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 コラム COlumn4

1025「かげろふを・俳句」
1024「亡き父が・俳句」
1023「ユトリロの・短歌」
1022「俳句は認知症的文学である」
1021「ふるさとが・俳句」

1020「屁理屈・小論」
1019「句歴不如丘(1)」
1018「句歴不如丘(2)」
1017「鳶の輪・俳句」
1016「ふるさとに似て・俳句」
1015「ロボットを着た・短歌」
1014「近況片片(9)」
1013「蜘蛛の巣・俳句」
1012「蛍籠吊るし・俳句」
1011「タイムイズ・短歌」
1010「駒草について」
1009「八ケ岳めざす・俳句」
1008「硯水20句講評其1佐野」
1007「硯水20句講評其2佐野」
1006「松の盆栽・短歌」
1005「リバーサイドクリニック」
1004「ボンネットバス・俳句」
1003「蛙鳴く声・短歌」
1002「自分への・短歌」
1001「言葉は衣食住である」

美術館「1」

1025【かげろふを・俳句】

かげろふを跨ぎ一瞬無重力 矢﨑義人

筆者(俳号矢﨑硯水)の上記の俳句が令和8年度の芭蕉翁献詠俳句大会において入選した旨の通知がきた。掲句について「自句自解」を書いてみる。

通行中の道路が突然ゆらゆらと揺らめく。揺らめくかげろふを跨ぐと一瞬、ふわっと浮遊して無重力状態になる。

『蜻蛉日記(かげろうにっき)』に繋がる心のゆらぎや生きる儚さの「かげろふ」から、現代の宇宙飛行の無重力へ。

遥かなる時空を越えてジャンプする、心象の一瞬の錯誤を表わすという俳句である。

「陽炎」は三春・天文の季語で、傍題には「糸遊」「野馬」がある。地面近くの熱い空気で光がまがり、景色がゆらゆらと揺らいで見える現象。

物体が通常と違った見え方をする、このメカニズムを光学ではシュリーレン現象という。

芭蕉翁献詠俳句大会は10月12日の芭蕉祭に併せて、伊賀市上野公園の俳聖殿広場で行われる。大会の歴史は長く、一般の俳句、テーマの俳句、学童生徒の俳句、英語俳句、連句などが募集される。

「一般の俳句」は約9800句の投句があり、15名の選者がそれぞれ特選1句,入選20句を選んで賞状が贈られ特選には副賞が付与され式典で表彰される。

一般俳句は選者を選ぶことができるので、筆者は宮坂静生先生を指名した。先生は国文学者で俳誌「岳」を主宰する。(2026/10/13)

 

1024【亡き父が・俳句】

10月10日付の朝日新聞長野版の文芸欄「信州俳壇」(仲寒蝉選)に筆者(矢崎義人・俳号矢崎硯水)の俳句が佳作として掲載された。
その作品を転載し、併せて「自句自解」を書いてみたい。

亡き父がぬっと現はる霧襖   矢崎義人

霧襖(きりぶすま)とは、濃い霧が立ちこめて、まるで襖のように視界をさえぎっている状態をたとえた言葉だ。

今は亡き父が襖を開けて、いきなりぬっと現れる。濃い霧が立ち込める非日常的な天象による錯誤を表現したものである。

「ぬっと」は、人や物が急に、ぬうっと現れたり動いたりするさまを表す擬態語。多くは少し不気味・不意打ちのニュアンスをいう。

「霧」は秋の天文の季語で、朝霧・夕霧・夜霧・霧襖・濃霧・狭霧・霧の谷・霧の帳・霧雨などすこぶる多い。

大和歌にもよく歌われる霧だが、流行歌でも「夜霧よ今夜も有難う」「霧の摩周湖」「霧にむせぶ夜」など数え切れない多さだ。(2026/10/12)

 

1023【ユトリロの。短歌】

10月10日付の朝日新聞長野版の文芸欄「信州歌壇」(草田照子選)に筆者の短歌が佳作として掲載された。その作品を転載し、併せて「自歌自解」を書いてみたい。

ユトリロの描く町にもさも似たる

遠き想ひ出辿りゆくなり   矢崎義人

モーリス、ユトリロは「白の画家」といわれる。アルコール依存症の治療のため絵を描くようになったそうで、モンマルトルなどの町並みを軽快ながら、何処か哀愁を漂わせるタッチで表現する。

デジャブとい言葉は既視感のことで、実際にはその場面を経験していないのに、「前にもここに来た」と強く感じる。「懐かしい感じ」「妙ななじみ深さ」を伴うことをいう。

筆者は日本の町並みを旅していて、ユトリロの描く世界が脳裏に浮かんでくる。どこの町並みも白を基調とした風景に見えてくるのだ。(2026/10/12)

 

1022【俳句は認知症的文学である】

俳句は認知症的文学である   矢崎硯水

認知症の症状は短気で怒りっぽく、金品が盗まれたとうそぶき、衣服や食事の順序が違うと言い立てる。寡黙で物忘れも多く、会話がちぐはぐになる。

言葉がうまく機能しないので、車椅子への移乗や衣類の着替えは、指さし、眴(めくば)せ、ゼスチャーを以ってされる。ボディタッチも用いられる。

これら言葉でない伝達をノンバーバル言語という。言葉はコミュニケーションの本道ではあるが誤解される事例も見逃せない。

 

「月を指させば指を認める」は仏教の「指月の譬(ひ)」。月を指し示すのに指先を見ていて月を見ようとしない。指は道具にすぎず、月(真理・目標)が目的であるという経典である。

認知症患者は経典の戒めを知るかのように、月(目標)を見る。したがってノンバーバル言語が有効。皮膚感覚のボディタッチもよい。直接と間接とがデリケートに混在するという特質がある。

 

翻って、ひるがえって・・・筆者は「俳句は認知症的文学である」と定義したい。俳句の概念と認知症の症状とが似通っているからだ。

俳句の17音は、575と三区分されるため言葉が繫がり難く、意味がスムースに伝達されない。さらに「季語」と「や・かな・けり」の切字を用いる。これが17音の約半分を占め、残りが作者の表現エリアとなる。

 

