――新帝暦445年、城塞都市シャラデクの記憶。

 

 

 

 

 

 

 

――ビュウンッ!

――ブンッ!

――ブンブン、ザッ、ビュンッ!

宵闇に剣を振るう。
鎬の起こす、風切る音が耳に心地よい。

――ビュウッ!

俺は大上段に振り上げた剣を下まで振り下げた。
試合では無意味この上ない斬り方だが、精神統一には向いている。
――と、その動きの中に、荒みがあることに気付く。

(…少し、疲れてきたか?)

疲れは荒んだ剣と心を生み出す。
荒んだ状態で稽古してもなんの効果もない。俺は心を静めた。

――ビュウンッ!

もう一度剣を振るうと、キレのいい音が響いた。
大丈夫だ。まだまだいける。疲れてはいない。
剣の柄を返して横に振ってみる。

――ヒュッ!

僅かに残る夕陽の色が白刃に映り込んで、橙がかった剣閃を造る。
見ようによれば幻想的な光景だが、俺は見慣れているのでさほど気にも留めることはない。

俺は淡々と、しかし裂帛の気合いを込めて、決められた型どおりに剣を振る。

頭の上に剣を通して、相手の顎くらいまでを想定した斬撃。
腕が伸びきったことを気にしつつも、右手を離しての喉元を狙う片手突き。
身体を剣に引き寄せ、右手を添え直して、鳩尾への諸手突き。

すべてを振り終えた俺は、軽く汗を拭うと稽古場の隅に腰を下ろす。
剣の結束を解いて壁に立てかけると、そこでようやっと一息ついた。
広い稽古場は今、俺以外誰もいない。いつもは他の剣士連中で息もできない程なのだが。
おそらく時間が遅いのと、ひょっとしたら俺に遠慮しているのかもしれない。
だとしたら馬鹿なことだ。他人と打ち合うことほど効果的な稽古はないのだから。
もし俺に遠慮しているのなら、大げさだ。まだ次の試合まで4日あると言うのに――

 

 

 

ソヴェン=レークシュライン。それが俺の名だ。
この大陸では結構名の通った剣士…だと思う。自分の評判を気にすることがあまりないから、よくわからないが。
実際、この街で俺に敵う人間と言えば若い頃の師匠くらいなものだ。

剣士――といっても今は泰平の世。
実際の戦闘術としての剣術は衰え、世間ではいわゆる道場剣術へと姿を変えている。
それに伴って、戦闘・暗殺要員としてより、格闘技の選手として、剣士は意味を変えた。
戦う場所は、戦場ではなく闘技場だ。

剣士だけでなく拳闘士、槍使いや弓使いまで、”戦士”と呼ばれる人間は、一様に闘技場に登録する。
そして”戦士”として登録された者はグレードに従って試合を行い、勝者には賞金が与えられる。
闘技場はその試合に客を寄せ、入場料を払わせ利潤を得る。
客は金を払って試合を見物し、一時の興奮を得る。
――そんなところだ。
武術は武術としての意味を失い、大衆の娯楽として――商業に成り下がっていた。

俺も例外でなく、その試合は4日後に控えていた。
とは言っても負ける気はしないし、金が欲しくて戦っている訳でもない。
いつもなら試合とは言えそこまで意識して稽古したりはしない。

――4日後の試合は、いつもとは違う試合なのだ。

 

 

 

稽古を終えると、さっさと普段着に着替えて稽古場を出る。
いつもの俺の日課であるはずなのに、人がいないというだけで妙に神仙にでもなったような気分になる。
しんと静まり返った稽古場には、そういう雰囲気がたしかにある。
ああいう場所で瞑想ばかりしていると、神の真理を悟っただのとトチ狂ったことを言い出す馬鹿の精神構造が少しだけ理解できてくる。
もちろん、理解できるだけだ。まったく共感はしない。俺は無神論者なのだ。

俺が稽古場を出ると、1人の若い女がいた。
落ち着いた色のワンピースに、同じような色のカーディガン。
長い豊かな黒髪を、本格的に吹き出した秋風に遊ばせている。

「よぉ」

こちらに気付く感じも無いので、俺から声を掛けた。
後方3メートルに近づいていたにも関わらず、女は声を掛けられるまで気付かなかったらしく、多少驚いた様でゆっくり振り返る。

「…あぁ、ソヴェンさんですか。…誰かと思って、驚きました」

妙に間延びした調子で女が応える。
女の丁寧な口調に、俺は苦笑した。

レーシャ。
俺が3年前から通うこの道場、その師匠の一人娘だ。
鋭敏で油断のない師匠と、豪快という表現がぴったりな女将(美人なのだが)の娘なのだが…
どこをどう受け継いだのか、なんというか、良く言えば落ち着いて穏やか、悪く言うならおっとり系天然ボケだ。(美人なのだが)

「レーシャ、『ソヴェンさん』は止めてくれ。俺はアンタと同い年だ」

レーシャは、穏やかに微笑んでゆっくりと首を横に振った。

「…駄目ですよ。ゾヴェンさんは、うちの道場の期待の星なんですから」
「それって馬鹿にしてるのか?」
「…とんでもない。…本当のことですよぅ? …だから敬語なんです」
「まァ、期待の星でも何でもいいが『ソヴェンさん』だけは止めてくれ。気を使ってるのかもしれないが、俺は落ち着かない」

レーシャは顎に指を当てて、うーんと声に出して考え、

「……じゃあ、『ソヴェン様』ならいいですか?」
「余計悪いだろ」

 ………………

「……それなら、『ソヴェン名人』とか『ソヴェン大佐』… あっ、『ソヴェン総統』とかもありますよ?」
「…俺のことが嫌いならはっきりそう言ってくれないか?」
「あ、ご、ごめんなさい」

レーシャが珍しく慌てて取り繕う。

「…ったく」
「じゃ、じゃあ、なんて呼んだらいいですか?」
「呼び捨てで良い」
「わかりました。 …じゃ、ソヴェン♪」

意外に、レーシャはすんなりと俺を名で呼んだ。最初からそうすればいいものを。
さすがに同年の異性から呼び捨てにされるのも気恥ずかしいが、『大佐』やさん付けよりはずっとましだ。
(というか、『大佐』や『総統』って、俺とどう関係あるんだ?)
それに、レーシャの場合、呼び方どうこうで態度が変わるわけではない。
――実際、まだ敬語はしっかり使っている。

「…ところで、レーシャ」
「はい?」
「さっきまでアンタ、何してたんだ?」

俺が声を掛けるまで、レーシャは門の前でぼーっと立っていた。
何かをしている、というわけでもなさそうだったが、立っているなら立っている、この女なりの理由があったのだろう。
俺はそれが知りたくなった。

