1010「駒草について」
1009「八ケ岳めざす・俳句」
1008「「硯水20句」講評其1佐野典比古」
1007「「硯水20句」講評其2佐野典比古」
1006「松の盆栽・短歌」
1005「リバーサイドクリニック」
1004「ボンネットバス・俳句」
1003「蛙鳴く声・短歌」
1002「自分への・短歌」
1001「言葉は衣食住である」

 コラム COlumn4

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1010【駒草について】

駒草について

天道が育て駒草香り立つ   硯水

天道様(太陽を導き太陽を司る神)にもっとも近い場所にあって日の光りを受けて育ち、他の高山植物よりもはるかに美しい花を咲かせる駒草よ。「香り立つ」は香りに加えて豊かな気品を表わす言葉でもある。

駒草をかすかに揺らす山彦よ   硯水

山彦は山の神やその眷属(けんぞく)の性格をもち、山や谷の斜面に向かって音を発したとき、それが反響して遅れて返って来る現象を山彦が応えた声と考える。

山彦は木霊(こだま)ともいい樹木の霊であり日本の妖怪でもある。

羽衣を召して駒草ご覧じろ   硯水

この夏も駒草が薄赤い花を咲かせはじめた。天女たちよ、美しい羽衣をまとって舞い降り、駒草の花をゆっくりと「ご覧じろ」(ご覧くださいの尊敬語)という句意だ。

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駒草はエーデルワイスの仲間で歳時記では三夏(初夏・仲夏・晩夏)の季語。高山の厳しい環境のなかで咲く優雅で可憐な美しさから「高嶺の花」のイメージと結びつく。

多くの植物好きに強い印象を与え、日本アルプスの「女王」と賞翫される。

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デイケア「かりんの里」の「脳トレ」のとき駒草のことが話題に挙がった。筆者は長年俳句を作っているが、駒草の俳句は詠んだ記憶がなく、むろん高山に自生している光景を目撃したこともない。

帰宅後インターネットで駒草の画像を見ながら、駒草を数句詠み、推敲して三句にしぼったのが上記の作品だ。

新聞の俳句欄に投句したり、俳誌に寄稿したいするつもりは全くなく、自分の詠みたい景色や状況を表現した。自句の解説もした。

だれに何んと思われようと構わない、わたしはこれでよいのだという、不思議な充実感をはじめて味わった。(2026/6/29)

1009【八ケ岳めざす・俳句

6月27日付朝日新聞長野版の「信州俳壇」に筆者の俳句が佳作として掲載された。その作品を転載し併せて自句自解を書いてみる。

  八ケ岳めざす道あり蟻の道  義人

蟻は夏に目にふれる機会が多いことから三夏(初夏・仲夏・晩夏)の季語で、傍題には蟻の道、蟻塚がある。

八ケ岳をめざす道があり、その道に向かって蟻の道もあって多くの蟻たちが群がる情景がうかぶ。

「八ケ岳」と「蟻」という二物には結び付けようもない差異感・距離感があって、二物突き合わせに戸惑う。「めざす道」はその方向、「蟻の道」もその方向という意味に解釈してよいだろう。

「その方向」ではあるが、目的地へ到達するためには「道」を突き進むしかない。

「道」の二語をトリックとして、あたかも蟻たちが八ケ岳に登頂するかのような情景を意識させるイメージさせる。

途方もなく大きな誇張であり、読み手への騙しのテクニック、表現手法の文学的な謀(はかりごと)である。

久保田万太郎俳句「枯野はも縁の下までつゞきおり」の応援もあり、長年にわたって考えつづけた「八ケ岳&蟻」俳句の一つの形がみえたのだった。(2026/6/27)

1008【佐野典比古「硯水二十句」講評1】

佐野典比古「硯水二十句」講評(其1)

 本日から、矢崎硯水翁の連作二十句「リバーサイドクリニック」を、五句ずつ鑑賞してみたいと思います。

まずタイトルの「リバーサイドクリニック」ですが、直訳すれば「川辺の診療所」。実際には翁が現在通われているリハビリ施設を指しています。しかし、この題名には単なる病院名以上の響きがあります。

