数学者M氏の休日

   プロローグ

 普段より少々遅く目覚めたM氏。
 今日は休みだからいいだろう。もうちょっとだけ寝ようか。
 家族サービスという言葉は好きじゃない。いかにも「してあげる」感がプンプンするからだ。「やりたいからやる」のであって、「やりたくなければやらない」。
 数学者M氏。相変わらず理屈が多い。
 布団の中でぶつぶつと思考を巡らせていると、階下から妻の声がした。
「今日は買い物につきあってね」
 そうだった。
 春から娘の理香は小学生になるから、服や文房具や、色々と必要になる。
「了解」と妻のLINEに送って、M氏は起き出した。

   (1)平均的な待ち時間はどれくらいだろう

 M氏の運転で町のデパートへと向かった。
 家を出てしばらくすると工事用の信号で止められた。
 先日の大雪による重みで倒木が発生して、道路の一部を塞いでしまった。今でも片側交互通行が続いている。
 信号は赤だった。そして青に変わるまでのカウントダウンが始まっていた。〈58〉という数字が見えた。ちょうど赤に変わったばかりだろうか。
(ついてないな)
 イライラしながら待っていてもしょうがないので、《平均的な待ち時間はどれくらいか》を、数学における期待値の問題として考えてみた。

【問題】
 青信号の時間が20秒で赤信号は60秒の工事用信号がある。この場合の平均の待ち時間を求めよ。
【解答】
 1サイクルは80秒(20+60)なので、青に変わってからn秒後に到達した人の待ち時間を以下に列挙してみる。
 0秒後→0秒、
 1秒後→0秒、
 2秒後→0秒、
 ....、
 19秒後→0秒。(ずっと青なので)
 20秒後→60秒、(突然増える)
 21秒後→59秒、(カウントダウンが始まる)
 ....、
 79秒後→1秒となる。(80秒後=0秒後)
 従って、待ち時間の平均は以下の式で計算できる。
 平均待ち時間=(0×20+60+59+....+1)÷80
 これを力づくで計算してもいいのだが、1からnまでの和(1+2+...+n)は、
 n×(n+1)÷2 で求められる。
 これを数学では記号を使って
   n
  Σk=n(n+1)/2 と書く。
  k=1
 この問題ではnを60にすればいいので、
  60
  Σk=60(60+1)/2=1830。
  k=1
 従って待ち時間の平均は、1830÷80=22.875。
 つまり待ち時間の平均は約23秒。
 数学用語で言えば「期待値は約23秒」となる。

 平均すればこの程度か、たいした時間じゃないな。
 M氏が自らの解答に満足していたら、後からクラクションの音が聞こえた。
「あなた、とっくに青に変わったわよ」
 助手席の妻が慌てた声で言った……。

【結論】
 何かに熱中して入れば時間を忘れる。

   (2)割り引きのお得感とは

 さて買い物だ──と張り切ってみたものの、「妻が選ぶのを待っている時間」は非常に長く感じる。
 そんなM氏の心理を察してか、
「まず、あなたの下着を買っちゃうわね。すぐだから」
 すぐだから──。
 そう言われてややカチンと来たM氏だが、事実だからしょうがない。
 妻の後について店内を歩き始めた。
 卒業、入学シーズンとあって、あちこちでバーゲンを行っている。

【問題】
 「全品5%引き」と「50人に1人無料」では、どちらが得か示せ。
【解答】
 漠然と考えても結論は出ないので、こうした場合は具体的な数字で考えてみると、答えが見えてくる。
 例として、「100人がそれぞれ1000円の買い物をする場合」を考える。
 2000円でも1432円でもいいのだが、わかりやすくするためにこう仮定する。
 何の仮定もないところから結論は生まれない。
 損か得か。
 店が損なら客は得、客が得なら店は損。どちらかを証明すればいい。
 この問題は「店の立場」で考えてみる。
 5%引きの場合
  売り上げ総額=1000円×100人×0.95(5%引き)=95,000円
 50人に1人無料の場合(100人では2人が無料)
  売り上げ総額=1000円×(100−2)=98,000円
 比較すると、98,000円−95,000円=3,000円。
 以上から、「50人に1人無料」とした方が店はもうかる。

 途中の計算を大きく端折った上で、M氏は女房に説明した。「無料」とした方が客は集まる。けれど数字的には「5%引き」の方が客は全体として得になる。
「そういうことだから、無料という言葉に踊らされてはいけないんだ」
「ふーん、計算ではそうだろうけど、なんか夢がないわね」
 妻は納得できないような表情で言った。

 この問題から派生して、
 「通常の2割引」と「定価の3割引」とどっちが得か考えてみるのもおもしろい。
 通常価格をx円、定価をy円とする。
 このとき、0.8x>0.7yなら「定価の3割引」の方が得になる。(理由を考えてみてください)

