死って、なんだろう。
 知っているようで、知らないもの。
 誰もが知っているらしくて、そのくせ誰も私には教えてくれなかった。

 命って、なんだろう。
 大切なものなのだろうか。みんなは大切に扱えという。
 でも私は、肝心な場面で、それが大切に扱われているのは見たことがない。
 私にも命があって、私は生きているのだろうか。
 生きている、ということになっているらしい。どうも。

 ご飯を食べないと死ぬらしい。
 でもご飯を食べるのはお腹が減るからであって、死ぬからじゃない。
 でも死ぬらしい。そういうことになってるらしい。
 だったら、この大きな歯に喉笛を噛み切られても、私は死ぬのだろうか。
 そう、この、今まさに、私の首を目指して向かってくるこの歯。
 涎でべたべたの、黄ばんだ、鋭い歯。
 一噛みで骨ごともっていくかもしれない。
 そして私は死ぬ。命を失って。
 大変だ。それは大変だ。
 (本当はどうでもいい)
 よくわからない命とかいうものを失って、よくわからない死とかいう状態になる。
 今までも、そんなような人生だった。たくさん、いろんなよくわからないものを失って、いろんなよくわからない状態になった。
 だったら、死ぬのも怖くない。別段嫌でもない。無感情。

 でも、
 だったらなぜ、
 私は、
 まだ戦いをやめようと思えないのだろうか。

 戦う。こいつを殺す。殺せる。まだ殺せる。殺しきれる。
 やる。やる。どこまでもやってやる。
 私の内側の、どこか暗い部分から、ほの暗い川底から噴き出す清水のように、澄んだ殺意が膨れ上がっていく。
 憎しみも怒りも悲しみもない、無色の殺意。

 

 

 


 

黒銀のイセナ!

 


 

 

 

 共和国小暦第2巡118年鞍の月2日。
 北方、ホップスーデン知事預領内、シウスノウス村。
 荒野と山林の小さな村である。家屋総数僅か30戸。住む人々は皆、自給自足以外の生きる道を知らない。
 共和国連帯世界が放つ文明の曙光、その到達の限界点と言えるであろうこの辺境の小さな村落に、悪魔が出現した。

 悪魔。
 この世界のあらゆる獣を征服した我等文明人の、最後にして最悪の敵。
 異形の肉体に人間並み、或いはそれ以上の知性を持ち、人に害を為す。
 不明存在。どんな系統の生物にも属さない。どこから来るのか、なぜ人と敵対するのか、今に至るもその一切が不明。
 分かっているのはただ2つ。人類共通の敵であること、そしてその並外れた強さ。
 上級に位置する悪魔ならば、都市を丸ごと皆殺しにできるだろう。
 去年一年間で中央教会(悪魔に関してだけは、未だ我々がこのアナクロニズムな組織の手を借りねばならないという事自体が、悪魔の脅威を物語っている)から手配を受けた悪魔の総数は342。
 その内"上級"と認定された個体はたった12。しかし悪魔の手による死者は、上級と、それ以下全てを足した数では、前者の方が多い。
 上級悪魔への対策は、未だに都市設計上の大きな課題である。
 しかし、その日シウスノウスに姿を現したのは、上級悪魔ではなかった。
 どうという事もない下級悪魔である。突撃兵が一個分隊あれば、難なく処分できようという程度の。
 もしこれがもう少し大きな町、例えばシウスノウスからやや近いクランニオンやゲセルデー辺りならば、そのような悪魔は城壁に遮られ甲兵に打ちのめされ、酒場のうわさ話にもなりはしなかっただろう。(恐らく悪魔自身もそれを自覚していた筈だ)  しかしシウスノウスには城壁はない。甲兵もいない。彼らを外敵から守る物と言えば狼避けのための柵、狩りのためのささやかな量と質の武具、そして農具だけだ。
 下級とはいえ悪魔ならば片手で牛を引き裂く怪力がある。臆病な農耕従事者たちが、その意志ある災厄に対してどのように抵抗できたかは想像に難くない。
 結果、悪魔は幼子2人と娘1人を喰らい、村はずれの小さな礼拝堂に収まった。  村は耐え切れぬ悲嘆と恐怖と怒りのうめきの中で夜を迎えた。
 そして、その夜起きたことが村人たちをさらに臆病にした。真夜中、村長の家に何かが投げ込まれた。
 「それ」を見た女たちは残らず気を失った。
 真黒い液体を滴らすそれは、事が起こると同時に、町への報せに発たせていた村の青年の、首から下を滅茶苦茶に切り刻まれた死体であった。
 新たな悲鳴と嗚咽が村に響き渡り始める頃、村長は闇の底から低い低い声を聞いた。

