home works workshop straw mexico notebook profile

notebook new

notebook 0 1 2 3 4 5 6 7 8 9 new

下小屋

建築工房 藁 の作業場は4間×5間。そこに数台の木工機や様々な道具類、沢山の端材、畳やら左官道具やらガラクタまで、色いろ放り込んでいて飽和状態。
次回の仕事のため、今の工房を延長する形で、丸太足場を使って屋根を掛ける作業をした。
下小屋

こういう大工の仮設の作業場のことを「下小屋」という。
下小屋の「下」とは、下準備の「下」、下ごしらえの「下」かなと勝手に思っている。でも多分そんな感じでしょう。
下小屋

そこへ材料が運び込まれた。
今回は杉の構造材。今回運び込まれたのは横架材のみ。柱や土台は、この刻みが終われば搬入する予定。量的にはこの倍はありそう。
下小屋

これらの梁や桁、棟木の材料、ほとんどが6寸(180ミリ)角以上。一番大きいので9寸(270ミリ)角。
材料を運んでくれた製材所の若い人二人と、こちらも二人の合計四人で下小屋に運び入れたが、二人で動かすのがやっとという材料もあって、かなりの重労働だった。
下小屋

丸太足場にトタンの屋根をかければ、下小屋は完成。
このトタンも、以前に色いろな所からもらってきて取っておいたもの。邪魔な時もあったけど、捨てなくて良かった。

今年は6月〜7月にかけて雨が多く、下小屋の必要性を感じていた。雨が降ると外で作業が出来ないからね。
また夏場は、こういう屋根があると、直射日光を避ける事が出来るので、仕事の効率が上がるんだ。
丸太の下小屋は、仕事としては丸太足場の延長。間伐材の杉の小径木を、番線で縛っていく作業。この構造結構丈夫で、20年は平気でもつと思う。まさに下小屋には最適。
この下小屋で、これから墨つけと刻みが始まる。
2010年7月


安曇野パーマカルチャー塾2010

今年もやっています安曇野パーマカルチャー塾
今年も、建築実習の講師として、毎月塾生の皆さんと建築に励んでいる。

今年のテーマは、ガーデンハウス。
シャンティクティのナチュラルガーデンに似合うガーデンハウスを建てようと、皆で作業を進めている。
5月から材料の墨つけ刻みが始まり、今月はなんと建て方まで出来てしまった。
来月8月に屋根の下地を作って建前で餅まきをする予定。

毎回カメラは持っていくんだけど写真を撮っている余裕がない。というより、塾のHPがとても充実しているので、わざわざ写真を撮る気がしないというのが本当のところかな。
7月のパーマカルチャー塾の様子はこちらからどうぞ。

2010年7月


石積みの家

以前、ある建築雑誌の表紙に石積みの家が紹介されているのを見て衝撃を受けた。そして思った。こんな家が日本にあるんだ。しかも長野県に。いつか実際に行って見てみたいな、それ以来ずっとそう思っていた。

念ずれば通ズ、と言うか、先日友人を通じて、その石積みの家を作ったNさんの知り合いの方を紹介して頂き、みんなでその石積みの家を訪問させて頂いた。
石積みの家

現在母屋、風呂棟、瞑想小屋と3つの建物があり、こちらは瞑想小屋。中に入れてもらったがとても落ち着ける雰囲気。石の壁の厚さは40センチ以上あり、中の温度は一年通じてほぼ一定だそうだ。

石積みの家

こちらはNさんが最初に建てた母屋。全ての作業を一人で、5年がかりで建てられたそうだ。素晴らしい。
石積みの家

そしてこちらは、現在建築中の4棟目の建物。以前メキシコやグアテマラで訪れたマヤの遺跡を思い出した。見事な石の構造物。ビックリだ。

これらの建物に使った石は、全て現場から掘り出した物。それらを仕分けし、積みやすいように一つ一つ表面を加工。1列ずつ仮積みしたあとモルタルで固定。そのようにして壁の内外を積み、中には更に石を詰めていくという、気の遠くなるような作業。いやー、すごいです。

素晴らしい建物を見せて頂き、本当に勉強になったし刺激を受けた。始めてお会いする我々を快く受け入れてくれて親切に説明してくださったNさんや奥さんの人柄にも感激。ありがとうございました。

ところで、Nさんの本職は庭師。このお宅、石の家も素晴らしかったが、それ以上に、手入れの行き届いた庭が素晴らしかった。家と庭とは二つで一つ。どちらもお互いの引き立て役。石積みの家を訪ねて感じたこと。

2010年7月


引越しました

6月のとある木曜日、10数年住んだ茅野の借家を引き払い、隣町の富士見に引越しをした。
引越しに伴い、しばらく(半月ほど)の間インターネットが使えずとても不便だった。
プロバイダーを変えるつもりで色いろ探したが、この辺りは光もだめ、他のプロバイダーもパッとせず、結局今まで同様、地元ケーブルテレビのお世話になることになった。
(そんな訳で、何日間かHPが見られない状況が続きました。心配して連絡を下さった方、ありがとうございました。無事復旧しました。今後とも「建築工房 藁」をどうぞご贔屓に)

引越しはしたが、まだダンボールに埋まって暮らしている状況。片付けも済んでおらず、ぜんぜん落ち着かない。と言うより、まだ工事が終わっていないのに住み始めたという感じ。(玄関のドアも工事中のままだし)まあ大工の自宅なんてそんなものかな。