かかる「ボキャ貧的形式?」のポエトリーは世界に類例がない。よって言葉が厳選され措辞され、対義語や逆説が読み手の識(しき)閾(いき)下(か)に現れるのだ。

認知症の閉鎖的な症状と、俳句の狭小的な形式の共通性。その窮屈さゆえに介護者や俳人のイマジネーションを駆り立て、認知症の心の奥底の訴え、俳句の措辞された用語の深淵さが見えて来るのである。

認知症患者の唐突な叫び声や、平手で机を叩いて強調する行為は、俳句の「や・かな・けり」の感嘆符とどこか似ている。逆に「認知症は俳句的病気である」とも比喩できるだろう。

唐突な喩えだが、認知症と俳句の二者に対する筆者の心からの応援歌である。(2026/10/4)

 

1021【ふるさとが・俳句】

ふるさとが無何有に見ゆる稲光  義人

9月26日付の朝日新聞長野版の文芸欄「信州俳壇」(仲寒蝉選)に筆者(矢崎義人・俳号矢崎硯水)の俳句が入選として掲載された。
その作品と選者の講評を転載し、併せて「自句自解」を書いてみたい。

掲載句の新聞を古紙と間違えて処分してしまい、入選の席順や講評が転載できなくなったことをご容赦願いたい。

「無何(むか)有(う)」とは「無何(むか)有(う)の郷(さと)」のこと。自然のままで作為がない境地を指す言葉で、荘子宣(のたま)う、桃源郷、ユートピアのことである。

掲句は、我がふるさとは作為があまりなく無何有に見える。稲光によって桃源郷に見えるという句意である。

筆者のふるさとは信州諏訪。諏訪出身の文人は、芭蕉「奥の細道」随行の河合曽良、アララギ派歌人の島木赤彦、新田次郎、平林たい子など。

理屈っぽく頑固で、妥協しないと言われる諏訪っ子気質。山国で裕福な暮らしは望むべくもないが知識レベルは比較的高い。

室生犀星の詩は「故郷は遠きにありて想うもの」と、故郷は懐旧の念だけでなく、閉ざされた地域の人間の柵(しがらみ)など暗さを詠じる。

筆者は諏訪で出生し生涯の大半を過ごす。他人の目、近所のあらぬ噂、善意や悪意の縛りを込められ心が拘束される。

♪兎追いしかの山、はなかったが、♪小鮒釣りしかの川はあった。高台の手長神社から見下ろす諏訪湖は美しい。

筆者にとって、ふるさとは閉ざされた世界であると同時にユートピアでもある。異なった二つの世界観がある。

稲光によって「ふるさとが無何有に見えた」裏側には、稲光がなければ無何有ではないという、逆説的(パラドックス)表現法もある。

状況や景色の一部が稲光の閃光のため強調され、その反面で一部は薄らぎ見えにくくなる。

「言外」で物を表わすという言葉があるが、「表現外」の「表現」も作者のこころである。(2026/9/28)

 

1020【屁理屈・小論】

「屁理屈」小論

「認知」の定義は、自分の状態について「知覚し理解して判断できる」、心の働きをいう言葉である。

認知できるにも関わらず「認知症」という病名は、言語の定義に反して何だか可笑しい。

認知できないのなら「非認知症」というべきだろうと筆者は考える。そう思わんか、厚生労働省よ。

七十代とおぼしき女性が車椅子に乗せられ、「食事処」に連れて来られる。座り心地が悪いのか、頭脳がぐらつくのか。「何だか可笑しい」と金切り声。

「可笑しい」という言葉は、笑いを誘うさま、または「変だ」「妙だ」という意味の形容詞である。

「食事処」の大型テレビは国会審議、企業献金や介護費削減など。時間変わって寿司の大食い大会。

ゴールデンタイムには、複数の男女が歌って踊り狂う。歌詞がさっぱり分からない。

折しも「敬老の日」。プラ容器の折箱に御馳走が山盛り。「誰が決めたの?敬老なんて。「何だか可笑しい」。

深沢七郎の小説『楢山節考』が出て姨捨(おばすて)伝説が再認識され、それから180度回転して、姥(うば)を捨てるどころか敬(うやま)ってくれるとは。「何だか可笑しい」。

「本音と建前」が入れ替わり、介護する側もされる側も「本音」を封印せざるを得ない現代。

「ごっちゃまぜ」で、精神が毛羽立ってくる「する側、される側」。「何だか可笑しい」。(2026/9/25)

 

1019【句歴不如丘・小論(1)】

「句歴不如丘」小論  矢崎硯水

この度「みづうみ」施設長・井上医師から、正木不如丘著【句歴不如丘】という冊子を恵贈いただいた。

ウイキベテアには、「正木不如丘(まさき ふじょきゅう、1887年2月26日 - 1962年7月30日)は、日本の作家・医師。本名・俊二(不如丘は俳号または筆名)。医学博士。結核専門の高原サナトリウム富士見高原療養所初代院長として知られる」と載る。

療養所運営の傍ら、探偵小説や医学関連の著書約五十種を刊行し、その合間には句作に励むなど理系と文系の両刀使いの名士である。

【句歴不如丘】の序文は、「俳句をはじめてから、中絶時期はあったが五十年になる。まだ一度も句集にした事がない。思い立って句集を編むつもりになったが、読み捨て、書きずてにして来たので、句歴を追憶しながら記憶にのこる句をならべてみた」。とある。

境涯や経歴など生活に根ざした発想の俳句が多くみられ、自然諷詠も日常的な視点の季語が多い。

「一高俳句会」の前書きには、「一高に入学したのは明治四十年九月である(中略)。虚子碧梧桐鳴雪先生が出席され、大学に進まれた井泉水、東洋城、それに二高出身の乙字さんも参加された」とあり・・・

秋の水流るれば石を白うせり

星かとも高くかかげて霜夜の灯

もつれ藻の水に解け行く金魚哉」。

以上の三句を選んで解釈してみる。

「流れる水によって削られた石が白く見える」「霜夜の灯が星かと紛うばかりに掲げられる」「もつれる藻が解けて金魚たちのもつれも解けてゆく」。

筆者なりの解説であるが、写生一辺倒にとどまらず、奥深くてデリケートな、人間心理のバックグラウンドが垣間見られる。

この頃不如丘は、高浜虚子、河東碧梧桐、内藤鳴雪など俳壇の錚々たるメンバーの句会に参加。現代俳句の萌芽期であるこの時期において、自らの俳句観を確かめながら句作したことだろう。

