『ほんあづま』2000年6月号巻頭言


 「八島何故出て来ない。すぐ来い。天理大学が全国大会に優勝して、祝賀会が東本で行なわれているだ。」「私は柔道部ではありません。ラグビー部ですよ。」「東本で祝賀会が行なわれているのに、天大OBとして出て来ないという事があるか、早く来い。」「行きます、行きます。」

 時は、天理大学が東本大教会を宿舎にして、柔道の全国大会に出場し、優勝し、東本大教会の三階大広間で優勝祝賀会が始まった時である。人は天理柔道の総帥、中山正信氏からの電話である。急いで東本へ行き、三階の会場に顔を出すと、挨拶もそこそこに「二人だけになれる所があるか」と言うので、一階の青年ホールへ行き、二人だけの話になり深夜に至るまで続いた。
 『ほんあづま』の論調が、『稿本天理教教祖伝』のフィクションの洗い直しを進めて、すでに、こかんさんの大阪布教が、作り話である事が誌上で証明されていたのである。

 分家「あまり教祖伝をほじるなよ」
 八島「今、内部から発表しなければ取返しがつかなくなります。外部からあばかれたらどうします。山本周五郎が『樅の樹は残った』という小説を書いてから、極悪人原田甲斐が、実は仙台藩を救った忠臣であったと、常識が変わっています。今までの日本は天皇制軍国主義の思想統制があって真実が説けなかった。今から真実を説く、教祖伝の編纂をやり直す、と教会本部が発表すれば、混乱は起こりません。教内はうすうす気づいていながら、何時本部が真実を言ってくれるか待っているのです。後れたら皆が背を向けます。そうなったら取返しがつきません。」
 分家「八島が知っている嘘だけではないのだ。真実を知ったら皆が怒って、我々を中庭に引き出して殺すだろう。」
 八島「本部から発表すればそんな事は起こりません。」

 豪気な御分家中山正信氏の言葉の中に怯えを感じた。私の頭の中に、戦後ニュースで見た、イタリアのムッソリーニがパルチザンに殺され、逆さ吊りにされた場面が走馬燈のように走った。
 それから約二昔の歳月が流れた。正信氏が亡くなって十年、その間におつとめを教祖が教えた通りに復元すべき人が、また、ひながたを正すべき人が次々と世を去り、或いは教外に押し出され、みかぐらうたを歌い、教祖の教えを手踊りで、自分の身体で表せる人が次々と教団に背を向け、教えを求めても得られず、修養科生は十分の一に減り、教会は三分の一以上が活動を停止している。
 拝み祈祷を営業政策にした神道天理教は迷信家の集団と化して教祖の教えは亡びようとしているのである。
 昔、神道になるために、教祖を警察に売った。十余年前ひながたを顕彰し、おつとめの復元につとめている櫟本分署跡参考館を教外のものと断定した。然し今日櫟本のつとめ場所を見ると、捨てた良心の種が育って花咲くように教祖の教えた通り教祖と共に歌い、踊り、誠の心を取戻し、人の喜びを見て楽しむ心を我が身体で表す、世界たすけの働きの中心になるべき人が続々と誕生している。櫟本を苗床にして世界中に良心の花を咲かせなくてはならない。