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劣化する行政技術者
 


本題「行政技術者」とは官僚のことで、行政を成り立たせる仕事の技術を持つ人、集団という意味で使っている。官僚(制)は古くは中国の王朝の絶対権力者である皇帝の手足となって働く集団(システム)だった。科挙により全国民からその技術に長けたもの(行政技術者)を選別採用したから、皇帝の意志を実現するのが行政だという意味では合理的なシステムだった。官僚制は現在の大企業など民間の組織の統治システムにも使われている。大きな組織の運営には不可欠なものだ。

この行政技術者の資質が我が国でいま劣化している。「劣化」というのは以前からあった特殊な個人の特殊事例(犯罪など)のことを言っているのではなく、組織文化的に資質劣化が蔓延していることだ。官僚制度の展望として、業務を上へ横へと広げる、政策官庁への脱皮ということがよく言われるが、このこと(の成否)とは違うし、むしろその上昇傾向に反比例し劣化している。このキャリア指向がそのよって立つ基盤業務(いわばノンキャリア的なもの)の弱体化により、砂上の楼閣のように倒壊の危機に立っているのである。典型例としての社会保険庁ほかのことは念頭にある。しかし、それら問題の個々の解決策については自明でもあるので、ここでは具体論は提起しない。以下に述べる一般論での再確認が必要だ。

官僚制の原型、旧陸軍の失敗

この問題は現在だけではない。戦前の旧日本軍、とりわけ陸軍は実は官僚組織そのものだった。しかし、軍隊を組織し敵にいかに勝つか、という軍行政技術者には徹せず、戦争に勝つための国家体制づくり政策官庁への上昇を試みた。結果、日本国そのものを支配する国家総動員体制にまでもっていき、国家を崩壊させた。

軍の位階制として大将中将少将の将官がある。将官は英語ではGeneral(統治官)と訳されるとおり、占領地の統治行政責任を負っている。ちなみに前線のトップ(連隊長)はCaptainすなわち大佐以下だ。だから、旧軍は日本国そのものも占領地と同様に考えたのではないか。

もちろんだが、戦争は戦闘だけでは勝てない。後方の兵站がなによりも重要だし、前方の敵(複数)の政治的情勢も把握した全体、すなわち戦略が重要なのは言うまでもない。

戦争に勝つ技術を任された上位の将官が以上の実務に無能で居続けたことは「失敗の本質--日本軍の組織的研究--」(戸部良一ほか著)という書物を読めばわかる。この書は戦争の勝ち負けを善悪でなく、戦争遂行の組織の良否でレビューする、当たり前といえばそうだが、画期的なものだった(その後、同傾向の書が多数)。戦争の「善悪」は別に論ずるべきだが、それは時々のイデオロギーにもとづいてしまうので、将来の評価も待つ必要があるだろう。

またついでに言えば、下位の兵隊についてもたとえば容易に捕虜となる性向があったことは、戦陣訓などでそれを強く諫めていることからもわかる。上下そのようなので、軍にとって最大義務の対米戦で惨敗したのは当然だった。それ以前に清国、帝政ロシアに勝ったのは、相手も同様に弱点を抱えていたからだ。戦争とは弱きもの同士の自己の弱さを認識しない錯誤の戦いで、どちらが余計に失敗したかで勝負が決まるのだろう。

ちなみに、米国は弱兵でも戦い勝てるように、補給などの戦争システムを構築した後、戦いに臨んだ。しかし、いまの米軍はどうなっているのだろう。過去の成功システムが現在も使えるとは限らない。

以上のことは昔の日本のことだ、との理解は正しくない。いまでも官僚組織あるいは民間の組織でも、プロセス(組織内秩序)重視で結果軽視(出たとこ勝負)の組織運営は継続している。上記書の戸部氏ほかはそのことも警告しているのだろう。

政治の混乱に不動の行政を

「天皇と東大」という立花隆氏の著作を読んだ。東大(等旧帝大)は(天皇の)官僚を養成する機関で、そのおかげで、明治政府が天皇のもと立憲君主制近代国家の歩みを進めることができた。同書は天皇官僚制の弊害のほうを主として説いているが、官僚の本来の職分だけをいえば立派で、大東亜戦争敗戦後、その官僚機構が(陸海軍以外)残って、米軍間接統治の手段として資し、その後の日本の発展につながった。有名な話で、終戦の日にも国鉄は定時に運行していたそうだ。無条件降伏したのは日本の政治と支配機構だけで、下部の鉄道省ほかは無傷だった。そこが昨今のイラクその他官僚制が未熟だった敗戦国と違うところだ。

前項で、戦争に負けたのは軍隊のせいのように書いたが、最終責任者はもちろん政治家だ。戦前の大切な時期に政党は国民の支持を完全に失う過程で、大政翼賛会という政党政治をみずから否定する国家体制に入り、戦争への道を真っ先になって進んだ。大東亜戦争は形の上では日本の民主主義政治が選択したのだ。

歴史は進んで、現在の国会の議論を見ていると、与野党は官僚制の劣化をどちらの責任にするかのなすり合いに終始している。それをみると、欧米流の政党政治は未だ根付いていないのではないかと思っている。しかしすべき政策論争はというと、戦前の失敗を反省し成熟した民主国家になったおかげで、各党での政策の違いはそうはないので、議院内閣は行政を官僚の上に立って着実に進めれば、それが政治の成果となるのである。言い換えれば、政党間の政治で決着すべき課題はそれほど多くはなく、不偏不党の行政課題が多数懸案となっているのである。

行政に対する政治主導をさらに確立するため、米国由来の行政官の政治任用が課題になっている。しかし、資格任用された官僚側から見れば政治任用制をいぶかしく思う。それは政治主導を自己利益のために阻止しようというのではなく、継続しなければならない行政を時々の政治の振幅から独立させることが必要だと思うからだ。継続的行政をいわば「天皇の官僚」として担うには、科挙ではないが、資格任用こそが必要なのでないか。

昨今「民でできるものは民に」という動きだが、それはつまり「官」でしかできないものは最後まで残るということだ。これら最少・基本の業務を行政の不動の中立性で確実に遂行することが近代国家・日本の社会を持続的に発展させるのに不可欠かつ第一の条件だと確信している。世界には前述のイラクあるいはアフリカの一部の国々など「失敗した国家」が数多いが、これらには(独裁)政治はあっても、すべて行政の中立性信頼性が欠けているのが特徴だし、それが失敗の原因といっても差し支えないだろう。
2008.8記