俺に聞かれると、レーシャは風に弄ばれる黒髪を押さえながら微笑んだ。
俺は色恋に長けた男ではないが、それでもレーシャの魅力がもっとも引き立つのは、このような表情だと言えるだろう。

「さっきまで、門の前のお掃除をしていたんです」

言われて俺が辺りに目をやると、なるほど道場の門に箒が立てかけてある。

「最近落ちてくる葉っぱが多いですから…こまめに掃いておかないと」

掃除をするのは感心だ。
だが、俺が見かけたときは、ただ突っ立っていただけで、箒も持っていなかった。

「じゃなんで、さっきはぼーっと突っ立ってたんだ?」
「あぁ…。それはですね、落ち葉を集め終わったので、ちりとりを持ってこようとしたら、その時にお月様があんまりにも綺麗だったのでつい、見惚れてしまって…」
「月?」
「はい」

レーシャが空を指差す。
俺が連られて見上げると、見事に真丸の月が、黄金の光をしっかりと湛えていた。
雲は朧で、月を覆うものはほとんどない。
それに、今日は風が強い。月の真下に町外れの林がそよそよと揺れている情景は、レーシャでなくとも見惚れてしまいそうだ。

「…綺麗なお月様ですよね」
「そうかもな」

俺とレーシャは2人、しばらく月を見ていた。
しばらくして、

「…あ、お掃除の続き」

レーシャがそう言って、道場の中に入っていく。ちりとりを取りに行ったらしい。
それにしても風が強い。これだから落ち葉も増えるのだろう。
――ん?
風が、強い…?

「じゃ、すぐにやっちゃいますね」

レーシャがちりとりと、小振りの箒を手に戻ってきた。

「なぁ…」

俺はひとつ気がかりなことがあった。
――レーシャは、気付いているのだろうか。

「どうかしましたか?」
「アンタが集めた落ち葉って、ドコにあるんだ?」
「ドコって…あれ?」

道場の塀の隅を指そうとした白い指が、頼りなく泳ぐ。
レーシャの指はふよふよと空中を漂った挙げ句、自分の顎に辿り着く。

「…ドコでしょう?」

敢えて追記しよう。今日は風が強い。
林の木々がざわざわと幹を揺らしてざわめく程度に、だ。

びょおおおおおおおおおおお。

突然、一際大きな一陣の風が吹いた。目の前を数多の木の葉が舞い散る。
そこでようやく、レーシャも気付いたらしい。

「なんだか、飛んでっちゃったみたいですね」

特に落胆したでもない、のんびりとした調子だった。

「こんな日に掃除なんかするなよ…――って、アンタ何やってるんだ?」

レーシャは箒で、さっき舞い散った落ち葉をせっせと集めている。

「おい、今日は風も強いしやってもしょうがないだろ」
「それでも、これだけはやっておきたいんですよ」
「だからな…」

すでに太陽は落ちて、空は青紫から黒に変わりつつある。
この辺りは特別治安が悪い訳ではないが、かと言って好ましいとは言えない。

「時間も遅い。…今日はもう止めろ」
「いいんです。少しですから」

こういうところ、レーシャは言い出すと強情だ。
俺は説得するのを諦めて、自分も箒を取る。

「え?」
「…終わるまで手伝ってやる。それならいいだろう?」

レーシャは何も言わなかったが、俺の方を見てにこりと微笑んだ。

――恥ずかしい話だが、危ないなんてのは言い訳で、全てはこの笑顔を見たいがためなのかもしれなかった。

 

 

 

掃除は四苦八苦ながらもそれなりに短時間で終わった。
そして別れ際、レーシャが俺に向かって言った。

「…今度の試合、頑張ってくださいね」

今度の試合。
それはとりもなおさず、4日後に控えた俺の試合のことだ。
レーシャの顔はやはり微笑んでいたが、そう言ったとき、少し翳りが生まれたのを俺は見て取った。

無理もない。
俺が相手から挑まれた試合――
それは、どちらかが死ぬまで終わることのない試合の形式。

――即ち、デスマッチ。

俺は今、デスマッチを4日後に控えていた。

 

 

 


THE DEATH MATCH


 

 

 

「エミィル、ご飯だよ〜ッ!」

夕刻時の裏通りに出て、あたしはあらん限りの声で弟を呼んだ。
弟は、たいていこの辺りで近所の悪ガキと一緒に遊んでいるのだ。
周りには、あたしと同じ用向きで出てきた母親たちが何人かいる。
ウチは両親共にくたばってるから、こういうことも姉のあたしがやらなくてはならない。

「エ、ミィぃぃぃぃ〜ル!」

応答がないので再度声を張り上げる。

「……………………」

再度応答なし。
どこか遠くにまで遊びにいってるのだろうか。
それならいいが、アイツのことだ、あたしの声が聞こえていて、それでなおかつこの辺りに潜んでいる可能性がある。
いきなりどっかから現れて、あたしを驚かそうというのだ。

ふっ。
あたしをナメてもらっちゃあ困る。

今日は隣のケンと一緒に遊びに行ったのはご近所ネットワークで調査済みである。
さっきちらっと見かけたけど、ケン坊はすでに隣に帰っていた。
ケン坊とエミィルは大抵の場合一緒に帰る。

…つまり。 ――ヤツはこのあたりにいるッ!

そう確信したあたしは、迷うことなく左隣の家と自分の家の狭間に潜り込んだ。
あたしがわざと足音を立てて突撃していくと、案の定。
ざざっ。
慌てたような足音が聞こえた。間違いない、アイツだ。
あたしは速度を緩めぬまま、エミィルが走り去ったと思われる家の裏手に回る。
また足音がして――ヤツの姿はない。
ヤツはもうすでに、右手の家と自分の家の狭間に潜り込んだ後らしい。

「――ちっ!」

あたしは舌打ちして、また弟の後を追おうと――

ちょっと待てよ?

――あたしは考えた。
あたしたちの家はちょうど正方形をしている。
もし、あたしがこのままエミィルを追ったとして、当然の如くエミィルも逃げるだろう。
そうした場合、あたしはエミィルと四角な家の周り、延々と追いかけっこを演ずることになりかねない。
背後からあたしを驚かす作戦が失敗した今、アイツが悪戯心を満たそうと狙っているのは――
――ひとつしかない。あたしが走りつかれて、「怒らないから出てきて」と言わせるのを狙っているのだ。

ふっ。
再度言うが弟よ、あたしをナメてもらっちゃあ困る。

あたしは2,3回、足の筋肉をほぐす。
ヤツがあたしの視界に出てこまいとするなら、手っ取り早いのはこの方法!

「――ッ!」

声を出さないように注意しながら、あたしは大きく跳躍した。
家の壁に取り付き、すぐさま平らな屋根によじ登る。
そして屋根の上から四方を見回すと、予測どおり家の右手の壁に張り付いて様子を伺っているエミィルの姿。
屋根の上をあたしは音もなく走り、エミィルの正面目掛けて――

――飛び降りる!