 川の流れのように過ぎゆく時間。その岸辺で、生と死のあわいを見つめながら言葉を紡ぐ場所。そんな象徴的な意味合いも感じさせます。

★リハビリの背骨こきこき雷鳴す

 「こきこき」という擬音語から、秋元不死男の名句「鳥わたるこきこきこきと罐切れば」を連想しました。

 リハビリで鳴る骨の音と、座五の「雷鳴す」が呼応し、身体に走る衝撃や痛みが実感として伝わってきます。病苦を詠みながらも、どこか俳諧味のある一句です。

★心音とギターの音の可も不可も

 病院では心音を聞き、自宅ではギターの音を聞く。

どちらも生きている証ではありますが、上手いとも下手とも言えない。「可も不可もなく」という措辞に、翁らしい飄々としたユーモアが感じられます。

 生死の境を経験した人の言葉だからこそ、この肩の力の抜けた達観が味わい深いのです。

★地球ごとふらつきながら飯を喰ふ

 脳梗塞後の目眩や平衡感覚の乱れが、そのまま一句になっています。

しかし面白いのは、「自分がふらつく」ではなく、地球ごとふらつくとしていることです。自己と世界が反転したような感覚があり、まるで地球そのものが揺れているかのような壮大さを感じさせます。

★激痛とめっちゃ痒いの黄金比

 「黄金比」という、本来は美の象徴である言葉を、激痛と痒みの関係に持ち込んだところが面白いと思います。しかも「めっちゃ痒い」という口語が効いています。

痛いのか痒いのか、その絶妙で厄介な割合を、あえて「黄金比」と表現することで、悲惨さがどこか滑稽味を帯びてきます。

 翁独特の俳諧精神が感じられる一句です。

★食っちゃ出し句を考えて眠ります

 人間は食べれば出す。それと同じように、俳人は言葉を生み出す。

この句には、自嘲と諦観、そして創作者としての本音が滲んでいます。

 病床にあっても句を考えることが日常となっている翁にとって、作句は呼吸にも近い営みなのでしょう。

 食べて、出して、句を作り、そして眠る。その循環そのものが、生きるということなのだと思います。

★幽霊に背中を掻いてもらふ真夜

 思わず微苦笑してしまいました。痒みというものは、人に掻いてもらうと実に気持ちがよい。しかし真夜中、誰もいない。そこで登場するのが「幽霊」です。

 病中の孤独感と、どこかユーモラスな想像力が同居していて、怖さよりも親しみが先に立ちます。まるで幽霊が看護師代わりをしているような一句です。

★体中舐めるアインシュタインの舌

 これは読んで驚きました。有名なあの舌を出した写真が、まず脳裏に浮かびます。

しかも、その舌が硯水翁の全身を舐め回しているという発想。

 発熱や痒み、神経の違和感など、病中の異様な感覚を、アインシュタインという意外な存在によって可視化しています。

 病苦の一句でありながら、どこか漫画的なユーモアさえ感じさせるところが面白いと思いました。

QRコードつながる脳の紅葉狩

 この句には強く惹かれました。最近、典比古は「記憶は模様ではないか」と考えています。その意味で、この「QRコード」は現代的な記憶の入口のようにも見えます。

一つのコードを読み取ると、脳内に保存されていた映像や記憶が一気に開示される。そして現れたのは「紅葉狩」。

病室にいながら、脳内では鮮やかな秋の風景が展開しているのでしょう。現実と記憶が交錯する、不思議な一句です。

★痛痒い声紛らわし オノマトペ

 「痛い」のか「痒い」のか。その境界が曖昧になるほどの不快感が伝わってきます。

「あいたたた」「かゆいかゆい」そうした声そのものが、まるでオノマトペのように身体から湧き上がってくる。ここでは病苦が言語そのものへと変換されています。

翁が長年、詩や俳句に親しんできた人だからこそ生まれた発想かもしれません。一字空けも効いています。

★飲んじゃ出す尿のせせらぎ涼しけれ

 病院生活では、「出る」ということ自体が喜びになります。食べること、飲むこと、排泄すること。健康なときには意識しない営みが、病を得ることでかけがえのないものとして感じられる。「せせらぎ」という表現に、どこか爽快感すら漂います。読んでいて、生きることは流れることなのだと改めて思わされました。

