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隣を歩く恋人の腕に、美花はそっと触れてから、スルリと指を絡めた。
「リリー先輩…久しぶりですよね、こうやって……」
ふたりで外出するのは。
十月に入って、ようやく少し涼しい風が吹くようになった。
「ごめんね、美花ちゃん。なかなか思うように書けなくて。これでもがんばっているんだけど……」
申し訳なさそうにうつむいて口ごもる恋人の顔を下から覗き込んで、美花はあわてて首を横に振った。
「わかってます、わかってますってば、それは。私は平気です。…そりゃ、会えないのはちょっと寂しい
けど……仕方ないですよ」
恋人は売れっ子作家の鬼頭百合雄、通称オニユリ様だ。美花は恋人であり、彼の本を出している紅林
出版の編集者で、彼の担当をしている。でも今恋人が書いているのは紅林のものではなくて、日本でも
有数の大手出版社七曜社の本だ。美花はなにも手伝えない、口を出せない。それどころか、「絶対に邪
魔をするな」と七曜社の編集者にきつく言われている。
「…調子が出ないときには気分転換にちょっと外出…とか、私ならイイと思うんだけどなぁ」
紅林の本を書いてもらっているときならそうする。けれど七曜社の担当編集の大神は、「これ以上遅れる
ならホテルに閉じ込めるぞ」と脅すのだ。
「大神先輩ってやっぱり恐いですよね」
美花とリリーの大学の先輩でもある大神には、ふたりとも逆らえない。
「……今日は出かけても大丈夫だったんですか?」
まさか逃げ出してきちゃったとかだったらどうしよう、と美花は怯えた。
「違うよ、そんなんじゃない。取材だから大丈夫。大神先輩に怒られるようなことはないよ」
おだやかな笑顔で否定してから、リリーは付け加えた。
「ついでに、たまにはデートしてこいって、先輩が言ってくれたんだよ。一応気を遣ってくれてるみたい。なん
だか照れるよね」
それならよかった、と美花は肩の力を抜いた。
純粋な好意なのか、飴とムチを使い分けているということなのか、大神の真意はわからないけれど、それは
関係なく、美花は久しぶりのデートを楽しみたいと思った。ずっと家の中に閉じこもっていた恋人にも、外の風
を存分に味わってほしいと願った。いくらインドア派でひきこもり大好きでも、たまには外に出ないと黴びるか
固まるか、あるいは煮詰まってしまうんじゃないかと思う。
「サラリーマンみたいに、週に一日、執筆を休む日を作るってどうですか?」
腕を組んで歩きながら言ってみたら、クスッと笑われた。
「美花ちゃん、今日は全然編集者モードじゃないんだね」
言われたことばを頭の中でチラッと考えて、それはそうかも、と思う。現在担当している作家の原稿が遅れて
いたら、週に一日くらい休んだらどうですか、とは到底言えない。言いたくない。
でもでも。
「たしかに編集者としては言いづらいことですけど……本当はその方がいいんじゃないかなって思ってるんで
すよ、編集者の私も」
休みを取らず、ずーっと毎日書き続けるより、書く日と休む日を作ってメリハリのある生活をした方が結局効率
がいいような気がする。どうだろう。
「……まあ、理想ではあるよね。週に一日休むとか、規則正しく早寝早起きして、時間を決めて机に向かうとか。
……僕には無理そうだけど」
夢中になると寝食を忘れ、原稿に熱中した挙げ句、フラフラになって倒れてしまうような人なのだ、恋人は。
だから心配。そんな無理を重ねたら、いつか病気になってしまいそう。美花はそれが不安なのだ。
「最近はちゃんと食べてます? ゆっくり眠ってます?」
できることならいつも一緒にいて、無理をしないようにサポートしたい。編集者としてではなく、恋人として……。
口には出せない美花の望みだ。
「あ、美花ちゃん、こっち。この先にあるんだよ」
道を曲がったら、大きな門があり、その向こうには石畳が続いていた。
今日のデート兼取材の目的地の有名のお寺だ。
「初めて来ました。思ったよりずっと立派ですねー。それにけっこう混んでる」
お寺なんてお正月や節分以外は閑散としているところだと美花は思っていた。
