タパチューラでのホテル生活

タパチューラはメキシコ最南端のチアパス州の海岸沿いにある。隣国のグアテマラまで約30キロの国境の町だ。
1980年代、日本からの最初の移民が船で到着した所で、日系移民にゆかりのある町だ。
熱帯の気候で、1年を通して蒸し暑く、特産品はコーヒーや、マンゴー、パイナップル、バナナ、パパイヤ等の果物だ。
人口は1万人位だろうか。大きなスーパーマーケットや大学もあって、1年間生活したがあまり不便は感じなかった。

3年間暮らしたメキシコシティーを離れ、タパチューラで新たな生活の拠点となったのは、現地の日系人の方が経営しておられた「ホテル・ロベルト」だ。
コンクリートブロック2階建てで、2階の一部がオーナーの住居になっている、部屋数10室ほどの小さなホテルだ。
このホテルのオーナー、ロベルト氏が、こちらにいる間自由に泊まって良いと言ってくれた。つまり無料だ。
「グラッシアス」を連発して部屋を見に行ってびっくりした。
1階玄関ホール横の3畳くらいの部屋だったが、ベットの横に便座。眠たいときは便利で良いが、囚人のような気分になってしまう。おまけに窓には防犯のための鉄格子だ。
慌ててオーナーに、部屋を変えてくれるよう頼んだ。
次に連れて行かれたのは2階の部屋で、こちらはトイレとシャワーがカーテンで仕切られている。最初からここにしろよと思いながら、1年間生活する場所が決まった。

住む所が決まれば次は食事の心配だ。下見に来た時、日系人会の一人の方が「うちで食べればいい」と言ってくれていたので確認してみると、話し合いで日系人会のメンバーの家で、1ヶ月ごとの持ち回りと決まったらしい。
今月はこの家でと、小柄なセニョーラを紹介された。そのお宅は小さな食堂を営んでいて、結局1年間食事はそこで頂いた。
食事と言っても朝はパンとコーヒー、昼はトルティージャと1品、夜もパンという簡単なもので、しばらくすると朝晩は自分で食べて、昼だけそこに食べに行くという生活になった。

セニョーラの息子「ファン」とはすぐに仲良くなった。
ファンはまだ20歳そこそこだが、嫁さんと1歳の娘がいた。
暇な時はファンを誘ってよく飲みに出かけた。
その度に、地元のおもしろい店に連れて行ってくれた。
そのお宅はおばあさんが日系2世で「辻」と言う苗字だった。もちろん日本語は話せない。
自分のお父さんだという白黒の写真を見せて頂いたが、軍服姿でとてもりりしい姿だった。

1年間お世話になってこう言うのもなんだが、ホテル・ロベルトは国境のいわゆる「安宿」で、中米からメキシコに来た人たちがよく利用しているようだった。
「安宿」というのには理由があって、値段が安いということもあるが、とにかく作りがちゃちなのだ。
外壁は、一応コンクリートブロックを積んだ作りのようだったが、建物も結構古く、塗装が所々はげている。
シャワーも水しか出ない。
問題は部屋の仕切りで、3ミリ程のベニヤが隣の部屋との壁なのだ。
会話は筒抜け、隣の部屋に客がいるときはバリバリ人の気配を感じながら生活していた。おまけに壁にいくつも穴が開いている。何箇所かはふさいであったが、夜は隣の部屋の明かりが漏れて来てプラネタリウムのようだった。
隣の部屋に客が来ることは、そんなにしょっちゅうあるわけではなかったが、休みの日には連泊する人もいた。
カップルが泊まった時は最悪で、夜になると声が聞こえて来ることがある。
ファンとファンの友達が何人か遊びに来て、部屋でビールを飲んでいた時も、隣の部屋にカップルが泊まっていて声が聞こえてきた。みんな電気を消して、穴から覗いて騒いでいたが、最後まで覗く気にはならなかった。

お世話になったホテルだが、後半は空けることが多くなった。
グアテマラに行ったり、近くの村で泊まったりすることが多くなったからだ。
2、3日ホテルを空ける時は、従業員に言って出ると、留守の間は客をとってくれた。

一度バスの都合で、夜中の3時ごろホテルに戻ったことがあった。入り口の鉄格子を叩く、とカウンターの下で寝ていた従業員が、起きて鍵を開けてくれた。
こういうところで働く人は貧しい人たちが多い。2人いた従業員も、いずれも裕福ではないが、こんな所で寝ているのかとびっくりした。何しろタイルの上に布団もなしで寝ているのだ。
従業員にはチップの代わりに、時々缶ビールを買ったり、パンを買ったりしたが、渡すととても喜んでくれた。

ホテル・ロベルトはまだ営業しているだろうか。
もし機会があればまた泊まってみたいものだ。
ベットの横が便座の部屋は勘弁だが。

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