 ──などと考えているうちに、妻がタイムサービスでM氏の下着を買ってきた。
 こちらは「今付いている値段の半額」だった……。

【結論】
 考えるよりもまずは行動せよ。

   (3)景気がいいと言われているが、それは本当か

 デパートの中は人が多い。
(田舎でもこんなに人がいるんだな)
 M氏は妙に感心しながら通る人たちを見ていた。
 ところで、景気がいいと言われているが、周囲に聞いてもそれを実感している人はM氏の周辺にほとんどいない。
 景気は本当に良いのだろうか?
 平均所得の観点からM氏は考えてみた。

【問題】
 平均所得を500万円とした場合、1500万円と200万円それぞれの人口を求めよ。
 ただし、「誰もが1500万円か200万円かに分けられる」と仮定した上で計算すること。
【解答】
 この問題もわかりやすくするために、日本の労働者人口が100人だったらと、さらに仮定して所得について考えてみる。
 1500万円「も」もらっている人口をx人、200万円「しか」もらってない人口をy人とおく。
 すると、以下の2つの式が成り立つ。
  x+y=100         (1)
  (1500x+200y)÷100=500  (2)
 これは「xとyを変数にした連立方程式を説く」ことに他ならない。
 この連立方程式を解く(解法略)と、
  x= 23、y=77 となる。(小数点以下四捨五入)
 つまり、平均年収が500万円だといっても、8割近くは200万円しかもらっていないことがわかる。

 おそらく一億総中流意識と呼ばれた時代は、
  (400+600)÷2=500
 が平均年収だったのだろう。
 平均は当時と同じでも、現在は
  (200+800)÷2=500
 というような計算式になっているのではないか。
 実際にはこんな単純ではないけれど。

【結論】
 数学を使って簡略化して物事を考えてみれば、その「本質」が見えてくる場合がある。

   (Coffee break)

 理香の買い物は妻に任せることにして、M氏はスタバでコーヒーブレイクとしゃれ込んだ。
 数学の証明では、「ある場合」と「すべての場合」について論じられることが多い。
 「ある場合」を証明するのは、具体例(反例)を1つ挙げればいい。しかし「すべての場合」を証明するのは大変だ。数に終わりはないから、すべての数について示すことは容易ではない。
 例えば近年になって証明されたフェルマー予想。
 これは、
 「3以上の自然数nについて、x^n+y^n=z^n となる0でない自然数 (x,y,z) の組み合わせは存在しない」。
 という「予想」だ。
 n=1の場合、x+y=zとなる数は無数にある。
 1+2=3でも、2+3=5でもいいし、128+146=274でもいい。
 n=2の場合、x^2+y^2=z^2となり、これは有名な「三平方の定理」に他ならない。
 具体的にはx=3、y=4、z=5や、x=12、y=5、z=13の場合などがある。(計算略)
 しかし、n=3以上では、この等式を満たす数字が存在しないと、フェルマーが予想した。フェルマーは予想しただけで亡くなった。
 それから360年間、数学者たちはフェルマーの亡霊に取りつかれた。
 そして1995年、ワイルズによって、予想が正しいことが完全に証明された。
 これによりフェルマーの予想は、晴れてフェルマーの定理として認められた。
 その証明とは──ここでは省略する。数学者が400年近くかけて証明をした問題を、簡単に説明できる訳じゃないし、実のところM氏もわからない。
 ある人はここまで、次の人はここまでと証明していって、それらをふまえた上で証明が完成した。最終的には日本人の「谷山・志村予想」が大きな鍵になった。
 一生をかけてただ一つの命題に取り組む数学者たち。執念と苦悩と生き様は胸に迫るものがある。
 ファルマーの予想について、解答はわからなくても問題(予想)はわかりやすいので紹介してみた。
 数学の世界には未解決の問題がまだまだある。
 有名な問題では、「P≠NP予想」というのがある。
 これは、
 「計算複雑性理論におけるクラスPとクラスNPが等しくない」
 という予想だ。
 そもそも何のことかM氏にもさっぱりわからない……。

   (4)どこに並べばいいのだろうか

 買い物から妻と娘が戻ってきた。
「あとは夕飯の買い物だけ」
 最後は食料品売り場だ。たとえ非力でもここは男としての力が必要になる。

 一通りかごに入れてレジへと向かった。
 レジが幾つかあり、それぞれに列ができている。
 なるほど、これは「待ち行列」、つまりどこに並んだら待ち時間が少なくて済むかの問題だな。
 M氏はふと、銀行のATMを思い浮かべた。

【問題】
 複数の台があるATMでは、一列になって並んだ方が待ち時間は少ないか考察せよ。
【解答】
 待ち行列には以下の3つのパターンがある。
 (1)行列が1つで窓口が1つ。
 (2)行列が1つで窓口が複数。
 (3)行列が複数で窓口も複数。