「信心深い善男善女で賑わってるみたいだね。ここはいつでもかなり混雑してるんだよ。観光地になってる
くらいだし」
リリーは子供の頃から何度も来ていると言った。
「祖母によく連れてこられたんだ。帰りに本堂脇の茶店で甘酒を飲ませてやるっていう約束につられて、足
しげく通ったよ」
なるほど。勝手知ったる足取りで、恋人はどんどん進んでいく。美花はあわてて彼のあとをついていった。
まだですかー、と心の中だけで恋人に問いかける。
取材の目的地、史料館に入ったら、リリーの足はすっかり止まってしまった。展示の品を見つめ、説明書を
じっくり読み、また展示品を眺める。メモを取ったり置かれているパンフレットと見比べたり、その歩みは遅々
として進まない。
今度の小説には、お寺とか仏様が出てくるのかなぁ。
美花はササッと一通り見てしまったらもうなにもすることがなくなって、すっかり退屈してしまった。興味がある
分野ではないのだ。
急かすわけにはいかないし……。
熱心な恋人の作業はきっと、面白くて感動的な名作へとつながっていくのだ。邪魔をするなんて許されない。
仕方なく美花は恋人の観察を始めた。お寺の史料を眺めるより、恋する相手を見つめる方が断然楽しい。
……少し、髪が伸びすぎかな。前髪がメガネにかかってうっとうしそう。でも髪を払う仕種が案外ステキ。無造
作なところがなんだかストイックな感じがする。
あの細い指の関節の部分だけちょっと無骨に太く見えるのがカッコイイのよね。
ガーリーの特集で、『男の指ってセクシー』というテーマを取り上げたときにはあまりピンとこなかったけれど、
リリーの指を見て実感できた。
細いのに、見た目よりずっと力があるのが不思議なくらい。ことばを紡ぎだすあの指は、ときに美花に触れて
熱くする。
そのときのことを思い出してしまって、美花の胸の奥がズクンと震えた。
会うのさえ久しぶりなのだ。恋人同士のふれあいの時間を長いこと持てていない。
…ヤだ、私ったら、なにを考えてるの?
恋人は取材で古色蒼然の史料に夢中なのに、その姿にドキドキしてしまうなんて。しかもお寺で、すごく不謹慎。
ふと振り向いたリリーが、どうしたの、と首を傾げるから、美花はひたすらうろたえて、なんでもない、と首を横に
振った。
観光客相手の土産物屋が山門から先の両側に並んでいた。
「見てごらんよ、美花ちゃん。こういうのって、どこにでもあるよね。売れるのかなぁ?」
お寺の名前が入ったメダルの形のキーホルダーには、シャンシャン派手な音が響く鈴がついていて、ついでに
努力の文字も刻まれている。
「修学旅行の生徒向けかな?」
店先には、お饅頭、クッキー、お煎餅もあるし、奥の方の民芸品はけっこうな値札がついている。
「……あ、へぇ、これはなかなか……」
リリーがなにか見つけたらしい。
「なにがあったんですか?」
駆け寄って手許を覗き込んだら、色鮮やかな千代紙だった。
「あー、きれいですねぇ」
なんたって恋人の趣味は折り紙だ。家にもどっさり、折り紙や千代紙をためこんでいて、原稿の合間にせっせと
折っている。
「同じような感じの千代紙、リリー先輩のお宅にありましたよね」
そう言ったらきっぱり否定された。
「いや、この柄は初めて見るよ。これはかなり珍しいんじゃないかな。うん、なかなか侮れないね、掘り出し物って
こういうところに隠れてるんだね」
夢中になってあれこれ手に取り、これもあれもとたくさん選び、全部買っておいた方がいいかなー、などと言い
出した恋人に、美花は心の中で肩をすくめた。
安上がりな趣味である。成人男子の趣味としては、かなり特殊ではないだろうか。
「これで手毬折り紙を作ったら存在感のあるのができると思う。柄を活かして大きめに作った方がいいんじゃない
かな。どう思う?」
結局恋人は、千代紙を八束も買い込んだ。
「ごめんね。デートっていうより、これじゃあ僕の趣味につきあってもらっただけになっちゃったよね。お寺に行って、
千代紙を買って……」
買い物をすませてからリリーの案内で、大通りから外れたところにある地味な感じのティールームに入った。
