965「くだら野・俳句」
964「ロボットに・川柳」
963「回覧板・川柳」
962「AIが・短歌」
961「久しぶり・川柳」
960「昼下がり・短歌」
959「凍蝶を・俳句」
958「種類増え・川柳」
957『近況片片(6)」
956「わが最後の晩餐
955「お刺身・川柳」
954「収集車・短歌」
953「鳥影・俳句」
952「手長神・俳句」
951「AIが・短歌」

970「対岸の・俳句」
969「鳥雲に・俳句」
968「蛙けろけろ・俳句」
967「諏訪湖へと・短歌
966「龍天に・俳句」

970【対岸の・俳句】

4月26日付の朝日新聞長野版の文芸欄「信州俳壇」(仲寒蝉選)に筆者の俳句が佳作として掲載された。
その作品を転載し併せて「自句自解」を書いてみたい。

  対岸のたんぽぽの絮二三片  義人

「たんぽぽ」は「蒲公英」の漢字を表記する仲春植物の季語で、副題に「蒲公英の絮」がある。蒲公英は開花後に

実を結ぶと白い冠毛が生じ、四方八方に飛び散る。白色や黄色の球形の絮はパラシュートのように風に乗って飛ぶ。

上記の俳句は諏訪湖畔で詠んだもので、「対岸」とは入江のような陸地に入り込んだ岸辺、船着き場のことをさす。

風に吹かれて蒲公英の絮が二三片飛んでくる。目視できるくらいだから強風ではなくそよ吹く風である。

蒲公英は、希望・夢・自由・儚さ・軽やかさのイメージがあり、花言葉には、愛の神託・深い神託・幸せ・

真心の愛がみえるが、「蒲公英の綿毛」に限っての花言葉は「別離」という。厳しさ哀れさを禁じ得ない。

筆者は新聞の文芸欄への投句にあたって「葉書5句まで」の規定ならその3倍の15句くらいは習作する。

選者が選ぶはずもないような俳句を作句し、投句せずに「気たる日のため」記録しておく。以下はその習作である。

たんぽぽの絮と地球の風の舞い

花言葉諳んじたんぽぽ綿毛なす

夢中なるかな蒲公英の絮まわり

たんぽぽの絮に乗ってIの神託

蒲公英の絮の侏儒たちの定期便

因みに習作は必ず季語を用いること、できる限り未開の世界を詠むことを旨とする。(2025/04/27)

969【鳥雲に・俳句】

4月12日付の朝日新聞長野版の文芸欄「信州俳壇」(仲寒蝉選)に筆者の俳句が佳作として掲載された。
その作品を転載し併せて「自句自解」を書いてみたい。

  鳥雲に入り戦争の国目指す  義人

夏期における多くの渡り鳥は、シベリアやカムチャッカ半島などで繁殖する。冬のシベリアは氷雪に閉ざされ

食料が得られなくなるので暖かい日本で越冬する。そして春には北の国をめざして帰ってゆく。

「鳥雲に入る」は仲春動物の季語で、副題には「鳥雲に」がある。そのほか「帰る雁」「引鴨」「雁の名残」

「鶴帰る」なども別題として設けられ、鳥類の一大イベントを「季語界」でも大いに取り上げているのだ。

さて「戦争の国」といってイメージされるのは、プーチンのロシア軍事侵攻による「ロシアVSウクライナ」。ロシア側

の死傷者は90万人、戦死者は25万人に上り、ウクライナ側を加えると死者だけで100万人超と報道される。

軍用ヘリコプターや対艦巡航ミサイルの飛び交う戦地の上空・・・そんな戦争真っ只中の地域を目指して

渡り鳥たちは帰ってゆく。身が危険であることさえも知らず、故郷をめざして飛び立ってゆく。

人間界にも自然界にも不条理の極みである戦争という名の殺し合い、それさえも知らない渡り鳥たちの

ふるさたへの帰郷。哀れ鳥たちよ、哀れ人間たちよ。(2025/04/14)

