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梯子乗りの歴史 |
火消しと梯子乗りの歴史は、江戸時代にさかのぼる。破壊消火が主体であった江戸時代には、鳶職人(とび)が使う鳶が重要な消火器具であり、 そのため火消し人足は、彼ら鳶職人がこれにあたった。 梯子乗りは、大名が勤めた大名火消しが発端(ほったん)といわれ、 なかでも加賀前田家の加賀鳶がそのルーツとされている。 そして町火消しへと波及(はきゅう)したものといわれている。 第七分団(当分団)の梯子乗りがいつ頃から始められたのか明らかではないが、 藤田龍洲(りゅうしゅう)がまとめた 『平出消防史』(大正9年編、当分団所蔵)によると、 明治22年(1889年)に平出消防三組(い組・一番組・平二組)が、 旧伊那町の上伊那郡役所と伊那警察署の竣工(しゅんこう)式に 6本の梯子を立てたと伝えられているのが初見である。 《その様子は、「雲龍水(うんりゅうすい)より放水し、 雨と降る散水に纏(まとい)勇ましく振り立つれば、六挺(ろくてい) の楷梯(はしご)は、一斉に立てられ楷子(はしご)乗りの曲芸、 或(あるい)は、大の字、或は、腹亀、又た背亀、釣亀等の好技(こうぎ) を演ずれば観衆全く酔へるが如く感歎暫(かんたんしばら)く鳴くも止まざりし」 と記されている。》 > 大正7年、平出消防三組は、平出消防組となり、昭和24年には、朝日村消防団平出分団、 その後は、昭和32年辰野町消防団第九分団、そして現在の第七分団になった。 現在、頭を中心に、乗り手10人のほか、組み手(長鳶8本、鳶8本で梯子を支える) と担当をきめて分団内に梯子組織を作り、訓練を重ねている。 昭和50年代に諏訪豊田で梯子作りの指導をうけ、以来、 毎年秋に下伊那へ青竹取りと梯子を新調するようになった。 又、昭和60年代には、江戸消防記念会に出向いて研修を実施した。 現在は、茅野市消防団ちの分団の上原と梯子乗りの交流を行っている。 又、分団の出初式をはじめ、最近では町団の出初式にも式典後のアトラクションとして梯子の披露をしている。 【梯子乗りの演技】 原則として最初に「遠見」を行い、「邯鄲」(かんたん)に入る。 中国のことわざの「邯鄲夢の枕」からとったもので、腕枕をした型をきめて横一の字に体をのばす技である。 そして「八艘」(はっそう)「鶴」は、源義経の壇ノ浦での八艘跳びをイメージした型で、 一本の竹の先端に膝頭をのせて全身をささえる技である。 この三つが梯子乗りの基本技になっていて、後は、これを基にしての連続技に入る。 他に、大の字、腹亀、肝つぶし、足掛け、しゃちほこ等がある。 |
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梯子の簡単解説 |
| 高さ約6.7m、幅約60cmの竹製の梯子によって披露される。 |
平成29年度 梯子組織![]() |
| ○乗り手頭 赤羽 義幸 ○組み手頭 宮澤 昌宏 |