作詞者:Claude Joseph Rouget de Lisle クロード・ジョゼフ・ルージェ・ド・リール
この歌は、フランス革命政府がオーストリアへ宣戦布告したという知らせがストラスブールに届いた1792年4月25日から翌26日の夜にかけて、市長ディードリヒの要望で、当地に駐屯していた工兵大尉ルージェ・ド・リールが出征する部隊を鼓舞するために、一夜にして作詞作曲したというのが定説である。このとき付けられたタイトルは『ライン軍のための軍歌』 であった。(出典)
引用:
ケールとストラスブールの間のライン河中の無人島には、絨毯と高価な家財道具を設えたパビリオンが建てられていた。
マリア・アントニアは東口からこのパビリオンのオーストリア側に入った。彼女の廷臣の前で彼女はすべての服を脱ぎ捨て、一瞬の間丸裸で立った。フランスの服、フランスのレース、フランスのストッキングと靴で、彼女は新しく身なりを整えた。この部分のセレモニーはオーストリア女性からフランス女性への変化を象徴するものであった。マリア・アントニアはこの時点からマリー・アントワネットと呼ばれることとなった。
スターヘムベルク侯爵は彼女をパビリオンの中央室に付き添って行った。そこにフランスの代表団が待っており、迅速で実務的な引渡しが行われた。侯爵が花嫁に彼女の新しいフランスの宮廷侍従長を紹介する間、オーストリアの廷臣は引き下がった。
マリー・アントワネットがフランス王国に向かって開かれた玄関を通って出立するとともに、祝祭行事が終了した。
注:場所はライン河の川中島で、エピ島(Île aux Épis)。
・・・・1388年、シュトラースブルクははじめてライン河に橋をかけた。長い間、このまちから対岸に渡るには少し上流または下流において、渡し舟を使うしかなかった。急流、風、結氷などにより、渡し舟の不確実性、危険性は明らかであった。ライン河にかかる橋は当時はまだ上流のバーゼルとブライザハにしかなかった。下流では皆無で、マインツにおいて1661年になってようやく架設されるにすぎない。河川の征服はそれほど困難なのであった。この地点でも流域は広大で流れの道筋も流量も一定せず、増水も頻発したのだ。26頁の図4(下)にも見えるように、暴れ川のようすは18世紀でも変わらない。他方、架橋については技術面のみならず政治的な要素も無視できない。河川はそれ自体重要な軍事施設であった。交通の便宜を優先してむやみに架設すれば、逆に防衛面での弱点にもなりえた。敵がたやすく侵入してくるからだ。その結果二十世紀にいたるまで、フランスとドイツとの間の国境線としてのライン河にかかる橋の数は五本の指で数えられるくらい少ないのである。
画像:1789年7月22日、ストラスブール市役所の略奪風景。De Vereの版画。
14. マリー・アントワネットの引渡し邸宅の見取り図
(Le plan de la maison d’échange de
Marie-Antoinette, 1770)
画像:1770年5月7日、マリー・アントワネットがストラスブールに入る。(その当時のフランス銅版画)
画像:ストラスブール大聖堂正門前で国王ルイ15世の降臨。御一行の到着。銅版画作者はJean-Martin Weis(ストラスブールの銅版画家)とJacques-Philippe Le Bas(国王付き銅版画家)。(1744)
写真:現在の司教宮殿のファサード
画像:フランス軍隊がストラスブールを包囲する。
(フランス国立図書館版画室)
画像:16世紀のストラスブール。版画家ホーゲンベルクとブラウンの作(1572年)
写真:凭れる人の胸像
ストラスブルクの親方(作)
1470年頃
木製、多彩色
Inv. MOND 179と180
ストラスブルク市民ホスピスによる寄託
大聖堂博物館
画像グーテンベルク彫像の除幕式(1840年6月24日)。
絵は同年、グリュック作。
印刷術発明「400周年」記念祭が三日間にわたって繰り広げられた。
Source
gallica.bnf.fr / Bibliothéque nationale et universitaire de Strasbourg
2015/05/26撮影
画像:Strasbourg (67) 1735 - 1737
部分拡大図
注:時代比較をすれば、
(1358年即位した)足利尊氏の孫である足利義満(在位1358-1394年)、室町幕府の第3代将軍は、南朝と北朝の対立を終わらせた後、有力な守護大名を支配し室町幕府を安定させた。京都に金閣を建て北山文化を発展させた。
写真:現在のカウフハウス。2015/05/26撮影。
画像:La Douane ou Kaufhaus、1358年イル河岸に外国商人用にカウフハウス
16. La Marseillaise
15. フランス革命(1789年7月22日)
13. ルイ15世の歓迎式
12. ストラスブール女性の盛装姿
画像:ルイ14世のストラスブールへの入城。1681年9月30日に署名されたこの条約は、ストラスブールを国王に明け渡し、ルイ14世によるアルザス征服を完成させ、国王にライン河の橋を獲得させた。
11. ルイ14世軍に降伏(1681年9月30日、以降普仏戦争後のヴェルサイユ条約までフランス領)
11-1 ルイ14世によるアルザスの征服
10. ストラスブール鳥瞰図(1572年)