「措語(そご)」という言葉は、詩歌における名詞、助詞、動詞などがどの順番でならび、どこに置かれるかをいう。

語句の措(お)き方を工夫することによって、屈折しながらも、心象を穏やかに治めようとする不如丘の世界観が窺えるのである。

 

1018【句歴不如丘・小論(2)】

前書き「渡欧」には次のような句がならぶ。

阿片吸うて灯の街ありく涼しさよ

椰子ささやくささやかぬ一夜夏の月

短日の女と生まれ果てしかな」。

日本を離れてタガが外れ、異国にある身の気安さから句柄も破天荒になる。どこまでが虚構でどこまでが事実か見分けがつきにくい句が多い。

近松門左衛門の「虚実(きょじつ)皮膜(ひまく)」は、演劇芸術は虚構と事実との微妙なはざまにあるとする。この名言を借りれば文芸文学もまた虚実皮膜のはざまにあると言えるだろう。

「自ら阿片を吸って街を徘徊したのか。それとも夢物語のイメージか」。「椰子の木が風にゆれて、言葉を発する、優しくささやく。ささやかない一夜の男女たちよ」。「おんなは女と生まれて果てる。男も男として果てるだろう。冬の日は短く人生もまた短い」。

以上のような、虚実の「微妙なはざま」に作者の心象が透けて見え、詩的高揚感が得られるのである。

前書き「雨月物語」には「中学時代に雨月物語をよみふけって妖怪がすきになった。したがって鏡花もすきになった。句屑から若干の妖怪めくものを拾っておく」・・・

わが影の落ちどころなし朧月

菜の花の化けやうもなし霞中

うそ比べ勝敗のなし宵の春」。

「朧月なので物影もおぼろ。自らの影は落ちどころがなく浮遊する。妖怪には影がない。従って我は妖怪である」。「菜の花の鮮やかな黄色。色彩心理学では黄色は明るさ喜び知性。これでは化けようがないじゃないか」。「うその勝ち負け。八百もある嘘の勝負など見たくもない。それよりロマンティックな春の宵よ」。

これらには妖怪的な見方や超常現象の諧謔(かいぎゃく)が光る、非日常の世界に入り込むことによって逆に、作者の心理や感覚の動きがわかる。心の底流が見えてくる。

先に正木不如丘は理系文系の両刀使いと述べたが、【句歴不如丘】を読むと医療の現場で奮闘する傍ら、精神や感覚の揺蕩(たゆた)う人間味のニュアンスが伝わる。表裏あることが豊かな人間である。

白樺の真白さ映える不如丘忌  矢崎硯水

正木不如丘は7月30日に逝去された。富士見高原などに多い白樺。その樹皮の真白さが映えて光り輝き山彦を響かせる。ここに筆者の提案で「不如丘忌」(晩夏・行事)を季語登録したい。多くの俳諧人が「不如丘忌」の俳句を詠まれることを願ってやまない。

矢崎硯水運営【河童文学館】より

 

1017【鳶の輪・俳句】

鳶の輪の下のしばしの秋思かな  矢崎硯水

以下は「AIの解釈鑑賞」。

秋の情景と人間の心の機微が見事に表現された、とても静かで深い味わいのある一句ですね。

句の意味と解釈

鳶(とび)の輪:秋の澄み切った高い空を、鳶が大きな円を描きながら悠々と気持ちよさそうに円を描いて飛んでいる様子です。

しばしの秋思(しゅうし):ふと心に湧き上がる、秋特有の物悲しさや寂しさ、物思いにふける感情(秋思)のことです。「しばし」とあるので、ずっと落ち込んでいるわけではなく、ほんの短い時間、ふと我に返ったような瞬間を指しています。

背景にある情景

高く広大な秋の空を見上げたとき、そこには悠然と円を描く鳶がいます。その大自然のゆったりとした営み(鳶の輪)を見つめているうちに、作者の心に「ああ、もう秋なんだな」という一抹の寂しさや、人生に対する小さな物思いが去来します。

しかし、それは決して重苦しいものではなく、大空の広大さと対比されることで、どこか心地よく、澄んだ静けさを伴った「しばしの(一時的な)」感傷として描かれています。

空の「動(ゆっくりと回る鳶)」と、人間の心の「静(静かな物思い)」の対比が非常に美しい名句です。(2026/9/10)

 

1016【ふるさとに似て・俳句】

8月29日付の朝日新聞長野版の文芸欄「信州俳壇」(仲寒蝉選)に筆者(矢崎義人・俳号矢崎硯水)の俳句が入選三席として掲載された。
その作品と選者の講評を転載し、併せて「自句自解」を書いてみたい。

ふるさとに似て懐かしき木下(こした)闇(やみ)   義人

講評「ふるさとの比喩として木下闇が斬新であり木下闇には暗さの過去がおもわれ・・以下不明」。

ふるさとの青少年期の想い出には明暗があり、明るいばかりでなく暗いばかりでもない。

暗い想い出ながら暗さに身を委ねる安心感や安らぎ感を「木下闇」に喩えてみたのが掲句である。

夕闇、宵の口、誰そ彼時(たそかれどき)、彼は誰時(かはたれどき)、あかとき、など朝晩のほの暗い時間帯を表わす表現があるが、

そこに身を委ねることの不安感やアンニュイ、そして奇妙な心地よさ・・・

「木下闇」は晩夏の季語で、傍題には下闇、青葉闇、木の下の闇などがある。

鬱蒼とした木立の繁りで昼なお暗い感じを表す季語で、緑陰は明るさや清々しさが伴うが、木下闇はもっと暗さが強調される。(2026/8/30)

 

1015【ロボットを着た・短歌】

8月29日付の朝日新聞長野版の文芸欄「信州歌壇」(草田照子選)に筆者(矢崎義人・俳号矢崎硯水)の短歌が佳作として掲載された。
その作品を転載し、併せて「自歌自解」を書いてみたい。