――ザッ!

「うひゃあっ!」

まったく体勢を崩さない、カッコいいポーズで着地したあたしを見て、エミィルはマヌケな悲鳴を上げた。
きっと、あちらからは突然あたしが降ってわいたようにしか見えなかっただろう。

「ね、姉ちゃんっ!?」
「ふん、そんなんであたしを出し抜こうなんて、10年早いよ?」
「せ、戦術的退却っ!」

くるりとあたしに背を向けて戦術的退却――もとい逃げ出すエミィル。
ふっ。愚かな。こうなったら潔く捕まるのが男だぜ? 我が弟よ。
逃がすわけがない。今こそあたしの必殺技が火を噴く時ッ!

「あたしのこの手が真っ赤に燃えるッ!」
「――ヒ、ヒイイッ!」

右手に力を込めながら、あたしは逃げ出したエミィルの後を追う。

「勝利を掴めと轟き叫ぶゥ!」
「――や、やめっ」

逃げる足は止めないまま、エミィルは見苦しくも命乞いをする。

「(中略)!」

あたしは燃え上がらんばかりの右手を携えて、数歩先を走っていたエミィルと一気に間合いを詰める。
それに気づいたエミィルがふり返る暇すらなく、あたしの”神の指”がそれこそ神速で、エミィルの側頭部に伸びる!

ぎゅむ。

「あぎゃっ!」

エミィルの側頭部の凸部分――耳という――を、”神の指”で思いっきりつねり上げてやった。
耳がおもしろいぐらい変形しているから、そうとう痛いだろうと思う。

「どーだ、思い知ったか?」
「痛い痛い痛い痛い痛い! いてーってば姉ちゃん!」
「思い知ったか?」
「…も、もももも、もうしませんッ」
「よろしい」

あたしは揚々と、家の中へとエミィルを連れて行った。

 

 

 

「姉ちゃんって、やっぱすげえよなぁ」

エミィルが、夕食の席でそんなことを言いだした。

「はあ? 何よいまさら」

あたしがスゴイのは昔からだろーが。
そう思ったが、珍しくエミィルがあたしに関して文句以外のことを言うのだ、と思って聞いてやることにした。

「まさかさぁ、上から来るとは」
「なんだ、その話か」
「でもさ、ねーちゃんってマジすげぇよ、ホント」
「まーねー」

あたしは食事半分に胸を反らす。(器用な芸当かもしれないけど)
たまにコイツの悪戯を見事に見破ってやるだけでこの有り様だ。
このスラムの悪ガキどもをまとめてシメてやった日にゃあ、きっと死ぬまで貢いでくれるシスコン弟になってくれるに違いない。
――ま、めんどくさいからしないけど。

「さっすが、職業戦士だよなー」

職業戦士。
その言葉を聞いて、食事を運んでいた手をはたと止めた。

そう、あたしは職業戦士だ。
闘技場に登録して試合をこなして、勝った賞金で生計を立てる。
そうして、両親のいないあたしと弟、このスラムで今まで食いつないできた。

 

あたしが戦士になったのは今から7年前。
正確には両親が流行り病で両方ともポックリ逝った1ヶ月後だ。

戦士になったのは、なにも武術の心得があったからってワケではなかった。
ただ、親が死んで、5歳だったエミィルを養っていくために、まだ12歳だったあたしには娼館か闘技場しかなくて、それで闘技場を選んだってだけのことだ。
徒弟期間の一年(師匠なんていなかったから独学だったけど)、武術を学んで、それから闘技場に選手として正式に登録した。

武器は槍を選んだ。いつでもふらふらして、すぐにでも倒れてしまいそうな貧弱なあたしとエミィルを、しっかりと支えてくれそうな気がしたから。
天性の才能なのか、それとも勝たねば明日の暮らしにも困るという状況からなのか、あたしは最下級グレードながらなかなかに強くなれた。
もちろん、最初の頃は負けつづけで、生傷の数だけ増えて金は増えないという状況もあったのだが。

 

「アンタ、あたしが戦士だっての、言いふらしてんじゃないでしょうね?」
「えー、いけねぇのかよ?」
「駄目」

この戦士という職業に負い目を感じているということはない。
別にホントに人を殺すワケではないし…………

「………………」
「………姉ちゃん?」
「………………」
「…どうかしたのかよ?」

……………

「とにかく、近所で自慢すんじゃないわよ」
「えー、なんでだよぉ? いいじゃんか。姉貴が戦士だなんて、カッコいいし」
「ダーメ。アンタがそういう自慢してると何かムカツク」
「なんでぇ?」
「アンタが闘技場で闘ってるわけじゃないでしょー? アンタはなんもしてないのに、自慢されるとムカツクの」
「へいへい、わがままな姉ちゃんだなー」

あたしは迷うことなくエミィルの額を木のフォークで突いてやった。
――なんか悲鳴も出さずに悶絶してたけど、知るもんか。

 

 

 

最下級グレードの賞金は安い。
だから家計はかなりかつかつの状態だったけど、それでもなんとかやってきた。
幸せだったかと言われても分からないけど、それなりにいい日々だった。

 

――1ヶ月前、エミィルが病気で倒れるまでは。

 

それはあまりにも突然だった。
昼間、いつものように遊び回ってる途中、突然倒れて意識を失ったんだという。
そして、あたしが試合を終えて家に飛び帰ってみると、エミィルは素人目にも危険な状態だった。

「エミィルっ!」

家に飛び込むなりあたしは叫んだ。
弟は粗末なベッドで荒い息を吐いて、薄暗いランプの明かりでも分かるぐらい異常な表情。
ぼんやりした瞳、ドコを見ているのかはっきりしない視線。
ただの風邪とかじゃないことはすぐ分かった。

「…あ、ね、姉、ちゃん…」

バッ!