引越しって大変だよね。何かとエネルギーを使う。家族が増えた今では尚更。
引越しをして体調を崩す人がいるというのもよく分かる。すごいストレスだよね。
そんなストレスやら不便さやら色いろあるが、家族全員元気にやっています。とりあえずご報告まで。

引越しに伴い、住所が変わりました。プロフィールを見てください。仕事や親しくお付き合いのある方にはハガキを出す予定。でもまだこれから準備するんだけどね。

2010年7月


漆喰

壁に和紙を張ったのは、その上に漆喰を塗って仕上げるため。
2階はしばらくそのままで行くつもりだが、1階は和紙の上に漆喰塗って仕上げた。
こちらも自分で施工するつもりがそうもいかず、いつも土壁塗りなど手伝ってもらっている左官屋さんにお願いすることに。
漆喰

和紙の状態でもかなり良いなーと思ったが、漆喰を塗ってみるとやはりこちらの方が数段上。手間をかけただけのことはありますな。家のグレードがぐっと上がった感じ。

漆喰

壁を塗る場合、床の養生は必須。
2階は漆喰も塗らず、ほぼ仕上がったので先日養生をはがした。この養生をはがす瞬間が結構楽しみだったりする。
漆喰

床はヒノキの無垢板。いつもお世話になっている伊那の製材所で、節の少ない良い材料を入れて頂いた。
養生をはがし、工事中モードから一気に完成モードへ。

2010年5月


壁紙

今どきの家は、石膏ボードの上にビニルクロス(壁紙)を貼って仕上げるのが主流。この工法だと、安く、早く、きれいに仕上がるので、安いが売りのメーカーハウスなどでは大人気の工法。
最近ではクロスにも様々な種類があって、自然素材のものも出ている。接着剤も昔のように、シックハウスの原因になるようなものは排除され、かなり改善された模様。只、ビニールの壁はいかにも味気ないし、湿気を通さないので、結露やカビの原因になる場合が多い。

今建築中の、富士山の見える家の壁は、3寸(9cm)×1寸3分(4p)の材木を積み重ねた積層構造になっている。そこに漆喰を塗って仕上げる予定だが、木材を積み重ねた上に壁を塗る場合、何らかの下地が必要。そのまま施工すると、アクが出たりひび割れたりしてしまう。
そこで今回考えたのが、その上に和紙を貼って下地とし、その上に漆喰を塗るという方法。
普通壁紙に使う和紙は高価なものだが、損紙(いわゆるB級品)をメーカーから分けてもらうことが出来、実現した。
壁紙

最初は自分で貼るつもりだったけれど、他の仕事で手が回らず、近くの表具屋さんに頼んで手伝ってもらった。
表具屋さんといっても、今は内装全般の仕事をされているそうだ。
壁紙

写真の道具は、壁紙にのりをつける機械。この機械無しに、紙にのりをつける作業はとても考えられない。
それを自分で、しかも手作業でやろうとしていたんだから、全く無謀というか‥‥。もしやっていたとしたら、果たしてどれだか時間がかかったかわからない。(汗)
壁紙

2階に和紙を張ったところ。壁が白くなると、部屋が明るく広くなったような気がする。更に下地の木と和紙の効果で、室内の空気がさらっときれいになったようで、何とも気持ちが良い。
和紙を貼った雰囲気が良いので、2階の壁はしばらくこのままにすることにした。

2010年5月


建具作製

必要に迫られて建具を自作。
建具

枠は、以前仕入れた米杉の、節の無い良いものばかりはねて取っておいたもの。鏡板も同じ米杉。
この巨大なハタガネ(ポニークランプ)は、4、5年前にネットオークションで買ってあった。今まで使う機会が無かったが、近くの金物屋でこれに合うパイプを発見。ようやく日の目を見た。
建具

戸車を付け、枠に合わせてようやく完成。
建具

全部で10本以上の板戸を作った。
慣れない作業で思ったこと。建具の取り付けは、ミリ単位の正確さが要求される。当然のことだが、ベースとなる床(敷居)、柱、鴨居などがきっちり出来ていないと、取り付けがとても大変。改めてそのことを実感。この経験、これからの仕事にも生きるはず。職人たるもの、生涯勉強です。

2010年6月


キッチン

富士山の見える家、キッチンの引き出しに前板と取っ手を付けた。
板は全て工場にあった古材。何年も置きっぱなしにしていたボロボロの材料が、プレーナーをかけると見違えるほどきれいになった。
5種類ほどの樹種があり、色や質感の違いが面白い。組み合わせを試してみたが、最終的にこの配列に。
キッチン

キッチン全体としてはこんな感じ。
キッチン

ガス台とシンクは対面式にして、リビングの方を向いて作業できる作り。手元が丸見えにならないよう、少し高めのカウンターをつけた。カウンターの天板は、何年か前に近くで伐採していた桜の木をもらって製材しておいたものを使った。
日本に生えている木は、ほとんどが家具や棚板などインテリアにも、また場合によっては構造材にも使うことが出来る。
それをいきなり薪にしたり、チップにしたり、或いは捨てたりするのは、いかにもモッタイナイ。もっともっと活用、或いは利用する術があるはずだ。