968【蛙けろけろ・俳句】

4月5日付の朝日新聞長野版の文芸欄「信州俳壇」(仲寒蝉選)に筆者の俳句が佳作として掲載された。
その作品を転載し併せて「自句自解」を書いてみたい。

  蛙けろけろ鳴いて星空引き寄せぬ  義人

「蛙」は三春動物の季語で昼蛙・夕蛙・遠蛙の傍題が設けられ、別題では「初蛙」もある。蛙の鳴き声

としては「ころころ」「けろけろ」「げっろげっろ」「グッピグピ」などのオノマトペがよく知られる。

日本各地における聞き取り方もさることながら、聞き取って人間の声で発声した場合には地方の訛りとなり

アクセントとなる。したがって鳴き声の変種、そのオノマトペは

全国津々浦々多種多様となろう。

蛙が鳴いて蛙の声によって、天空の星座が引き寄せられる。そんな現象は起きるはずもないが、

表現上では蛙の鳴き声によって乾坤が繫がっているように思わせる。否、なん光年であろうと繋がっている。

俳句は「五・七・五」の十七音であり、五七五それぞれの合間に景色や思索が沸き上がるもの。さらに切れ字

があることによって転換やダブルイメージが可能となり、詩の沃野が拓けるというフォルムを持つ。

世界でもっとも短い詩といわれる俳句・・・俳句の作り手も読み手も、俳句特有のフォルムの特異性と有効性を

知らなくては意識しなくては「俳句詩」に辿り着けないだろう。(2025/04/08)

967【諏訪湖へと・短歌】

3月22日付の朝日新聞長野版の文芸欄「信州歌壇」(草田照子選)に筆者の短歌が佳作として掲載された。
その作品を転載し、併せて「自歌自解」を書いてみたい。

  諏訪湖へとつづく小流れきらきらと鱗が光る産卵の鮒  義人

諏訪湖へつながる河川は、大は川幅10メートルくらいから小は1メートルまで、支流をふくめてあまたある。

諏訪湖の主だった魚類は鯉・鮒・公魚で、以前は鰻・鮠(はや)・貝類も多かったが現在はほとんど棲息していないだろう。

春たけなわ、産卵のため鮒が群れをなして河川を遡る。これを「乗込鮒(のっこみぶな)」といって晩春動物の季語である。

以前に住んでいた屋敷の裏には小川が流れ、銀鮒(ぎんぶな)が重なり合うように上流へと遡る光景が見られたものだ。

上記の短歌は乗込鮒という言葉はないがその光景を詠んだもので、小川ではなく「小流れ」の措辞が粋&肝である。

最近は新聞や雑誌の歌壇の三十一文字の語調が乱れているが、掲歌は舌頭千転して詠んでみた。(2025/03/23)

966【龍天に・俳句】

3月22日付の朝日新聞長野版の文芸欄「信州俳壇」(仲寒蝉選)に筆者の俳句が佳作として掲載された。
その作品を転載し併せて「自句自解」を書いてみたい。

   龍天に登る北斎筆の冴え  義人

「龍天に登る」は仲春時候の季語。 龍は「春分にして天に登り、秋分にして淵に潜む」は、中国の字解

「説文解字」に載る。従って「龍天に登る」は春分のころの季語であり、「龍水に潜む」は秋分のころの季語だ。

龍といえば葛飾北斎。「富士越龍図」や「天井絵龍図」は名画として夙に知られ、タペストリーやのれん

なども売られている。筆者もそのかみ、信州小布施の『北斎館』で、画狂人卍の龍の絵図を鑑賞したのだった。

折しも春の彼岸。諏訪は昨日までの氷点下が今日は晴れて暖かい。暑さ寒さも彼岸まで!(2025/03/23)

965【くだら野・俳句】

3月15日付の朝日新聞長野版の文芸欄「信州俳壇」(仲寒蝉選)に筆者の俳句が入選二席として掲載された。
その作品と講評を転載し、併せて「自句自解」を書いてみたい。

   くだら野の切り株はわが指定席  義人

仲寒蝉氏「くだら野は朽野と書き草木が枯れて朽ち果てた大地、枯野のこと。そこに残る切り株を自分の

指定席と呼ぶ作者。席に座って何をするのだろうか」。

寒い季節ではあるが散策がてら逍遥をこころみ、くだら野まで足を伸ばす。伐採跡の切り株がみえる。

辺りには人っ子一人いない。折から雲の切れ目より陽射しが漏れ、切り株に腰を下ろす。わが指定席!

