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生かされている此の歡びを
心にみたして眼をひらけば
眼前に
朝の太陽は微妙(みめう)の光をはなち
庭の木の若葉に生命が照り輝く。
若葉の生命の中を
別にまた一つの生命が躍ってゐる
(同上)
さらに彼は彼が見たものは生命そのものであったことを
報告する。
或る日
輝く光明が
わが胸に降って來た。
頭にも、
手にも、
足にも、
花が降るやうにおちて來た。
わたしは光のうちに埋って
呼吸(いき)苦しいほど光明を吸ふ。
やがてそれが私に『生命』だとわかった。
(同上)
画題: Vincent van Gogh
"Four Cut Sunflowers",
1887,
Otterlo (Holandia), Rijksmuseum
Kroller-Muller.
Gardens of the Sunlightより拝借。
ゴッホのアルル時代以降は、
画材から光が迸り出る。
光の波動が
命の波動と
共鳴しているのであろうか。
彼の記述を読んでみよう。
或る日、私は心の窓を開いて、
大生命のみ空から光線のやうに降り濺(そそ)ぐ生命の
讃歌に耳を傾けた。
嗚呼! 聲のない奏楽、聲を超えた合唱
けれども私はその聲を聞いてゐた。
宇宙の囁き、神の奏楽、天使のコーラス。
私の魂は虚空に透きとほって眞理そのものと一つになった。
何と云ふ美しい旋律だらう。
『これが眞理そのものか!』と私は恍然として歎聲を
漏らした時、
『お前は實在そのものだ!』
私はかう云って天使たちが私を讃へる聲を聞いた。
私はついに神を見出し、本當の自分を見出したのであった。
(谷口雅春『生命の實相』新修大十巻、日本教文社 昭和11年)
彼は自らの心のなかに神を見出したが、それは真理であり、実在であることを、この神秘体験Aという経験のなかで発見した。
さらに彼はこの神秘体験Aが、光で包まれていることをも発見した。
そこには光があり、その光は生命であり、私が生命と一体化して、生命の目で見る樹木の若葉には同じ生命が踊り現われ、私の心は喜びで満たされる。それは神であり、実在であるのだから、この彼の経験は他の人たちの到達した神秘体験Aと同一であると言えよう。
残念ながら彼は神秘体験Aについて詳細に記述することを怠った。したがって私たちは彼の心がどのようになったときにそれは起こったのか、その瞬間はどうであったのか、その瞬間を過ぎたあとの心の状態はどうであったのか、読みとることができない。こういう観点から判断すると、彼のレポートの資料価値は前述した四人(玉城、林、テレサ、白隠)のそれよりも落ちる。いわば二流品である。
だが、いずれにせよ、こうして彼の心の平安は獲得され、彼はその後一生涯、昭和60年に亡くなるまで、この「神」について語り続けた。彼は彼の心に生じたこの神秘体験Aが、人間の心で到達できる唯一のものであると信じたのである。彼の自蔑の念と罪悪感はこの神秘体験の発見の時点で解消した、ように見えたからのようだ。
彼はこの神秘体験Aの経験を「久遠を流るゝいのち」と呼び、これこそ生命に實相であると考えた。
生命の實相を説く成長の家は昭和5年1月1日に創刊され、そこに記載された論文を集めた『生命の實相』は永くベストセラーを続けた。