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       新しい公共事業と良い公共事業 (建設コンサルタンツ協会会誌「明日へのJCCA」掲載)
       
−地方公共事業悪玉論でよいのか−

目次

はじめに
(1)古い公共事業には如何に悪くなったものがあるのか
(2)地域格差を助長した公共事業
(3)大都市は民活、地方は公共事業で
(4)発想をもっとリッチに
おわりに
 

 

 


はじめに

 景気対策としての公共事業の議論になると、「新しい」公共事業でないと困る、というような議論があります。筆者に言わせると公共事業に「新しい」「古い」はなく、あるのは「良い」か「悪い」かではないかと思っています。つまり、新しくなくて在来型の事業でも、「良い」公共事業があることは確かであり、それらも味噌糞に新しくないことで悪い方に区分される風潮になっているのではないかと恐れているのです。たぶんその背景には、「地方での効果の薄い事業を続けるのが在来公共事業の良くない点だ」とする大都市住民の素朴な疑問があるからでしょう。
 
(1)古い公共事業には如何に悪くなったものがあるのか

 大きな前提に、在来型の公共事業が地域の経済活性化のため大きく役立ってきた経緯があります。技術革新などの時代の変化に落伍した地場不況産業を抱える地域では、とりあえずの地域経済建て直しに、需要創出のための公共投資が必要だからです。いわば病気の経済へのカンフル注射の役割を担っているのです。その後新たな産業を興し地域経済を立て直せば、この注射は不必要になるのですが、「我が地域の主要産業は公共事業しかない」とし、ずっと注射を打ち続けている麻薬患者みたいな地域が多くでてきたのです。つまり、公共事業が大量に継続することが前提の経済構造になってしまったのです。

 公共事業は地域のインフラを整備し、その効果でのちに経済活動が活発になるという本来の役割(インフラ効果)がありますが、事業執行中にも「カンフル」作用はあり、その経済乗数も大きいことから、経済政策として万能安易に使われ、場合によってはインフラ効果の高いものから整備の順を決めるという原則がなおざりにされてしまう傾向があります。インフラ効果のあるなしは「カンフル」作用には無関係だからです。無駄の極致である戦争が経済活性化には一番という歴史がありました。

 そこで、例えばある地域にとりあえず整備順位の高いインフラ整備が必要ない場合で、「カンフル」としての公共投資が欲しい場合はどうするのでしょうか。何らかの事業を起こし、整備効果はあとで屁理屈でも考えるでしょう。このように誰でも分かる無駄な事例がなくならないのは、「カンフル」がその地域では「暗黙の正義」だし、現在の補助金制度のもとでは、その地域の少なくとも損にはならないからです。しかし、そのような事例が積み重なれば、一般国民の目に今までの公共事業全体が無駄だとの印象を植え付ける結果となります。公共事業の無駄批判に答えるため、コスト縮減の努力が試みられていますが、このように無駄な事業をまるまるやめるほど縮減になるものはありません。まずは不必要な事業を勇気を持ってやめることであり、それが全体の利益になるのです。

 ただ、政治力のベクトルが限りなく細分化した地域の利害に向かう現状では、ある程度の広域性の観点から考えなければならない公共事業の原則とは相容れず、この努力には限度があるのかも知れません。
 
(2)地域格差を助長した公共事業

 以上の正論にもかかわらず、低迷する地方経済の「カンフル」のために、公共事業が地方でも現在必要なことは論を待たないところですが、さらに現在異常な国土構造を元の正常な形に戻すという全国的な必要性から、地方のインフラを整備しているのだというもう一つの正論を再確認したい。江戸時代300の諸藩から日本が成り立っていた頃、今で言う地方の問題はありませんでした。すべての地域が特色ある発展を競い合っていたからです。それが明治以来の中央集権体制を経て、戦後高度成長時期に中央、地方の格差が開いて行き、現在それが決定的になりました。