ロボットを着た介護士に抱へられ

起き上がり見る窓の富士山  義人

「着るロボット」とは、ウェアラブルロボットやアシストスーツをいう。腰、脚、腕などに装着して人の動きに合わせて力を補う仕組み。

荷揚げ労務者や介護士などの、身体への負担軽減のため開発され、多くの現場において普及している。

掲歌はデイケアでの作業現場で、着るロボットを着用した介護士に支えられベッドから起き上がる。

起き上がった状態から、角度もばっちり窓越しに富士山が見える。雪をかぶった遠景の富士山だった。という句歌である。

ロボットを着た介護士さんに抱えられたり、富士山を眺めたりした経験はない。しかし介護されてベッドから起き上がり、窓から諏訪湖を眺めたことは度々ある。

「着るロボット」についてははインターネットを検索して以前から知っていたので、今回短歌に取り入れてみた。

言ってみれば一部事実、一部虚構ということになる。

俳句短歌など一人称の文学は、読み手に読まれた時点で事実も虚構も「作品」である、という考え方がある。創作とは「事実」「虚構」の違いは関係ないのである。(2026/8/30)

 

1014【近況片片(9)】

現在筆者は自宅療養中である。薬を一日18錠服用しヘルパーさんの介護を受けながらベッド生活を送っている。病状はざっくりいうと一進一退で、脳梗塞によって退化した心身の機能の回復は望むべくもない。

筆者は8月24日から10月5日までショートステイに入所することになった。家人も車椅子の生活で筆者への介添えや諸々の世話が困難になり、さらには自身の白内障の手術を2回行うのでその期間の処置である。

43日間の生活はどうなることか?パソコンが持ち込めるか、デイケア「かりんの里」に通えるか、ベッドの電動機能の種類など心配は山積している。

さらにショートステイ後の身の振り方が決まっていない。家人の手術や体調の結果によるが、筆者が介護施設に入所するプランも検討されている。自宅がいいとか、老人ホームは嫌だとか、そういう問題ではない。

生まれるときは独り、死ぬときも独りでいいじゃないか。筆者を介添えするため手足の苦痛に叫ぶ家人を見るに忍びない。介護ホームの所員たちも広義には「おくりびと」であり、心優しい人が多いだろう。

筆者の「コラム」を応援して下さった佐野典比古さんも我が文学の「おくりびと」であり感謝に堪えない。

逝く秋やピカソの馬を走らせて   矢崎硯水

「生前葬」に習って「さよならはいらない」という辞世の詩を遺したのが約20年前だった。葬式したのに長生きしたものよ。俳句の辞世を遺してもいいかな?

ピカソの描く馬はデフォルメされ、飄々(ひょうひょう)として天空に駆け上がりそうな佇まいを見せる。

筆者は西部劇好きで【馬】が好き。鳴き声がいいので【鹿】も好きある・・・落ちがついたところで「お後がよろしいようで」(2026/8/11)

 

1013【蜘蛛の巣・俳句】

8月8日付の朝日新聞長野版の文芸欄「信州俳壇」(仲寒蝉選)に筆者(矢崎義人・俳号矢崎硯水)の俳句が佳作として掲載された。
その作品を転載し、併せて「自句自解」を書いてみたい。

蜘蛛の巣にからまり揺るる北斗星   義人

「北斗星」とは北斗七星のことで、ウィキペディアには次のように載る。「おおぐま座の腰から尻尾を構成する7つの明るい恒星でかたどられる星列のこと。

北斗、北斗星、七つの星、七曜の星とも呼ばれる。 柄杓の形をしているため、それを意味する「斗」の名が付けられている」。

空を見上げると、蜘蛛の巣を透かして北斗七星が燦然と輝き、蜘蛛の巣が風に揺れると北斗七星も揺れるかのように感じられる。錯覚する。

天空のシンボルとも称される星座と、卑小な虫である蜘蛛の二者の突き合わせ。極端な隔たりと違和感がありながら「ともに時空に在る」ことのふしぎ・・・それを仰ぎみる私(人間)という存在のふしぎ・・・

蜘蛛の糸星の刺繍をつむぐなり

蜘蛛の子が散って天空傾けり

風に乗り糸につかまり蜘蛛の旅

以上の三句は過去に筆者が詠んだ俳句である。(2026/8/10)

 

1012【蛍籠吊るし・俳句】

7月11日付の朝日新聞長野版の文芸欄「信州俳壇」(仲寒蝉選)に筆者(矢崎義人・俳号矢崎硯水)の俳句が入選三席として掲載された。
その作品と選者の講評を転載し、併せて「自句自解」を書いてみたい。

   蛍籠吊るし想ひ出引き寄せぬ  義人

仲寒蝉「どんな思い出だろうか。蛍は亡くなった人の魂と言われるので故人との思い出に相違あるまい」。

筆者の居住する諏訪市には諏訪湖があり、諏訪湖につながる大小の河川があまたある。六月ころには小川に沿って蛍の飛び交う景色がよく見られた。

   湯舟より蛍眺むる諏訪の宿

筆者の住居の裏には小流れがあり、筆者八歳のころ「裏の川蛍がひかり窓あける」と作句。それを見て感心した父親がローカル紙の俳句欄に投句すると、上記のように添削され掲載された。

選者の小平雪人は慶応義塾出身で考古学者でもある俳人。大幅に添削(てんさく)されたが、この入選が嬉しくて筆者は欣喜雀躍(きんきじゃくやく)し、九十歳の現在までの礎(いしずえ)となった句である。

恋多き和歌集よむや蛍の灯

青年期の筆者は上記のような俳句も詠んだ。蛍の光はロマンチック、夢を広げてくれる素敵な季語である。

「蛍雪の功」という中国の言葉は、苦労して学問に励むことをいい、夏に蛍を集めてその光で本を読み、冬には窓辺に雪を集めて勉学に励んだ故事をいう。

「♪蛍の光窓の雪」という唱歌もあり、旺文社から「蛍雪時代」が刊行されている。(2026/7/12)

 