エミィルに掛かっていた毛布をはぎ取った。

「ね、姉ちゃ…!何すんだよ!?」

あたしは荷物を放り出して、有無を言わさずエミィルを抱え上げてた。
女の細腕とは言え、多少なりとも鍛えた腕だ。エミィルを抱え上げるくらいは出来た。

「俺は大丈夫、なんともね…」
「黙ってなさい!」
「――!」

あたしの一喝に、弟が怯み上がった。
あたしは走って家を飛び出した。向かう先はこのスラム唯一の医者。
頼りになる医者じゃなかったけど、そこに向かうしか無かった。
でも。

 

 

諦めろ。
スラムの町医者の、それが結論だった。

エミィルの罹った病気は、貴族階級でも治すのが難しいと言われている難病。
神経に取り付き、人間の機能を狂わせるんだとかなんだとか、いろいろ言われたけど、あたしにはよく分からなかった。
ただ分かったのは、このままではエミィルはもうすぐ死ぬらしい、ということ。

あたしは医者に、治す方法はないのかと聞いた。
ない、と医者は言ったけど、あたしは食い下がった。本当にないのか。
何度目かで、ようやく医者は小さく、ある、と言った。
それはこの街より遥かに大きな、医療技術の発達した街の大病院で手術を受けること。
医者はそれに必要な金額を言った。とても高かった。高いなんてもんじゃなかった。
今のあたしにそんな金は――いや、一生闘技場で働いたとしてもこの額には届かないだろう。

あたしは診療所の床にへたり込んでいた。
ここまでずっと姉弟2人、肩を寄せあって生きてきたのに。
それがあっけなく、本当にあっけなく打ち砕かれてしまおうとしている。
激流に呑まれた笹舟になす術など無いように、あたしたち2人のつつしまやかな生活など、圧倒的な現実には敵うべくも無いのだろうか。

何が何だか分からなくなって、あたしは側のエミィルの顔を見た。
薬が効いて眠っていたから、医者の話は聞いていない。教えるつもりも、なかった。
エミィルはすうすうと穏やかな寝息を立てていた。
医者が言った。運命と思って諦めて、残された時間を有意義に使ってやれ。
それが、スラムの貧乏医者のもっとも適切な処置だったのだろうと思う。

しかし――。

あたしはその言葉で逆に目が覚めた。どこか絶望していた自分を吹き飛ばした。
そうだ、姉のあたしが諦めてどうするのだ。あたしが諦めたらホントにそこでお終いだ。
――ふたり、なのだから。
そこまで考えが行き着くと、あたしは診療所を飛び出した。向かった先は闘技場。
あたしにあるたったひとつの可能性を探しに行くのだ。

 

 

「安い…」

閉門まぎわの闘技場の事務室に飛び込んで、あたしは闘技場の登録者名簿を調べていた。
そして、B級の賞金を一瞥して、その一言。
いつも戦っている相手がC級(当然あたしもC級だ)だから、それよりひとつランクを上げてみたが、思ったより安い。
残された時間は少ない。できれば一気に稼ぎたいのだが、B級ではまったく話にならない。
…まあ、C級では一生働いても追いつく金額じゃないのだから、B級で駄目なのは分かっていたが。
A級のリストを見る。普段なら1回勝つだけで当分は余裕のある生活のできる数字が並んでいたけど、今のあたしの目標にはほど遠い。

「………」

この時あたしは、生まれて初めてS級、最上級グレードの名簿を開いた。
未知の領域だった。有名すぎて馴染みの薄い名前と、目のくらみそうな金額が踊っていた。
その名前と賞金をそれぞれ確認する。

「……………」

あたしは絶句した。
これでも、S級でも、まだ、目標の金額には遠く及ばなかった。
この街のNo.1のランクの剣士でさえ、目標の金額には9倍とちょっとする必要がある。
大陸中でも指折りの戦士のこの男でさえ…

あたしに残された手は、ひとつしかなかった。
それも、とびっきりハードな。

 

 

エミィルは2,3日入院させて、家に帰ってきた。
実際、診療所にいなくてもなんら弊害はないらしい。――それはつまり、あの診療所ではどうにもできない、ということ。
医者からは一緒にいてやれ、みたいなことを言われたけど、あたしはそうはしなかった。
朝から晩まで、今までの時間の3倍を稽古に費やした。
最近はこうして、晩飯の時間くらいしか一緒にいてやれないけど、それでもあたしは、最後までやれることをやっていこうと思う。

 

 

 

エミィルを救うため、あたしに残された最後の手段。
それは、この街No.1ランクの剣士、大陸でも有数の剣士に、ある特殊な試合を、挑むこと。
その方法ならば賞金は通常の10倍される。
そうすればギリギリのところで、あたし――いや、あたしたちの目標金額に追いつく。
他に方法はない。是非もなかった。

 

 

 

このあたし、エルナ=クレティは――

ソヴェン=レークシュラインに――

――デスマッチを、挑む。

 

試合は、3日後。

 

 

 


THE DEATH MATCH


 

 

 

今日も、道場に人がいなかった。
気を遣っていただけるのはありがたいが、正直うっとうしい。
確かに明後日の試合はデスマッチだが、それが何だというのか。
ふたりの人間がいて、勝負をして、勝った方が生きて、負けた方が死ぬ。
なんてことのない、至極当然のことだ。いつもの試合と違うのは、生命がかかっているかいないか。そこだけだ。
俺は生命のやりとりそのものに妙に興奮するなんてことはしないし、かといって相手を前にしても決して容赦などしないだろう。
だからこそ、いつも通りの稽古をして、万全のコンディションで望みたいと思っている。
――全力を賭して掛かってくるあろう相手を、全力で叩き潰すために。

「――はァッ!」

俺は自らの計画通りに、その日を迎えたいと思っているのに、周りだけが勝手に騒いでいる。
そのお陰で今日も、黙々とひとりで型を振り続けなければならないのだ。
ここだけの話ではない。長く会わなかった友人が不意にやって来たり、中には餞別のつもりなのか、何か物を置いていったりする輩までいる。
その妙に哀れんだような、その実もの珍しさでしかないヤツらの偽善など、嬉しいはずもない。

――きゅうっ!

真剣に裂かれた空気が引き絞るような音を響かせた。
そんなこんなで、俺は少々いらついてはいるが、それはほとんど稽古の手を狂わせたりはしない。
俺は明後日戦う相手のことは良く知らない。どこの命知らずか分からないが、俺にデスマッチを挑んでくるのだ、それなりのヤツなのだろう。
ならば、剣撃の洗礼によって応えるのが、ひたすら最強という高みを目指して戦って――生きてきた俺として、唯一の礼儀。

 

 

 

俺は闘技場が嫌いだ。試合のためにあそこの門をくぐるたびに、反吐の出るような気分になる。
前述の通り、闘技場は戦士と戦士の戦いで客を寄せ、見物料を取る。賭をさせる。そうやって儲けている。
俺は今まで数多くの戦士と戦ってきた。そいつらは十人十色で、戦う理由も様々だっだ。
――金のために戦う者。純粋に強さを求める者。名声を得んとする者。戦いそのものが目的の者。或いはそれが入り混じった者。
そいつら個人に対しては大した感情は持っていないが、そいつらが本気で己の力を叩き合わせる、俺はそんな勝負の雰囲気が好きだ。
ひょっとすると、俺はそれが目当てで戦っていて、そのおまけで最強を目指しているのかもしれない、とも思う。
だから俺は、戦いを観客の見せ物にして、金のダシにする闘技場が嫌いなのだ。
戦う相手と場所を提供してくれるのだから仕方ないのだが、それでも好きにはなれない。
骨のある相手と戦ったあとは、いつも思う。
――こいつと、闘技場の外で戦えたら良かったのにな。
…と。
この街では法律で私闘が禁じられているから出来ない相談だが、誰からの干渉も受けない自由な立場で思い切り戦ってみたい。
そんな欲求は、常に俺に付きまとっていた。