「心セヨ」「心セヨ人ノ子ラ」「汝ラ逃ゲル者、己ノ死ニ行ク様ヲ見ン」

 なるほど可哀想な青年は悪魔の言うその通りに殺されたに違いなかった。
 そして気が付くと村長の孫娘が、食いちぎられた片足を残して消えていた。
 朝を待って村を出る支度をしていた村人達は泣き叫んだ。
 そうして彼らは悟った。悪魔は誰一人として、彼らが生き長らえることを許しはしないつもりだ、と。

 それから。
 恐怖がシウスノウスのありとあらゆる全てを支配することになった。
 しかし、それでも。彼らはまだ絶望したわけではなかった。

 ――町への報せに発った若者は、1人ではなかった。

 もっとも、彼が生きて町へたどり着けたかどうかはまだ村人の知るところではなかった。
 しかしそれでも希望には違いなかった。

 

 

 

 まあ、別にそれほど珍しい光景、でもない。
 この町、ノースカルビデンのような割合小さな駅町の酒場にとっては、"よくあること"の一つにしてしまってもいい事である。
 ぼろぼろの服を着た青年が入ってきて、失礼にもタンブラー一杯口にせず、大声で何かを喚き散らす、というような事だ。
 別に何が悪いのでもない。これほど必死な青年に責任を押しつけるのは酷だし、さりとてその青年の要求を聞ききれなかった町役場に責任があるわけでもない。  今日はたまたまそういう日だったのだ、と、酒場の客は諦めをつけて何となく酒を飲んでいる。

「誰か、誰かいませんか!僕の村のために戦ってくれる戦士の方は!」

 これで何回目か分からない悲痛な口上が響いた。
 もちろん誰の名乗りもない。若者に反応する者は誰もいない。腰に長剣や斧を携えた連中の中からも。当然だ。
 教会からの手配がない、素性の知れない悪魔に、たかだか30戸の村から捻り出した謝礼のために戦いを挑もうする者は、余程の強者かどうしようもない馬鹿のどちらかだ。
 前者で、それもたった1人で悪魔を倒せる者ならばその額でもいいだろう。その場合謝礼はすべてそいつの者だからだ。
 並の戦士では、10人単位でチームを組まなければならないし、その場合、山分けにするにはその額はあまりにも少なすぎる。
 後者でも問題はない。どうしようもない馬鹿が死ぬのは大いに結構な事だ。
 つまり、ここには余程の強者もいなければどうしようもない馬鹿もいないのだ。

 グラスや皿の触れ合う音だけが聞こえる。ぼろぼろの青年はまた同じ事を叫ぼうとして、深い深い嘆息と共にカウンターのスツールに寄りかかった。
 元よりあまり期待はしていなかった。確かに、この町では警備をほったらかして彼の村まで悪魔退治に向かえる程兵士は潤沢ではなかった。
 酒場にしても、金でしか動かない傭兵たちが自分たちの村を値踏みすれば、明らかに勘定が合わない事もわかる。
 それでも、悪魔に蹂躙されている村を発ち、仲間とはぐれ、這々の体で辿り着いたこの町に、彼はやはり希望を抱かずにはいられなかった。
 町役場では、クランニオンの甲兵連隊に応援を要請すると言ってくれた。だがそれでは遅すぎるのだ。
 クランニオンから甲兵が馬に牽かれてやってくる間に、彼の大切な人たちが一体何人悪魔の餌になるのか、考えたくもない。
 どうしても、どうしても今すぐに、悪魔を倒すための手だてを用意しなければならないというのに――。