2010年5月


シベリア抑留体験記〜叔父の手記より〜3


戦争の惨禍 続

満州にいた日本人の男は皆、我々と同じように抑留され、ソ連兵に看視された。数日後、我々をソ連のウラジオ港から日本へ帰すという知らせを皆信じて貨車に乗る。
奉天の駅には朝鮮を通って日本へ帰国する女性たちが乗った貨車が何十両も停まっている。兵隊さん頑張って、と我が身のことも忘れて、どの貨車からも我々を励ましてくれた。北に向かっている我々を見てソ連へ連れて行かれると思ったに違いない。励ましてくれている女性たちに、我々は只、手を振って応えるだけで何もしてやれない。悔しい情けない思いだけがこみ上げる。

道中何事もなく、無事日本へ帰って欲しい。帰れるだろうかと心配が頭をよぎる。敗戦とは、女子供にとっては地獄のような恐ろしさ、女ばかりの夜道を集団で逃避、寒さと飢えで乳飲み子は泣く、泣くと襲われて皆に迷惑がかかる。母親たちは皆、断腸の思いで我が子を満人に託したのであります。
残留の我が子と会うために目印にと子供の足に火傷を負わせ、その傷跡を見て親子の名乗りが出来たと、涙の出るような孤児との対面をテレビで見ました。

十月一日、我々はいよいよ国境の黒河を北安丸外輪船でバシャバシャと水音を立てながら、対岸のソ連領土、ブラゴエに渡る。女性たちがスカートに皮長靴という服装で馬鈴薯を掘っていた。私は何か文化の違いを感じる。
我々の貨車が東へ向かえば日本へ、北へ向かえばモスクワになる。運命の岐路、東へ向くと喜びの歓声、北へ向くと落胆の声。次第に夕日が沈む。北西へ向かって行く。まんまと騙されたことに気付き皆力を落す。帰国の夢敗れ、もうだめかと観念した。

列車が止まると、決まったようにソ連の女たちがパンを抱えて品物と交換を呼びかけて近寄ってくる。腹ペコな我々は、身に付けている品物とパンを交換した。だんだん無くなり、しまいには出発の時奉天で作った、赤い布の越中フンドシを洗濯して干してあるのを見て、特に欲しがり、大きなパンをくれた。赤布はソ連の赤だから女たちは特に貴重な布であった。交換した赤い布は、紐を抜いて頭へかぶり満足そうに引き上げていく。我々はなんとなく良心がとがめる。

輸送も長くなると色いろな知恵がついてきて、寝るときの窮屈を直すために隣同士、頭と足を交互にしたら、寝返りも何とかすることが出来るようになった。走っている貨車の扉を少し開けて、小便をすることも覚えた。
シベリア本線の駅付近は至るところに糞の山、何十万の日本軍が通った証拠だ。汽車は、果てしない草原、湿地帯をどこまでも北へ北へと進んでいく。右に大海のようなバイカル湖が青黒い水をたたえ、大きな波を打っている。

一週間目の十月八日、チレンホーヤの駅から我々の貨車は支線に入り、長い暗い窮屈な貨車の旅路の終着地、マカリオという松林の中にある小さな町であった。二千キロの旅も終わり、降り出した雪の中これからいかなる生活が始まるのか不安な気持ちで足取りも重く、収容所の建物に向かった。


つづく
2010年5月


子供のこと

現在、わが家の子供は3人。上が5歳、次が3歳、その下が1歳。
同じ兄弟なのに、3人それぞれ性格が違っていて面白い。
一番上のお姉ちゃんはしっかり者、2番目の長男はちょっと泣き虫のしみったれ、3人目の次男はマイペースでいつもおでこにコブを作っているヤンチャさんだ。
3人とも動物が好き。先日、井戸尻遺跡のロバに会いに行ってきた。3人とも、柵の周りの草を採ってロバにあげるのに夢中になっていた。
子供たち


むかしの話。今は亡き東八郎さんが、テレビ番組で子供たちの話をしていた。僕がまだ小学生の頃だったと思う。その頃NHKでやっていた「満点パパ」という番組で、子供が5人もいる理由について、自分が一人っ子で寂しかったから、と話していたのを覚えている。その気持ちよく分かる。僕も一人っ子だったから。

子供は一人でも多い方が良いと思う。少子化の現代は尚更だ。ただ今の世の中、たくさん子供を持つのは大変だ。何かと費用もかかるし、いろんな面で子供を育てにくい環境になってしまった。子供が巻き込まれる犯罪も多い。それに最近では、出産すら出来ない地域が増えてしまった。日本という国は、どうしてこんな事になってしまったのだろう。
行政というのは、実は何もしてくれない。むしろ様々な規制によって、子育ての邪魔をされているというのが実感。
まあそれはさておき、子供を持つということは、楽しみ半分、心配半分。それでも子供は多い方が良いと思う。

2010年5月


ヤギ

子供の頃、最も身近な動物の一つがヤギだった。
昭和30〜40年代、信州伊那谷にはまだたくさんの家畜がいた。普通に牛や馬を飼っている家もあったし、ヤギはむしろポピュラーな動物だった。
近くの友人の家にもヤギがいて、遊びに行くとよくヤギの乳を飲ませてくれた。
あのちょっと癖のある独特の味は、子供の頃を思い出す懐かしい味の一つだ。