ふと、思う。
俺と名前も知らない誰かの、明後日の試合。
生命を掛けたそれさえも、観客の見せ物に、闘技場の金儲けのダシにされてしまうのか。
それを思うと、俺は少し気が重くなった。

 

 

 

今日の稽古を終えた俺は、道場の板張りの床に寝転んでみた。
普段なら怒られるが、今日は怒るべき人間が誰もいない。だから、寝転んでみた。
普段禁止されていることを、何となくしたくなる。ひどく子供っぽい気がしたが、そう笑う人間もいないのだから構わない。
築30年にはなろうかという木造の天井が視界をいっぱいに覆った。
寝転んで何か考えようかとも思ったが、さしあたって何も考えるようなことがなかったので止めた。
普通の人間なら明後日の試合のことを考えるのだろうな、と思うと、俺が変人であるのを証明したようで可笑しく――心の中だけで苦笑した。

――と、気配がした。
出入り口のある南側から(北側は武神の祭られている”白き聖なる大地”の方向として上座であり、それに対して南側に出入り口があるのだ)誰か入って来たらしい。
俺はそっちの方向に頭を向けていないから、相手の姿は見えない。
しかし、それが誰であるかはすぐ分かった。
足音の間隔と反響音、それに寝転んでいるために全身で感じる床からのかすかな振動が、それが俺より多少背の低い女であることを教えた。
それに、足音を忍ばせてはいるが、とりたてて注意深さもない。武術の心得のある人間ではない。
総合した結果、該当する人物は、この道場にはひとりしかいない。
というところまでは分かっていたのだが、

「――えいっ!」
――ぼふっ。
「ぐえッ」

やけに質感のある物体が、いきなり腹に直撃してこようなどと誰が思うだろうか。
俺は今までのクールな剣士のイメージぶち壊しの惨めな悲鳴を上げてしまう。

「――って、何すんだコラあっ!」
「道場に寝るのは駄目なんですよ? だからオシオキです」

俺の悲鳴兼怒号に、声の主――レーシャはのどかな口調で返してくれる。
声が聞こえて来た場所は俺の腹から。
早い話がこの女は、寝てる俺の腹に向かって、後頭部でヘッドバットをかましてくれたのだ。
その威力に、俺は冗談ではなく一瞬砲弾でも落ちてきたのかと思ってしまった。
俺の腹から頭をどかさないまま、レーシャが言った。

「誰もいないから寝転んでるなんて、ソヴェンって結構子供ですね」
「……余計なお世話だ」

応える前に若干の間があったのは、図星を突かれたからだというのは言うまでもない。

「で、何だ? まさか俺に説教するために来たってわけじゃないだろう?」
「えへへ、お昼寝に来たら、丁度良い枕さんがあったので〜」

俺は枕じゃない。
って言うか。

「レーシャ、ここで昼寝なんかしてるのか?」

ここの師匠――つまり、レーシャの父親だが――は厳しい。
師匠は剣を修める者として、道場でふざけること、増して寝転んだりすることは禁止している。
仮にも(?)その娘であるレーシャが道場で昼寝とは、いかがなものであろうか。

「はい、とっても陽当たりが良くて、気持ちいいんですよ〜」

四方に窓の並ぶ道場は、確かに陽当たりは良い。
最近は秋も深くなって、気温は少しずつ低くなっているから、昼寝には最適だろう。
ふと、午後のうららかな陽射しの中で、猫のように身体を丸めて眠っているレーシャを想像してみた。

――ハマり過ぎで、笑ってしまった。

 

 

 

小一時間後。

「…いい加減どいてくれ」
「くーくー」
「本気で寝るな」
「枕さんは黙ってなきゃ駄目です」

いまだにレーシャの頭は、俺の腹の上に乗っかっている。板張りの床+レーシャの重さの作用によって、レーシャの頭がちょっと痛い感じで床に激突するのも無視して起きあがるという手もあるにはあるが、それはさすがに忍びない。
――とは言っても、また誰か来ないとも限らないし、そろそろやむを得ないのではなかろうかと思っていたら、レーシャは自分で身を起こした。
…命拾いしたな。

「う〜っ、よく寝た〜」

ああ、そうだろうさ。そりゃお前は気持ちよく眠れただろう。
心の中でレーシャに悪態をつきながら、俺はみしみしと痛む身体に鞭打って身を起こした。

「あれ? ソヴェン、もう帰るんですか?」

立ち上がるとすぐに帰り支度を始めた俺を見て、レーシャは意外そうに言った。
剣を布のバックにしまいながら俺は応える。

「誰かさんのお陰で体中が痛いんでな。 とっとと帰って本当に寝る」
「あ、そうですか」

罪悪感の欠片もなく言ったあと、レーシャは思い出したように聞いてきた。

「あの、明日は?」

明日は一日、武具の点検や休養に回すつもりだ。
俺はレーシャに、明日は来ないと言うと、レーシャは俺の前に立った。
そして、言った。

「がんばって、くださいね?」
「…………」
「…どうかしたんですか?」

俺はそのとき、疲れて気が立っていたのかもしれない。
肉体的にではなく、善人ぶったヤツらの「気遣い」というモノに、精神的に。
レーシャにそんなことを言ったところでしょうがないというのは分かっていた。レーシャに悪意がないということも。
それでも、八つ当たりと分かっていながらも言わずにはいられなかった。
或いは、レーシャにしか言えないことだったのかもしれない。

「…がんばれ、がんばれって、俺はいつでも全力なんだがな」
「え…?」

レーシャの顔から笑みが消えた。
それを見て、俺はひどくいたたまれなくなった。
止めろ、と良心が叫んでいた。
――だが、もう止まらなかった。

「がんばれって、それは何だ? 哀れんでいるのか?」

レーシャはあぜんとした表情で、俺の言葉を受け止めていた。
取り返しのつかない事をしてしまった、そんな気がした。
それでも、止まらない。

「違うだろ? どいつもこいつも、あからさまに態度変えやがって…
結局はデスマッチをする俺が珍しくて、俺を気遣うフリして、変な遠慮して、ただテメエで自己満足して酔ってるだけじゃねえのかよ?」

違う。レーシャは態度なんか変えたりしていない。
他のヤツからの鬱憤を、レーシャで晴らそうとしている。最低の行為だ。
しかし――爆発した。

「そんな下世話な理由で、俺の戦いを汚すんじゃねぇッ!」

俺の怒号が昼下がりの道場の空気を、びりびりと震わせた。 

言い終わってから、しばらくは静寂が支配した。何者も、動く気配を見せない。
レーシャは下を向いているために、俺からはどんな表情をしているかは分からない。
彼女が顔を上げるまでの数瞬は、拷問だった。
俺の身勝手な言葉に、怒ってくれればいいと思った。
俺の心ない言葉に、泣いてくれればいいと思った。
殴ってくれればいいと思った。
視線で俺を責めてくれればいいと思った。