1011【タイムイズ・短歌】

7月11日付の朝日新聞長野版の文芸欄「信州歌壇」(草田照子選)に筆者(矢崎義人・俳号矢崎硯水)の短歌が佳作として掲載された。
その作品を転載し、併せて「自歌自解」を書いてみたい。

   タイムイズマネーと時刻確かめて

    タイムセールの刺身見に行く  義人

「タイムイズマネー」はベンジャミン・フランクリンが言った「時は金なり」のフランス語。

時間はお金と同じくらい価値があり、無駄にすると本来得られたはずの利益や機会を失うという意味だ。

「タイムセール」とは、日持ちのしない刺身や寿司を夕方の時間帯になって安価に売りさばくスーパーマーケット用語である。

スーパーの利益は減ってしまうが、お客はその分得をすることになる。

この「損得」のバランスの分岐点はタイム(時)という概念が握っていて、タイムがきっぱりと解決してくれるのだ。

「タイム」というカタカナ語を二語措辞し、外国のいにしえの格言と最近の商業語をぶっつけてみた。(2026/7/12)

 

1010【駒草について】

駒草について

天道が育て駒草香り立つ   硯水

天道様(太陽を導き太陽を司る神)にもっとも近い場所にあって日の光りを受けて育ち、他の高山植物よりもはるかに美しい花を咲かせる駒草よ。「香り立つ」は香りに加えて豊かな気品を表わす言葉でもある。

駒草をかすかに揺らす山彦よ   硯水

山彦は山の神やその眷属(けんぞく)の性格をもち、山や谷の斜面に向かって音を発したとき、それが反響して遅れて返って来る現象を山彦が応えた声と考える。

山彦は木霊(こだま)ともいい樹木の霊であり日本の妖怪でもある。

羽衣を召して駒草ご覧じろ   硯水

この夏も駒草が薄赤い花を咲かせはじめた。天女たちよ、美しい羽衣をまとって舞い降り、駒草の花をゆっくりと「ご覧じろ」(ご覧くださいの尊敬語)という句意だ。

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駒草はエーデルワイスの仲間で歳時記では三夏(初夏・仲夏・晩夏)の季語。高山の厳しい環境のなかで咲く優雅で可憐な美しさから「高嶺の花」のイメージと結びつく。

多くの植物好きに強い印象を与え、日本アルプスの「女王」と賞翫される。

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デイケア「かりんの里」の「脳トレ」のとき駒草のことが話題に挙がった。筆者は長年俳句を作っているが、駒草の俳句は詠んだ記憶がなく、むろん高山に自生している光景を目撃したこともない。

帰宅後インターネットで駒草の画像を見ながら、駒草を数句詠み、推敲して三句にしぼったのが上記の作品だ。

新聞の俳句欄に投句したり、俳誌に寄稿したいするつもりは全くなく、自分の詠みたい景色や状況を表現した。自句の解説もした。

だれに何んと思われようと構わない、わたしはこれでよいのだという、不思議な充実感をはじめて味わった。(2026/6/29)

 

1009【八ケ岳めざす・俳句】

6月27日付朝日新聞長野版の「信州俳壇」に筆者の俳句が佳作として掲載された。その作品を転載し併せて自句自解を書いてみる。

  八ケ岳めざす道あり蟻の道  義人

蟻は夏に目にふれる機会が多いことから三夏(初夏・仲夏・晩夏)の季語で、傍題には蟻の道、蟻塚がある。

八ケ岳をめざす道があり、その道に向かって蟻の道もあって多くの蟻たちが群がる情景がうかぶ。

「八ケ岳」と「蟻」という二物には結び付けようもない差異感・距離感があって、二物突き合わせに戸惑う。「めざす道」はその方向、「蟻の道」もその方向という意味に解釈してよいだろう。

「その方向」ではあるが、目的地へ到達するためには「道」を突き進むしかない。

「道」の二語をトリックとして、あたかも蟻たちが八ケ岳に登頂するかのような情景を意識させるイメージさせる。

途方もなく大きな誇張であり、読み手への騙しのテクニック、表現手法の文学的な謀(はかりごと)である。

久保田万太郎俳句「枯野はも縁の下までつゞきおり」の応援もあり、長年にわたって考えつづけた「八ケ岳&蟻」俳句の一つの形がみえたのだった。(2026/6/27)

1008【佐野典比古「硯水二十句」講評1】

佐野典比古「硯水二十句」講評(其1)

 本日から、矢崎硯水翁の連作二十句「リバーサイドクリニック」を、五句ずつ鑑賞してみたいと思います。

まずタイトルの「リバーサイドクリニック」ですが、直訳すれば「川辺の診療所」。実際には翁が現在通われているリハビリ施設を指しています。しかし、この題名には単なる病院名以上の響きがあります。

 川の流れのように過ぎゆく時間。その岸辺で、生と死のあわいを見つめながら言葉を紡ぐ場所。そんな象徴的な意味合いも感じさせます。

★リハビリの背骨こきこき雷鳴す

 「こきこき」という擬音語から、秋元不死男の名句「鳥わたるこきこきこきと罐切れば」を連想しました。

 リハビリで鳴る骨の音と、座五の「雷鳴す」が呼応し、身体に走る衝撃や痛みが実感として伝わってきます。病苦を詠みながらも、どこか俳諧味のある一句です。

★心音とギターの音の可も不可も

 病院では心音を聞き、自宅ではギターの音を聞く。

どちらも生きている証ではありますが、上手いとも下手とも言えない。「可も不可もなく」という措辞に、翁らしい飄々としたユーモアが感じられます。

 生死の境を経験した人の言葉だからこそ、この肩の力の抜けた達観が味わい深いのです。

★地球ごとふらつきながら飯を喰ふ

 脳梗塞後の目眩や平衡感覚の乱れが、そのまま一句になっています。

しかし面白いのは、「自分がふらつく」ではなく、地球ごとふらつくとしていることです。自己と世界が反転したような感覚があり、まるで地球そのものが揺れているかのような壮大さを感じさせます。