ヤギは農家で飼っていることが多かった。それは、繋いでおけば周りの草を食べてくれるから。
エンジンの草刈機などまだなかった頃、ヤギは草刈という農作業をしてくれる貴重な存在だったのだ。
その上乳まで出してくれる。
昔、まだ粉ミルクもなかった頃、乳の出ないお母さんが、生まれたばかりの赤ちゃんにヤギの乳を与えたという話を聞いた。赤ちゃんに牛乳を飲ますとお腹を壊すが、ヤギの乳はそうしたトラブルがないそうだ。
ヤギが、より身近に感じられる話だ。

先日、ある方からヤギが欲しいと相談を受けた。
たまたま知り合いで、ヤギを飼っている人がいたので、その人のところに話を聞きに行くと、ある人を紹介された。
富士見町でヤギを飼っているKさん。
そこには子ヤギも含めて、5頭のヤギがいた。
ヤギ

久しぶりにヤギを近くで見たけど、やっぱりヤギっていいね。何ともいえない愛嬌のある顔をしている。
Kさんも、農家でもっとヤギを飼うべきだ、と言っていたが、全く同感。
草刈にわざわざ農薬やガソリンを使うことはないのだ。

この日はKさんに、ヤギについて色いろなことを教わった。
こんなに近くにKさんのような人がいるなんて、なんだかとても嬉しくなった。
それにしてもこのKさん、白いあごひげを生やし、ヤギにそっくりだった。

2010年4月


安曇野パーマカルチャー塾2010

今年も始まりました、安曇野パーマカルチャー塾。
昨年に続き、建築実習の講師として声を掛けて頂いた。ありがたいことです。
今年1年かけて参加者の皆さんと共に、一つの建物を造ることになった。
パーマカルチャー塾

今年のテーマは、ガーデンハウス。
みんなで知恵を出し合って、使いやすくわくわくするような楽しいガーデンハウスが出来れば良いと思う。
安曇野パーマカルチャー塾のページも是非ご覧下さい。

2010年4月


春の雪


朝、目が覚めると一面の銀世界。この時期にしては珍しい。
6時頃には雪がやみ、7時過ぎにはもう太陽が顔を出してきた。こんな日には八ヶ岳山麓の素晴らしい景色が楽しみなのだ。早速カメラを持って、わくわくしながら仕事に向かった。
春の雪

左は蓼科山。右側には八ヶ岳が広がっている。あいにくこの時間帯、雲がかかっていて八ヶ岳の写真は撮れなかった。
春の雪

折角咲いていた梅の花も雪の中に。この辺りはまだ桜は咲いていない。例年5月の連休頃が桜の見ごろ。
この雪で今年の冬も終わりかな。

2010年4月


シベリア抑留体験記〜叔父の手記より〜2


戦争の惨禍 続

釜山へ一泊、歩くのに船酔いで気分が悪い。急行アジアで朝鮮半島を縦断し、列車を乗り換え中国北京へ。そして我々初年兵四十六名は重機関銃の要員となり、三ヶ月の厳しい教育を受ける。

三度の食事は現地の粟と、高粱の雑穀飯、おまけに砂でジャリジャリ、かめないので飲み込めず、目が廻る忙しさの中、水でよろげて食べた。小さな杯に砂が半分くらいたまる。現地農民から買う穀物、兵隊を病気にしたり穀物の目方を増やすための一挙両得、中国人は実に商魂がたくましい。

七月大地も焼けつく暑さ。澄んだ井戸水だが石灰分が多く、知らずに生水を飲んで赤痢患者が続出、初年兵はみな入院。死者が二人も出た。私も同じように水を飲んだが、お陰に一日の下痢ですぐに直った。入院しなかったのは私一人だけでした。

大きな作戦に始めて出動。山間部の夜道を眠らずの行軍。馬の尻尾につかまってうとうとと眠りながら、一昼夜かけて目的地に着いた。私は始めて戦闘を体験、ぴしぴしと弾丸が飛んできた。

戦友が熱さのため日射病で戦死。
あの戦いは敵に待ち伏せされて、機関銃で撃ちまくられて、隠れるところもなく裸の山に一日中へばりついて動けない。太陽が焼きつくように照りつける。もう水筒の水はとっくにない。腹が減っていても、口が乾いて何も喉を通らない。下のほうを見るとキラキラと水が光って見える。水を飲みたい。戦闘も山砲の応援で敵も退散。ようやく山を下り、我先に争うように兵馬が歩いた。道のたまり水をはいつくばって飲む。水の大切なことを知る。そしてにごり水を飲んでも不思議に腹をこわした者はいませんでした。
昭和十九年戦局は日本にとってだんだんと不利になってきた。

ラバウル島の歌

 一、さらばラバウルよ又来るまでは
   しばし別れの涙がにじむ
   恋しなつかしあの島見れば
   やしの葉かげに十字星

 二、波のしぶきで眠れぬ夜は
   語りあかそよデッキの上で
   星がまたたくあの星みれば
   くわえタバコもほろ苦い

この歌は北支の我々の戦地にまでも聞こえてきた。我々は重機の中隊で、いつも愛馬と行動をともにしていて、この歌が懐かしい。

愛馬進軍歌

一、国を出てから幾月ぞ
  共に死ぬ気でこの馬と
  せめて進んだ山や川
  取って手綱に血が通う

二、昨日落したトーカケで
  今日は仮寝の高いびき
  馬よりぐっすり眠れたか
  明日の戦は手強いぞ

昭和二十年となり、敗戦への道をまっしぐらにたどることになる。中国へもB29が毎日飛んでくるようになった。我々が沖縄へ行くとか、九州へ行くとか、色いろ噂話はあったが、我々の舞台は満州の奉天へ移動した。
タコツボと言って、人間一人入れるほどの穴を掘って箱爆弾を抱えて隠れ、ソ連の戦車のキャタピラーへ飛び込む訓練ばかりを毎日毎日していた。自爆の死である。

