図解3 ローマ軍戦士の服装
このめざましい危機からの脱出、その勝因は一に副帝自身の武力にあったわけだが、それだけに彼の自負心はひどく傷つけられた。軍の面子からしても、忠節心からしても、当然彼を援助すべきはずだった将兵たちが、逆に彼を裏切り、彼を孤立に陥れ、ほとんどその死を待っているかのごとき動きだったからである。ガリア騎兵隊の司令官マルケルスまでが、猜疑深い宮廷からの命をあまりにも杓子定規に受取っていたせいか、ユリアヌスの窮状を知りつつ、ただ呑気に傍観するのみで、麾下の隊がサン(サンス)市救援に赴くのを、むしろ彼の命で抑えていたほどだった。かかる危険な侮辱を、もし副帝たるものが黙過したとなれば、おそらく彼の人物と権威は世をこぞっての軽侮に曝されたことだろうし、またもしかかる犯罪的行為がそのまま無事に通るとなれば、これまでもすでにフラウィウス帝家公子たちに対する過去の処遇により、ほぼ明白に裏づけられていたコンスタンティウス帝に関する世上の疑念は、いっそう確証されることになったかもしれぬ。が、さすがにマルケルスは召喚され、円満にその職を解かれた。そしてかわりにはセウェルスが騎兵隊司令官に任命された。彼は勇気、忠節ともに立証ずみの老練武将だった。深い敬意をもって進言もし、実践においても熱意を示した。そしてそのころユリアヌス自身は庇護者エウセビア皇妃の好意的斡旋もあり、ついにガリア全軍の最高司令官に就任していたが、そうした副帝の命令に彼は心からの信服を捧げた。そこで来るべき次の決戦のため周到をきわめた作戦計画が練られ、副帝自身、残存の老練兵団と、さらに新しく徴募を許された新軍団を率い、大胆にも敵ゲルマン族軍の本拠地深く進出、サヴェルヌ要塞(ローマ名トレス・タベルナエ。西独国境近くアルサス地方の小邑)の再構築を慎重に行った。ここは要衝の地であり、敵の侵冦を阻止することも、またその退路を断つことも、思うままにできたからである。ちょうどそのころ歩兵団司令官バルバティオもまた三万の兵(正確には2万5千か)を率いてミラノを進発、アルプスを越えバーゼル市(ローマ名バシリア)附近でライン河架橋の準備にかかった。こうして腹背からの圧力を加えれば、アレマンニ族としてもやむなくガリアを撤退、故国の防衛に急ぐよりほかあるまい、というのが当然の期待だった。ところが、この会戦への期待は、バルバティオ自身の無能のせいか、嫉妬のせいか、それともまたなにか秘密指令でもあったものか、見事に裹切られたのだ。この際に見せたバルバティオの行動は、まるで副帝の敵というか、あたかも蛮族軍の秘密友軍とでもいったような観すらあった。とにかく敵の略奪隊が陣営の直前を自由に往返するのを漫然と見過していたのだから、明らかにこの怠慢は彼の無能と考えてよかろう。だが、さらにすすんでガリア軍にとり最要必須の戦備である多数の船舶、余剰の糧秣まで焼いてしまったことは、明らかに犯罪的通敵意図の証拠だった。攻撃力もなければ、その意志すらないかに見えるこの敵に対し、ゲルマン族軍は深い軽侮感を抱いた。恥ずべきこのバルバティオの退却は、副帝ユリアヌスを孤立無援の窮境に陥れ、この危険な状況から脱するには、もはや自力を恃むよりほかなかった。留まるも危険、名誉ある退軍もまた不可能という危局に立ち到ったのだ。
「アルゲントラトゥムの戦い」に関する
『ローマ帝国衰亡史』の記述抜粋
画像:ユリアヌス帝の金貨、西暦361年頃。
表面は顎髭の生えたユリアヌス帝で、刻銘はFL(AVIVS) CL(AVDIVS) IVLIANVS PP AVG(PPとはPater Patriae, "father of the nation"(「国家の父」、AVGはAugustusというローマ皇帝の称号)。裏面は、片手に軍旗を持ち、もう一方の手でひとりの捕虜を鎮圧する武装したローマ兵を描く。刻銘はVIRTVS EXERCITVS ROMANORVM, "the bravery/virtue of the Roman army"(ローマ軍の勇敢と美徳)。兵士の下に書かれているSIRMとはこのコインがコンスタンティヌス家の故郷であるSirmiumで鋳造されたことを示す。
なお、ユリアヌス帝はコンスタンティヌス朝の皇帝の一人で、コンスタンティヌス1世(大帝)の甥に当たる。
図解2 プテルージュ
注:4世紀、胴よろい(cuirass)とプテルージュ(ptéruge)の図解
プテルージュはスカート状の短冊(日本の「草摺(くさずり)」か?)