 なんだか石田波郷の「秋の暮溲罎泉のこゑをなす」を連想してしまいました。身体の現実を詩へと昇華するという点で、どこか通じるものがあります。

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(2026/6/22)以上は佐野典比古氏ブログ「俳句俳諧」より転載

1007【佐野典比古「硯水二十句」講評2】

佐野典比古「硯水二十句」講評(其2)

★サイドテーブルの財布 窓の四十雀

 思わず笑ってしまいました。窓辺にやって来た「四十雀(しじゅうから)」ですが、その音から「始終空(しじゅうから)」を連想してしまいます。

 病院のサイドテーブルに置かれた財布の中身は心もとない。しかし窓の外では四十雀が元気に飛び回っている。

 駄洒落といえば駄洒落ですが、このような言葉遊びこそ俳諧の原点でもあります。病中にあってなお遊び心を失わない翁らしい一句です。

★虫食いの「し」の漢字は 詩か死か

 一字空が効いています。虫食いの跡が偶然「し」の字に見えたのでしょう。その「し」を見たとき、まず浮かぶのが「詩」。しかし同時に「死」も浮かぶ。

 詩人にとって、「詩」と「死」はどこか隣り合わせの存在なのかもしれません。重い題材でありながら、どこか連想ゲームのような軽みも感じさせる一句です。

★血圧の気圧をかぶるオホーツク海

 この句は様々な読みが可能でしょう。血圧の上下に苦しむ身体感覚。そこへ重くのしかかる「気圧」。さらに座五の「オホーツク海」が加わることで、一気に視界が北方へ広がります。

 低気圧が押し寄せる海原とも読めますし、北方の歴史や国際情勢を重ねることもできるでしょう。読む人によって景色が変わる、不思議な広がりを持った一句です。

★過呼吸の颶風の通るのんどかな

 過呼吸を経験した人なら、その息苦しさはよく分かると思います。典比古は小学三年まで喘息に苦しみ抜きました。

 その自分の呼吸音が巨大な風となって喉を吹き抜ける。まるで颶風が身体の内部を通過しているかのようです。しかし結びは「のんどかな」。

 この落差が面白い。苦しさのただ中にありながら、それを少し離れた場所から眺めているような俳諧味があります。

★大砂漠熱四十度 おおアミーゴ

 熱四十度。病人にとってはまさに灼熱地獄です。その感覚を「大砂漠」と表現したところに実感があります。そして結びのスペイン語の「おおアミーゴ」。友よ、とも読めるし、思わず神に呼びかけた声にも聞こえます。

 極限の熱と苦しみの中で、それでもどこか陽気さを失わない。

 この句にもまた、硯水翁独特のユーモアが漂っています。

★ごきぶりホイホイ跳べば目が眩む

 「ごきぶり」が好きだという人に、まだ出会ったことがありません。ましてや、そのごきぶりが跳ねるとなれば、悲鳴を上げる人も少なくないでしょう。掲句では「ごきぶりホイホイ」と「目が眩む」が直結し、その瞬間の驚愕が誇張されて描かれています。

