参考
You Tube:Botany Bay sung by Mirusia Louwerse in Melbourne Australia
最終句は次:
Now all my young Dookies and Duchesses,
Take warning from what I've to say:
Mind all is your own as you toucheses
Or you'll find us in Botany Bay.
さあ貴方たちよ、若い王族達よ、
私が今言う言葉を常に肝に銘じておきなさい。
手で触ること(掏摸をすること、盗むこと)にはくれぐれも注意しなさいよ!
さもないと、ボタニー・ベイへ行っちゃうよ。
これに懲りないビスマルクは、自らの恥を上塗りするかのように、1890年3月の引退の際、引退一時金というか、自分に対する報償金というか、どういう名目にしたのか知らないが、231,000マルクの金額をヴェルフ基金から引き出して自分の懐に入れた。
「ロッキードからの賄賂を入手した田中首相が最高裁判所にかけあって、自分の罪を免責処分にさせる」類の行為であって、民主主義の国では許されない、認めることのできない行為を一国の首相が行ったことになる。それを皇帝が免責処分にしたのだから、法治主義を放棄したことになる。
もともとは英国皇室の持ち物であった巨額の資産が盗まれたのであるから、英国では本件は周知の事実であったが、ドイツ国の皇帝がこの忌むべき窃盗犯を保護して無罪放免にしたのだから、表だって非難するわけにもいかず、しかもその金の一部は1871年ドイツ帝国成立の際、バヴァリア国王ルードヴィヒ二世に賄賂として渡され、敵帝国成立のための資金源として使われたのであるからたまらない。
鬱憤晴らしに、英国民は1885年、「ボタニー・ベイ」
("Botany Bay")という歌をLittle
Jack Sheppardというミュージカルのなかで歌わせ、流行歌にした。
説 明 (5)
付記:Botany
Bay
ドイツ帝国宰相による犯罪
画像:ジャック・シェパード
6. ところがどうだ。ビスマルクは小細工を弄し、片意地を張って英国の干渉を認めない。英国の国威をもっての保証をも無視するつもりらしい。
7. ビスマルクはどうやら、政治資金の必要性が外交関係の妥当性を上回ると、考えているようだ。つまり、「政治は法律に優先する」と考えているらしい。カイゼル・システムとはつまり、秘密資金(政治資金)の確保のためには、法治主義を放棄する、という主張であると考えざるを得ない。
4. ドイツがこの莫大な財産をハノーファー家に返還すると、ハノーファー家はヴェルフ義勇軍を強化して、ドイツ帝国にたいする反乱を起こしかねない、とのドイツの杞憂は理解できる。
5. だから、私は英国首相を1878年7月9日に派遣してビスマルクと面会させ、英国が国威をもって、ハノーファー家がドイツでの反乱をおこさせないよう、保証した。ハノーファー家が反乱を起こしたときは、英国がみずから処理すると、英国首相をしてドイツに伝えた。
画像:Old Bailey、王立中央犯罪裁判所での裁判風景、1808年頃
英国女王の考え方は次の通りだろう。
画像:プリマスから来た黒眼のスーと可愛いポルがボタニー・ベイへと護送される恋人に別れを告げる。
ボタニー・ベイは18世紀に作られたオーストラリアの流刑植民地。現在のシドニー湾。英国で盗みを働いた者はロンドンのオールド・ベイリー裁判所に投獄され、そこから七年の流刑を勤めるためにオーストラリアへ囚人船で送られた。この流刑植民地は1840年に廃止されてしまっていたが、英国民はビスマルクとヴィルヘルム一世を揶揄するためにオールド・ベイリーとボタニー・ベイをもちだした。
ここまでの筆者の断定はあくまでも、「この論文によれば」という前提条件がつくのだが、この論文が出版された当時、ドイツ人のハンス・フィリッピは外務省職員であり、外務省が保管していた未焼却の公文書を検分できる立場にあったことは明白であるし、この論文が出版されたことでドイツ政府からのおとがめがあったとも思えない。だから、この論文の内容を「捏造」だと切り返すことはいかなるドイツ人もできないだろう。
この論文『ヴェルフ基金の歴史について』が示すところは、ドイツ帝国を作ったとされる初代宰相が実は窃盗犯であり、これが白日の下に曝されたのち、なんとドイツ皇帝が彼を免責処分とした事実であった。言葉を換えると、「ドイツ国家が1883年に法治主義をすててしまった」という事実を公表したのである。ビスマルクによって開始されたこのドイツ帝国の国家方針は、事実が示すとおり、1945年第二次世界大戦が終了するまでしっかりと続いた。
勿論、日本ではこの事実が公表されたことはない。ドイツ国内でも、この事実はつとに噂されていたにもかかわらず、蓋をされてしまった。画像:ヴィクトリア女王とディズレーリ首相
Benjamin Disraeli,
Earl of Beaconsfield Meeting Queen Victoria at High Wycombe station on her
visit to Hughenden, December 1877.
1. ハノーファー家は英国王室のお里である。一代前までは同君連合、つまり、英国王がハノーファー王を兼務していた。ハノーファーは地理的にはドイツにあるが、財産所有権からしてそれは英国王室のものでもある。
2. 歴史的に考えても、ハノーファー家は、フランク王国以来連綿と続いてきたヴェルフ家の中枢である。普墺戦争で負けたからといって、ヴェルフ家が取りつぶされる筋合いはない。
3. 日本で言えば、平安時代初期よりヴェルフ家は王室財産を山のように築いてきた。この個人財産を接収して、しかも当主が死去して、相続人に権利が継承されたのちも財産の返還をしない、というのは財産の強奪である。違法行為である。
ところで、Jack Sheppardは18世紀初頭にロンドンに現われた押し込み強盗。恋人のElizabeth Lyonの助けを借りて、1724年9月4日、ニューゲート牢獄(後のオールド・ベイリー監獄の場所)から脱獄した。彼は、服地2反、銀のスプーン二個、絹製のハンカチを盗んだ廉で絞首刑に処せられることになっていた。これが三度目の脱獄だった。
9月10日に再度捕縛され、手枷足枷されてニューゲートの石城監獄に閉じ込められたが、とても人間業とは思えない超人的な能力で一ヶ月後にまたもや脱獄した。再度捕まったシェパードは11月16日に絞首刑に処せられたのだが、人気が沸騰し、処刑場に20万人の見物客が集まった。
『ロビンソー・クルーソー』の作者ダニエル・デフォーがゴースト・ライターとなってジャックの自叙伝を書き、ジョン・ゲイが本件に基づいてオペラ『乞食オペラ』を書き、大当たりとなった。
Little Jack Sheppardという題名には、「ビスマルクはジャック・シェパードに似た大泥棒」の意味がこめられているようだ。
しかし、ビスマルクが盗みの癖をドイツ国民に見せつけ、ドイツ皇帝がこの窃盗を断罪せずに反って免責とした事実が、ドイツ国民に遵法主義を勧奨させたことにはならない。むしろ事実はこの逆で、すべての国民に窃盗を奨励し、無法主義を勧奨し、人のものは盗めと教え込んだのである。ここにプロイセン人のあの気質が、徹底性という気質が生きるのである。リリエンタールが敢然とポツダムの風車が丘から人工の翼をつけて飛び降りるように、彼らは未来に向って突進したのだ。なに? 戦争をするのに戦費がない? 笑わせるな、持っている奴らから盗め。ユダヤ人から盗め。ビスマルクは1867年の時点でこう教え込んだのである。
画像:ウインザー城。