図解1 胴よろい(cuirass)
画像:3世紀末、4人の皇帝と副帝の着用する胴よろいとプテルージュ
テトラルキア(四分割統治)。ヴェニスのサン・マルコ寺院にある斑岩製彫像。ここに示されるのはディオクレティアヌスと彼の三人の同僚。左側に、二人の共同帝国皇帝であるディオクレティアヌスとマクシミアヌス;右側に二人のカエサル(共同副帝)であるガレリウスとコンスタンティウス。注目すべきは羊毛でできた「パノニア(現在のハンガリー西部地区)」帽で、これはダニューブ地方の士官階級の間での普及の影響をうけて、後期軍隊の士官達が(戦時以外に)常に被っていたもの。また、剣の握りは鷲頭の柄頭(つかがしら)である。
P143
副帝の印綬をミラノ市で受けると、ユリアヌスは直ちにガリアヘと派遣された(356年)。従う兵わずかに360、ひどい弱体の一行だった。彼の行動に関しては、コンスタンティウス帝から特命を受けた高官たちがもっぱら指導に当っており、つまりは彼等の監視下に置かれながら、苦痛に充ちた不安の冬をウィエンナ市(現在はフランス、当時のガリア・ナルボネンシスにあったローヌ河沿いの古都市。リヨン市のすぐ南。今日のヴィエンヌ。)で過した。が、そこで彼はオータン市攻略とその救出の報を受けた。崩れ落ちた城壁、意気沮喪した守備隊により辛うじて衛られていたこの古代大都市も、こうして寡兵とはいえ祖国防衛のためふたたび武器を執った老練兵たちの断乎たる決意により、見事救われたのだ(356年6月24日)。さらにオータン市からガリアの中心諸属州を過ぎ進撃をつづける間に、ユリアヌス副帝は改めて決意を固めた。すなわち、彼自身の勇武発揮という最初の好機会を捉えんものと考えたのだ。すなわち、弓射兵および重装騎兵から成る小部隊を率いると、二つの街道のうち危険は多いがより近い道の方を選んだ。そしてすでに戦場を支配していた蛮族軍の攻撃を、ときには回避し、ときには抵抗を試みながら、とにかく無事ランス市(ローマ名レミ)近くのローマ軍陣営まで到着した。かねてローマ軍の集結地として指令されていた基地だったのだ。若い副帝の姿を仰ぎ、沮喪していたローマ軍の士気もにわかに振い立った。そして先にはこれがほとんど致命的ともいうべき敗戦につながるのだが、またしても過大の自信をもってランス市を出発、索敵進撃に出た。敵は同方面の地勢など精通し切っているアレマンニ族のこととて、ひそかに散在していた兵力を糾合・雨の暗夜を利して、あっというまにローマ軍の後衛部隊に急襲の猛攻をかけてきた。混乱は当然、陣容を立て直す暇もなく、たちまち二個軍団が潰滅的打撃を受けた。こうしてユリアヌスは、戦法には慎重と警戒こそが最大教訓なることを、はじめて直接体験で学んだのだった。たしかに次の会戦では彼も勝利を獲、その武名を回復、かつ確立したわけだが、ただ蛮族軍の行動は敏捷をきわめ、つづいての追撃は許さず、ためにこの勝利には流血の慘こそなけれ、同時にまた決定的なそれでもなかった。だが、つづいて彼はライン河岸にまで進出してケルン市の廃墟を視察、つくづく戦争の困難さを知った。そして冬の到来ということもあり、とりあえず兵を収め撤退を行ったが、副帝としては宮廷にも、軍にも、またみずからの勝利に関しても、きわめて不満だった。敵兵力は依然として健在であり。現に彼自身その軍を分散し、ガリアの中心サン市(ローマ名アゲディンクム)に本拠を置くや否や、たちまちゲルマン族大軍の包囲攻撃を受けた。極度の苦境に立ったユリアヌス副帝は、ほとんど万策尽きたかにさえ見えたが、そこは賢明かつ不屈の勇を発揮、地の利の弱点や守備兵の不足を見事カバーし、三十日間にわたる攻囲の後、蛮族軍もついに深い挫折感をもって撤退を行うよりはかなかった。