曰くありげな一株だけ残る切り株。枯野の果てはどこに繋がるのか。陽射しはやがて傾いてゆくだろう。

蕭条たるくだら野の切り株に腰を下ろしてすることは・・・考えることは・・・それは、おのずから判る?

俳句はある意味で判じ物だ。謎かけだ。俳句作者はマジシャンでなくてはならない。(2025/03/18)

964【ロボットに・川柳】

3月15日付の朝日新聞長野版の文芸欄「信州柳壇」(佐藤崇子選)に筆者の川柳が佳作として掲載された。

その作品をここに転載し、併せて「自句自解」を書いてみたい。

   ロボットに案内される心療科  義人

「心療科」は正しくは心療内科のことで、緊張やストレスなど心理的要因で症状があらわれる心身症を治療する科をいう。

カウンセリングをして心理面の治療などケアも合わせて行われる例が多い。

病院内の案内を人型ロボットが行っている画像を見たことがあり、実際に目視した経験は筆者にはない。

また心療内科に通院した体験もないが、こちらは受診してみたいと思ったことは度々あった。

そんな状態での掲句だが、この川柳を読むと自分自身の体験を描写したように取れる。一般読者はそう取るだろう。

しかし短詩形文芸では「ロボットに案内される心療科」の病院の描写だという考え方がある。状況が主人公だ。

「案内される」という措辞は「私が」ではなく「多くの患者たち」の「状況」なのである。(2025/03/18)

963【回覧板・川柳】

3月8日付の朝日新聞長野版の文芸欄「信州柳壇」(佐藤崇子選)に筆者の川柳が佳作として掲載された。

その作品をここに転載し、併せて「自句自解」を書いてみたい。

  回覧板うわさ話が付いてくる  義人

「回覧板」は回覧する文書などに付ける板・厚紙をいい、主として地域の連絡などのプリントが挟まれ回される。

町内の慶弔や駐在所からの犯罪防止、交通安全など周知のお知らせが載っている。

回覧板を回しながら、近隣の誰彼の「うわさ話」に花を咲かせる。その多くは悪意や妬み嫉みが含まれる。

回覧板が回ると回覧板とともに、「うわさ話」も尾ひれをつけて付いてくるという句意である。

川柳の生命線の一つは「穿ち」といわれる。「穿ち」を『広辞苑』第七版に当たってみると、

「普通には知られていな裏の事情をあばくこと。人情の機微など微妙な点を巧みに言い表すこと」。

「新奇で、凝ったことをすること」などと載っている。

穿ちの語意の説明をすると上記の川柳の句意に当てはまる。最も「新奇で凝ったこと」には当てはまらないが。

新味乏しく類句累々というところだろうか・・・(2025/03/11)

962【AIが・短歌】

2月22日付の朝日新聞長野版の文芸欄「信州歌壇」(草田照子選)に筆者の短歌が入選三席として掲載された。
その作品と講評を転載し、併せて「自歌自解」を書いてみたい。
AIがNHKのニュース読む「ら抜き言葉」もなくて鮮やか 義人
「下句のやや皮肉な感じから、ニュースまで人を排除することに批判的なのだろうと読んだ。」以上は草田照子氏の講評。

NHKの夕刻のニュース番組で、担当の男女のアナウンサーが交互に世界や国内のニュースを読み、

「押さえておきたい報道」として、その他のニュースを人間に代ってAIが読み上げるというシステム。

Iの口調は滑らかで音質も快く発せられ、聞いていて安心感が保たれ、どうかすると人声のアナウンサー

よりも好感を抱かせる。これはあくまでも筆者が実際にAIニュースを聞いての感想であるのだが・・・

上記の短歌の「ら抜き言葉」もなくて鮮やか」は、公共放送として当然ながら「ら抜き言葉」があるはずもないが、

感じたままを率直に下句に措辞したもので、文学的な意図や特段の主張があったわけではない。

しかし草田氏の講評のように、AIがニュースの読み手を排除すると批判的にとることも可能であり、

人間によって開発されたAIが人間を駆逐するという文明論へと展開していくことも正しいだろう。

悪用の危険を孕んではいるが、AIは素晴らしい。素晴らしい「頭脳&能力」だ。(2025/02/24)

