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山の国・ブータン紀行

 
インド亜大陸の東側に北に食い込むベンガル湾、その最北のバングラデシュの海岸から北にむかうと500Kmも平地が続く。この南北にも広大なベンガル平野のつきるところからいきなり山地となり、そこが山の国・ブータン王国である。

国境のインド側のジャイガオンとブータン側のプンツォリンは一つの市街地をなしているが、町境すなわち国境を通る街道にはブータン様式の屋根を持つ門構えが屹立しているので、わずかに区別が出来る。ここ平野のつきるところの海抜はわずか二百メートル。ブータンの北縁、中国との国境のヒマラヤ山脈は7,000m級だから、この間の急峻な山地がブータンの領域である(南北150Km、面積は九州と同程度で、横にした形状)。まるで、インドは平地、ブータンは山地と、規則があるかのようだ。
 
このプンツォリンの国境の門からわたしたちのブータンの旅は始まった。ブータンには平地は許さないごとく、すぐに急坂が始まり、日本製の中古のマイクロバスはエンジン音を高め、高度をみるみる稼ぐ。つづら折りの山肌の道から振り返ってベンガルの広大な平野を眺めると、幅広い河がいくつも望める。河々は、峡谷からいきなり平原に解き放たれ、自由気ままに流れているようだ。これら河々の浸食・堆積の作用による扇状地平野がはるか先の海まで続いているのだ。見えないが、下流の本川はブラマプトラ川。チベット高原を水源とし東流するが、ヒマラヤ山脈の東端を折り返し西流後、大河ガンジスとは海の一歩手前のバングラデシュで合流する。こちらも大河と言うにふさわしい。ブータンの山肌を浸食した幾多の河川は南流し、ベンガル平野を潤したのち、このブラマプトラ川に至る。

山肌の屈曲路はいつしか千尋の河谷の急峻な山腹を縫うようになる。道路の舗装はいつからか一車線分しか確保されなくなり、それも、重車両による破壊の穴(ボコ)の連続となり、あるいは、山側斜面の土砂崩落により泥濘と化している。ブータン人のドライバーは低速重車両を巧に追い越すなど、運転技量はなかなかのものだったが、こうなると、満足なスピードが出せない。ブータンの人口は60万人だが、どこに彼らが住んでいるのか、その都市の平坦地にはこれではいつまでも到達できないのではないかと悲観的になる。山深くの平家落人の里のようなものなのだろうか、と想像した。

170Km先、7時間悪路の果てに首都・ティンプーの谷はあった。海抜2,400mまで登り続けた先の谷ではあるが、10万人の都を収容するなだらかに開けた河谷地だ。国際空港も隣の谷にあった。そのパロの谷は谷というには広く、河谷に氾濫土砂が堆積した平坦な土地だ。それでも空港の面積はギリギリしか確保できず、両側には山が迫り、離着陸に必要な「空」が少ない。空路だと楽なようで、悪天候による離着陸困難な時間を待機するのが大変なようだ。
 

季節は雨期まっさかり。毎日毎時雨が降る。雨の強弱はあるが、雨が降らなく晴れるということはない。この時期、モンスーンの南風がベンガル湾から恒常的に吹く。熱帯のベンガル湾で風は海の湿気を十分に含み、ヒマラヤ山塊のブータンで上昇気流となって、雨雲を次から次へと作り出す。来る日も来る日も雨となるわけだ。

山紫水明と言われ、日本と同じ清流を誇る国だが、さすがこの時期だけは河川は濁流に見舞われる。それどころでない。山腹を縫う道路沿いの各谷筋もにわかに滝となる。大量の雨を含んだ山腹が耐えきれず、ほとばしる汗のように、水を噴出しているという図だ。

ブータンでは川はほとんどが南流する。その川の谷毎に都市(集落と言ってよい)があるが、それらはちょうど東西に並んでいる。しかし、それら都市を行き来するには谷の間に立ちはだかる急峻な尾根を越えなければならない。ブータンの東西幹線道路は三千メートル級の峠道をいくつも抱えている。首都・ティンプーから東隣のプナカの谷に行くには3,150mの標高のドチュ・ラ峠を越える(「ラ」は峠の意だからドチュ・ラだけでよい)。2,400から3,150を越え、降りる先のプナカの谷は1,400m程度と比較的低い。心なしか空気が濃い。冬は避寒地になるという。3,150mの峠も日本で言えば日本アルプス級だが、ブータンでは森林限界には至らないものの、灌木と蕎木の混合帯となって、その木々に万国旗のようにわたされた各色の経文旗(ルンタ)が樹下の草原の緑にひらめいているのが印象的だ。