「もう駄目だ」

 何も思いつかない。自分を頼って送り出してくれた村のみんなの顔が浮かぶ。
 その中には、もう殺されてしまった子供達の顔もある。
 そして不安そうに彼を見送ってくれたあの娘の顔。

「畜生ォ…」

 カウンターの天板に、ぽつりぽつりと涙の粒が落ちた。
 悪魔の強大な力と、世間の冷酷な現実の狭間で、何もできない自分の無力がなによりも悔しい。
 彼のうめきの他は、水を打ったように静かだ。
 熊のような体躯とヒゲのマスターが、若者の肩に手を置いた。

「何か、飲むかい」

 若者は首を振った。

「金、持ってませんから」
「いらんよ。俺のおごりだ」
「じゃあ、水を」

 マスターはグラスに水を注いでカウンターに置いた。
 可哀想な若者とその村に、彼がしてやれる唯一の事だった。
 若者はマスターに小さく礼を言い、グラスを手にとって、冷えた水を口に含んだ。
 走り、叫び、熱く爛れた喉と身体が――

「よっしゃ決めたッ!!」

 突如上がった素っ頓狂な声の主にいきなり背中を叩かれ、若者は水を噴き出した。

「い、いきなり何するんで――」
「いやいや、兄ちゃん、アンタええ運しとるで」
「は?」

 呆気にとられる若者をよそに、いつの間にか隣に座っていたその声の主――若い眼鏡の女――はうんうん、と1人で納得して頷いている。
 短く刈った赤毛に小柄な身体。猫に似たシルエット。

「悪魔ポテクリコカせるよーな強い奴探してんのやろ?」
「え、ええまあ」

 若者はもちろん、酒場中がこの妙な女に注目していた。
 この女は余程の強者か、はたまたどうしようもない馬鹿か。
 たぶん後者だ、と、若者と女を除く皆が思った。

「おるねん、それが」
「え?ほ、本当ですか!?」

 若者の顔が輝きだした。
 女はニカっ、と怪しげに笑い、

「もちろん、ちょっと高うつくんやケドな」

 

 

 

 "黒銀"と呼ばれる戦闘屋がいる。
 と、その妙な女は言った。

「黒銀さん……ですか?」

 妙な女、彼女が名乗るところによれば「ウチは旅商人のジルゆーもんや。愛と正義と現ナマのごっつええ感じの味方、やで!」だそうだが、とにかく彼女の知り合いで、しかも上手い具合にここしばらくノースカルビデンに逗留しているらしい。

「うーん、まあ、聞いたことないかもしれへんなあ」

 これは武芸者、傭兵、殺し屋、退魔士(この辺りの区別はまったく曖昧としたモノなのだが)などの戦闘屋に共通して言える事なのだが、彼らは強くなればなるほど、そして有名になればなるほど、無評判をかき立てられる事を嫌う傾向がある。
 なぜなら、彼らの技は自ら研鑽に研鑽を重ねて編み出した秘伝であり、名前と共にその技の内容が広まってしまえば、それに備えられ、どうしようもない弱点を突かれてしまう事になる。
 目だちたがり屋は長生きできない職種なのだ。
「だからや、滅多に自分からは名乗らんし、名乗って仕事を請け負うときにも、自分の戦いを人に見せたりはせえへん」