 何故かというと、例えば海峡架橋、高速道路などの全国民が必要とする広域施設の整備の順番ですが、少しでも整備効果の高いところから始めるという、投資効果万能の考えで(有料事業として)先行して行われたのが、実は間違いでした。公共事業とは、投資効果が少し薄いが、長い目で見れば見込みのあるところにも投資が可能なことが最大の特色で、それを銀行家がするように投資経済性の優劣だけで判断し、最大効果の箇所から始めたところに誤算があったのです。なぜ順番が問題かというと、もともと地の利があるところに整備が先行するので、そこでの産業人口の集中を加速し、遅れたところの整備効果を満たす数字は反対にますます減少するばかりで、整備の根拠が永久に出てこない理屈になるのです。その結果が積み重なって、過密過疎の問題が発生したといっても過言ではありません。個々のインフラの収支は満足するかもしれないが、過密過疎の弊害による莫大な損失を見過ごしているのです。
 
(3)大都市は民活、地方は公共事業で

 現在もてはやされているPFI(民間資金等活用事業)こそ、この銀行家マインドが注目する投資効果の特に高い地域(主として大都市圏)の事業に適用すべきだった(東名名神等現在ペイしている道路公団事業は実はこの種の事業であったとも言える)し、そこでしか成り立たないものです。公共事業は、当面の収支が危うく長期に亘らないと事業の効果が検証できないことが最初から分かっている、地方での国土構造を変えるこの種の事業(例えば地域高規格道路事業、基幹港湾・空港事業など)に特に集中すべきなのです。だから昨今、国、地方の金がないからといって、これらについて一律に民間資金だよりの風潮になっているのは大きな誤解と言わざるを得ません。
 
(4)発想をもっとリッチに

 また良くない公共事業に関し、よく聞かれる指摘で、地方での例えば道路を作った後、空(す)いているから無駄だというのがあります。筆者に言わせると、空いていて何が悪いのか?この発想は、慢性的に渋滞している大都市の道路に慣らされてきた日本人の悲しい性から来ているのではないか?と思ってしまいます。今年のゴールデンウィークも新幹線、高速道路の混雑状況のニュースが例年のように溢れていました。いつものように混んでいないと(不景気だからと)きっと悲しく感じるのではないでしょうか。慢性混雑の非常識から、幹線道路だったら4車線、通常道路だったら2車線が、それぞれ正規の幅員規格で、交通量如何にかかわらず、最低必要なのだという常識に返りたい。

 関連しますが、大都市周辺でも在来型の公共事業はもう必要ないし、経済効果もないという主張があります。又、道路を例えにしますが、その道路がもし渋滞していなかったらどんなに快適で、便利になり、経済の効果もあるか、ということに頭がめぐらないのでしょう。渋滞は一般的に時間損失で評価されますが、渋滞がないと、例えば土日の観光交通などの新規発生につながり、それが観光地の経済を活性化することにもなるのです。

 このように今より豊かな日本人の生活があり得るのだという発想をしたいものです。
 
おわりに

 我が国の公共事業にはまだまだその課題が残っており、特に地方での今後の展開が期待されていることを述べ、その必要性を国民特に大都市住民に理解をしてもらう必要があることを説明しました。

 その理解のためには不必要な公共事業の思い切った中止を伴うことが不可欠です。
 必要不必要の判断は誰ができるのでしょうか。我々専門家が厳正に判断するのでなければ、詳しい内容を知らない世論任せになり、分からなければ、勢い必要なものまですべて在来型の公共事業は良くない、と判断されてしまうでしょう。

 判断すべきは中にいる我々なのです。公共事業という大船が沈みつつあるときに、船を軽くするためにどの積み荷を捨てるべきかは、乗っている者にしか分かりません。どれも惜しいからと言っていてはすべてが沈んでしまいます。ローマ帝国からソ連まで、歴史上、中からの抜本的な改革が出来なかった組織は、すべて外からの力で滅んでいったことを思い起こすべきです。それらはたぶん組織内の事情で身軽になることすら出来なかったので、外から全部を始末してもらったのでしょう。