この散文詩は、『瞑想と経験』(玉城康四郎、春秋社)の冒頭に載
せられている。


   不可思議なる光
   かってやぶれることのない
   厚い厚い疑惑の壁を
   うち抜いて噴きいずる
   聞光力(もんこうりょく)よ

   この光、この力こそ
   劫初より 求めに求めぬいて
   身をくだき
   骨をけずり
   ついに黒闇の奈落に
   踏みおちんとして
   いかばかりたゆたえるか

   こみあげてくる
   絶望と悲惨との
   あわれなる生命の苦汁に
   頭蓋はきしんで音をたてても
   脳髄は摩擦して裂けんとしても
   頑強に地底に根づく自我の根源
   それは物か 怪奇か
   無明か はた不可滲透なるか
   永遠の劫火
   瞬間の烈震

   わたしはその時を知らない
   わたしはその暗転を覚えない
   鬱蒼としげる煩悩の樹木の
   葉脈のひとすじひとすじに
   地中に蟠踞する醜悪なる
   自我の根元に
   ひそやかにしみ入る
   不可思議の光
   天地のすがた
   宇宙のたたずまい
   森厳として
   全身の眼を見張る



 そのおぼろげな輪郭を読者は、この詩から汲み取っていただけた
であろうか。







画題:  饕餮(キ)龍文方(ユウ)
      商時代、伝河南省安陽殷墟出土、白鶴美術館
 
     「地中に蟠踞する醜悪なる自我」とは、
      この饕餮(キ)龍に観察される「グロテスクさ」なのか。
     この羊角を持つ饕餮のグロテスクのきわみから
     不可思議の光が現われる、と彼は言う。

     殷の饕餮が表象する怪奇の世界。

Aの具体的なイメージ


 なお、昭和48年3月20日に出版されたこの本『瞑想と経験』には、
昭和16年2月7日の体験がより生々しい筆致で報告されているから、
念のため、ここに引用しておきたい。



         青年は、瞑想の形に入らなくとも、ある意味では瞑想の連
       続である。つねに自分の問題に専心できるからである。考え
       ることに、悶えることに、そして瞑想に、一つになっている。そ
       の一つになり得ている状態が、瞑想の趣旨に適っているとい
       えよう。実存の根本問題が問われているかぎり、どのような生
       活の形態であっても、全体としては、身心一如的、禅定的、瞑
       想的であるといえよう。

         私は未解決の実存をかかえたまま、悶え、苦しみ、瞑想した
       が、一語でいえば、悶えの混沌であった。寝ても覚めてもそう
       であった。眠っていても無意識のまま混沌が続いていた。それ
       がある日(二月七日)ある時刻(午後五時ごろ)に、それは突
       如として起った。場所は東大図書館の閲覧室である。わたしは
       混沌をかかえたまま、十地経の初歓喜地のあたりを読んでい
       た。その混沌の袋が突然に爆発したのである。同時に悶えも
       苦しみも虚空にけし飛んで、自己も世界も万物も一つになって
       しまった。驚くべき忽然の大転換。ことばでは云い表せない、
       カーッとなった全体感、一如感、実感。世界も我も、一切が吹
       き抜けていた。「天地、我と一体」という語はあるが、天地もな
       く我もなく、ただ素ッ裸の虚空が踊り出ている。大生命の露堂
       々たる一如界。瞬間であると同時に生々しいほどの永遠。そ
       れがどれだけの時間続いたか分らない。しばらくして、求めに
       求めてきた究極の目的が今ここに完結したと思ったとき、歓
       喜がもくもくとして腹の底からこみ上げてきて、全身、歓喜の
       渦に貫かれた。わたしはどのようにして家に帰りついたか知ら
       ない。
                     (玉城康四郎『瞑想と経験』春秋社)