9. グーテンベルクによる印刷術の発明(1440年)
8. ライン河に架橋(1388年)
Strasbourg の 歴 史 (2)
画像:フランス銀行に掲げられているルジェ・ド・リール肖像のメダイヨン
画像:左の建物がBanque de France,
Place Broglieプログリ広場, Strasbourg。
市長ディートリヒの私宅のあった場所。
Google Map, 2015
画像:マリー・アントワネットの取引邸宅の見取り図がストラスブール市古文書館に保存されている。
1770年5月7日、ストラスブールとケール(ライン河を挟んでストラスブールの対岸の街)の間で、この日のために建てられた建物のなかで奇妙な儀式が執り行われた。:すなわち、14歳で将来の国王ルイ16世と結婚するためにウイーンからやってきたオーストリア大公女マリー・アントワネットの「配達式」であった。配達室は厳密に対照的に作られている建物の中央部屋であり、それぞれに控えの間と衣裳室のついたフランス室とオーストリア室の中間にあった。
フランス国王ルイ15世と王妃フリー・レクザンスカを歓迎する水上槍試合などのイヴェント(1744年10月)。中央後部にカテドラル、右手に司教=枢機卿ロアンの宮殿が見える。滞在の6日間、ほかにもあまたの祝典、行列などが盛大におこなわれた。感激した国王は「かくも麗しく、豪華で、壮大なものを見たことがない。だが一番余が悦ばしく思うのは民衆と高官たちが余に示してくれる愛情である。かれらは最も古くからの州民と同じくよきフランス人である。去りがたし」と述べた。その裏で「高官」たちは民衆によそ行きの服を着せ、乞食を排除し、諸会場の周囲を幕や板、偽装建築物で覆うのに懸命だった。
(引用:『物語ストラスブールの歴史』内田日出海、中公新書2027, P123)
画像:ストラスブール、司教宮殿、ルイ15世。J. M. WEISならびにPh. LE BASによる木版画。BNU
騎馬槍試合、足輪、oye、その他の競技、と多大の釣果の表出。全てがストラスブールの街の船頭と漁師によって、イル川の司教宮殿の前で演じられた。銅版画作者はJean-Martin Weis(ストラスブールの銅版画家)とJacques-Philippe Le Bas(国王付き銅版画家)
「美しきストラスブールの女性、1703/01/01」ニコラ・ド・ラルジリエール画
真珠のネックレス(と東洋風の犬)以外は伝統的なストラスブールの女性服
画像:ストラスブール美術館Musée des Beaux-Arts, Strasbourg
11-2 ストラスブールへの入城
1681年10月24日
ルイ14世がストラスブールに入城する。
1681年10月24日、ルイ14世王が鐘と大砲の音に合わせ、ストラスブールに豪華に入城する。彼は安堵しているとはとても言えない住民の前でこの街のフランスへの併合を祝う。
こうしてそれまで繁栄していたアルザスの首都はその独立性を失う。そこまではラインランド(ライン河左岸)方向に向いていたストラスブールが、ヴォージュ山脈とパリの方向に姿勢を変えた。
この後ストラスブールは、
1681年、普仏戦争後のヴェルサイユ降伏文
書によりドイツ領となり、
1919年、第一次大戦終了後のヴェルサイユ
条約でフランス領となり、
1940年、ドイツ軍による占領で再度ドイツ
領となったが、
1945年、ドイツの無条件降伏により、フラ
ンス領に回復した。
番外
後のことだが、1840年6月24日、グーテンベルク彫像の除幕式が執り行われた。
さて1393年、皇帝ヴェンツェルはこの橋の建築を事後的に認め、橋を渡る人と商品に対して渡橋料、そして橋をくぐる船に対して通行料を徴収する権利をこのまちに認めた。陸運と関係する郵便制度については、不十分だが皆無ではなかった。十三世紀に起源をもつタクシス(Taxis)家は、十五世紀以降シュトラースブルクを通る幹線をもつ郵便網をハープスブルク領全土で展開していた。またシュトラースブルクの郵便業務の終点は1550年頃ケルン、チューリヒ、ジュネーヴ、マルセイユまで及んでいた。1569年にはシュトラースブルク―バーゼル間で週便のサーヴィスが開始したのである。
(『物語ストラスブールの歴史』内田日出海、中公新書2027, P77/78)
(中世からアンシアン・レジーム期を通じて開かれた)大市の場所は市域全体にわたった。1358年にはイル河岸に外国商人用にカウフハウス(Kaufhaus、現在は一階がレストランとなっている)がつくられた。次いで貨物を持ち上げるための昇降機がとりつけられ、建物脇の岸はライン河や支流のイル川を経由してやってくる船で賑わった(76頁の図8を参照)。カウフハウスは輸入品の卸売市場であり、保税倉庫でもあり、また税関の機能をもつものであった。それまで外国人商人は思い思いに直接顧客に売るか、泊まった宿屋を倉庫・店舗代わりに使っていた。これらの商品を一括してカウフハウスに集めることによって、保護のみならず規制の観点からも商取引を管理し、倉庫に収めさせて倉庫料をとり、関税を徴収し、さらにそこを卸売の場としたのである。そこで卸された外国商品は市街にある個別の週市で小売に付された。
(『物語ストラスブールの歴史』内田日出海、中公新書2027、2009 P79)
7. カウフハウスの建造(1358年)