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部屋を出てちょっと遠くまで来た。少しばかり電車に揺られ、早春の冷たい風にあたり、木々の間にあるベンチに腰を下ろし背中に陽を浴びる。ここはどこで今は何時なのか別に考えが及ばない。コンビニで買ったサンドウィッチをかじり、カップCOFFEEをすする。あー。ちょっと美味しい?。

胃の大部分を切って半年が経ち、食べ物を吐く事もなくなって、ようやくその味を躰が理解し始めたようだ。遠くの山並みを眺めていると、あの人は元気でいるだろうか?親しくしていた普通を懐かしみ、時の移ろいにややお道化気味に戸惑う。

だから、時間を気にせずにいたり、哀愁を感じないように空元気でいたり、心のポジションをなるべくポジティブ側に置こうとする自分がいる。自由を謳歌する割にはたまに寂しくなるので、街のうるさい往来や、知人の電話の声は活性の種と水であるかのようだ。

心の置き所はコロコロと都合よく変わり、ブロンズは美の一瞬を切り取って固めた芸術であって観賞という美意識の矛先を向けられる。何かの偶然なのかそこに「鳥」と「馬」が題材として多いのには改めて驚いた。

空を飛ぶ「鳥」のように野を駆ける「馬」のようにありたいのだろうか?

永遠に閉じ込める方法としては、文字や絵、音よりも金属にしてしまって形を与えたほうが安定はする。そして時が経てば作品はアンティークになって価値も上下するだろう。芸術は一時的な占有にすぎなく、広く皆の物、社会の物であるのでしょうか。

想いを寄せる空間的な余地は異次元を彷徨って観賞側の隙間を埋めて充足感をもたらす。隙間とは日常の草臥れた惰性であったり、喜怒哀楽の感性ボタンであったりする。独占的所有がコレクションなのだからそのボタンのスイッチングは見る側の勝手なスケジュールである。

だとすれば、私は何をすればいいのだろうか。

芸術の感性に触れ、魂を感じ、その「美」を伝えたいと心底思っているのだろうか?自分だけの独占で芸術を束縛しても良いのだろうか?ほとんどの人が持っている欲は生活上とても有益に作用するはずだから上手に付き合おうと思う。

観賞は自己啓発と自己満足の一人称でおおよそ完結はするが、表現の対人的な伝達作業は画像やテキストを通じて上手く伝わればいい。芸術が持つ圧倒的な超越したエネルギーが明日の貴方の糧になればいい。

安らかで優しくあって欲しい。

あれやこれや要求や要望を通す場面よりも、困っている人に助けを、まどかに幸せでありたい。