★激痛とめっちゃ痒いの黄金比

 「黄金比」という、本来は美の象徴である言葉を、激痛と痒みの関係に持ち込んだところが面白いと思います。しかも「めっちゃ痒い」という口語が効いています。

痛いのか痒いのか、その絶妙で厄介な割合を、あえて「黄金比」と表現することで、悲惨さがどこか滑稽味を帯びてきます。

 翁独特の俳諧精神が感じられる一句です。

★食っちゃ出し句を考えて眠ります

 人間は食べれば出す。それと同じように、俳人は言葉を生み出す。

この句には、自嘲と諦観、そして創作者としての本音が滲んでいます。

 病床にあっても句を考えることが日常となっている翁にとって、作句は呼吸にも近い営みなのでしょう。

 食べて、出して、句を作り、そして眠る。その循環そのものが、生きるということなのだと思います。

★幽霊に背中を掻いてもらふ真夜

 思わず微苦笑してしまいました。痒みというものは、人に掻いてもらうと実に気持ちがよい。しかし真夜中、誰もいない。そこで登場するのが「幽霊」です。

 病中の孤独感と、どこかユーモラスな想像力が同居していて、怖さよりも親しみが先に立ちます。まるで幽霊が看護師代わりをしているような一句です。

★体中舐めるアインシュタインの舌

 これは読んで驚きました。有名なあの舌を出した写真が、まず脳裏に浮かびます。

しかも、その舌が硯水翁の全身を舐め回しているという発想。

 発熱や痒み、神経の違和感など、病中の異様な感覚を、アインシュタインという意外な存在によって可視化しています。

 病苦の一句でありながら、どこか漫画的なユーモアさえ感じさせるところが面白いと思いました。

★QRコードつながる脳の紅葉狩

 この句には強く惹かれました。最近、典比古は「記憶は模様ではないか」と考えています。その意味で、この「QRコード」は現代的な記憶の入口のようにも見えます。

一つのコードを読み取ると、脳内に保存されていた映像や記憶が一気に開示される。そして現れたのは「紅葉狩」。

病室にいながら、脳内では鮮やかな秋の風景が展開しているのでしょう。現実と記憶が交錯する、不思議な一句です。

★痛痒い声紛らわし オノマトペ

 「痛い」のか「痒い」のか。その境界が曖昧になるほどの不快感が伝わってきます。

「あいたたた」「かゆいかゆい」そうした声そのものが、まるでオノマトペのように身体から湧き上がってくる。ここでは病苦が言語そのものへと変換されています。

翁が長年、詩や俳句に親しんできた人だからこそ生まれた発想かもしれません。一字空けも効いています。

★飲んじゃ出す尿のせせらぎ涼しけれ

 病院生活では、「出る」ということ自体が喜びになります。食べること、飲むこと、排泄すること。健康なときには意識しない営みが、病を得ることでかけがえのないものとして感じられる。「せせらぎ」という表現に、どこか爽快感すら漂います。読んでいて、生きることは流れることなのだと改めて思わされました。

 なんだか石田波郷の「秋の暮溲罎泉のこゑをなす」を連想してしまいました。身体の現実を詩へと昇華するという点で、どこか通じるものがあります。

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(2026/6/22)以上は佐野典比古氏ブログ「俳句俳諧」より転載

1007【佐野典比古「硯水二十句」講評2】

佐野典比古「硯水二十句」講評(其2)

★サイドテーブルの財布 窓の四十雀

 思わず笑ってしまいました。窓辺にやって来た「四十雀(しじゅうから)」ですが、その音から「始終空(しじゅうから)」を連想してしまいます。

 病院のサイドテーブルに置かれた財布の中身は心もとない。しかし窓の外では四十雀が元気に飛び回っている。

 駄洒落といえば駄洒落ですが、このような言葉遊びこそ俳諧の原点でもあります。病中にあってなお遊び心を失わない翁らしい一句です。

★虫食いの「し」の漢字は 詩か死か

 一字空が効いています。虫食いの跡が偶然「し」の字に見えたのでしょう。その「し」を見たとき、まず浮かぶのが「詩」。しかし同時に「死」も浮かぶ。

 詩人にとって、「詩」と「死」はどこか隣り合わせの存在なのかもしれません。重い題材でありながら、どこか連想ゲームのような軽みも感じさせる一句です。

★血圧の気圧をかぶるオホーツク海

 この句は様々な読みが可能でしょう。血圧の上下に苦しむ身体感覚。そこへ重くのしかかる「気圧」。さらに座五の「オホーツク海」が加わることで、一気に視界が北方へ広がります。

 低気圧が押し寄せる海原とも読めますし、北方の歴史や国際情勢を重ねることもできるでしょう。読む人によって景色が変わる、不思議な広がりを持った一句です。

★過呼吸の颶風の通るのんどかな

 過呼吸を経験した人なら、その息苦しさはよく分かると思います。典比古は小学三年まで喘息に苦しみ抜きました。

 その自分の呼吸音が巨大な風となって喉を吹き抜ける。まるで颶風が身体の内部を通過しているかのようです。しかし結びは「のんどかな」。

 この落差が面白い。苦しさのただ中にありながら、それを少し離れた場所から眺めているような俳諧味があります。

★大砂漠熱四十度 おおアミーゴ

 熱四十度。病人にとってはまさに灼熱地獄です。その感覚を「大砂漠」と表現したところに実感があります。そして結びのスペイン語の「おおアミーゴ」。友よ、とも読めるし、思わず神に呼びかけた声にも聞こえます。

 極限の熱と苦しみの中で、それでもどこか陽気さを失わない。

 この句にもまた、硯水翁独特のユーモアが漂っています。

★ごきぶりホイホイ跳べば目が眩む

 「ごきぶり」が好きだという人に、まだ出会ったことがありません。ましてや、そのごきぶりが跳ねるとなれば、悲鳴を上げる人も少なくないでしょう。掲句では「ごきぶりホイホイ」と「目が眩む」が直結し、その瞬間の驚愕が誇張されて描かれています。

