二日ほど対象をジーッと見つめていれば三昧の境地に近づけるようになった。条件のいい時には、二、三時間も写生をしていると似たような境地に入ることができるのである。
画像:
上村松篁
「鴛鴦 」 1965
現代日本素描全集、
上村松篁、
(株)ぎょうせい
1992
蛇足ながら説明するが、松篁の得たこのような経験は、内的な意識を集中するときに受動的に発生するもので、松篁の場合のみに限った特異な現象というものではない。昔からさまざまな本に繰返し書かれているから、すぐそれと判別できるのだが、松篁のこの記述は、日本人が記したものにしては、いささかのてらいもなく、全く素直に、ありのままを書き記した絶好の題材であるから、ここに引用させていただいたのである。近年の日本での記述例としては、最良中の最良といえよう。
このような体験は、経験しない人にとっては「神秘的」と思えるから、「神秘体験」と呼ばれる。経験した人にとっては、その内容に「濁りがない」から、「純粋経験」と呼ぶこともある。自然の生命を「直接に把握した」と感じるから、「直接体験」と名付けられることもある。呼び名はいろいろだが、内容はただひとつなのである。
さて、その内容なのだが、松篁の場合には「体を包み込む水の音」と表現されているそれは、
意識が自然の中に没入して一体化したもので、
実在する生命を直接に把握させてくれ、
喜びを伴い、
しかも今迄の努力に対するゆるぎない確信を与え返してくれる、
性質をもっていることが理解されるだろう。まるで全ての意識のベクトルを磁石に近づけて同一方向に揃えきったとき、堰のあふれるようにエネルギーが欣喜雀躍あふれ出すような有様である。しかもこれは、初回以降は当人がそう意識すれば、比較的簡単に反復することができる「反復性」をもつことも上記から理解できるだろう。
松篁にとっては、自分の生命の証を見たのであり、自分の生き方にたいするゆるぎのない確信をこの神秘体験から得たのである。
(昭和60年9月、日本経済新聞『私の履歴書』より)