 深刻な病苦を詠んできた連作の中で、こうした滑稽味が挟まれるところに、翁らしい俳諧精神を感じます。

★逝くときはピカソの馬に跨って

 この句を読んで、まずピカソの線描画を思い浮かべました。簡潔でありながら生命感に満ちたあの馬です。死を語りながらも悲壮感はなく、むしろ軽やかです。

 「逝くときは」と言いながら、その姿はどこか風のようです。

 まるで死さえも芸術の一場面として受け入れているかのような、自由な一句だと思いました。

★わが屍ふんころがしに転がされ

 この句には思わず唸りました。死後の自分を、ふんころがしに転がされる糞玉のように見ている。普通なら恐怖や悲哀になる場面ですが、翁はそれをどこか飄々と眺めています。

 シュールレアリスムの絵画を見るような不思議な光景でありながら、そこには「死もまた自然の循環の一部」という感覚が漂っています。

★脈拍百二十二 波打つ我が卯波

 卯波は初夏の季語。卯月の頃に立つ波を指します。脈拍百二十二という具体的な数字がまず現れ、その激しい鼓動が卯波へと転化されてゆきます。

 身体の異常な高ぶりと、自然の波のうねりとが重なり合い、病中の身体感覚が季語によって美しく昇華されています。

★痛痒とめまいのめぐるブーメラン

 痛いと思えば痒い。痒いと思えば目眩が来る。そしてまた痛みへ戻る。

病中の不快感は、まさにブーメランのように何度も戻ってきます。

 しかし、この句は単なる愚痴ではありません。「ブーメラン」という比喩によって、苦しみそのものを俯瞰して見ているのです。

 ここにも翁独特の客観視する眼差しがあります。

・・・・・・・・・・・・・・・・・・・・・・・・・・・・・・・(2026/6/22)以上は佐野典比古氏ブログ「俳句俳諧」より転載

1006【丹精の松・短歌】

6月13日付の朝日新聞長野版の文芸欄「信州歌壇」(草田照子選)に筆者の短歌が佳作として掲載された。
その作品を転載し、併せて「自歌自解」を書いてみたい。

   丹精の松の盆栽持ち込んで

     剪定をするショートステイに  義人

筆者は川端のショートステイに二泊三日入所した。この短歌は自らの経験を詠んだものではなく、施設の窓際の屋外に置かれた三鉢の盆栽からイメージした作品である。

ノートパソコン大の盆鉢のエゾ松の盆栽。それより小ぶりな赤実千両の花木、さらに色違いの苔類の小鉢。

いずれも曲を凝らした草木姿であり風趣に満ちた佇まいである。

筆者は四十歳ころ盆栽を愛好し50鉢ほど育てていた。盆栽は小さな空間に大自然を置き換える。大自然を30センチ50センチに凝縮する擬える。そのころは考えもしなかったが「盆栽は俳句」だったのだ。

ショートステイは短期間だったので盆栽の持ち主にお目にかかることはなく、従って選定を確認したわけではない。

盆栽たちは夜露に濡れ小枝の雫がきらきらと光っていた。ひょっとして、ひょっとして剪定をしたのは筆者だったかもしれない。(2026/6/15)