 深刻な病苦を詠んできた連作の中で、こうした滑稽味が挟まれるところに、翁らしい俳諧精神を感じます。

★逝くときはピカソの馬に跨って

 この句を読んで、まずピカソの線描画を思い浮かべました。簡潔でありながら生命感に満ちたあの馬です。死を語りながらも悲壮感はなく、むしろ軽やかです。

 「逝くときは」と言いながら、その姿はどこか風のようです。

 まるで死さえも芸術の一場面として受け入れているかのような、自由な一句だと思いました。

★わが屍ふんころがしに転がされ

 この句には思わず唸りました。死後の自分を、ふんころがしに転がされる糞玉のように見ている。普通なら恐怖や悲哀になる場面ですが、翁はそれをどこか飄々と眺めています。

 シュールレアリスムの絵画を見るような不思議な光景でありながら、そこには「死もまた自然の循環の一部」という感覚が漂っています。

★脈拍百二十二 波打つ我が卯波

 卯波は初夏の季語。卯月の頃に立つ波を指します。脈拍百二十二という具体的な数字がまず現れ、その激しい鼓動が卯波へと転化されてゆきます。

 身体の異常な高ぶりと、自然の波のうねりとが重なり合い、病中の身体感覚が季語によって美しく昇華されています。

★痛痒とめまいのめぐるブーメラン

 痛いと思えば痒い。痒いと思えば目眩が来る。そしてまた痛みへ戻る。

病中の不快感は、まさにブーメランのように何度も戻ってきます。

 しかし、この句は単なる愚痴ではありません。「ブーメラン」という比喩によって、苦しみそのものを俯瞰して見ているのです。

 ここにも翁独特の客観視する眼差しがあります。

・・・・・・・・・・・・・・・・・・・・・・・・・・・・・・・(2026/6/22)以上は佐野典比古氏ブログ「俳句俳諧」より転載

1006【丹精の松・短歌】

6月13日付の朝日新聞長野版の文芸欄「信州歌壇」(草田照子選)に筆者の短歌が佳作として掲載された。
その作品を転載し、併せて「自歌自解」を書いてみたい。

   丹精の松の盆栽持ち込んで

     剪定をするショートステイに  義人

筆者は川端のショートステイに二泊三日入所した。この短歌は自らの経験を詠んだものではなく、施設の窓際の屋外に置かれた三鉢の盆栽からイメージした作品である。

ノートパソコン大の盆鉢のエゾ松の盆栽。それより小ぶりな赤実千両の花木、さらに色違いの苔類の小鉢。

いずれも曲を凝らした草木姿であり風趣に満ちた佇まいである。

筆者は四十歳ころ盆栽を愛好し50鉢ほど育てていた。盆栽は小さな空間に大自然を置き換える。大自然を30センチ50センチに凝縮する擬える。そのころは考えもしなかったが「盆栽は俳句」だったのだ。

ショートステイは短期間だったので盆栽の持ち主にお目にかかることはなく、従って選定を確認したわけではない。

盆栽たちは夜露に濡れ小枝の雫がきらきらと光っていた。ひょっとして、ひょっとして剪定をしたのは筆者だったかもしれない。(2026/6/15)

1005【リバーサイドクリニック】

リバーサイドクリニック  矢崎硯水

リハビリの背骨こきこき雷鳴す

心音とギターの音の可も不可も

地球ごとふらつきながら飯を喰ふ

激痛とめっちゃ痒いの黄金比

食っちゃ出し句を考えて眠ります

幽霊に背中を掻いてもらふ真夜

体中舐めるアインシュタインの舌

QRコードつながる脳の紅葉狩

痛痒い声紛らわし オノマトペ

飲んじゃ出す尿のせせらぎ涼しけれ

サイドテーブルの財布 窓の四十雀

虫食いの「し」の漢字は 詩か死か

血圧の気圧をかぶるオホーツク海

過呼吸の颶風の通るのんどかな

大砂漠熱四十度 おおアミーゴ

ごきぶりホイホイ跳べば目が眩む

逝くときはピカソの馬に跨って

わが屍ふんころがしに転がされ

脈拍百二十二 波打つ我が卯波

痛痒とめまいのめぐるブーメラン

■病体あれこれ■

2025年5月26日から12月11日まで

の二百日間、筆者は病魔に冒され入院生活を

余儀なくされた。この年の筆者に四季はなく、

夏と秋の欠落した「二季」だけを過ごす羽目

に陥ったのだった。

自宅で転倒し救急車で諏訪湖畔の総合病院

へ運ばれた。朦朧とした意識で聞いた話では

脳梗塞、二個の小脳のバランスの崩れ、不整

脈や過呼吸もあるという診断だった。聞き違

いや勘違いがある筆者の頭脳ゆえ、正確な症

状や診断名ではないが・・・

六月に別のリハビリ病院に転院、そして退

院。両肩や手指の運動能力は以前の三十%し

かないので回復と現状維持をめざし、目眩と

息苦しさに耐えながらリハビリに励む今日こ

の頃である。

四十度を超す高熱や意識の乱れ目の眩みな

ど三回死線をさまよった。過去に見聞きした

西部劇、落語、演歌が頭に浮かび、季語や言

葉が口をつくとA4用紙に書きなぐって詩歌

とした。破調や新旧仮名遣い無季も現在の筆

者の心である。

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この作品は俳誌「詩あきんど」に寄稿すべく3月12日主宰のメールに添付して送信した。「詩あきんど」59号が届いたが掲載されておらず自動的に退会扱いになったものと思われる。改めて昨日メールにて退会届を送った。

今わの際、わたしは何を如何に表現したいのだろうか?そんなリサーチの苦吟駄作の20句である。結果的に燃え尽き症候群ゆえの退会になってしまった。有難うございました。(2026/5/30)

1004【ボンネットバス・俳句】

5月23日付朝日新聞長野版の「信州俳壇」に筆者の俳句が佳作として選ばれた。その俳句を転載し併せて自句自解を書いてみる。

  ボンネットバスに乗りたや春の旅  義人

「ボンネットバス(和製英語:Bonnet Bus)は、エンジンを搭載したボンネットが運転席前方下に突き出ている構造のバス車両。

日本では昭和期に広く使われ、平成以降はレトロを感じられる観光用として運行・保存されている。アメリカ合衆国ではスクールバスなどに利用されている」とウィキペディアに載っている。

筆者は少年期から乗り物に興味があり、風を切って走るオートバイに憧れた。善良なのにちょい悪を装い、ハーレーダビッドソンに跨ってエキゾーストの排気音を響かせる。

体幹機能障害の筆者には土台無理な話だったが、サイドーカーに格下げしても危険でありこれも無理なことだった。雑誌「モーターマガジン」を毎号購読して夢をつないでいた。

三輪車、四輪車となれば希望が叶いそうだが、ここでも長尺物を運搬するトレーラートラックや観光バスに憧れた。

しかし実現したのは富士工業のミニ三輪車「フジキャビン」、2ストロークエンジンでグラスファイバーのボデイ。リバースが不可能ですぐに製造中止になってしまった。

この車は100台と売れなかっただろう。運転してしると他車がついてくる。白バイまで手を振ったり誘導してくれた。富士工業は当時長兄が働いていた会社で4万円くらいだったか?