961【久しぶり・川柳】

2月22日付の朝日新聞長野版の文芸欄「信州柳壇」(佐藤崇子選)に筆者の川柳が佳作として掲載された。

その作品をここに転載し、併せて「自句自解」を書いてみたい。

  久しぶり洗車をすれば雨が降る  義人

久しぶりの洗車、ひょっとして雨が降るかもという予感がして、そんな危惧通り雨となったという句意。

雨が降れば洗車は徒労と考えるマイナス思考。だが逆に雨を降らせようと洗車しても雨は降らない。

『マーフィーの法則』「ジョーク集」。「トーストはバターを塗った面から落下する」その確率は絨毯の値段に比例する。

「保証期間が切れると冷蔵庫は壊れる」など経験法則や帰納が陥りやすい事例がユーモアと哀愁を漂わせる。

雨に関する柳多留には「本降りになって出ていく雨宿り」があり、間の悪さや人情の機微、穿ちや滑稽を表わす。

川柳は穿ち・滑稽・批判などの文学性ゆえに俳諧につながり通底するだろう。(2025/02/23)

960【昼下がり・短歌】

2月8日付の朝日新聞長野版の文芸欄「信州歌壇」(草田照子選)に筆者の短歌が佳作として掲載された。
その作品を転載し、併せて「自歌自解」を書いてみたい。

  昼下がり雪解け水の音高し光あふるる図書館の窓  義人

昼下がり窓の雪解雫の音を聴き、ピアニシモなど強弱記号を入れて詩歌を暗唱するという短歌を詠みたい。

あるいは雪解雫(ゆきげしずく)の音が、わたしの文芸の思索を深めてくれる。そんな心象的な短歌を詠みたい。

しかし上記の短歌は実写的な生活描写。採って欲しい作品が入選するのではなく取捨選択はあなた任せ。

媒体が媒体としての在り方、選者が何を考えて選考しているか。それを研究するのも応募の楽しみ、学びだ。

入選しては学び、没になっては学び。その繰り返しのなか我が「句歌の道」を探す。それが応募マニアの道である。

道場破りのような気概が求められるだろう。(2025/02/10)

959【凍蝶を・俳句】

2月8日付の朝日新聞長野版の文芸欄「信州俳壇」(仲寒蝉選)に筆者の俳句が佳作として掲載された。
その作品を転載し、併せて「自句自解」を書いてみたい。

  凍蝶を剥がして移す温室へ  義人

「凍蝶」は「冬でも暖かい日には蝶が飛んでいるのを見ることがある。凍蝶はじっとして動かない蝶をいう」と、

『草茎歳時記』に載る。それでも生きていればよいが、凍てついて仮死状態、屍状態もあろう。三冬動物の季語。

上記の俳句は朝まだき、庭石にへばりついて飛び立とうともしない凍蝶をそっと剥がしとり温室の中へ。

河童庵には幸い上諏訪温泉を引湯してあり、温室ならぬ湯殿の壁に止まらせた少年期が思い出された。

筆者にはこんな拙作もある。「おのが翅喪章となして蝶凍てぬ」。生きとし生けるものの定めである。

生死はともかくとして凍蝶にわが身を添えて労わる。(2025/02/10)

958【種類増え・川柳】

2月8日付の朝日新聞長野版の文芸欄「信州柳壇」(佐藤崇子選)に筆者の川柳が佳作として掲載された。

その作品を転載し、併せて「自句自解」を書いてみたい。

  種類増え覚えられない薬の名  義人

筆者は血圧、痛み止め、胃腸、十二指腸潰瘍の12種類の薬を服用。薬品の名称などなかなか覚えられない。

訪問介護の看護師も薬品名は完璧には覚えられず、スマホで確認してから記入すると嘆いていた。

上記の川柳はそのことズバリというか、現実の状態そのままの報告という感じ。嘘偽りはないがこれで良いのか。

「ちゃん付けで呼ぶ効き目よい薬の名」「仁術と言うが薬をどっさりと」「トロ寿司をぱくり頬張り写楽顔」

「自分より猫のご飯を真っ先に」。この4句は掲載句と一緒に投句したもの。穿ちや滑稽やおどけが待たれる。

考え方いろいろの川柳は難しい文芸だ。(2025/02/10)

957【近況片片()