 そうするとどうしても名に頼って荒稼ぎ、など言うことはできなくなる。ホンマ因果な商売やで、とジルは言った。

「まァ、隠しきれん部分もあるし、さすがに同業者ン中じゃ多少、名が通ってるけどな」
「じゃその人、強い……んですか?」

 彼の言葉に、ジルは憤慨した顔で、

「あったりまえや!ボク、商人(あきんど)舐めとったらあかんで?誰が悪魔相手に勝ち目のないモン紹介するかっちゅーねん」
「すみません」

 それでも、青年――シウスノウス村のオーリンという名前の――は少しでも安心したようで、少しぎこちなくとも嬉しそうな笑顔をジルに向けた。

「でも、それなら良かった……ありがとうございます!」
「いや、まあ、戦う前からそない感謝されても……ゴニョゴニョ」

 オーリン青年の真っ直ぐな視線から、気まずそうに目を逸らしながらジルは呟いた。
「でもな」ジルは一転して厳しい目でオーリンを見て言った。「これだけは覚悟しといて欲しい」

「?」
「悪魔との戦いで絶対はあれへん。上級悪魔が出て来よったら、アイツかてグショグショに殺されるし、下級やったって、予想もせえへんような技、持っとったら同じや。力そのものは大したことなくても、悪魔ゆーんは不確定性の化身や」
「フカクテイセイ……?」
「要するにや、誰にも予想つかん事しよるし、それが1対1のドツキ合いやったらなおさら、や。アイツは強いから、大丈夫やとは思うけど……それでも、ひょっとしたら皆殺しにされるくらいの覚悟はしとかなあかんで」

 オーリンは自分の喉が生唾を飲み込む音を、初めて自分の耳で聞いた。

「ま、それさえ分かっとってもらえれば、あとは…」

 ジルはまたニカッと笑って右手の親指と人差し指で輪を作ってゆらゆらと振り、

「これだけのハナシやな」

 そう言って、ぱちりとウィンクして見せた。

 

 そんな話をしつつ、2人は昼下がりのノースカルビデンを、ジルの案内で歩いていた。
 もう春も中頃に差し掛かり、やや北方に位置するこの町でも、この時間の陽射しは暖かだった。
 先程の酒場"ノーブランドへヴン"のあるバーミシュー通りから、"黒銀"がいるというサンセット通りまで、中央大通りと三番橋を経由して20分余り。
 その途中で、ジルは何ヶ所か寄り道をした。
 最初は、大通りの端にある小さな古ぼけた職工の店、に見える何かの建物だった。
 オーリンには何の店かさっぱり分からなかったが、よく近づいてみると、ボロボロの看板に『研屋(とぎや)』とだけ刻んであるのがようやく読みとれた。

「ここに用事ですか?」

「そ、用事や。アイツに頼まれててん。アイツにな」

 そう言ってジルはオーリンを店の前に残して、戸を潜った。
「や、どぉも!黒銀の、頼んでもろーてたヤツ取りに来ましたー」例の素っ頓狂な声が店の中から響いてきた後は、部屋を変えたのか、ジルも、店の人間の声も何も聞こえなくなった。
 オーリンはしばらく、呆っと大通りを行き交う町の人間を見ていた。

(ふぁ……)

 欠伸をひとつ。
 さっき、ジルから「悪魔は基本的に夕方から活動するから、今ン所は村の衆も大丈夫やろ。んー、ま、どっちにしても今夜にはちょっと間に合えへんのやけどな。明日や明日」と、安心していいんだか悪いんだかよく分からない事を言われていただけに、とりあえず気分は落ち着いて、村を飛び出してからの疲れが噴き出したのだろう。
 しばらくしてジルが出てきた。

「ふんじゃおおきにー。ええ、また、よろしゅーおねがいしますー。ええそりゃもう、またすぐにご厄介になると思いますんでー。はいはいはい、どーもー」

 へこへこ頭を下げつつ扉を閉める。
 手に大きな包みを抱えている。剣だろうか。2本の柄の部分が見えている。

「ほいこれ」

 無造作にオーリンの方に放った。

「ええっ!?」

 慌てて受け止める。重い。オーリンはぐらりとよろけた。

「あの、ジルさん?何ですか、これ」
「持っとって」
「え、ぼ、僕がですか?」
「当たり前やろ。それとも何?こんな細腕のか弱いオンナノコに、そんなモン持たす気ィか?」
「で、でも僕」

 あなたの依頼人なんですよ?