しかしレーシャは、そのどれも選ばなかった。
レーシャは、微笑っていた。いつものように。
俺は何も言えなかった。

「よく…分かりません」

レーシャはそこで、でも、と区切った。

「がんばって、くださいね?」

…俺は絶句した。

「私ってアタマ悪いから、戦いとか、そういうことは分からないんですけど…
ただ、ソヴェンが後悔しないのが一番いいと思うんです。…だから、怒られても言います。明後日、がんばってくださいね?って」

俺は、あさはかだった。
レーシャは俺に怒鳴られて、言い返すことなどできないと思っていた。
普通の人間なら、俺に遠慮して、気遣ってくれて、その後は何も言えなかっただろうから。
レーシャのさっきの言葉には遠慮も気遣いもなかった。

遠慮に満ちた優しさなど、いらない。
レーシャの、無遠慮な優しさが、俺にはたまらなく嬉しかった。

俺は、何かを言う代わりに、レーシャを抱き締めた。

「…ソヴェン…」

レーシャは驚いた様子だったが、俺を拒絶することはなかった。
俺は少しだけ、レーシャの背中に回した手に力を入れた。

 

 

「…がんばって、ください」
「ああ」

 

明後日、俺は負ける気も不安も微塵もない。
――それでも、生きて帰ってくると約束しよう。

 

 

 

試合は明後日だ。あまり時間はない。
あたしは闘技場経由で挑戦を叩きつけた後、対戦相手の、ソヴェンという剣士のことを調べて回った。
恥かしい話だが、あたしは今までその男について名前以外何も知らなかった。クラスが違いすぎるから。
…とにかく強くて、この町では一番ということは知っていたけど。
ドコに行っても、役に立つ情報はなかなかなかった。欲しいのは、実際にソヴェン・レークシュラインと剣を交えたことのある人間の意見だ。
でもそんな人間そうそういるもんじゃないし、そんな高名な戦士ともなると、門前払いに遭ってしまう。
ようやく話を聞けても、「瞬殺された」とか「とにかく強かった」なんて、おおよそ役に立たないものばかりだ。
それでもあたしは一週間近くかけて尋ね歩いたところ、大体の所は分かってきた。

地味で、しかし確実な剣技を使う。
踏み出しの強さで、実質的な間合いはかなり広い。
ステップは天才的。

剣と槍。得物こそ違え、戦い方はあたしとよく似ているらしい。
このあたしも、身軽さでヒット&アウェイを身上とするライト・ファイターだ。
もちろん、似ているからと言って、攻略法が思いつくわけではないが。
リーチの広さだけはこちらに部があるけど、それだけでは到底、実力差を埋められるとは思えないし。
何か、何かそれ以上に必要なのだ。0に近い勝率を、少しでも高めるために。

それには、どうしてもある人物に会っておきたかった。

 

 

 

2人の大男が、あたしに不審そうな目つきを向けている。

「…なんだお前は?」

高級住宅街の一角、ひときわ瀟洒な屋敷が立ち並ぶ中に、目指す人物の居館はあった。
そのやたらと大きな門の前に立つ2人の男。警備兵だろう。
愛用の模擬槍を片手に、あたしはそいつらを睨み付けながら口を開いた。

「<憤怒の神剣>のライザックに会いたいんだけど。取り次いでもらえる?」
「あぁん?」

大男2人の、舐めくさった声だ。明らかにあたしを蔑んだ声だった。
そして、あたしの身体を上から下までじろりと見回す。気色の悪い視線だった。これが町中だったら即座に蹴り飛ばしているだろう。
1人が言った。

「…小汚ねえ娘だなオイ、何の役にも立ちゃしねえ」
「ったく、そーゆー時くらい、綺麗な服着てこいっつーんだよ」

大男2人は、声を揃えて、ぎゃはは、と笑った。
最低の連中だった。
あたしは何とか我慢して、それでも冷静にそいつらに話しかけた。

「ライザックに取り次ぐつもり、ある?」
「ひひ、何か言ってるぜコイツ」
「おじょーちゃんが俺達の相手してくれるなら、考えてもいいぜぇ?」

――予定変更。
我慢する必要、なし。
あたしは無言で1人の股間を、すくい上げる爪先で思いきり蹴り上げてやった。

「うげッ!」

その場に崩れ、声もなく悶絶する男。
あたしはそれでは許さず、ノーガートの首筋に、回し蹴りのすねを思いきり叩き込んでやった。
昏倒する同僚を見て、今まで固まっていた脇のもう1人が顔色を変えた。

「てめぇ、クソガキがぁっ!」

拳を固めて殴りかかってくる大男。
しかしこちとら喧嘩で飯を食ってるのだ、舐めてもらっては困る。
その拳は、かわす必要すらなく、それが届く前にあたしが足払いで蹴倒していた。
立ち上がる暇など与えない。模擬槍の石突がみぞおちに食い込んだ。
あたしにも、これくらいはできる。
倒れた男たちをそのままに、あたしはライザック――S級戦士にしてこの街の二番手、<憤怒の神剣>ライザックの館の門をくぐった。

 

 

目的の男は、居間にいた。
ライザックは壮年近い、しかし盛り上がった筋肉で、衰えを感じさせない男だった。
あたしがここまでやってきたいきさつを話すと、ライザックは部下の非礼を詫びた。
当たり前だけど、あのちんぴら警備兵よりは話が通じる相手らしい。
とりあえずあたしに椅子を勧めると、ライザックが聞いてきた。

「それで、貴様は誰だ?」
「エルナ=クレティ。って言っても分からないと思うけど」
「ああ、知らんな」

あご髭を撫で付けつつ、ライザックが言った。
無理もない。C級の戦士の名前など覚えているような暇人は、そうそういない。

「じゃあ、こういえば分かる?」
「…ん?」
「明後日、ソヴェン=レークシュラインと戦う相手」

ライザックの表情が一変した。
余裕と安定から、驚愕。それに伴って、絶句。
しばらくして、絞り出すように、声。

「…な、なんだ、と……?」

目を見開いて、あたしを凝視する。

「き、貴様、ランクは?」
「C」
「……あ?」

カクンとライザックのあごが落ちた。目は、点に。
「老骨の剣士」で地をいってるこの男のこんな顔は、他ではそう見られないだろう。
その顔をなんとか落ち着かせてから、ライザックが聞いてきた。