人々と動物

短い旅行では時間の制約から、車窓からの観察が主となる。ただ、移動手段が事実上道路交通しかないブータンの人々に対しては、道路に沿った観察でほぼ全てカバーできるといってよいのであろう。動物では牛、犬が主なものだが、彼らも道路に沿って行動しているのである。

車窓からまず目につくのは、道路工事の人々の様子だ。どこの民族だろうか。ブータン人はといえば、ガイドと運転手で、着るものさえ「ゴ」と称するどてら風民族衣装+ハイソックス+革靴でなければ、日本人と区別がつかないくらいだ。ところが、道路工事に携わる人々は一目でブータン人でないことがわかる。肌の色は茶褐色、顔の彫りが深い。女性が多く、カラフルなサリー状の布をまとって工事(山を崩した岩を細かく砕く)をしている。耳ピアス、鼻ピアスが目立ち(お洒落にしているのだろうから、目立つわけだ)、工事の出で立ちとは言い難い。インド人かネパール人か。それにしても男はどこにいるのか。道路際には掘っ立て小屋の彼らの住居があり、子供たちが遊んでいる。だから家族連れの出稼ぎだろう。道路の工事費はインドからの援助だという。その工事にインドからの出稼ぎ労働者をあてているのだから、インド国内失業対策とも言える。それにしても、ブータン人は道路の仕事はしない。農業はするのだから、きついから、だけとは言えないのだが。

車窓からの観察の次は、牛だ。道路路肩の帯状の土地にはおいしそうな草(もちろん牛から見て)が生えている。それらを一心不乱に食べている。牛はインドと同じく農耕用あるいは搾乳用だという。誰かの持ち牛だろうが、集落より遠く離れた道路のところでも見かける。毎日、牛たちが自発的に道路を歩いて出かけ、夕方には戻るのだろうか。
都会に入って、まず目につく動物は(放し飼いの)犬だ。ブータン人は輪廻転生を土俗的に信じているから、犬をいじめる人はいない。病気や痩せた犬もいないので、誰かがえさをやっているのであろう。犬たちは群れで行動する。観光客たちがガイドを先頭に集団で歩くそばを、犬たちは彼らの都合で集団行動する。人犬入り混じった社会で、何やらおかしな風景と言えなくもない。深夜になると夜行性の犬社会の天国だ。彼らだけの町の通りをやかましく吠えながらの大競演状態となる。地元の人は文句を言わない。ホテルの観光客は眠れないが、がまんする。ここでは、犬の社会が人間社会と共存している。

前述のプンツォリンの国境をインド側に出ると、人々、牛々、その他の動物たち、それにオートリキシャなどの乗り物が道路を埋めている。あらためて、人口密度の低いブータンでは道路の通行人、通行物が少ないことが実感させられた。

道路の交通は日本と同じ左側通行だ。インドもそうだが、これは植民地宗主国イギリスにならったのかもしれない。隣国が左だから、ブータンも、と理解しがちだが、そうとも言えない理由を宗教から見つけてしまった。
 
ブータンの国教はチベット仏教だ。仏陀の死後、仏教が西域経由で中国、朝鮮、日本へと伝わった(大乗仏教)。その流れでチベット仏教が栄えたが、ヒマラヤを越えてそれがブータンにも伝わった。チベット仏教でよく知られているが、あのマニ車という経文を記した縦円筒を回すと、その回数だけお経を読んだことになり、功徳を積めるという。ブータンにもあらゆるお寺(ラカン)にこのマニ車が備えてある。お寺の本堂の回りの壁に埋め込まれているが、一つだけ守らなければならないことがある。回すときは右回り厳守。マニ車の表面を右から左に回す(正式には下の軸を回す)。上から見ると時計回り。お寺の壁に沿って数多いマニ車を順々に回すのだが、その順序も右回り。マニ車を右から左に回し、その勢いで、左の次のマニ車を回せば、自然と全体のコースも右回りとなる。

ブータンの人はこの右回りが習い性となっており、人も車も道の障害物を避けるとき、右回りになるようにする。すなわち、左側を通るようにして回る。だから、左側通行でないとならないのだろう。