「あーはいはい、文句言わんと持って歩く歩く!」

 彼に二の句を次がす前に、ジルはぐんぐん歩いていく。
 オーリンはしぶしぶ剣らしき物の包みを持って後を追う。

「とほほ」

 オーリンは歩きながら、包みの中を改めてみた。
 1本は……普通の剣士が使っているようなスタンダードな両刃の長剣(ロング・ソード)だ。
 もう1本は見たのは初めてだが知っている。旧帝国時代モノの芝居で出てくるような貴族の腰に下がっている決闘用の剣、確か名前はレイピアとかいう筈だ。
 その黒銀という戦闘屋は、二刀流使いなのだろうか?

 

 次の寄り道は同じく中央大通り、の裏手、少し、いや、かなり寂れた通りにある、これまたあまり商売熱心とは言い難そうな店だった。  今度はすぐ店だと分かったのは良かったのだが、何というか、そう。

「これまた、何とも言えない雰囲気ですね……」
「う〜ん、さすがにウチも同感……」

 木枠の窓に、扉に、煉瓦に、琺瑯(ほうろう)の板に、縁を赤く塗った謎の紙片が滅茶苦茶に張り散らしてある。
 そのどれにも、呪文とも何ともつかない文字の羅列や謎の幾何学模様が並べてある。
 軒先にはこれまた由来不明の、三角形の中心に眼が彫ってある、という不気味極まりない金属板が鎖で吊してある。
 店の戸口に立って、ジルはオーリンに明るくっぽく笑いかけた。

「あのー……物は相談なんやけど……」
「何ですか」
「一緒に入ってくれへん?」
「嫌です」
「……何も即答せんでもゴニョゴニョ」
b

 ジルは渋々扉の取っ手に手を掛ける。
 その扉は、ギュイーーッ…と、とても似つかわしい音を立てながら開いたとさ。
b  ジルの姿が薄闇(昼なのに!)の中へ消えていった。
 して。以下、その薄い扉から聞こえてきた声と音を並べてみる。

 

 ――バタン!

「ど、どぉも……」
「ん?おぉう、君、黒銀んトコの?」
「ええとー、その、なんというか、そうです」
b

 ――うひゅっうひゅっうひゅっ。(後で分かったことだが、これはどうやら店主の笑い声だったらしい)

「あは、あはは、ははっ。あのー、そんで、その……」
「んん?あぁぁ、そうかそうか。なぁに、注文の物ならな、ほれ。ここに」

 ――ドサッ。

「あああのあの、おおおお代ここここに置いときますんで、ううウチはほな、こここれで」
「まあ、待て」

 ――ぐいっ。

「ひ、ひいいいいやぁぁぁっ!!ちょっちょっちょっと!」

 ――うひゅっうひゅっうひゅっ。(後で分かったことだが、これはどうやら店主の(以下略))

「ひゅ、ひゅ、ひゅ。嬢ちゃん、別に逃げなくともよかろう」

 ――どすんばったんどすんばったん。

「いやぁぁぁぁぁっ!たた助けてぇ!オーリーン!助けてーっ!オーリ」

 

 記録はここで途切れる。(記録者が表通り方面へ一目散に駆け出したため)
 しばらくした後、ジルは大きな木の箱を持って、何故か疲れた顔で出てきた。オーリンはあえて何があったか聞かないことにした(怖いので)。

 

 

 