1005【リバーサイドクリニック

リバーサイドクリニック  矢崎硯水

リハビリの背骨こきこき雷鳴す

心音とギターの音の可も不可も

地球ごとふらつきながら飯を喰ふ

激痛とめっちゃ痒いの黄金比

食っちゃ出し句を考えて眠ります

幽霊に背中を掻いてもらふ真夜

体中舐めるアインシュタインの舌

QRコードつながる脳の紅葉狩

痛痒い声紛らわし オノマトペ

飲んじゃ出す尿のせせらぎ涼しけれ

サイドテーブルの財布 窓の四十雀

虫食いの「し」の漢字は 詩か死か

血圧の気圧をかぶるオホーツク海

過呼吸の颶風の通るのんどかな

大砂漠熱四十度 おおアミーゴ

ごきぶりホイホイ跳べば目が眩む

逝くときはピカソの馬に跨って

わが屍ふんころがしに転がされ

脈拍百二十二 波打つ我が卯波

痛痒とめまいのめぐるブーメラン

病体あれこれ■

2025年5月26日から12月11日まで

の二百日間、筆者は病魔に冒され入院生活を

余儀なくされた。この年の筆者に四季はなく、

夏と秋の欠落した「二季」だけを過ごす羽目

に陥ったのだった。

自宅で転倒し救急車で諏訪湖畔の総合病院

へ運ばれた。朦朧とした意識で聞いた話では

脳梗塞、二個の小脳のバランスの崩れ、不整

脈や過呼吸もあるという診断だった。聞き違

いや勘違いがある筆者の頭脳ゆえ、正確な症

状や診断名ではないが・・・

六月に別のリハビリ病院に転院、そして退

院。両肩や手指の運動能力は以前の三十%し

かないので回復と現状維持をめざし、目眩と

息苦しさに耐えながらリハビリに励む今日こ

の頃である。

四十度を超す高熱や意識の乱れ目の眩みな

ど三回死線をさまよった。過去に見聞きした

西部劇、落語、演歌が頭に浮かび、季語や言

葉が口をつくとA4用紙に書きなぐって詩歌

とした。破調や新旧仮名遣い無季も現在の筆

者の心である。

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この作品は俳誌「詩あきんど」に寄稿すべく312日主宰のメールに添付して送信した。「詩あきんど」59号が届いたが掲載されておらず自動的に退会扱いになったものと思われる。改めて昨日メールにて退会届を送った。

今わの際、わたしは何を如何に表現したいのだろうか?そんなリサーチの苦吟駄作の20句である。結果的に燃え尽き症候群ゆえの退会になってしまった。有難うございました。(2026/5/30)

1004【ボンネットバス・俳句

5月23日付朝日新聞長野版の「信州俳壇」に筆者の俳句が佳作として選ばれた。その俳句を転載し併せて自句自解を書いてみる。

  ボンネットバスに乗りたや春の旅  義人

「ボンネットバス(和製英語:Bonnet Bus)は、エンジンを搭載したボンネットが運転席前方下に突き出ている構造のバス車両。

日本では昭和期に広く使われ、平成以降はレトロを感じられる観光用として運行・保存されている。アメリカ合衆国ではスクールバスなどに利用されている」とウィキペディアに載っている。

筆者は少年期から乗り物に興味があり、風を切って走るオートバイに憧れた。善良なのにちょい悪を装い、ハーレーダビッドソンに跨ってエキゾーストの排気音を響かせる。

体幹機能障害の筆者には土台無理な話だったが、サイドーカーに格下げしても危険でありこれも無理なことだった。雑誌「モーターマガジン」を毎号購読して夢をつないでいた。

三輪車、四輪車となれば希望が叶いそうだが、ここでも長尺物を運搬するトレーラートラックや観光バスに憧れた。

しかし実現したのは富士工業のミニ三輪車「フジキャビン」、2ストロークエンジンでグラスファイバーのボデイ。リバースが不可能ですぐに製造中止になってしまった。

この車は100台と売れなかっただろう。運転してしると他車がついてくる。白バイまで手を振ったり誘導してくれた。富士工業は当時長兄が働いていた会社で4万円くらいだったか?

その後は富士重工の四輪名車スバル360。日野自動車のデザインが伯爵夫人といわれるコンテッサ900。日産自動車のスカイライン2000。

ケンとメリーのコマーシャルで有名なスカイラインは、不確かだが4台乗り継いだと記憶している。

話が逸れてしまった。掲句は何とも気の抜けたような句だが、春宵のいっときの希望ではある。(2026/5/23)

1003【蛙鳴く声・短歌】

5月9日付の朝日新聞長野版の文芸欄「信州歌壇」(草田照子選)に筆者の短歌が佳作として掲載された。
その作品を転載し、併せて「自歌自解」を書いてみたい。
  蛙鳴く声に誘はれ眠気さし
    アラビアンナイト読み止しにする  義人
「アラビアンナイト」は「千夜一夜物語」と訳され、わが青年期にダイジェスト版か一部分を読んだ記憶がある。
「読み止し」という言葉については以前から知っていた。ネット検索すると「しおりを挟んだ状態や机に積んである途中までの本を指します。これは読書の過程や状態を表す言葉であり、特に「読破」や「完読」「読了」などの用語と関連しています」とある。
「読み止し」という言葉は口語調で優しく、意味も温かく柔らかで示唆に富んでいる。多くの教訓や含意やヒントを含んでいると思われてならない。
「人生は書物である」というメタファー(比喩)。人間の生き方や考え方について、「読み止し」の語意や語音を当てはめてみたい。
日々の暮らし、創作するわが詩歌の在り方など・・・小さい不満はあるものの、間違ってはいないから、このままこの状態で生きていてよいだろう。
「読み止し」という言葉を用いると、筆者は反射的にメタファーの表わす世界を思い描くのだ。生き方や考え方について取り敢えず栞を挟んでおこう。これでよいのだと・・・(2026/5/10)