昭和二十年八月九日零時、ソ連が参戦。明治三十七年の日露戦争。日本は奉天で勝ち、海ではバルチック艦隊を日本海で壊滅して日本が大国ロシアに勝った。
ソ連のスターリンは日本の無条件降伏を知って、仕掛けたのは、日露戦争の報復戦と言える。
ソ連軍がどんどん南下してきた。我々に必要な箱爆弾は最後まで届かず、竹やりで戦車に向かうが如し、死を覚悟する。

八月十五日、部隊長より日本は無条件降伏したと全員に伝えられた。死を目前にしていた我々は、正直これで生きて我が家へ帰れるんだと心密かに喜んだのは私だけではなかったと思う。部隊はまとまって行動するから逃亡などしないよう伝達があった。
数日後ソ連軍が奉天まで南下、我々は一戦も交える事もなく武装を解除され丸腰となり、捕虜となって抑留される。

つづく
2010年4月


”安曇野パーマカルチャー塾2010”参加者募集中!

昨年1年間にわたり、建築実習の講師としてお手伝いさせて頂いた”安曇野パーマカルチャー塾”。
毎年20名の定員がすぐに一杯になってしまうほど人気の講座だが、今年は3月に入った今も空きがあり、ラッキーなことにまだ申し込めるそうだ。
安曇野パーマカルチャー塾

興味のある方は、安曇野パーマカルチャー塾のHPをご覧下頂き、同ページから申し込んでください。

パーマカルチャーについてはもちろんのこと、自然農、建築、自然エネルギーや貿易・経済のこと、更に日本ミツバチや食事、医療のことなど、幅広く体験し学ぶことが出来ます。
そして何と言っても魅力的なのは、同じ価値観を持った仲間が出来ること。
スタッフ・講師陣も充実しています。
一人でも多くの人に参加し、体験してほしい講座です。

2010年3月


チェーンソーカービング

一度やってみたいと思いながら、今までやる機会のなかったチェーンソーカービング。
先日仕事現場でお会いした、チェーンソーカービングの第1人者、安曇野のBANさんに指導して頂いて初チャレンジ。
道具もBANのをお借りして、カービングの基礎、ふくろうを作った。
チェーンソーカービング

その日の午後、急遽行われたカービングの講習会。受講したのは、ぼくとログビルダーのT君。
T君は普段からチェーンソーを使い慣れているせいか、羽の模様がとてもきれいで感心した。さすがという感じ。彼もカービングははじめてとのこと。
この3羽のふくろう。右から師匠のBANさん、T君、ぼくの作品。
チェーンソーカービング

うしろ姿。
さすがに師匠の作品は生き生きとしていて、まるで本物のようだ。
チェーンソーカービング

はじめてチェーンソーカービングをやってみたが、難しかったけれど思ったよりも何とかなった。
まあ師匠の指導が良かったのだけど。あっちを削りこっちを削り、何とか一応ふくろうに見えるものが出来た。
こういう芸術的なモノは、作った人の性格やセンスが出るものだな。
師匠に「これは売れるぞ」と言ってもらったが、まだまだ。売り物にできるとは、自分では納得していない。そうやってハマっていくのかな。

思っていたよりも楽しかったチェーンソーカービング。これにハマル人の気持ちがよく分かった。

2010年3月


シベリア抑留体験記〜叔父の手記より〜1

実家の本家では、従兄弟が代表となってグループホームをやっている。その従兄弟から、毎月機関紙が届く。そこに今年89歳になる叔父が毎回記事を書いている。今月号から、叔父がシベリアに抑留された体験記が連載されるようになった。以前にも少し書いたが、叔父は太平洋戦争で中国へ送られ、戦後3年半にわたりシベリアに抑留された。今まで叔父からは折に触れ、断片的に戦争の話を聞かされたが、いつか詳しい話を聞きたいと思いつつ今日まで来てしまった。叔父もまだまだ元気とはいえ、来年は90歳という年齢。この体験記はぼくにとっても、いつか叔父から聞いておかなければならないと思っていた話。記録のためにも、ここに転載させて頂く。(尚、読みやすくするため、多少の添削を加えました)

まえがき
杉山 茂

確か昨年秋だったと思います。義理の弟のSさんが私に、兄さんはシベリアに連行され、捕虜となって強制労働させられた、そのときの体験を知っている人も今は少なくなった。このままでは次第に他人事のようになって忘れ去られてしまいます。是非シベリアへ抑留されたことを書き残してください。と言われました。

私は今日まで、シベリアの話は余りしませんでした。なぜかと言えば、聞きたいという人も無く、また余り自慢できる話ではないので、つい口を閉じておりました。Sさんの言葉を聴いてから、私は考えました。そうだ、私がなめた悲惨な体験を再び若い者たちに決してなめさせたくない。そう思いつき書き残すことにしました。