「コラム3」への移行から不都合が勃発。転送のコピペができない。改行しないと横書きが画面に収まらない。

これは自分のPCだけの問題か。皆さんのPCやスマホからは正常にコラムが見られるだろうか。

数日後、コピペは何とか出来るようになったが、意に添わぬ文章になることでストレスが蓄積する。

PCHPの仕組みもエクセルやパソコンの用語も知らず修正も思うにまかせない。仕方ないじゃないか。

一月四日から左肩の関節周辺が痛い。手を水平以上に挙げると激痛が走り、それが指先まで及ぶ。

これまでも両肩に痛みはあったが・・・五十肩ならぬ八十肩。整形外科には行かず2月7日の主治医の往診を待つ。

二十四時間効能のシップ、痛み止めが主治医から処方される。効き目は多少あるが挙手の角度によっては激痛。

合掌して「座り地蔵」の構えであれば痛みはない。そんなポーズをとって、おもむろにパソコンを弄(いじ)る。

激痛も鈍痛も避けようがなければ、老躯で甘んじて受け止めるしかない。生きているから痛いのである。

痛いばかりじゃ能がない。痛み止めの副作用であちこちが赤く腫れて痒い。痒いのも生きている証である。

家人も腰痛&肩痛でときどき唸る。「その痛みを<松竹梅>で言ってみな」と筆者が問う。即答で「松」。

こんな乱暴なセンテンスでUPすることになってしまった。(2025/02/06)

956【わが最後の晩餐・詩あきんど】

   わが最後の晩餐  矢崎硯水

染卵添えて命をあなたへと

来世では花の宴ぞエスカルゴ

わが魂は鮭トバえいとひん毟り

エイプリルフール詩歌の味の素

〆は茶漬 あの世この世も千金夜

幽明を異にする 鮨食いねえ

キャビア抱えて渡らん虹の橋

俳諧の天麩羅揚げよ詩あきんど

   ギヤマンの酒酌み三千世界廻る

   ファーブル迎え昆虫食パーティー

   米寿なり滋味の沁み込む醤油

   閻魔様こおろぎ飯を召し上がれ

   君と僕 どっちを食うか月と鼈

イマジンを聴かせ葡萄酒醸すなり

からすみと風趣合わせるタンブラー

   奥の旅の未練の糸引き納豆

   海鼠腸のここは 極楽一丁目

   雪女噛まんでカマンベール舐め

   言の葉のごまめの歯ぎしり人生

   フォアグラ食って逝き航かん宝船

虚実皮膜と異化と

絵画「最後の晩餐」は大作の名画で、レオ

ナルド・ダ・ヴィンチの代表作として夙に知

られる。新約聖書のなかに記される場面の、

イエス・キリストが磔刑に処される前夜に十

二使徒とともに摂った夕食、さらに夕食の席

で起こったことを描く宗教画である。

「わが最後の晩餐」は、平凡に暮らしてい

れば磔刑に処されることはないにしても、人

間は事故や病気でいつ死ぬかもわからない。

まして八十路ともなれば昼休みの仮眠のつも

りが永眠になり、いつなんどき、ぽっくり逝

って、自分自身の死に目に遭えない羽目に陥

るかも。古典落語「粗忽長屋」の熊五郎では

ないが、死体をみて「抱かれているのは確か

に俺だが、抱いている俺はいってえ誰だろう

?」という事態になりかねない。

刎頸の友や詩歌の仲間、親戚縁者や向こう

三軒両隣を招いて、あるいは独りぼっちの独

酌というのも我が晩餐のカテゴリーに入ろう

か。世界三大珍味、日本五大珍味などの料理

のあれこれ、ほとんど朝晩食べる日常食、酒

のつまみや果物、食材や調味料に誘発される

言葉やイメージのかずかず。それらをランダ

ムに繋ぎ合わせ、虚実綯い交ぜにして春夏秋

冬、俳諧もどきの作品を試みた。

事実と虚構との中間に芸術の真実があると

する近松門左衛門「虚実皮膜」と、日常見慣

れた表現形式に或る「よそよそしさ」を与え

て異様なものに見せるヴィクトル・シクロフ

スキーの「異化」とは一脈相通じるのかもし

れない。

以上「詩あきんど」55号から転載した。(2025/01/29)