侵略の不安から解放されたアレマンニ族は、逆に副帝に対する膺懲戦の準備にかかった。彼等とすれば征服という既成事実があり、また条約上の権利からもあくまで自国領と目する国土に対し、いまやこの青年副帝はその領有権を争おうというのだったからだ。彼等は三日三晩をかけその兵力をライン河西岸に送り込んだ。荒武者コノドマリウス王は、先にマグネンティウス僭帝の実弟を破ったこともある重槍を打ち振り打ち振り、蛮族軍の最先頭に立ったが、そこは経験による賜物か、率先垂範が煽り立てる猪突の勇を巧みに抑えて進んだ。従うものは王たち六名、王族公子たち十名、意気軒昂たる貴族たち多数、さらにはゲルマン族にあって最も勇名高い精鋭三万五千。しかもある逃亡ローマ兵から獲た情報によれば、敵副帝はわずか1万3千という寡兵を率い、彼等の本営ストラスブール(ローマ名、アルゲントラートゥム)からわずか21マイルの地点(注 サヴェルヌ要塞)に陣しているというのだから、自軍の兵力を考えても自信はさらに百倍した。だが、ユリアヌス副帝もまた劣勢とはいえ、あくまで敵大軍を相手に一大決戦の覚悟だった。分散状態にあるアレマンニ族軍を各個撃破などという面倒で、しかも不確実な作戦に出るよりは、むしろ一挙に総決戦の機を選んだのだった。右翼には騎兵、左翼には歩兵という二大縦陣を布いたローマ軍は、固く一団となって進んだ。が、やがて敵軍を望見できるようになったとき、日はすでに暮れに近かった。ためにユリアヌスとしてはむしろ決戦は翌朝に延ばし、その間に兵には必要な睡眠と食事をあたえ、疲労し切った戦力の回復を期したかったのだ。だが、結局はいきり立つ兵たちの叫び、さらには幕僚会議の意向もあり、心ならずもこれらに屈した。そして彼等には、もし敗れんか、おそらく彼等の行動は天下に軽挙盲動の汚名を烙印させるに相違ない、それだけにこの際はぜひ勇武を発揮し、逸りすぎた開戦の正しさを立証して見せるよう、特に強く要請した。やがてラッパの音が高々とひびき、鯨波(とき)の声が全戦場にわたりとどろくと、両軍劣らぬ激しい闘志を示して一斉突撃に出た。みずから右翼軍を指揮したユリアヌスは、一にその弓射隊の手練と胸甲騎兵の重装備とに賭けていたのだ。が、その戦列は敵軽騎兵と軽歩兵の混合軍によりたちまち破られ、勇名最も高い胸甲騎兵隊六百がみるみる敗走の屈辱を味わねばならなかった。だが、ただその敗走兵たちも、毅然たる彼の姿を見ると、やっと踏み止まって戦勢を立て直した。すなわち、いまはユリアヌスも自身の安危などかえりみている余裕なく、敗兵たちの前に立ち塞がり、ひたすら名誉と恥辱との感情に訴えて督戦、ふたたび勝ち誇る敵に向って反撃に出た。両軍歩兵の激闘は執拗凄惨をきわめた。体力体格においては蛮族軍がまさり、軍紀と士気ではローマ軍が優秀だった。ただ幸いなことに、ローマ軍麾下にいた蛮族兵たちというのが、これら両者の利点を併せ具えていたおかげで、結局は有能な司令官に率いられた彼等の奮戦がこの日の勝利をもたらしたといえる。有名なこのストラスブール決戦(357年8月)において、ローマ軍の損害は軍団司令官4名、兵243名という莫大な数に達した。が、副帝にとってはもっとも輝しい戦勝、また苦難つづきのガリア各属州にとっても、きわめてうれしい朗報だった。アレマンニ族の損害は、ライン河に溺れ、また敗退の渡河に際し射殺された犠牲を別に、戦場だけでも6千という死者を出した。コノドマリウス自身も包囲を受け、三名の勇敢な僚友とともに捕虜となった。蓋し、彼等は生死ともに族長と運命をともにすべく献身の誓約を行っていたのだ。だが、ユリアヌスは堂々たる軍の威容を示しながら、捕虜コノドマリウスを幕僚会議の席に迎え入れ、内心その屈辱的俘囚を嗤いながらも、そこはさりげなく昨日に変る彼の悲運に対し寛大さに充ちた憐憫の言葉をあたえた。そしてこのアレマンニ族敗王をガリア諸都市での曝しものとするかわりに、この輝かしい戦勝の記念を手厚く正帝の許に送り届けた。こうして彼は名誉ある処遇を受けたが、短気叛骨の蛮族王としては、敗戦、拘禁、流謫とつづいた屈辱には堪ええなかったらしく、まもなく他界した。
上ライン地方からアレマンニ族を駆逐し去ったユリアヌスは、鉾を転じてフランク族討伐に向った。・・・・・