1002【自分への・短歌】

4月25日付の朝日新聞長野版の文芸欄「信州歌壇」(草田照子選)に筆者の短歌が二席入選として掲載された。
その作品と草田氏の講評を転載し、併せて「自歌自解」を書いてみたい。
自分へのご褒美という言葉あり
自分に甘い時代と思う  義人
草田照子「よく聞く上の言葉。その分、普段の暮らしの閉塞感や苦労もあるかもしれないが、作者のような見方も当然、ありだろう」。
「褒美」は、よく頑張ったから褒めてつかわすと、上層部から金品が附与されることをいったが、
「ご褒美」は最近の言葉で、育児や日常茶飯事をこなして大変だったと、自分が自分に与えるものをいう。
ご褒美手帖やご褒美シールも売っていると聞くからおどろく。
現代の閉塞感やストレスは大きく、時代における感覚の「今昔比」はできないが、商業主義に乗っかった「ご褒美バーゲンセール」はひんしゅくものだ。
「蛍雪の功」といって、貧しくて苦しい環境にありながら蛍の光や雪明かりのかすかな灯りを頼りに学問に励み、その努力が結果として実を結ぶという勉学の熟語がある。
不安感や圧迫感を乗り越えてこそ穏やかな未来があり、それこそが自分自身へ与える褒賞ではないだろうか。
余計なお世話かもしれないがそんな考え方の今日この頃である。(2026/5/4)
1001【言葉は衣食住である】

言葉は衣食住である。「衣」でいうなら紋付袴、パジャマ、リバーシブルの三種類。「食」でいうなら握り寿司、茶漬け、三時のおやつの三種類、「住」でいうならパワーマンション、草庵、棟割長屋の三種類の言葉がそれぞれ挙げられる。

人間の衣食住はさまざまで言葉を背負って生き、言葉によって生かされている。自身のボキャブラリーの圏内から立ち上がることしかできないだろう。

わたしはリバーシブルのブルゾンを着て茶漬けをすすり、草庵に閉じこもって一日を終わる。ブルゾン、茶漬け、草庵はそれぞれ物であり言葉である。言葉から言葉が派生する。

一日の生活のなかの三種類の言葉の圏内をさまよい、それぞれの言葉のメタファー(比喩)をさがす。

実生活ではないメタファーの世界に漂うことがわたしの文芸活動である。

広義のメタファーとは隠喩、直喩、提喩、換喩の比喩表現をいうが、そもそもは暗喩を指す用語だ。

『ウィキペディア』には次のように載る。

「メタファーは、言語においては物事のある側面をより具体的なイメージを喚起する言葉で置き換え、簡潔に表現する機能をもつ。わざわざ比喩であることを示す語や形式を用いている直喩よりも洗練されたものと見なされている。

メタファーにもいくつかタイプがあるが、一例を挙げると「人生ドラマだ」のような形式をとるものがある。

メタファーは日常的に頻繁に用いられているもの、話している本人も気づかずに用いているものから、詩作などにおいて創造される新奇なものまで、様々なレベルにわたって存在している」。

メタファー(比喩)とは言葉の置き換えであり詩歌の創造でもあり、言葉とは事物でもあるだろう。

メタファーは、ヴィクトル・シクロフスキーが提唱した、

ロシア・フォルマリズムの芸術説である、日常見慣れた表現形式に或る「よそよそしさ」を与えることによって異様なものに見せ、内容を一層よく感得させようとする「異化効果」に連結する。

異化効果もメタファーの一表現であろうか。

わたしは現代詩も連句も俳句もメタファーの方法を用いてきたが、これからもこの方法を用いて創造してゆくことだろう。(2026/5/4)

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