あれからもう半世紀以上が経過しました。当時のことを思い出して書いていると、戦友たちの面影が次から次へと浮かんでくる。北支とシベリアで特に心に強く刻まれた苦しみと、喜びの記憶を書きました。

戦争の惨禍

昭和十八年私は二十二歳、日本はいまや残るか滅亡するかと言う太平洋戦争の真っ只中でありました。私たちは男子として国のため、父母兄弟姉妹のために、たとえこの身は一髪土に残さず散っても悔いはないと思った。世界を相手の今日の戦いは、きっと死ぬかもしれない、生きては返れない、立派に恥ずかしくないように死のうと思っていた。

現代の感覚からすれば、おかしく思うかもしれないが、少年時代からそのような教育を受けて育った。私たちには不思議な事でもなく、当然であった。昭和十八年一月九日郷里鼎下山村の駅を出発、家を出る時はおばあさんと父母妹、玄関まで、近所の方々へ挨拶をし、万歳で見送ってくれる。

新潟の高田までの車中は指定列車で入営する仲間と、付き添いの家人でいっぱいであった。

夕刻列車は、白一色豪雪の高田市に着いた。指定された兵営近くの旅館へ着く。

一月十日入営。軍服に着替えてきていた国民服は家へ小包で送り返す。高田での訓練は、わずか十八日間であったが、兵器と一緒の油くさい兵舎。夜は細く丸めた冷たい毛布の寝台にもぐりこむ。我が家のぬくもりを思い出す。

国を出るためか家族との面会があり父が来てくれた。体に気をつけてと言葉は少ないがもうこれが最後になるのではと思う親の寂しさは如何ばかりであったかと思う。 十八年一月二十八日、雪の高田を出発。出陣式は吹雪の中で真夜中の営庭であった。部隊長が、皇国は今や存亡のとき、諸士の尽忠報国ご健闘を祈る、と挨拶。手を振って送ってくれる。そしてその四ヶ月後、山崎隊長が率いる高田連帯は北のアッツ島で玉砕。散る桜残る桜も散る桜。我々も散る桜であることに変わりはなかった。

高田から我々は中央線と北陸線周りの二手に分かれる。列車の窓は外から見えないようカーテンを引く。出発十八年一月三十日、下関で乗船。関釜連絡船の金剛丸。祖国日本との別れがきた。生きて再び見ることもあらじ。と船の丸窓から港を眺める。だんだん遠ざかる祖国。のぞいてはいけないと注意をされるが次々と来ては丸窓を半開きにして眺める。

さらば祖国よ栄えあれ、我は行く、熱いものがこみ上げてくる。さようなら日本。やがて祖国は小雪の彼方に消えていった。

暁に祈る
一、あああの顔であの声で
  手柄たのむと妻や子が
  ちぎれる程に振った旗
  遠い雲間にまた浮かぶ
二、ああ堂々の輸送船
  さらば祖国よ栄えあれ
  遥かに拝む宮城の
  空に誓ったこの決意

六番まであるが、当時をしみじみと思い出す歌。

つづく

2010年3月


”安曇野パーマカルチャー塾2010”参加者募集中!

昨年1年間にわたり、建築実習の講師としてお手伝いさせて頂いた”安曇野パーマカルチャー塾”。
毎年20名の定員がすぐに一杯になってしまうほど人気の講座だが、今年は3月に入った今も空きがあり、ラッキーなことにまだ申し込めるそうだ。
安曇野パーマカルチャー塾

興味のある方は、安曇野パーマカルチャー塾のHPをご覧下頂き、同ページから申し込んでください。

パーマカルチャーについてはもちろんのこと、自然農、建築、自然エネルギーや貿易・経済のこと、更に日本ミツバチや食事、医療のことなど、幅広く体験し学ぶことが出来ます。
そして何と言っても魅力的なのは、同じ価値観を持った仲間が出来ること。
スタッフ・講師陣も充実しています。
一人でも多くの人に参加し、体験してほしい講座です。

2010年3月


キッチンカウンター

現在製作中の、長さ約4メートルのキッチンカウンター。アイランド型キッチンシンクの向かい側に設置し、上は作業台になり、下は収納として引き出しや扉を取り付ける予定。
キッチンカウンター

引き出しは、上部は高さ130ミリで統一、その他は200ミリと300ミリの合計3種類、全部で20の引き出しをつける。ここにキッチン小物からグラスや食器まで、キッチンで使うものは、ほとんど全て収めることができる。
キッチンカウンター

キッチンでは、普段使う食器や小物類はなるべく近くにしまっておいて、すぐに取り出せるのが理想。作業台の下を引き出し式の収納にすることで、取り出しやすく、しかもかなりの量の収納が可能になる。
「見せない収納」がお好きな方にはお勧め。

2010年2月


気球

日曜日、家族で買い物に行こうと車で家を出たら、上空を気球が飛んでいた。かなり低空飛行で、乗っている人の顔がわかるくらい。途中路肩に車を止めて、気球を見ている車が何台もあった。
気球

ちょうど我が家の自動車の進行方向と、気球が飛んでいく方向が同じだった。大きな道で右折すると、うちの車を追いかけるように、気球がこちらに向かって飛んで来た。車を止めて眺めていると、気球はどんどん高度を落し、近くの田んぼ脇の畦道に着陸。気球って、意外と思った場所に降りられるんだな。
子供たちも大喜び、車を降りてはしゃいでいた。近くには、同じように家族連れの車が何台も集まって来て、写真を撮ったり、近くに行ったりして、みんな笑顔。気球ってそういう魅力がある。
気球

