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巨大災害であっても死者ゼロを目標に
 

昨年末のスマトラ沖地震はマグニチュード9ものエネルギー規模だったという。兵庫県南部地震が7.3だったから、その三百五十倍ものエネルギーで、主として津波被害により、死者は三十万人に達した。兵庫県南部地震による阪神淡路大震災はそれでも大都市直下型だったから、最大震度七の地震とその後の火災で、死者六千人以上となった。今年三月二十日の福岡県西方沖地震(M7.0)は日本のどこでも直下にありうる断層が動くことを覚悟させるものだった。大都市福岡の、厳密に言うと、直下でなかったことが阪神に比べて幸いした。

いずれも、このような巨大規模あるいは震源直上であっては、通常の耐震設計対象のレベルT地震の規模では扱えず、レベルU対応とすることになる。レベルUの大規模地震に対しては、通常の耐震設計でなく、構造物のある程度の損傷は免れないが、必要最小の機能は残す、という考えだ。

この「最小の機能」の考えだが、私は、「死者を出さない」ことを目標にすべきだと考える。レベルUの大規模地震だから、そもそも完全予防の考えはとれない。それでも、どの程度の防御とするかは、少なくとも死者を出さないことを目標(少なくとも、というより、そこまでしかできないが)とするのだ。

閑話休題。

わが国では、今回の新潟県中越震災でもそうだが、災害死者が出ても、すぐにそのことは忘れ去られてしまう。生きている被災者、その生活再建のほうに震後の努力が集中するのだ。今年は阪神大震災十周年で、被災者のこの間の生活の苦労が話題になった。中越震災の被害者も豪雪の中、如何に復旧に努めているかがニュースとなる。なにも、これら生者のことはどうでもよいというのではない。しかし一番大切なことは、再度災害で死者が出ないようにすることで、その予防の努力がいつの間にかおざなりになっている。寺田寅彦師の「天災は忘れられた頃やってくる」よりひどく、震後すぐに死者のことは忘れてしまう。「天災だから仕方がない」のだろうか。「死んだものは生き返らない」のは当たり前だが、次には死なないように、とは思い至らない。災害列島に住んで、次も必ず来ることはわかっている。そしてそのときの犠牲者は自分なのかもしれないのだが。

話しを戻すと、インフラあるいは個人の生活基盤の被災は経済損失だから、復旧に金をかければ、いずれだが元には戻る。死んだ人は戻らない。経済損失ではすまされないのである。ある災害で、人は何故死んだのかの追跡も必要だ。

阪神淡路大震災での大部分の死因はつぶれた自宅の下敷きになってのことだった。人は長年親しみ愛した住居に、その手入れの不備により、道連れにされるのだ。二階建ての一階がペシャンコになって、一階建てに化していたのを多く見た。体の不自由な老人が住む一階が集中攻撃を受けたのだ。一階の窓扉をアルミサッシに改築しただけで、かろうじて倒壊を免れていたのを見た。このように手で押しても倒れそうな家屋に強風対策の重い屋根がのっていたので、この地震ではひとたまりもない。これは神戸のような古くからの密集大都市の特殊事例かもしれない。だから、ある程度の耐震住宅が普及すれば、家屋損壊があっても、死ぬことからは免れるであろう。

逆に、阪神・中越ではラッキーだったが、時間帯、場所によっては、鉄道、高架道路等の被災による交通死者の多発も避けられない。

問題なのは、被災時は被傷生存していたが、その後の火災、あるいは救出、病院への搬送、治療の段階で死亡するケースが多かったことだ。消防、レスキューあるいは救急搬送体制の整備がなお求められるが、重要なのは、それら救助・消防活動のインフラとなる道路の確保である。阪神のような大都会の場合は、家屋倒壊と火災のため道路幅員が阻害され、あるいは適切な交通誘導がなされないための渋滞により、助かる命も助からなかったケースが多かったのではなかろうか。レベルU地震対応では、震後の救急車両の通行が最低限確保できる機能維持が目標であろう。「命を守る道路」の考えだ。

死者ゼロを絶対目標とし、その他の経済被害に対しては相対目標の考えで、治水安全度の方法を災害全般に広げることも可能だ。仮に「災害安全度」と名付けて、これを限りなく高めていくのは、治水安全度と同様、合理的でない。被災回避の便益と安全度確保のための費用とを比較することが、レベルUほどの(低確率の)大震災では必要となってくるからである。治水経済分析と類似の「災害経済分析」の考えが必要かもしれない。B/Cを考え、重要でない場合は、重耐震化より軽耐震+震後再建の考えが合理的なこともある。構造物のライフサイクルコストを考えた場合、寿命半ばでの耐震補強より、将来地震後の再建をあらかじめプログラムするということもありうる。

耐震設計の手法は過去の地震の被害例を積み重ねるごとに更新されてきた。震度法による単純な許容応力度法の考えから、構造物の損傷を許す保有耐力設計法まで、被害が起こるたびに「モグラたたき」のように設計法が規定され、修正されてきた。これら経験〜修正のサイクルも極限になっている現在、前記のように抜本的に考えをまとめていくことも必要ではないだろうか。

そのさいもちろん、避難による減災のソフト施策も合わせ考えることが必要だ。巨大津波への対策の場合、津波防波堤などの防御施設をあわせ拡張するのは費用的にも、通常時の生活への不便からも現実的でない。地震本体と違って津波の到達までは若干の時間的余裕があるので、逃げるのが最有効の方法だ。地震以外の洪水、高潮などの災害は予報が可能なので、あらかじめの避難が命を守ることになる。そのための対策、例えばハザードマップの作成、避難所の整備などが期待されている。

いずれにせよわが国では死者の扱いがひどすぎる。刹那的な現世での生活を重視するという、仏教の悪いとらえ方なのだろうか。これでは死んだあとでも「死にきれない」であろう。対して、慰霊碑を作るということではなく、以上の意味での慰霊の必要がない状態を目指すべきだ。

2005.3