「ひとつ聞く」
「何?」
「貴様は馬鹿か、それとも自殺願望があるのか、どっちだ?」
「どっちでもないわ」

少なくともあたし自身にそのつもりはない。

「勝つつもりなのか、あの男に」
「当然」

……厳しすぎる現実から逃げたくて、こんなことをしているんではない。だから、自殺願望はない。
馬鹿かと聞かれると困るが、そっちはそうじゃないことを祈るだけだ。
ただ、あたしは本気だ。

「無理だ」
「無理か無理じゃないかは、アンタが決めることじゃないわ」
「だが…」
「そんなことより」

言いかけたライザックのセリフを、あたしは遮った。別に議論に来たわけではない。
あたしは本来の目的は、明後日戦う相手をもっと良く知ることだ。

「何だ?」
「ソヴェン=レークシュラインのことを、教えて」
「なぜ、わざわざ私に? 闘技場ででも聞けばよかろう」
「対戦成績ではアンタが一番多いから」
「…そうか」

それを聞いて、何を思ったかライザックがにやりと笑った。

「面白い娘だな、貴様は」

その言葉の意味が分からなくて、あたしは眉をひそめた。
ライザックは、何が面白いのか、声低く笑っている。

「レークシュラインを倒すために、ヤツと多く戦っている、わたしに会いに来たというのか」
「そう言ってるでしょ? さっきから」

とうとうライザックは大笑した。
あたしは露骨に顔をしかめる。

「くくく…、たかだかCで、レークシュラインに死合を挑もうなど、冗談のつもりかと思っていたが、まさか本気だったとは」
「ドコの世界に門番ブチ倒してまで冗談言いに来る馬鹿がいんのよ?」
「滑稽な娘よ、滑稽としか言いようがない」
「ソヴェン=レークシュラインのこと、教えるつもりがないなら帰るわよ」

あたしは憮然と、椅子から立ち上がった。
ライザックは大笑の余韻を残したまま、あたしを手で制した。

「いいだろう、その滑稽さに免じて特別にヤツのことを教えてやろう。 小娘、得物は?」
「槍よ」
「…了解した。 表へ出るがいい」

 

 

 

あたしは、ライザックの屋敷の庭兼稽古場へと出された。
庭はやけにだだっ広いだけで、芝生とあちらこちらに樹が立っている以外は何もない。
まあ、変なオブジェとかがごろごろしていたら嫌だが。
ライザックは刃を潰した試合用の細身の長剣を持って、あたしから8メートルほどの距離に立っていた。
試合では馬の胴でも真っ二つにできそうな大剣を持っているから、これはソヴェン=レークシュラインに合わせたのだろう。

「身体で覚えろ」

最初に言ったのはそれだけ。
…S級の実力に慣れろ、ということなのだろうか。

アレコレ思う暇もなく、ライザックがこちらに向かって疾ってきた。
間合いのまだ外で、鞘走る音が聞こえた。あたしは咄嗟に、槍の穂先を横薙ぎに払う。
手応えは、なかった。ライザックは槍の間合いギリギリで足を停めていた。剣を大上段に構えて。
ガードが間に合わない!

――ビュウンッ!

眉間のすぐ前を、嫌な音と銀の閃光が行き過ぎる。
あたしは自分から倒れて、何とかライザックの一撃をかわしていた。そうしなければ頭をカチ割られていただろう。
追撃から逃れようと、あたしはごろごろと芝生を転がる。
しかし、2回転したところで腹に重い衝撃を受け、止まる。

「こんなものか」
「…くっ」

あたしは、ライザックにマウントポジションを取られ、首筋には剣が突き付けられていた。
こうなっては、どうしようもない。あっと言う間の、敗北だった。

「お前はやはり、明後日には死ぬ」
「……」

嘲笑を含んだライザックの言葉に、あたしは顔を背けた。
悔しいけど、C級とS級の、力の差だった。
あきらめるわけじゃあないけど、苦い事実だった。

それでもいくつか、わかったことがある。
S級と呼ばれるレベルの人間、その強さを、あたしは肌で実感した。
これで、ソヴェン=レークシュラインは、得体の知れない怪物ではなくなった。
このライザックと同じ土俵の上に立つ、人間だ。
それだけ、わかっていればいい。

 

 

 

夕暮れ刻。
スラムの我が家に帰ると、エミィルはまだ帰っていなかった。
ちょっと心配したけど、今のところ普通に暮らす分にはあまり問題ないと、医者は言っていた。
ならそうなのだろう。
あたしは遊び疲れて帰ってくるであろうエミィルのために、夕食をこさえてやらなければならない。
今日は、シチューにしよう。

エミィルは、自分が病気で、もう長くないことを知らない。
当然、あたしがデスマッチをするなんてことも知らない。
…教えたらどうなるだろうか。
多分、どうにもならないだろう。病気のことを知ったって、アイツはエミィルのままだし、デスマッチのことだって、エミィルが止めてもあたしは行く。
ふたりが生き延びるためには、ソヴェン=レークシュラインを殺す以外に手段はない。

――ソヴェン=レークシュライン。

会ったことも声を聞いたこともないが、ある意味彼には感謝している。
あたしたちふたりが生きていくことができる可能性を、彼がここまで戦い、勝ち登ってきたことによって残してくれているのだから。

 

後悔などこれっぽっちもないが、ふと思った。
――もう、後には退けない、と。
逃げた者に、闘技場は容赦をしない。今さら逃げたところで、闘技場では二度と働けなくなるだけだ。
そうなったら、戦うこと以外に何も知らないあたしには、もう娼館しか残っていない。
エミィルは死ぬ。エミィルのいないこの世界で、男に媚び売ってまであたしは生きていたくない。
つまり、あたしも死ぬ。

…運命共同体だねこりゃ。

でもとりあえず、今はシチューが焦げている。

 

 

 


THE DEATH MATCH


 

 

 

剣や防具の点検手入れは午前中いっぱいで終わった。
点検手入れなどといっても、大したことはしていないのだが。
せいぜいが、A級昇格の祝いにと師匠からもらった真剣を押し入れから取り出して、鍔元にガタが来ていないか見たり、油を引いたりする程度だ。
防具も一応診たが、防具など俺の場合あってないようなものだ。相手の攻撃を防具で受けるような愚など、俺は犯さない。
ともあれ、今日予定はこれで済んでしまった訳だ。
…どうするべきか。
そう考えて最初に浮かんだのはレーシャの顔だった。

『がんばって、くださいね?』

そう言ったときの微笑みは、くっきりと覚えている。
道場まで逢いにいこうか、とも思う。
しかし、来ないと言っておきながら行くというのもいかがなものか。それに何より、少々気恥ずかしい。
いや、あのときは勢いでつい抱き締めてしまったが、肝心な想いはまだ言葉として打ち明けていない。
ここはやはり、勝って道場へと凱旋した後、堂々と告白すべきではなかろうか。
それが男として、いや漢(おとこ)としてあるべき姿ッ!