何年か前、うちの上空を飛んでいた気球を写真で撮ったが、この日もあの時と同じ気球のようだ。

原村にある八ヶ岳実践大学の、芝生の広場では、シーズンになると休日などによく気球を飛ばしている。そこに行くと一人千円くらいで気球に乗せてくれる。気球はロープで車に固定されていて、30メートルほど上にあがって、しばらくすると降りてくる。それだけの事だが、結構人気があるようで、いつもたくさんの人が集まっている。
気球を趣味でやるのには、結構お金がかかるだろうな。そのための資金集めにも、そういうイベントが役立っているのかもしれない。
そういう下世話な話はともかく、ふわふわと飛ぶ気球を見ると、つい追いかけて行きたくなるのは何故だろう。

2010年2月


樹氷

一昨日は、2月には珍しく一日中雨。その日は暖かかったが、夜から冷え込み、山沿いでは雪。次の日はとても寒かった。
翌朝仕事に行く途中、あまりの景色の美しさに車を止めて写真を撮った。
景色

もう10年近く前の話。サンフランシスコに住む友人のところに行った時、ヨセミテ国立公園に連れて行ってくれた。その時も季節は冬。ヨセミテでロッジを借りて1泊したが、ロッジに入るために先ず雪かきをしたのを覚えている。冬のヨセミテはとても美しく、トレッキングで4時間ほど歩いたが、景色の美しさは感動ものだった。
雪が降って美しい景色に出会うと、あの時のことを思い出す。スケールは違うが、八ヶ岳山麓の冬の美しさも、なかなかのものだ。
景色

特にこの日は、雨が降ったあとに急に冷え込んだ事で、木々についた水分が凍って、樹氷になっていた。この光景、この辺りでもとても珍しい。
景色

現場に着くと、足場から出来たツララの先に、線香花火のように氷の結晶が。気温が低い時だけ見ることが出来る自然の芸術作品。

2010年2月


餃子

餃子は大好きな食べ物の一つ。今までの人生、餃子にまつわる想い出も多い。

子供の頃、家が飲食店を営んでいて、餃子がメニューに載っていた時期があった。祖母と母が居間で毎日のように、何百という餃子を包んでいた。ある年の誕生日、夕食に何が食べたいと聞かれ、迷わず「餃子」と答えたものだ。祖母や母の手作り餃子、味は忘れてしまったが美味しかったな。

今まで食べた中で美味しかったベスト3に入るのが、台湾で食べた水餃子。台湾では1年間生活したが、そこの食堂では台湾人のおばちゃんが3食食事を作ってくれていた。そのおばちゃんが作る水餃子は絶品で、台湾では他でも水餃子はたくさん食べたが、これに勝るものはなかった。台湾では水餃子は主食で、日本のようにおかずとしてごはんと一緒に食べる事はしなかった。水餃子がメニューの日は、朝学校に行く前に「今日は水餃子を作るが、いくつ食べるか?」と聞かれ、30とか40とか答えていたと思う。台湾の水餃子は、餃子を茹でたお湯でスープを作るのも特徴で、これまた絶品。水餃子の日は餃子とスープだけというシンプルなメニューながら、その日が待ち遠しかった。あの水餃子、またいつか食べてみたいな。

台湾では水餃子が一般的だが、日本では何と言っても焼き餃子だ。餃子はカレーや焼肉同様、もうすっかり日本食と言っていいかも知れない。日本で食べた餃子で衝撃的うまさだったのが、金沢で食べたホワイト餃子だ。だいぶ前にこのページでも紹介したが、お饅頭のような形で、焼くというよりも油で揚げるという感じ。その割りにあっさりとしていて、とても美味しかった。フライパンの形に焼きあがった餃子が印象的だった。

今でも餃子はお気に入りのメニューだが、最近では冷凍や惣菜もの、生の餃子を買ってきてうちで焼いて食べる、ということが増えたかな。なんだかちょっと味気ない。それでも時々、嫁さんが皮を買ってきて包んで焼いてくれることがある。餃子というのは結構難しくて、皮も大事だし、具の作り方でも味が違ってしまう。そしてもう一つ、焼き方も重要だ。いつもなかなかうまく行かない事が多いのだが、この日の餃子は、皮選びも、具の味付けも、焼き具合も、とてもうまくいった。

餃子

なんでも前日に、ママ友が料理教室に誘ってくれて、そこで簡単な餃子の作り方と焼き方を教わったらしい。この日の餃子は子供達にも大好評。特に2番目の3歳男児なんて、まだ食うのか、と言うくらい食べていた。これが買ってきてものにはない、母の味なんだよな。そういうのが子供の記憶に残るんだな。
うちの餃子もだんだんとレベルが上がってきたようだ。まだこれから餃子にまつわるエピソードが増えそうだ。

2010年2月


ベーシックインカム

社会保険庁の不祥事は、日本の年金制度を根本から見直す良いチャンスだと思っていたが、結局お役所の名前が変わっただけで、仕組みの複雑さや国民年金と厚生年金の不公平感は相変わらず。折角巡って来た千歳一遇のチャンスをみすみす逃したも同然。ア〜アという感じ。
それならいっそうのこと、消費税を20%くらいにして、北欧並みに高福祉高負担の国にした方がよっぽどましだ。そう思っていたら、最近ベーシックインカムなる考え方が、広まりつつあるのだという。