(P148まで)
ポルトナッチョの石棺の近接写真は次。
時期は若干早いが、2世紀当時のローマ軍の合戦の模様を活写する資料二つ。
画像:ポルトナッチョの石棺
ポルトナッチョの石棺はローマのポルトナッチョ地区で発見された2世紀の古代ローマの石棺であり、現在はローマ国立博物館(マッシモ宮)に保管されている。西暦190年と200年の間に作られ、マルクス・アウレリウス戦役に従事した一人のローマ人将官の埋葬に使われた。コロンナ・ディ・マルコ・アウレリオ(円柱)の彫刻と似た影響を示す。
この石棺は25個の後期ローマの戦闘石棺のグループの一つであり、一つの例外を除いてはすべて170-210年の間にローマ、あるいはいくつかの例ではアテネ、で作られたようだ。これらは小アジアのペルガモン出自のヘレニズム記念碑に由来するもので、ペルガモンのガリア族に対する勝利を示している。全ては軍隊の大将のために作成されたもののようだ。
注:コロンナ・ディ・マルコ・アウレリオ(円柱)
画像:
画像:スエビ結び
引用:
スエビ族はガリアのはるか北東を居住地域とする不撓不羈のゲルマン人の一派です。彼らは単一の部族ではなく、類似した言語と宗教的信仰を持つ多くの部族の総称であり、レヌス(ライン川)に隣接するガリア全域に度々侵入しています。
彼らは歩兵による待ち伏せ攻撃を多用し、敵が態勢を整えないうちに急襲することを主な戦法としています。軽装備を好み、多くの戦士はフラメア(突きと投擲の両用可能な槍)を使い、剣を持つ者は限られています。戦士はしばしば半裸で、縦に長い六角形や楕円形の盾だけを持って戦いに臨み、何かを身に着けるとしても簡素な外套やその他の衣類に過ぎません。
しかしながら彼らの狂猛な戦いぶりは伝説的であり、まさしく恐怖の対象でした。最も勇敢なローマの百人隊長でさえこれらの狂戦士たちの突撃を目の当たりにすれば震え、顔を黒く塗った夜襲兵が森の中から飛び出して来れば心臓を氷の手で握られるように感じるでしょう。
ユリウス・カエサルが冷静な目で書き記したところによれば、彼らは交易のため領地外に出ることはなく、略奪品や奴隷が余った場合のみ外国から商人を呼び寄せるということです。自由民と戦士は奴隷との区別をつけるため、髪の房を「スエビ結び」として知られる形に括ります。王や族長、大戦士はさらに凝った形の髪型にする場合もあります。戦場において自分の位置を示すため、そのような派手な形にすることが重要だと考えられているのです。
さて、こうした悲境の中で、いまや完全に無経験という白面の青年(ユリアヌスのこと)が、これらガリア諸属州を救出かつ統治、というよりもむしろ彼自身の言葉をかりれば、ただ帝国の威信を誇示する目的だけで副帝の任を受けたのだった。・・・・
P140
これより先、内戦の嵐が吹き荒れていた頃、コンスタンティウス帝は、当時まだ競敵コンスタンス帝の帝権を承認していたガリア諸属州を、ゲルマン蛮族による劫掠にまかせていた。そこで夥しい数のフランク族やアレマンニ族の大集団が、贈与の公約や掠奪への期待、さらには自力による領土の拡張は、これを彼等の永久領として認めるとの好餌に釣られ、続々としてライン河を渡河してきた。だが、たとえ一時の便法とはいえ、こうして一度不用意にも蛮族どものあくない領土欲を煽りたてた結果は、ひとたびローマ領沃土の豊かさを知ったこれら恐るべき蛮族を、ふたたびまた退去させるなどいかに困難か、まもなくコンスタンティウス帝も知って深く胸を痛めた。忠節と造反の区別など一切顧慮せぬ無法人の強盗群である。獲たいと思う財産の所有者は、たとえそれがローマ帝国の民だろうと、すべて不倶戴天の仇敵扱いだった。こうしてトングレス、ケルン、トリール、ウォルムス、シュパイヤー、シュトラスブール等々*、実に45という繁栄都市が掠奪に遭い、その大部分は灰燼に帰した。ほかにも町や村に到ってはほとんど無数といってよかった。