955【お刺身・川柳】

1月25日付の朝日新聞長野版の文芸欄「信州柳壇」(佐藤崇子選)に筆者の川柳が佳作として掲載された。

その作品をここに転載し、併せて「自句自解」を書いてみたい。

  お刺身の値下げ時刻を待っている  義人
スーパーの鮮魚売り場などでは、午後4時か5時ころになるとお刺身を値下げする。
パックに盛り付けたものは日持ちがしないので、見切り損でも売り捌こうというもの。
恒例の習わしなので勝手知った顧客は、時計を見ながら値下げの時刻を待っている。これが上記の川柳の句意である。
この川柳の句作過程の楽屋話をすれば・・・
当初は「お刺身が」だった。お刺身を擬人化して「腐って捨てるくらいなら食べてほしい」と、お刺身が考え主張する。
穿ちと滑稽と批判性が川柳の旨だが、お刺身の擬人化は理解されないだろうと「お刺身の」と措辞した。
「が」と「の」の助詞一つで世界がひっくり返る。
筆者は過去にこんな短歌も詠んだ。
クラインの壺の座りの危うさは三十一文字の <て・に・を・は>に似て
二三箇所に投稿して没になったが、自分では気に入っている。(2025/01/26)
954【収集車・短歌】
1月18日付の朝日新聞長野版の文芸欄「信州歌壇」(草田照子選)に筆者の短歌が入選三席として掲載された。
その作品と講評を転載し、併せて「自歌自解」を書いてみたい。
  収集車演歌流して来るけれど持って行かない核廃棄物  義人
「演歌を流してくるゴミ収集車が、雰囲気があって妙におもしろい。核廃棄物はそう簡単ではない。」以上は草田照子氏の講評。
ゴミ収集車は市町村の管轄によるところが多く、流す音楽もオルゴールでアレンジした「赤とんぼ」「草競馬」、民間の収集車の音楽は「お富さん」「お祭りマンボ」「女のみち」などド演歌も。
朝まだき、ゴミ収集車が来ましたよ、ゴミ捨ての方は間に合いますよという告知が目的である。
「核廃棄物」とは、原子力発電所で使い終わった核燃料から出る高レベル放射性廃棄物のこと、核のゴミである。
日本における核ゴミは2020年現在で1万9千トン、世界では36億トンが蓄積。
海中にも宇宙にも捨て処はなく揶揄をこめて「トイレなきマンション」と比喩される。
「演歌」VS「核廃棄物」、VSを短詩形でよく使われる二物衝突と言い換えることができる。
上記の短歌についていうのではないが、褒め言葉として「取り合わせの妙」ともいい、ぴたり嵌った表現を称えるフレーズだ。
核廃棄物を科学の進歩で処理可能となればいいが、蓄積つづけると地球規模の問題であり人類の危機でもある。
こうした時事の主題に対して、「至極もっとも」な題材を合せればシュプレヒコールになってしまう。
「至極もっとも」でない題材を突き合わせることで違和感、脱力感、滑稽感を喚起することができる。
筆者の場合それが「演歌」だった。
演歌を流す収集車の管轄は市町村であり、市町村は国家にほかならないという背景を押さえておきたい。
取り合わせ、滑稽感は俳句ではよく言われることで、俳句の「俳」は、おどけ、たわむれ、ユーモアをいう。
また「俳」の文字を用いる俳優(わざおぎ)は「手振り・足踏みなどの面白おかしい技をして歌い舞い、神人をやわらげ楽しませるとこ」と辞書などに載る。
短歌に関しては、取り合わせ、滑稽などはあまり言われていないようだが、「表現パフォーマンス」の広がりを期待したい。(2025/01/20)
953【鳥影・俳句】
1月18日付の朝日新聞長野版の文芸欄「信州俳壇」(仲寒蝉選)に筆者の俳句が入選三席として掲載された。
その作品と講評を転載し、併せて「自句自解」を書いてみたい。
  鳥影が顔面よぎる日向ぼこ  義人
「日向ぼこをしていると鳥が飛んで行き、その影が作者の顔面を横切ったという。何とも人を食ったようなとぼけた味わいの句である。」以上は仲寒蝉氏の講評。
初めに「影」の文字について触れてみる。『広辞苑』第七版によると・・・
