山彦とカキツバタ

   (一)
 霧ヶ峰高原に、八島ヶ池という池があります。
 梅雨時になると、池のほとりには、カキツバタの花が咲きます。
 ひっそりと咲くその姿には、哀しいお話が残っているのです。

   (二)
 昔々のことでした。
 池の北側の谷に、山彦という若者が住んでいました。
 山彦は、高原を駈けめぐっては狩りをして、毎日を過ごしていました。
 山彦の体はつやつやと黒光りして、とてもたくましく見えました。

   (三)
 一方、南側の平地には、かきつばたという少女が住んでいました。
 かきつばたは、病気で寝ている母親のため、高原に生えている薬草を摘んでは持ち帰る、そんな毎日を過ごしていました。
 かきつばたは、心のやさしい少女でした。

   (四)
 ある日のことでした。
 いつものように二人は、それぞれ高原に出ていました。
 すると、急に霧が深くなり、二人は道に迷ってしまいました。
 やがて二人は、池のほとりにたどり着きました。
 霧の向こうには、誰かがいる気配がします。
 けれどもその姿はお互いに見えません。
(山彦)
  「そこに誰かいるのか?」
 霧の中から優しい声がしました。
(かきつばた)
「はい。私はカキツバタと申します。
この霧で、帰り道がわからなくなってしまいました」
(山彦)
「私も同じだ。しばらくは動かない方がいいだろう」
 二人はそれ以上近寄ることもなく、じっとしていました。

   (五)
 しばらく待っていると、急に霧が晴れました。
(かきつばた)
「あっ!」
(山彦)
「おお……」
 二人は同時に声を上げました。
 かきつばたは、山彦の力強そうな顔つきに驚きました。
 山彦は、かきつばたのやさしそうな表情に驚きました。

   (六)
 二人はすぐにうち解けました。
 池のほとりにすわると、色んな話をしました。
(かきつばた)
「あなたはとても鋭い目をしていて、頼りになりそうです」
(山彦)
「いやいや。あなたこそやさしくて美しい目をしています」
 この人といつまでも一緒にいたい。
 お互いにそう感じました。

   (七)
 二人は、池のほとりでたびたび会って、話をするようになりました。
 かきつばたは、いつも山彦のことをほめてくれました。
 ところで、
 幸せなときにふと、疑いたくなる気持ちが人間にはあります。
 その日の山彦がそうでした。
(山彦)
「あなたは私をほめてくれるが、本当だろうか?」
(かきつばた)
「ええ、本当です」
 実は、二人ともまだ、自分の姿を見たことがありませんでした。
(山彦)
「では、試しに池の水に姿を映してみよう」
 山彦は水面に顔を近づけました。
 ところが──。

   (八)
 山彦が池の面(も)に顔を映したその瞬間でした。
 強い風が吹いて波が立ちました。
 水面に浮かんだ山彦の顔はぎざぎざにゆがんで、恐ろしい顔になってしまいました。
(山彦)
「これは……なんてひどい顔だ」
 山彦はかきつばたをふり向くと、
(山彦)
「あなたが私をほめたのは嘘だ」
 かきつばたをにらんで言いました。
(山彦)
「あなたは、私をからかっていただけなんだ」
(かきつばた)
「違います。そんなことはありません」

   (九)
 かきつばたが池をのぞくと、そこには美しい少女が映っていました。
 風はもう、止んでいました。
 かきつばたは、自分の姿に見とれていました。
 はっと気づいて振り返ると、もう山彦はいませんでした。
(かきつばた)
「山彦さん、待ってください」
 かきつばたは後を追いかけようとしましたが、霧がたれ込めてきました。
(山彦)
「さようなら、かきつばた」
 遠く霧の中から、山彦の声がこだまして聞こえてきました。

   (十)
 山彦は霧の中へ消えてしまいました。
 山彦は霧の中を走りました。
 どこまでもどこまでも走りました。
 霧は晴れるどころか、深くなるばかりです。
 崖が迫ってきたこともわかりませんでした。
(山彦)
「あっ!」
 足を踏み外すと、谷に向かって落ちてゆきました。

   (十一)
 かきつばたは池のほとりで泣いていました。
(山彦)
「かきつばた!」
    ※遠くからかすかに聞こえるように。
(かきつばた)
「山彦さん!」
    ※遠くへ呼びかけるように。
 霧はますます深くなってきます。
 かきつばたは泣き続けました。
 何日も何日も泣き続けて、やがてその場で息絶えてしまいました。
 そして、カキツバタの花に姿を変えてしまいました。

   (十二)
 それから長い年月が経ちました。
 梅雨時になると、池の周囲には紫色のカキツバタがたくさん咲きます。
 雨を受けて、花はますます色を濃くしています。
 八島ヶ池のある湿原を、遠くから見てごらんなさい。
 ハートの形が現れるでしょう。

おわり