「南京大虐殺で30万人死亡?当時の南京の人口より多いので絶対違う」
河村たかし・名古屋市長 2009/09/15
名古屋市の河村たかし市長は9月定例会の一般質問で
1937年の南京大虐殺事件について、「一般的な戦闘行為はあった。
そういうものが誤解されて伝わっているのではないか。
事件そのものについて
日中友好のためにきちんと検証し直す必要がある」と発言した
河村市長は
「おやじは終戦を南京で迎えた
南京の人に本当に優しくしてもらい名古屋に帰ることができたと言っていた。
虐殺があったのなら8年後に南京の人が優しくしてくれるのか
と述べ30万人以上が死亡したとする説に
「当時の南京の人口より多いので絶対違う」と否定した。
河村氏は著書の中で
「南京大虐殺は国民党のプロパガンダだったかもしれない」
「いつの間にか『歴史的事実』にされてしまった」と記している
衆院議員時代の06年には、政府に対し
「いわゆる南京大虐殺の再検証に関する質問主意書」を提出。
教科書などに「市民や捕虜の殺害」などが記載されている根拠や
政府見解を改めてただした。
これに対し、当時の小泉内閣は
「1937年の旧日本軍による南京入城後
非戦闘員の殺害または略奪行為等があったことは否定できないと考えている」
と答弁書を出した。【丸山進、山田一晶】
毎日新聞 2009年9月15日 東京夕刊 河村・名古屋市長
:南京大虐殺「誤解ある」 議会で発言
http://mainichi.jp/select/seiji/news/20090915dde041010041000c.html
昭和13年(1938年)正月を南京市内には、
映画監督として世界中から称賛されている
小津安二郎と山中貞夫の二人が日本陸軍兵士として
警備部隊に所属していたが、
彼らが「大虐殺」について言ったことも書いたこともない。
叔父は昭和14年から19年まで度々南京に足を運んでいる。
南京大虐殺があったとすれば、日本人は入れないだろう。
また虐殺の話は必ず耳に入るはずだか、そんな気配すらなかったと
メモを残している。
じーちゃんは関東軍にいたんだが、食料に困って民家や畑を荒らした。
勿論、民間人が犠牲にだってなったらしい。
当時の日本軍にはそんなに沢山の人を殺す余裕はないってさ。
南京の実相―国際連盟は「南京2万人虐殺」すら認めなかった
http://bookweb.kinokuniya.co.jp/htm/4817406674_1.html
この本の出版でほぼ南京の捏造歴史はつぶせたよ。
当時の写真、新聞資料から客観的に検証してる。
各国ジャーナリストがうじゃうじゃいる中、大虐殺の報道皆無。
あの朝日が、平和な南京の風景を写真に収めている。
南京事件は捏造だ。
十三日に、中山門から城内に入りました。その日は中山門で写真を撮りましたが、
南京陥落という写真をもっと欲しいと思い、翌十四日には国民政府だった建物が
あるというので、そこで写真を撮りました。これが特ダネとなり、号外になったんです。
もうこの日は、難民区の近くの通りでラーメン屋が開いていて、日本兵が十銭払って、
食べていました。それと、中国人の略奪が続いて、中山路で机を運んでいる中国人や、
店の戸をこじ開け盗んでいる者もいました。
十六日は、中山路で難民区から摘出された便衣兵の写真を撮っています。
中山路いっぱいになりましたが、頭が坊主の者、ひたいに帽子の跡があって陽に焼けて
いる者とか、はっきり兵士と分かる者を摘出していました。でも髪の長い中国人は、
市民とみなされていました。たくさんの中国人が、日の丸の腕章をつけて、日本兵の
ところへ集まっていましたから、とても残虐行為があったとは信じられません。
もちろん、社の人たちからも、そんな話は聞いていません。
日本兵の屍体は、撮ってはいけないと言われていましたが、私は何でも撮りました。
でも後になって見ても、日本兵が残虐なことをやっている写真なんか一枚もありません。
この中には、日本兵が慰問袋を中国人にわけてやってるのがありますが、
たくさんの中国人が群がっている、そんなものもあります。
こういう状態ですから、虐殺なんていうことは、私がたまたま見ていないというのではなく、
なかったのだと思っています。(中略)
とにかく、陥落から、二十四日まで南京にいましたが、南京事件なんていうのは、
戦後聞いた話で、確か二十一年か二十二年ごろだったと思います。NHKの真相箱という
番組があって、ここで南京で虐殺があったと聞いたのが、初めてです。たまたま聞いてましてね。
テーマ音楽に、チャイコスフキーの交響曲が流れて、その後で、機関銃の音や、
「キャー」と叫ぶ市民の声があって、ナレーターが「南京で虐殺がありました」って
言うんですよ。吃驚しましたね。
これを聞いて、「嘘つけ」と、私はまわりの人に思わず言った記憶があります。
続きは以下で
http://touarenmeilv.ld.infoseek.co.jp/zoruge.htm
叔父のメモの抜粋だよ。
昭和12年12月13日南京陥落、17日日本軍が入城の時は
僅か4,5万の難民がいたに過ぎない。
情報は早いものでシナ事変が拡大するや避難民は上海租界へ、香港へ、漢口方面
あるいは近郷に逃れたのである。
どうして30万人もの殺害ができようか。
民家に潜んでいた便衣隊ゲリラを 何十人か殺したことでもあろう。
そんな事実があったら後始末も目立ち、話も耳に入る筈。
私は度々市内を見て回ったが、そんな気配などは微塵も感じられなかった。