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物言わぬスペシャリスト、土木技術者
 


価格競争が加熱し、極端な低価格落札となるので、最低制限価格を設定せよとの主張がある。

価格で競争するという前提なのだから、それに制限を加えるというのは矛盾そのものだ。もちろん、地方自治法では一般競争入札においては最低制限価格を設けることが出来る規程があるが、それにも理由がもともとない。役所には、価格の心配までしてやる、お抱え業者の考えが未だ残っているのであろう。

低価格受注が続出すると、官民双方にいろいろと問題がでると言われるが、入札制度においてそれを解決するには、右記の競争制限によるのではなく、価格(だけの)競争を採用しないという方法しかない。

官が民からの調達にあたっては価格競争によるという、公正を旨とする明治(22年公布)以来の会計法をはじめとする既存の制度では、民の技術革新の時代にあわなくなって久しい。今般、公共工事の品質確保の促進に関する法律(品確法)が成立して、以上の考えも含めて進み始めたことはご案内のことである。官需という市場機能が不足する世界でも、技術競争メカニズムが起動することが期待されている。

問題は、ここに至るまでの過程にあると考える。根本的に改革すべき現在の制度を、冒頭のような弥縫策などで運用し、あるいは偽りの価格競争という形式だけを整え、温存してきたことが、短期的な解決にはなったが、結局は現在に至る不都合の積み重ねとなってしまった。

以上は、話しの前置きである。

物言わぬスベシャリスト

このような改革の嵐の中で、建設業界は社会の厳しい糾弾を受けている。そのなかで「おやっ」と思う発言がマスコミ上であった。財務省のもと高官の発言で、不正が行われた土木業界は学官民の強いスクラムがあり、それら温床を解体しなければならない、という趣旨であった。私の違和感は、比較して針小の事件に棒大な解決策を提案した、と見たからだ。

この発言への反論はもちろんあるが、私がこの発言を聞いて、前から強く思っていることは、土木界からの発言が極端に少ないことだ。口が重たくなる理由としては、公共事業を仕事の主な対象とするので、為政者的沈黙になりがちなことと、なによりも、昔からの伝統で「国民のためになる仕事だから、言わなくてもわかってくれる」というような縁の下的使命感があるのかもしれない。プロフェッショナルの自信と口べたからくる寡黙と言えなくもない。

関連するニュースでも、最近は事件の役所側の背景として「技官だから」という理由付けが安易になされる。技術者だから悪いと決めつけているわけではなく、正邪を区分けした理路整然の反論がないから、とりあえずのスケープゴートにされている感が強い。

平成5年頃にはNHKスペシャル「テクノパワー」巨大建設の世界、現在ではNHKプロジェクトXなど放送され好評だった。土木をはじめ各分野のスペシャリストが日本の繁栄を支えてきたことは国民皆が理解している。金を動かすより、ものを作って日本は生きてきたし、これからもこのようにして技術立国はつづくだろう。

だから、技術者の実績に立脚した自信を持って、不正を認め是正していく点、誤解を解くべき部分を分けて、反論すべきなのである。黒と白をはっきり分けて論じなければ、全部が灰色にされてしまう。法律で黒のものを必要悪として陰で運用するようなことをすれば、全体を殺すことにもなりかねない。

ジェネラリストの限界(青函トンネルは世紀の愚行か)

これらの貢献者・スペシャリストに対し、一方のジェネラリストは何をしてきたか。

件のもと高官は旧大蔵省のキャリアでジェネラリストといえる。世の中の仕事を技術と事務とに分けるようになっているが、ここでは土木技術者のようなスペシャリストとそれに対するジェネラリストに分けて考えてみる。事務の区分でも、経理とか、金融とかはスペシャリストの分野になるからだ。

今まではジェネラリストの仕事の地位が高かった。大手スーパーなどで実施されている総合職としての厚遇(全国への転勤が付随する代償ともいえるが)などはこの代表例だ。この状況はどこでも同じだが、過去に問題となった旧大蔵省金融関係部局の人事システムでも似たようなものになっていた。

そこではノンキャリと呼ばれる人が金融関係のスペシャリストとして、専門性を磨いているのに対し、上司になるキャリアは大部分が大学法学部卒で又所掌の広い大蔵行政の各部局を転勤するので、金融関係の知識は相対的に少ないジェネラリストなのだ。このスペシャリストを冷遇した上下構造が、当時の金融危機に対し、旧大蔵行政が無力であった最大の原因といえる。その後、金融庁が設立されたのは専門性を高めるという見地からも当然の方向だった。

旧大蔵キャリアの専門は財政の分野だそうだが、主な仕事は予算の査定だと言う。この査定の方法は各省から要求を聞いて、限りある財政状況の下で何が優先されるかの判断をすることだ。しかし、膨大な行政項目の洪水の中で、どこまでジェネラリストとしての的確な判断が出来るのか。人間の能力を超えており、実際は無理なのではないかと私は見る。かつて、「昭和の三大馬鹿査定」と名付け、そのうちの一つである青函トンネルが世紀の無駄遣いであるとし、その建設予算を大胆に削るべきであったということを主張した、名査定官(大蔵省主計官)がいた。

しかし青函トンネルの建設(昭和36〜63年)がそんなに無駄であったのか、と首を傾げざるを得ない。今でこそ航空機時代で、北海道本州間の旅客輸送の航空シェアは95%を越えるが、当時は洞爺丸事故(昭和29年)の悲劇の直後で、四つの島に分かれ海で隔てられた我が国の宿命をカバーしようと、一刻も早いトンネルの完成が国民的な悲願だったのだ。名査定官が、長年の工期を要するトンネル完成前に顕在化したこの交通革命を見通したかどうかは定かではない。結果論かもしれないし、結果正しいとしても、国土基盤施設を経済性だけで断定しすぎている。

スペシャリストの目から見れば、現在の国内交通とくに物流の状況は決して理想ではなく、今後あるべき我が国の国土構造の改変に際し、枢要施設として脚光を再び浴びるかもしれない重要なトンネルなのだ、と言えないだろうか。そのような長い目で見た理解がジェネラリストには足りないのかもしれない。逆に査定というブレーキをかけられ続けたため、早期完成が出来ず、トンネルが最も必要とされた時代が無為に過ぎ去ってしまったとも言える。

少なくとも、他の二つ、戦果ゼロで沈没した戦艦大和(これは結果論ではなく、建艦時すでに時代遅れ)、政治圧力そのものの整備新幹線とは性格を異にするのではないか。



スペシャリストのなかでも土木技術者はこのジェネラリストに一番近い存在ではなかろうか。土木技術の分野は他の技術に比べ広い。だから、土木のある分野で専門といっても、あわせて、土木全体への総合性(ジェネラルなもの)が求められる。いきおい、土木技術内でのジェネラリストを目指すことにもなるが、ここは、専門回帰を心がけたらどうだろうか。一芸に秀でると、すべてに自信が出てくるし、かえって応用も効く。

前置きで述べた、会計法の墨守、一律適用で、招来される悪い結果に表面的判断しか下せないのはジェネラリスト的行動であろう。対して、品確法などできめ細かな対応を提案できるのは、スペシャリストだからこそ、と考えたい。

2005.8