「ねえ、このカマキリ飼ってもいい?」
田んぼで稲刈りをしていたとき、娘が一匹見つけてきた。
「うん。まあ、飼ってもいいけど、このカマキリはお腹が大きいから、もうすぐ卵を産むんじゃないか。そうすればすぐに死んでしまうよ」
「やだ。絶対飼う!」
毎度のことながら譲らない娘。
「今度はちゃんと世話できる?」
そうたずねながら、今度は庭にカマキリの墓ができるのか、などとぼくは考えた。
虫かごにコスモスの花を敷き詰め(根拠なし)、カマキリを入れておいた。朝になって娘がのぞきに行った。
「おとうさん、卵を産んでいるよ」
見ると、虫かごに逆さにぶら下がって、卵を産んでいる。まだ途中と見えて、お尻から白い泡のようなものを出している。
「へえ、カマキリの卵って白いんだ」
なぜか、ぼくが感動している。
夕方見ると、すっかり卵を産み終えたカマキリは、小さくなって虫かごの隅にうずくまっていた。
秋になると、日溜まりに虫の死骸を見かけることが多い。彼らには、我が子の誕生を喜んだり、生活する力を具体的に伝える時間はない。産卵して一生を終えるまで、ひたすら自分〈だけ〉の生と向き合う。
案外、ヒトもまた、子どもが小さい頃を除いて、親が自信を持って自分の生を謳歌すればいいのではないか。生き様を惜しげもなく子どもに見せれば、彼らはそこから何かを感じ、何かが宿るはずだと思う。
主体性がない、善悪の区別がつかない。
教育現場で嘆かれているが、親こそが、自身の日常を問い直すことをしなければ、と感じる。
おわり
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