「かげ」には、「影、陰、蔭、翳の四種類の漢字があり、日・月・灯火などの光。光によって、その物のほかにできる、その物の姿。水や鏡の面などにうつる物の形や色。物体が光をさえぎったため、光源と反対側にできる暗い部分。
(比喩的な用法)あるものに離れずつきまとうもの。やせ細ったもの。薄くぼんやり見えるもの。ほのかに現れた好ましくない影響・兆候。物の姿。おもけげ。原物に似せて作ったもの。肖像や模造品。
物の後の、暗いまたは隠れた所。物にさえぎられ、またはおおわれた、背面・後方の場所。他の者をおおうように及ぶ、その恩恵・庇護。人目の届かない、隠れた所。人目に隠れた暗い面。かげり。正式のものに対して、略式に行う方」。
「かげ」という言葉はこのように活用され、単に事物の表裏だけにとどまらず、人間心理の綾までも彷彿させもする。
谷崎潤一郎の随想的評論に『陰翳礼讃』(いんえいらいさん)があり、日本の伝統美が陰翳の美しさから成り立っていることを見詰め確かめ賞賛する。
主として家屋や灯火についての言及だが、西洋には見られない日本的な風雅の精神を基調とする芸術論である。
自句自解として脱線し転覆しそうになってきたが、上記の俳句の句意として「鳥影」は「鳥そのもの」であり、私の顔面にそっと触れて飛んで行った。
「鳥」と「私」という二つの生きとし生ける物の触れ合いを中心に据える。
冬の太陽が恵んでくれた光の「影」という言葉の賜物(たまもの)である。(2025/01/20)
952【手長神・俳句】
12月22日付の朝日新聞全国版【朝日・俳壇・歌壇】の【俳壇】に筆者の俳句が、高山れおな選で入選として掲載された。
その作品をここに転載し、併せて「自句自解」を書いてみたい。
初めに朝日新聞の文芸欄について触れておく。朝日俳壇は四人の選者(高山れおな・大串章・小林貴子・長谷川櫂)による共選で、四氏がそれぞれ10句選んで簡単な評言を付し、毎日曜に発表される。
五大紙の文芸欄のなかではもっともレベルが高いといわれ、一週間に約六千句の投句があると編集部が発表している。
  手長(てなが)(かみ)(まつ)りて諏訪の寒造り  義人
「手長足長」は秋田県、山形県、長野県などに伝わる巨人伝説、昔話であり、平賀源内の戯作『風流志道軒伝』にも登場する。
これとは別に手長足長と称する中国由来の妖怪もあり、夜な夜な里山を跋扈(ばっこ)するという記述も残っている。
諏訪地方に「手長神社」という由緒ある小さな神社があり、手摩乳命(てなづちのみこと)を祭神としている。「手長」と冠しているが巨人伝説や妖怪との関連性は不明であるが・・・
ところで、ギリシア神話の酒の神はバッカスだが、日本酒では大神神社、松尾神社、梅宮神社などが夙に知られる。
水のきれいな諏訪湖周辺は酒処で、わが家のまえの甲州街道沿いには500mに五軒の酒蔵が軒を争い、毎年秋には「あるき呑みあるき」なるキャッチフレーズのイベントで賑わう。
ここに詠まれる「寒造り」は晩冬生活の季語で、『広辞苑』には「酒などを寒中につくること。また、その酒など」と載る。
つまり寒中に醸造する酒に携わる人間や状況と、寒中に醸造した酒本体という、二通りの語意が存在することになる。
俳句は一人称文学といわれ、一人称視点であれば蔵元の主人や杜氏などが手長神社の宮司の祭礼のもと、寒造りを醸造する情景が浮かぶ。
二人称視点の見方では、手長神社の手摩乳命を崇める人物が、好物の寒造りの酒を痛飲する景色も見えてくるだろう。
一人称は「自分または自分を含む仲間を指示する人称。「われ」「われわれ」と辞書にあるが、
俳句における一人称視点はその俳句の作者ではなく、詠み込まれたものが「主人公」(動植物や事物を含む)という考え方がある。
ありもしない出来事や想像で句を詠んでも、「机上作、虚構」と卑下する必要はない。
文学作品は発表された時点で読者のもの、すべて読み手に委ねられるものだ。
話が逸れてしまった。いずれにしても手長神社は諏訪地方の灼(あらたか)な氏神様であり、筆者は幼少時より祭礼を楽しみお参りしたものだ。