 (2)と(3)のモデル。どちらの待ち時間が少ないか。
 現在のATMでは(2)が採用されている。
 窓口での平均サービス時間、一定時間当たりの客の人数など、様々な要素を加味した上で数学的に出された結論が(2)だ。
 さらには、一列に並んだ方がストレスはたまらない。「あっちの方が早かった」とか、「何をモタモタしてるんだ早くしろよ」などとイライラしながら待つと、実際の時間よりも長く感じる。
(これは数学と心理学の融合問題だな。)
 しかし、ATMと違ってレジでは一列に並んでいない。長い列もあれば短い列もある。さてどこに並べばいいのだろう。
 M氏がぼーっとしている――考え込んでいるとき、妻にはそのように見える――うちに、妻がある行動に出た。
 8つある列を端から端まで歩いて、「ここよ」と手を挙げた。
 M氏はかごを持って妻の所へと向かった。
 列は特別に短いわけでない。隣はもっと短い。
 不思議に思っていたが、結果的にはここに並んで正解だった。早かった。
 袋に詰めながらM氏は妻に「どうして」と聞いた。
「簡単よ、この列は年齢層が若い、かごの中身が少ない、店員の処理も速い」
 妻が得意げに言う。

 なるほど。
 待ち時間の長短に影響を与える3つの変数(x,y,z)を用意して、考えればいいんだな。
 (x,y,z)=(客の年齢,かごの中身,レジ係の処理時間)
 具体的には、
 xについて。
 現金かカードか、カード払いの方が所要時間は少ない。カードを使うのは比較的若い人が多い。
 yについて。
 かごの中味が少ないほど処理時間は少ない。これは見た目でだいたいわかる。
 zについて。
 バーコードを読み取るときの音の間隔が短いほど処理時間は少ない。
 計算で求めるのは簡単ではないにせよ、妻はこれらの三要素が大事だと確信した上で、それぞれの列を見ながら瞬時に判断した。
 M氏は感心した。細かな計算は抜きにしても「妻の予想」は数学的に正しい。

「おれよりすごいな」
 M氏は自らの理論よりも妻の勘に感心していた。

【結論】
 完璧でなくても、ざっくり計算して方針を決めることも大事。

   (5)なぜ暖冬だと大雪になるのか

 買い物を終えて帰宅したM氏。買い物疲れよりも考え疲れだろうか。
 今日も色々と考えた。考えることはいいことだ。
 夕食を終えて、居間でくつろいでいた。
 テレビでは「今年は暖冬だった」と言っている。
 娘の理香が言う「暖冬って何?」
 「冬が暖かかったってことよ」妻が優しく言う。
 「ふうん、でも今年は雪が多かったよ。それはどうしてなの?」
 「それは……パパに聞いてご覧」
 妻の顔がお願いの表情になった。

【問題】
 長野県では、暖冬だと雪が多く降る。その理由を述べよ。

【解答】
 これは三段論法の応用として考えるとわかりやすい。
 三段論法とは、
 AならばB、BならばC、ゆえにAならばC
 という証明方法だ。
 理香の質問に対しては以下のように展開する。
 AならばB
 暖冬の時は、北からの低気圧よりも南からの低気圧の勢力が強い。
 BならばC
 南からの低気圧は、太平洋側の地方を中心にまとまった雨をもたらす。
 CならばD
 そうは言っても長野県は寒いので、雨じゃなく湿った重い雪が大量に降る。
 ゆえに、
 AならばD
 暖冬の時は雪が多い。

 物事を考える、あるいは目標に対して向かうとき、この考え方は大事だ。
 AならばZである場合も、AならばB、BならばC、CならばDと地道に続けてゆけば最後はYならばZにたどり着く。

【結論】
 どんなに困難なことも、小さく分割してそれぞれで達成してゆけば最後は大きな目標に到達する。

   (6)変数と係数

 いつものように寝る前のひとときを、絵本の読み聞かせですごした。
 忙しいM氏だが、この時間だけは大切にしている。

 そのときふと、M氏の中で一次関数が浮かんだ。
  y=ax。
 aは密度でxは時間。yは愛情と考えればいいだろう。yが大きければ大きいほどいい。
 子育てとは密度×時間。関係があるから関数で表せる。
 娘の寝顔を見ながら、忙しいけれど密度が大事なのだとM氏は考えた。
 子どもにとって大切なことは、一緒にいる「時間の長さ」だけでなく「時間×密度」。
 x(時間)が少なければa(密度)を増やせばよい。短時間でもいいけど密度の濃い接し方をすれば、子どもは親を理解してくれるだろう。

【結論】
 物事を関連付けることで解決方法が見えてくる。

   エピローグ

 なんとか一日が終わった。
 今日も色んな「問題」があったけれど、冷静に順序立てて考えればクリアになる。
 いつだって「はじめから」と考えれば人生は楽しいではないか。M氏の思考は数学を超えて哲学の世界にまで踏み込んでいる。

 理香の寝顔を見ているうちにM氏も眠くなってきた。
 まだまだ考えていたいけど、明日があるからそろそろ眠ろう。
 そう、羊でも数えながら……。

 羊が柵を跳び越えて家に帰って行く。
 羊が1匹、
 羊が2匹、
 羊が3匹……
 あっ! 羊が柵に引っかかって転んだ!!

 もう一度始めから。

           Q.E.D

おわり