ベーシックインカムとは、様々な説明の仕方があるようだが、その時ラジオで聞いた説明がとてもわかりやすかった。
考え方としては、これから始まる子供手当てを子供から大人まで、国民全員に拡大したイメージ。国が国民全員に同じ金額を、一生涯支給する。
国民一人当たり、例えば年間80万円支給すると、約100兆円の予算が必要になる。ではその財源をどうするのか。
日本人が働いてもらう給与の総額は、約200兆円といわれている。そこで給与の半分50%をその財源に充てれば、決して不可能な話しではない。
でも普通に考えて、給与の半分を税金で持っていかれたら大変だ。ところが、この仕組みだとむしろ年収が増える人の方が多いのだ。
例えば、夫婦と子供二人の4人家族で年収300万円の家の場合。300万円の半分の150万円が税金でとられるが一人当たり80万円ずつもらえるので、150万+80万×4=470万円となり、170万円も年収が増える。
4人家族で年収600万円の家の場合、300万+80万×4=620万円となり、こちらも年収は増える。
一方、4人家族で年収1200万円の家は、600万+80万×4=920万円で、こちらは年収は下がる。
つまり、低い所得の人ほど年収は増え高所得者は年収が減る。それによって収入による格差が少なくなるというメリットが生まれる。
その他にも、収入を気にせず、好きな仕事、やりたい仕事に就ける。社会保障制度を簡素化でき、公務員の数を減らす事ができる。年金も必要なく様々な福祉制度もシンプルに出来る。など、メリットはたくさん考えられる。
一方デメリットとしては、きつい仕事、みんなが嫌がる仕事は、更に敬遠される。働かない人、労働意欲をなくす人が増える。などが考えられる。

この制度、今すぐ実現するとはとても考えられないし、仮にそうなっても、想像以上の悪影響を与える危険性もはらんでいる気がするので、今すぐ実現されても困るのだが、今までのように、行き当たりばったりで複雑になってしまった今の社会制度をリセットする意味で、みんなで検討するのはとても良いことだと思う。そうすることで、もっと良いアイデアが生まれるかもしれない。
いずれにしてもベーシックインカムという考え方、これからあちこちで注目され、話題にされるような気がする。

2010年2月


囲炉裏

以前から、知り合いに頼まれていた囲炉裏を作ることに。
材料は、数年前近くで伐採したクリの木を自然乾燥させておいたもの。4メートルの材を半分に切って、それを長手に使う。
囲炉裏

短手は赤松。
囲炉裏

それらを組み立てるとこんな感じになった。
囲炉裏

これに足をつけ、色を塗れば完成。塗料は、柿渋にベンガラと硝煙を混ぜたものを使おうと思っている。
どんな囲炉裏が出来るのか、楽しみ。
2010年2月


謹賀新年

年末年始は、姫路にある嫁さんの実家に、家族全員で里帰り。
嫁さんの実家は兵庫県の姫路市。瀬戸内海に面したこの辺りは、近くに観光名所がたくさんあるが、今回は瀬戸内海、日生(ひなせ)の頭島という小さな島に1泊の家族旅行。その帰りに備前の伊部(いんべ)に寄った。
全国的に有名な備前焼だが、伊部にはその窯元がたくさんある。

以前も書いたが、嫁さんの親父さんはかつて土門拳先生の元で数年間アシスタントをしていた。その後写真家として独立したが、その経歴から、焼物や民具、寺社建築、仏像など、様々なジャンルの美術品や工芸品に驚くほど詳しい。
一緒に旅行していて、ちょっと立ち寄った博物館に飾ってある写真を見て「これは俺が撮った写真や」ということがよくある。
茅野市に国宝で「縄文のビーナス」と呼ばれている土偶が発掘された「尖り石考古館」というのがあるが、そこのいくつかの写真も、以前義父が撮ったものだとか。びっくりだ。

伊部ではいくつも窯元の店を覗いたが、その義父の解説のおかげで、備前焼についてずいぶん勉強になった。
その時唯一買った備前焼の水滴。
水滴とは、墨をする時に硯に水を入れる道具、昔の文房具の一つだ。
こういう物はやはり、古いものに良い物があるようだが、値段もそれなりで、とても一般人が手を出せるようなものではない。
今回買った新品は、値段も3,000円ほどと手ごろ。気軽に使えそうな値段だが、いま字を書くためにわざわざ墨をするなどということはほとんど無く、この水滴もいつ出番が来ることやら。

骨董というか、古い道具や民具には昔から興味があった。それが備前を少し歩いたことで、焼物についても興味が湧いてきた。
幸い嫁さんの実家には、そういった類の本がたくさんある。年末年始、嫁さんの実家で子供の面倒を見ながら、焼物や骨董の本を読み漁った。

それにしても古いものって、何ともいえない魅力がある。
工芸品でも民具でも、同じようなものを今作っても、古いものとは趣が違うんだよね。
もの(家)づくりに携わる一人として、そういう仕事が出来たらなと思った新年でした。

今年もよろしくお願い致します。

2010年1月


このページの最初に戻る