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倫理よりも検査が重要
 


昨年からの建築強度偽装事件をめぐる議論で見落とされている重要な点がある。それは、なぜ個々の検査(建築確認)行為をもっと問題にしないのかということだ。

もちろんのことだが、瑕疵担保責任は第一義的に建築主にあり、その責任を確実にするには内部検査を徹底するのが本筋で、外部の行政による建築確認に責任転嫁できるという趣旨ではない。今回、建築主の賠償責任未遂行の一部肩代わりとして、住民に対する自治体からの公的援助がなされているが、その費用について自治体は建築主に請求・回収すべきものと位置づけられている。


倫理だけで解決するか

今回の教訓として、技術者倫理をもっと徹底させるべきだという議論がある。それは倫理軽視の時代の一般論としてはそうだが、今回の事件の場合はそれで解決する問題ではない。数ある建築士のなかで姉歯氏という特殊な人物だけ――詐欺的な罪を本人が認めているものをここでは「偽装」と定義する――が偽装作業をし、関係する組織の建築士(複数)がそれを見て見ぬふりをした消極的協力の咎でおのおの建築士免許を剥奪された。建築士あるいは技術士を含めた技術者全体の倫理がそこまで崩壊しているわけではない。

申請者はみな善人だと思っていた(性善説)ので、そこまで巧妙に偽装するとは想像できなかったと検査関係者は言い訳する。検査というのは、悪い輩がいるかもしれないから、わざわざしているのがわからないらしい。検査するとは、検査の行為を通り一遍することではなく、隠れたミス、隠した不正をできるだけ、かつ効率よく、見つけ出すことにある。見逃せば、検査をしなかったことと同じになる。

建築設計は国家免許の建築士が責任を持って実施することから、検査は必要ないはずである。重大なミスどころか不正までするようでは免許を剥奪されるから、その場限りの自滅的行為以外あり得ないし、建築士の倫理も期待できる。だから建築基準法では、建築主事のいる特定行政庁で、検査でなく「確認」することになっているのだろう。設計は確認するが、工事完了時には検査するとある。検査の対象はあくまで完成した建物であって、設計物ではない。


検査は大所をつかむ、検査の抑止機能

「さおだけ屋はなぜ潰れないか」(山田真哉)というやさしい会計学の本がベストセラーになった。会計というのは企業活動を数字でわかりやすく表現するもので、その数字も事細かにあたるのではなく、ポイントをとらえる(重要部分を抽出チェックする)ことが肝腎だ、と私は読んだ。

建築検査(確認)も会計学と同じことだ。

今回、膨大な建築設計書と図面をいちいち検査するのはもともと無理だという実情も聞かれる。阪神震災以来、申請数が急増したので民間の指定確認検査機関が登場したほどだ。報道されるところによると、事件後、あわてて構造計算ソフトを整備し、疑惑のものを計算しなおしていると聞く。

しかし、検査とは申請者の作業をそのままなぞることなのだろうか?

検査対象を俯瞰するように見て、怪しそうなものを抽出し、少し詳しく点検する。ミスあるいは不正が見つかれば、同一申請者のもののほかについては、そのミス不正の傾向をとらえて重点的にチェックする。いわゆる抽出検査の手法で、そうしなければ、申請者の作業と同じ時間を要する全量検査となってしまい、省力性、検査費用の経済性の観点から合理的とは言えない。今回の場合、計算書でなく、図面の配筋図を中心に断面あるいは鉄筋が極端に不足しているものを抽出してチェックしていくのがよいと言われた。

我が国で行われている牛肉の全頭検査も同じことだが、国民がそのように完全無欠でないと容認しない風潮となっているのは困ったことだ。今年1月に米国産牛肉を輸入解禁したとたんに、特定危険部位の混入がたまたま発見され、再び全量輸入禁止措置がとられた。これら経緯は単なるトラブルと見られがちだが、この手法がもともと合理的なのだ。一罰百戒というやつだ。

一つの罰を見せしめにすれば、ほかの大多数のほぼ善良な建築士あるいは建築物販売などの法人は免許取消しにつながるリスクは犯さない。このことが、我が国はじめ自由主義社会の自律秩序を成り立たせている。言い換えると、「商売は信用が大事」という抑止機能の常識になる。

社会正義を目指す極論で、悪事を絶対起こさせない社会を目指したら、各個人の行動を四六時中見張らないと不可能だ。そのような全数監視ではジョージ・オーウェルの「1984年」全体主義管理社会の再来となる。

ちなみに、堀江氏のライブドア問題のあとでも、証券取引法違反に対しては「事後規制」(事件が起きてからの処罰)によるのが合理的だと聞く。


悪に倫理は期待できない

今回の性善説期待の社会もそうだが、日本では事件が起きると、社会全体の善し悪しでそれらを判断する傾向にある。実際は、健全な社会に少しの悪があり、その悪に対しては特異現象の犯罪として扱うべきなのだ。