 ただ立っている。
 血が、血が流れている。赤く赤く、黒く黒い血が。
 だれもここにはいない。私が殺したから。そして彼も、私に殺されることを望んでいたから。だから、そうした。
 言葉ではそう言っていなかったけど、私にはそれがわかっていた。
 足元には彼の体。もう生きていないみたい。血が、そこからどんどん溢れてくる。
 彼の死体には13本のナイフが刺さったままでいる。私の両手には2本のナイフ。血はついてない。
 私の手は血まみれだけど、手のナイフは綺麗なままで。
 ナイフ2本分、私の勝ち。
 彼の手にはショートソードが、やっぱり綺麗なままで握られていた。
 ナイフ2本分、あなたの負け。
 じゃあね。
 さよなら。
 もう会わないよね。あなたは負けて、死んだみたいだから。
 ねえ、死ぬのはどんな感じ?
 さよなら。
 さよなら、先生。
 でも、あなたを殺し終わって、私はこれからどうしたらいいんだろう。
 分からない。分からないから、ただ立っている。

 ――なんだろう。うるさいな。誰かの声がする。
 もう朝だろうか。
 でもまだ眠いよ。

 

 

 

「ここや、ここ」

 サンセット通りの宿に着いた頃には、日はやや傾き始めていた。
 黒銀がいるという宿は、旅人相手の駅宿ではなかった。逗留しているからだろうか、下宿屋である。
 それもなかなか歴史のありそうな、しかし金はなさそうな、小ぢんまりとした三階立て。
 その割に主人の手入れは行き届いているらしく、玄関の周りには整えられた小さな花壇があり、遅咲きのコリディスが黄色い花を付けている。

「よっと」

 ジルは例の木箱で塞がった両手の代わりに足で玄関のドアを開いた。
 行儀悪いですよ、と顔をしかめるオーリンをさっぱり無視。ジルはドアの中に顔を突っ込んでくんくんと嗅ぐ。
 炭火の匂いと肉の焼ける匂いがドアの隙間から、こっちにも流れてくる。

「お、今日は鶏やな」
「鶏ですね」
「いや、雉かも」
「よく分かりますねえ」
「金の匂いとよう似とんねん……っと」

 冗談みたいな事を言いながらドアを蹴り開けて中に滑り込む。

「はあ」

 オーリンが後に続く。
 玄関から入った中はちょっとしたロビーになっていた。
 カウンターに記帳類や、カーペットにソファーが、そこがやっぱり下宿屋であることを感じさせた。  そのどれも、見るからに安物ではあったが。

「おばちゃーん、ただいまー!」

 彼女もここに住んでいるらしい。ジルは慣れた様子で奥の厨房らしき場所に向かって叫んだ。
 向こうから、小さく女性の返事が聞こえてきた気がした。
 生まれてこのかた村暮らしのオーリンには、この古ぼけた安下宿屋が新鮮に感じられた。
 珍しくて、館内規則の貼り紙を見ていたら、上のほうから声がした。

「どうしたんー?こっちやでー」

 左手の階段の上、ジルがひとつの部屋の前に立って呼んでいる。

「あの、ひょっとしてそこって、」

 ジルはにかっと笑って親指で部屋を指した。
 オーリンは剣の包みを抱えて階段を駆け上がった。

 

 意外に広い部屋だ。ワンルームではなく、居間と寝室が別にある。
 2人が入った居間は、下宿屋の外側のボロさに比べれば割としっかりしている。が。
 ――汚い。床には何やらの空箱とか包装紙やチラシの類が散乱している。脱ぎ散らかされた服らしき布製品が家具に引っ掛けてある。
 一番ひどいのはテーブルとソファーの周りで、紙類と酒瓶と酒器が、床を覆いつくさんばかりだ。
 それでもソファーに人1人分の隙間があるというのがなんとも生活感溢れているというか。

「ここ……黒銀さんの部屋ですか?」
「うーん……。そうとも言えるし、むしろウチの部屋とも言える」

 ジルは鼻の頭をポリポリと掻いて恥ずかしそうに笑った。

「なるほど」
「でも、ほら、掃除とかはちゃんとやってるねんで!?ときどき!」

 つまり、相部屋だか居候だか知らないが、とにかくここをこういう状態にしたのはジルだということか。
 アンタほんとに商人か、という言葉をぐっとこらえて、ジルに質問。

「それで、黒銀さんはどこに」
「あー、寝室で寝とる」

 言いながら足元のゴミを蹴散らして寝室へ向かった。

 