その後は富士重工の四輪名車スバル360。日野自動車のデザインが伯爵夫人といわれるコンテッサ900。日産自動車のスカイライン2000。

ケンとメリーのコマーシャルで有名なスカイラインは、不確かだが4台乗り継いだと記憶している。

話が逸れてしまった。掲句は何とも気の抜けたような句だが、春宵のいっときの希望ではある。(2026/5/23)

1003【蛙鳴く声・短歌】

5月9日付の朝日新聞長野版の文芸欄「信州歌壇」(草田照子選)に筆者の短歌が佳作として掲載された。
その作品を転載し、併せて「自歌自解」を書いてみたい。
  蛙鳴く声に誘はれ眠気さし
    アラビアンナイト読み止しにする  義人
「アラビアンナイト」は「千夜一夜物語」と訳され、わが青年期にダイジェスト版か一部分を読んだ記憶がある。
「読み止し」という言葉については以前から知っていた。ネット検索すると「しおりを挟んだ状態や机に積んである途中までの本を指します。これは読書の過程や状態を表す言葉であり、特に「読破」や「完読」「読了」などの用語と関連しています」とある。
「読み止し」という言葉は口語調で優しく、意味も温かく柔らかで示唆に富んでいる。多くの教訓や含意やヒントを含んでいると思われてならない。
「人生は書物である」というメタファー(比喩)。人間の生き方や考え方について、「読み止し」の語意や語音を当てはめてみたい。
日々の暮らし、創作するわが詩歌の在り方など・・・小さい不満はあるものの、間違ってはいないから、このままこの状態で生きていてよいだろう。
「読み止し」という言葉を用いると、筆者は反射的にメタファーの表わす世界を思い描くのだ。生き方や考え方について取り敢えず栞を挟んでおこう。これでよいのだと・・・(2026/5/10)

1002【自分への・短歌】

4月25日付の朝日新聞長野版の文芸欄「信州歌壇」(草田照子選)に筆者の短歌が二席入選として掲載された。
その作品と草田氏の講評を転載し、併せて「自歌自解」を書いてみたい。
自分へのご褒美という言葉あり
自分に甘い時代と思う  義人
草田照子「よく聞く上の言葉。その分、普段の暮らしの閉塞感や苦労もあるかもしれないが、作者のような見方も当然、ありだろう」。
「褒美」は、よく頑張ったから褒めてつかわすと、上層部から金品が附与されることをいったが、
「ご褒美」は最近の言葉で、育児や日常茶飯事をこなして大変だったと、自分が自分に与えるものをいう。
ご褒美手帖やご褒美シールも売っていると聞くからおどろく。
現代の閉塞感やストレスは大きく、時代における感覚の「今昔比」はできないが、商業主義に乗っかった「ご褒美バーゲンセール」はひんしゅくものだ。
「蛍雪の功」といって、貧しくて苦しい環境にありながら蛍の光や雪明かりのかすかな灯りを頼りに学問に励み、その努力が結果として実を結ぶという勉学の熟語がある。
不安感や圧迫感を乗り越えてこそ穏やかな未来があり、それこそが自分自身へ与える褒賞ではないだろうか。
余計なお世話かもしれないがそんな考え方の今日この頃である。(2026/5/4)
1001【言葉は衣食住である】

言葉は衣食住である。「衣」でいうなら紋付袴、パジャマ、リバーシブルの三種類。「食」でいうなら握り寿司、茶漬け、三時のおやつの三種類、「住」でいうならパワーマンション、草庵、棟割長屋の三種類の言葉がそれぞれ挙げられる。

人間の衣食住はさまざまで言葉を背負って生き、言葉によって生かされている。自身のボキャブラリーの圏内から立ち上がることしかできないだろう。

わたしはリバーシブルのブルゾンを着て茶漬けをすすり、草庵に閉じこもって一日を終わる。ブルゾン、茶漬け、草庵はそれぞれ物であり言葉である。言葉から言葉が派生する。

一日の生活のなかの三種類の言葉の圏内をさまよい、それぞれの言葉のメタファー(比喩)をさがす。

実生活ではないメタファーの世界に漂うことがわたしの文芸活動である。

広義のメタファーとは隠喩、直喩、提喩、換喩の比喩表現をいうが、そもそもは暗喩を指す用語だ。

『ウィキペディア』には次のように載る。

「メタファーは、言語においては物事のある側面をより具体的なイメージを喚起する言葉で置き換え、簡潔に表現する機能をもつ。わざわざ比喩であることを示す語や形式を用いている直喩よりも洗練されたものと見なされている。

メタファーにもいくつかタイプがあるが、一例を挙げると「人生はドラマだ」のような形式をとるものがある。

メタファーは日常的に頻繁に用いられているもの、話している本人も気づかずに用いているものから、詩作などにおいて創造される新奇なものまで、様々なレベルにわたって存在している」。

メタファー(比喩)とは言葉の置き換えであり詩歌の創造でもあり、言葉とは事物でもあるだろう。

メタファーは、ヴィクトル・シクロフスキーが提唱した、

ロシア・フォルマリズムの芸術説である、日常見慣れた表現形式に或る「よそよそしさ」を与えることによって異様なものに見せ、内容を一層よく感得させようとする「異化効果」に連結する。

異化効果もメタファーの一表現であろうか。

わたしは現代詩も連句も俳句もメタファーの方法を用いてきたが、これからもこの方法を用いて創造してゆくことだろう。(2026/5/4)

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