昔、下水道計画に携わっていたとき、下水道反対論者の根拠として、下水道は工場排水を受け入れるから反対だとするものがあった。たしかに下水道未整備地区で、毒性排水を夜陰に乗じて公共水域に違法放流する工場が一部あった。そこに下水道整備をし、下水道でも法的に受入不可のそれら無機排水を下水管の中に入れられたらと、管内は常時見えないこともあり、下水道への受入は犯罪助長のシステムだと言うのだ。

でも、実態を見ると、大部分の工場は法律を破ってまで下水道に毒性排水を未処理で排水などしない。だいたいは性善説を期待できる。ほんの一部の工場が犯罪を犯すのに対処するには、排水の痕跡を調査するなど、犯罪捜査の手法が適当だ。一部の悪人を見て、全体が悪いと判断する誤りだった。

建築確認とか会社の監査とかはごく一部にある悪を暴き出すところにその使命がある。検査対象母集団の倫理の傾向とは関係ない。むしろそれらの倫理に期待すると危険だ。


雇われ検査の矛盾

前述の建築確認業務を特定行政庁だけではさばききれないからと、民間の指定確認検査機関に検査対象の会社から確認・検査業務を依頼できるようになっているが、如何なものであろうか。堀江氏ライブドア粉飾決算等の犯罪あるいは米国エンロン事件などを未然に防止するために会社の監査というものがあるが、それについてもその会社から雇われ、監査報酬を受け取るようになっている。これらにはそもそも無理があるのではないか。

検査といえども民間の効率性を求めるべきなのはわかる。それが検査期間の短縮などサービスでの効率性競争にとどまっていればよいが、競争が検査に手心を加えることにまで容易に至る可能性があり、その場合は検査制度の全否定となってしまう。

だから、検査を受託する法人の形態は、少なくとも、利潤追求の株式会社でなく、公益的形態の法人止まりとすべきではないだろうか。検査依頼は検査対象会社から直接でなく、別の公的組織によって、数ある検査法人のなかから競争的に選定後、依頼し、報酬もその組織を経由して払うようにすべきだ。


建築基準は何のため

以下、表題とは若干ずれる。

建築確認行為のもととなる建築基準法にはその第一条で「建築物の最低の基準」を定めるとし、その基準の目的は「国民の生命、健康及び財産の保護を図り・・・」とある。基準のうち、集団規定と呼ばれる用途制限とか建ぺい率・容積率とかは都市に住んでいる限り他者との関係で守らなければならないのはわかる。一方、単体規定と呼ばれる強度基準など個々の建築物に関するものでは、例えば、個人が耐震性が若干劣るが経済的な自宅家屋に住む自由はあるはずで、その様な考えのとき、わざわざ建築基準法に保護してもらう必要があるのだろうか。それは自己責任社会における前時代的な保護の典型と考える。(もちろんだが、不特定の人が利用する建物ではこの限りに非ず)

ちなみに阪神震災での被災建築物による人的被害状況は多様だったが、全倒壊しあるいはその後の火災の原因となって人命被害に関係したのは老朽木造家屋が大部分だろう。それらは建築基準法上は「既存不適格」と類されるものだ。非木造のマンション等で死亡被害にまで至ったケースは、「既存不適格」などで耐震性が劣っていても、少なかったのではないか。倒壊するといっても、ペシャンコにはならず部分的損壊にとどまっていれば、人命だけはかろうじて助かるのだろう。このように財産被害だけだったら、事前に補強あるいは建て替えるより、被災後再建するという管理方法もある。

今回の強度偽装事件の対象の建築物のうち補強ができないものについて、解体建て替えまでさせるのを、すべて一律にするのはどうだったのかと思う。前記「既存不適格」物件を放置していることとのバランスもあるし、それこそ「(詐欺的販売の被害にあったとわかったうえで)耐震性が若干劣っていても、安かったし広いから、自己責任で住み続けたい」との自己財産管理の考えがある場合、行政がわざわざ「財産の保護」の方法(建て替えあるいは補強の即時実行)まで強制するいわれはない。強制に従って建て替えたとしても、想定規模以上の地震には耐え得ない。耐震性100パーセント、絶対壊れない建物はないのである。

今回、建築費用のギリギリの経済性追求にまで、安全軽視かのような言われかたをされるのは納得できない。そもそも、建築基準法で強度基準を固定するのではなく、性能設計的な考えで、強度――あるいは壊れ方のようなものを含み強度性能と呼べないだろうか――を値段との比較でチョイスできるようにならないものだろうか(もちろん、人命への影響が大きく違わない幅で)。

基準を固定するといっても、それに従うべき強度の計算方法が唯一というわけでなく、少しでも外力が許容力を超えてはならないとする従来からの「許容応力」と、ある程度の損傷・変形を許す「限界耐力」の考えが、現状でも、あるのである。


2006年3月30日