 幸い寝室は片付いていた。
 それはいいのだが。
 下着姿の黒髪の女性がベッドで寝息を立てていた。

 ――ぱくぱくぱくぱくぱく。
 オーリンは思わず声にならない悲鳴を上げてしまう。

「ん?」
「あのあのあのあのあの」

 以下要約すると要旨は3つ。
 ――なぜ黒銀さんの部屋で女の人が寝ているのか。黒銀さんはどこへいったのか。この人ジルさんより胸大きいですね。

「3番目、余計なお世話や」

 オーリンの前頭葉は1番目と2番目から自動的に回答を作成した。

「まさか……この人が?」
「うん、そいつ黒銀」
「女の人じゃないですか!」
「あれ?ゆーてへんかったっけ?黒銀のイセナ。れっきとした女剣士や」
「聞いてませんよ!」

 聞いているも何も、黒銀という呼び名と、ジルの話を聞いている限りでは、こう、筋骨隆々で古傷がいっぱいの苦みばしった中年男を想像していたのだが。
 しかし現実に黒銀だという目の前の女性は。
 白い肢体はスリムに丸みをおびている。手足はすらりと長い。
 短い黒髪と、まるで深窓の令嬢を思わせる、澄んだ顔立ち。
 毛布を抱き締め、下着に包まれた豊かな双球がすうすうと呼吸の度に上下する。あ、谷間。始めて見たよ僕。
 ……本当にこの人が黒銀なのか?そもそも剣士なのか?という疑問が沸く寝姿だ。

「イセナ!お客さんやで!ほら!」

 コラしっかりしいや、とジルが彼女の肩を揺さぶった。
 ゆさゆさゆさと頭が揺れる。若い健全な男の子であるところのオーリンは当然別の揺れる場所に視線が釘付けだ。

「ん」

 突然、上半身だけがばっと跳ね起きた。
 ジルが声をかける。

「おはようさん」
「ん、おはよ……」
「仕事やで」
「しごと……?」
「そう、仕事や。悪魔退治やで。どや、やりがいあるやろ」
「だれが……やるの……?」
「あんたや」
「あんた……?」
「おまえや!」
「わたし……?」
「そう」
「わたしが、なにを……?」
「せやから仕事や」
「しごと……?」
「悪魔退治や」
「だれが……?」
「おんどれじゃ!」
「なにを……?」

 ぷつっ。

「お・ん・ど・れ・が!悪魔退治の仕事を!やるんじゃ!わーったかドアホ!」
「……………?」
「………………」
「………………」

 どさっ。
 上半身がベッドに倒れた。埃が舞い上がる。
 すぐに寝息の音が聞こえてきた。

「な……ッ」

 ぶつっ。

「寝るなッ!!」

 ジルの足裏がイセナの体を蹴っ飛ばした。
 蹴られた体はベッドの上を転がってベッドから落ちた。床にぶつかる鈍い音がした。
 その上に、衝撃でバランスを崩した棚が倒れてきた。とてもいい音がした。
 それきり、うんともすんとも言わなくなった。

「あっ」
「や、やば。あれは……死んだか?」

 返事は、ない。
 オーリンは、泣きたい気持ちで自分の胸がどうしようもなくいっぱいになっていくのを感じた。

 主人公、早くも死す!

 

 続くんじゃないのか!?
 答えろ作者ァ!

 

 

To be continued.

 

 


作者のお言葉

ジルさんの耳を尖らせて、ウェスタン・リボルバー持たせりゃあら不思議。伊東岳彦作品に。
そんなコンセプトで書きました。
嘘です。
なんか月刊漫画誌の読みきりチックな安いファンタジーを書いてみたくなりまして。突然。
何ですと?
こんなのファンタジーじゃねえ?
俺もそう思います。
次回完結編。アクションパートです。
ガンガン殺りまくりたいと思いまーす。

 


 

INDEX