ゲルマン蛮族というのは、当時もなお祖先以来の生活信条に忠実で、城壁内に籠もることを極度にきらい、むしろそれらを牢獄、墓場とさえ呼んでいた。好んでライン、モーゼル、ムーズなどの河岸に独立住居を建て、不意の来襲という危険に対しても、ただ大木を倒し、道路を塞ぐという簡単応急の防塞だけで安全に備えるのだった。アレマンニ族は今日のアルサス・ロレーヌ地方に定住していたし、フランク族もまたバタウィ族(ゲルマンの一部族。かつてライン河下流の沼沢地で、三角州の島が多かった。これもその一つ。中世にはペトゥウエと呼ばれていた)の拠る島を中心に、ひろくブラバント地方(当時はトクサンドリアの名で知られていた)(現在のほぼベルギー。中世にはここにブラバント公国があった。トクサンドリアとはワール河と旧ライン河との合流点近くにあった町トングレスから出た名前。プリニウスの時代から見える)をも併せ占拠していた。ガリア王国の発祥地と考えてよかろう。ライン河源頭からその河口にかけ、ゲルマン蛮族はその西側四十マイル以上にわたる地域一帯を攻略し、彼等の部族名を冠した植民地を到るところに建設していったのだ。そしてただ劫掠だけを恣にした地域に到っては、征服地のほとんど三倍にも達していた。さらにそれどころか、より遠隔の地にあっても、およそ無防備の町はすべて荒廃に帰し、自力防衛を頼んでいた要塞都市の住民たちといえども、わずかに城内空閑地で穫れる穀物だけで生命をつなぐよりほかなかった。兵員も減った上に、給与も食糧補給もなく、また兵器も訓練も皆無に近いローマ軍団としては、蛮族の接近、いや、その名を聞いただけで慄え上った。
画像:代表的なゲルマン蛮族スエビ族が与える恐怖のイメージ
画像:ローマ軍高貴な将軍が着用していたと思われるヘルメット
ローマの尾根付きヘルメット。4世紀初頭の20年間。鉄製、金メッキした銀箔、ガラス、宝石。セルビアのノービサード、ヴォイヴォディナ博物館(Muzej Vojvodine)所在の「Berkasovo宝物」の一部。2013年8月ローマのコロセウムでの一時的な展覧会で展示された。
* だいたい北から南への順序で、すべてライン河西側につらなる古い都市。現在はベルギー領、西独領、フランス領などに分れている。この辺の都市名のカナ書き表記は時代や領有によって変化があり実に難しいが、とりあえず今日の地図名にしたがっておいた。参考のためにギボン原文の英語表記を示しておくと、Tongres, Cologne, Treves, Worms, Spires, Strasburgとなる。トングレスはベルギー領、リエージュ市のすぐ北で現在のTongerenである。CologneがKöln, TrevesがTrier, またWormsとStrasburgは今日もまず変りないことは断るまでもあるまい。Spiresはマンハイム市のやや南、今日は普通Speyerと綴られる西独の市。なおローマ帝国時代にはもっと古い呼称、たとえばTrierがAugusta Treverorum,またStrasburgがArgentoratum等々と物々しいラテン語名であるが、煩雑を避けてすべて近代名にした――中野。
(ユリアヌスによるガリアの再征服)
原典:
『ローマ帝国衰亡史』第Ⅲ巻 中野好夫訳 筑摩書房 1981
画像:プテルージュ
画像:ガリア北東部とユリアヌス時代のローマ帝国のライン国境
画像:ヴォージュ山脈の麓からのサヴェルヌ要塞の眺め(右側にサヴェルヌの街)。この丘にはいろいろの時代の要塞の廃墟が残っており、そのなかには中世のゲロルドセック城(右)も含まれる。ローマ人にトレ・タベルネ(三つの宿屋)という名前で知られていたこの街はヴォージュ山脈を通りアルザスからガリアに抜けるローマ街道本道にまたがっていた。ストラスブールはこの写真の右端から30kmばかりのところである。
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画像:スエビ(suebi)の移動