「ここね、目立たないけど、ケーキがすごく美味しいんだって。うちではたいがい和菓子だから、たまにはケーキも
いいよね」
向かい合って座って、ひとつのメニューを覗き込んでケーキを選ぶと、ようやくデートをしている気分になった。
いい香りの紅茶と、軽い口溶けのアイスクリームが添えられたアップルパイ。
「シナモンが効いてて美味しい〜♪」
スイーツは心をあたたかくする。恋人と見つめ合っているともっとハッピーになる。
「今書いてる小説がアップしたら、ふたりで出かけようか。…ちょっと、遠出とか……」
リリーに言われて、美花はすぐに賛成した。
「いいですね。あまり寒くならないうちに旅行したいです。取材も兼ねて? 行きたいところ、あります?」
問いかけたら、リリーはしっかりうなずいた。
「行きたいところがあるよ。でも、取材じゃないんだ」
「え、そうなんですか?」
それは意外。取材ではなくて旅行したいなんて、まさかリリーがそんなことを言うとは思わなかった。
「それで、どこへ行きたいんです?」
それでも作家なら、どこへ行っても、取材目的じゃなくたって、いつか作品にその経験が反映されると思う。ひきこもり
傾向のある恋人が出かけたいと言うなら、美花はどこへなりともつきあう気満々だ。
「……うん……どこって、えっと……、美花ちゃんと……」
ところがリリーはそこで口ごもった。
「ん? 私と? ……行きたいところって具体的な場所じゃないんですか?」
「いや、そうじゃないんだ。えっと、つまりね…美花ちゃんの…」
そこまで言って口を閉じてしまった恋人は、紅茶をズズッと飲み干した。そのあと、ハーッと大きく息を吐く。
「……どうしたんですか? 私の、なんなんだろ……? あ、私の実家のある街とか? いいですけど、なにもない
ところですよ? 隣街は観光地で大きな神社や温泉もあるから一度行ってみましょうか? 田舎ですけど」
首を傾げつつ美花は言った。
「行ってみます? たいして面白くないと思いますけど」
付け加えたら、リリーはうなずいた。
「行くよ。面白くなくても別にいいから……あのさ、美花ちゃんのご両親にお会いしたいと思って。……どう、かな?」
いったいなんのために、と美花はしばらく考えてから、ふいに思い当たった。
「え、あ、あの…それって……」
つまりそういう意味なんだろうか。
「美花ちゃんがイヤでなければ」
「も、もちろん、イヤなはずないですー」
ドキンと胸が高鳴って、ケーキの味がいきなりわからなくなった。
妙に意識してしまったら、腕を組むことも恥ずかしくてできなくなった。
本当ならこのまま離れずに過ごしたいけれど、遅れ気味の原稿をかかえている恋人の時間を奪うわけにはいか
ない。今日はずっと一緒にいたい、朝になるまで隣にいさせてなどとわがままを言うことはできない。
帰り道、ぎこちなく半歩遅れる形で歩きながら、美花は恋人の横顔をチラチラ眺めた。
近々両親に彼を紹介する。
そうしたらどうなるんだろう。
ふたりの関係がもう一歩深まるということだ、きっと。
両親はなんと言うだろう。いやそれより恋人は両親をどう思うだろう。
考えるだけでドキドキしてくる。そのときの光景を想像しようとしたが、うまくいかない。恥ずかしくて逃げ出したく
なってしまう気がする。どうやって乗り切ろう。
美花が心の中で葛藤していたら、リリーがふと足を止めて言った。
「次の小説なんだけど……こういうのは、どう?」
耳元で、テーマをそっと囁かれた。
「あ、それ、すごくステキです!」
ロマンチックで少しばかり胸が痛んで、でもきっとうれしい涙の結末になりそうな。
「もちろんハッピーエンドですよね?」
「うん、そのつもり」
その瞬間、美花は個人的なドキドキをすっかり忘れた。
「イイですね、ぜひそれで!」
「美花ちゃんってば、いい編集さんになったねー」
そう言う恋人も、恋人より作家の顔で笑っている。
十月の風がふたりを包み込んで、スーッと吹きすぎていった。
END
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