――にやっ。

そんなことを考えていると、自然に頬の筋肉が緩む。
いかんいかん。今までは何とか保ってきたが、これではクールな天才剣士のイメージが保たない。
俺しかいないこの部屋でそんなことをしても意味がないのは分かりきっているのだが、とりあえず表情を引き締める。

ふと、思う。
今の俺はレーシャに少なからず心を寄せているが、それはいつからだっただろうか。
昨日? いや違う。俺はもっと前から、レーシャのことを意識していた。自覚こそあまりしていなかったが。
では初めて会ったとき? それも違うだろう。15で俺がこの道場に入門したとき、紹介されたレーシャの第一印象は純粋に「トロいなコイツ」だったはずだ。
美人だとは思ったが、俺はそこまで面食いではない。顔が良くても反吐が出るような人間は多くいるのを俺は知っている。
理由をあれこれ考えてみるが、納得いく答えは出ない。ないのかもしれない。
思考がまた一巡した。

「…ふぅ」

ひどく疲れた気がして、そのことを俺は考えるのを止めた。
明日の試合、疲れていたら負けるなどということを言うつもりはない。だが、かと言って無意味に疲れるのは良いことではない。
よく考えると俺は明日の試合の対戦相手のことをまったく知らない。
…正直なところ、俺としては相手が誰でも構わない。誰あろうと全力で叩き潰すだけだ。
俺にデスマッチ吹っ掛けてきたヤツが誰か、興味がないわけではない。それなりに考えている。
実力的にはライザックのおっさんが一番近いが、アイツには俺にデスマッチ挑むほどの根性はあるまい。
他の街から来た高名な戦士だろうか。しかしそういうヤツの噂は聞かない。
まあ、こんなことは闘技場の人間にいくらか握らせればすぐに分かるのだろうが、そこまでして知りたくはない。
どうせ明日には分かることなのだ。

俺はベッドに倒れた。レーシャではないが、少し昼寝だ。
起きたら軽く剣でも振って、晩飯を食おう。
晩飯を食ったら近所の、いきつけの酒場で少し飲もう。

俺は目を閉じ、しばらく眠りにつくことに専念した。

 

 

 

***

 

 

 

「――ぜえっ、はあっ! …ぁはっ! げほっ!」

あたしは壁に手を付いて、地面に唾液を撒き散らした。
吹き出た汗が、額やそれに貼り付いた髪の毛を伝って落ちていく。
喉の奥からこみ上げてくる嘔吐感に、思わず涙が出る。

「おい、大丈夫かよエルナ」

練習に付き合ってくれた友達のひとりが心配そうに声をかけてくる。
普段から言えば、まったく大丈夫ではない。正直立っているのもつらい。
しかし、今日はそうも言っていられない。

「…大丈夫、続けてよ」

あたしが言うと、

「ちょっと待て、大丈夫なワケねえだろ!」
「それ休んだ方がいいよ、絶対」
「アンタなに無理してんのよ!?」

友達3人に、一斉に反対された。皆からすれば、今のあたしはとうに限界を超えているのだろう。
でも、まだ足りない。

「…まだやれるってば」

やれるワケない。身体はそう叫んでいる。
それでも、あたしは最大限できることをしておかなければならない。
――明日までに。
身体の悲鳴を無視して、あたしは模擬槍を構える。

「来てよ」

それぞれが闘技場の戦士の友達3人は、ためらいつつもそれぞれの得物を構える。
長剣、戦斧、三節棍。
3人お互い眼で合図すると、ほぼ同時にあたしに打ちかかって来た。
これがライザックにやられたことによって思いついた特訓だった。
ライザックは、Sという階級のレベル、そのスピードをあたしに見せつけた。
そして恐らく、それをいくらかでも克服しないことにはソヴェン=レークシュラインを前にしたあたしに勝ち目はない。
1人ずつの打ち合いでは物足りなすぎる。少なくとも3人と互角に打ち合えねば話にならないはずだ。
だから、こうだ。

長剣の一撃がまずやってきた。狙いも的確、重さも充分乗った斬撃だ。
あたしは避けずに、その前に槍で足下をすくってやる。見事にすっ転んだ。
次に来たのは三節棍、少し遅れて戦斧だ。
さすがにふたつ同時に捌くのは難しい。迷わずバックステップする。
しかし間合いを取る隙を与えることなく、三節棍を持ったのが跳び込んでくる。
迎撃に、あたしは槍の穂先を跳ね上げる。
明らかに誤算だった。槍の穂先は三節棍にからめ取られて動きを封じられた。
戦斧の男も間合いの中にまで入っていた。このままではどうしようもなくなる。あたしは槍を手放すと同時に跳んだ。
その直後、目標を失った戦斧が地面にめり込む。

「――はっ!」

呼気と共に、あたしは素手で跳びかかった。狙いは三節棍の子。
あたしの急な行動に対応できない彼女を、あたしは喉を捕って押し倒した。
三節棍を素早く奪い取ると、戦斧の男のすねに巻き付けるようにして打ちつけた。
戦斧の男を転がすと、自分の槍を拾って構え直した。
視界の隅には、立ち上がったばかりの長剣の男。
あたしが袈裟掛けに、円を描くように槍を振り下ろした一撃は長剣で受け止められる。
近距離の打ち合いではこちらに部はない。そう読んだ長剣の男は間合いを詰めて斬りかかってくる。
――しかし、近距離だからと言って臆することはない。
あたしは槍を回転させ、石突を下から回して長剣の男の顎に打ちつけた。
したたかに顎を打たれ、再び倒れる長剣の男。

あたしは全員打ち倒したのを確認すると、膝から崩れ落ちた。
3人が立ち上がってきても、立ち上がることすらできない。
皆が心配そうな眼であたしを見てくれる。
あたしは言った。

「まだ…いけるよ」

 

ライザックのスピードを意識してやっているので、友達の攻撃をかわすのはそれほど難しくはない。
もちろん、ひとりひとり受けたなら、の話だ。3人同時だと、さっきのようにちと危ない。
それに何より、今だって限界まで肉体の能力を引き出し、反射神経を極限まで尖らせている。
この状態を、明日の試合では常時続けなければならない。できるだろうか。できなければ、おしまいだ。

 

結局今日は、友達の方がへばるまで特訓を続けた。
家に帰るともう昼下がりだった。あたしは昼飯を摂ることもなく、そのままベッドに倒れた。
身体中の筋肉が、酷使された苦鳴と解放された歓喜に、ぎしぎしと軋んだ。ついでにベッドもぎしぎし言ってる。
明日までには体力も回復させないといけないだろう。辛いスケジュールだ。
とりあえず今は寝よう。
起きたら、そう、久しぶりに少し酒でも飲みに行こう。
今日だけは、すこしくらい高級なお店に行ってもバチは当たんないよね……

 

 

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