ちなみに諏訪地方には「足長神社」もあり、手長足長の神の御座(おわ)す、ありがたき無何有の郷である。(2024/12/24)
951【AIが・短歌】
12月21日付の朝日新聞長野版の文芸欄「信州歌壇」(草田照子選)に筆者の短歌が佳作として掲載された。
その作品を転載し、併せて「自歌自解」を書いてみたい。
  AIが選者の短歌会ありて一首投じて結果待ちをり  義人
上記の短歌の意味は明々白々なので、ここでは最近の文芸におけるAI事情について触れてみたい。もっともAI音痴の筆者ゆえ、ネットサーフィンして情報キャッチできた範囲ではあるが・・・
講談社現代新書の浦川通著、『AIは短歌をどう詠むか』という書物が刊行され、「人間だけにできること、AIにしかできないこと」と紹介されている。
さらにAIが短歌を詠み、人間が詠む短歌と同列に発表したり、一般人から投稿された短歌をAIが選考したりコメントするグループもある。
俳句の分野でも「AI一茶くん」などAIが活動するグループや研究段階の結社などもみられる。
歌人で科学者の永田和宏氏の『八角堂便り』「AIと連歌を巻く」はたいへん興味深い。
AIと長句&短句を付け合い、両吟連句を巻きたいものだ。そんな近未来の文芸世界が見えてくるではないか。
AIといえば最近、目から鱗、驚愕の出来事があった。以下は句友の佐野典比古氏のブログ『俳句俳諧』より転載させていただく。
――――――――――――――――――――――――――――――
さて、ここで翁の作品の一つをChatGPT(ワタクシの愛称は「チャピー君」)に鑑賞させたらどのような文章になるのだろうかと、ふと思い立ちました。読んで吃驚です!!ワタクシ以上に質の高い、また深い鑑賞でした!尚、鑑賞させた句は、
・・・・・・・・・・・・・・・・・・・・・・・・・・・・
振り逃げのわが俳諧の成れの果て 矢崎硯水
チャピー君
「振り逃げのわが俳諧の成れの果て」という句は、俳句や俳諧の世界における「振り逃げ」という表現がユニークで、少しユーモラスでもあり、また自己を見つめる切なさも感じさせます。
ここで「振り逃げ」は、野球用語で打者が振って空振りをし、その球を捕手が捕れなかったために一塁に走り出すことを指しますが、この句では、詠み手が俳諧を進めながら、何かしらの形で「振り逃げ」のように意図しなかった結果や成り行きになってしまったことが示唆されています。
句全体からは、俳諧を作り上げる過程で期待した形にならなかったという一抹の寂しさ、もしくは、思わぬ展開に気づいた自嘲のニュアンスが伝わってきます。
最後の「成れの果て」という表現には、作品や自身の行き着いた先を受け止める達観、もしくはある種の諦観が表れています。それでも、このような「振り逃げ」によってでも自分の作品や歩んできた道に対して愛着を持っている、という詠み手の姿勢を感じる句です。
以上が典比古氏のブログ『俳句俳諧』からの抜粋である。
「振り逃げ」という野球用語、「俳諧」という連句関連語の背景を踏まえながら作者の創造プロセスを探り、表現者としての心象までもしっかり捉らえる。
決して貶さず褒めすぎず過不足ないコメント。やる気を起こさせるチャピー君の講評だった。
上記の短歌の「AIが選者の短歌会ありて」はインターネットに存在するが、「一首投じて結果待ちをり」は実際に短歌を投じてなければフィクションになる。
詩歌における一人称視点は作者ではなく「一首投じた者」が主人公だという考え方である。
小説や散文には「神の視点」があり、天上から俯瞰して情景を見たり、分かるはずのない自分以外の人の内面や登場人物の行く末まで見通すことをいう。
詩歌のジャンルでも「神の視点」という解釈鑑賞が拡がればよいと思う。(2024/12/22)
――――――――――――――――――――――――――――――――――――――――――――――――――――――――――――

コラムcolumn/3