○「ねこ」のはなし
にゃーにゃー。
ねこが鳴いていた。
しとしとしとしとしとしとしとしと。
雨が降っていた。霧雨。
霧雨に。ねこの全身の毛が重く濡れて湿って。雨の雫がねこのあごから滴り落ちる。
雨の雫はねこの目元からねこの毛を伝ってあごへ落ちていく。それは、まるでねこが泣いているようだった。
夜闇に霧雨が降っていた。
もう真夜中。
駅から歩いて、夜中になって車の通らなくなった道の、信号が黄色く点滅している十字路を右に曲がったその先。
赤く点滅する信号の光を背に受けて進んだ三つ目の電信柱。
全体の三分のニほどの高さに付けられた電灯に照らされて、その電信柱の足元にダンボールが一つ。その中には、三毛の子猫が一匹。
霧雨に湿ったダンボールの開かれた蓋の裏には、黒いマジックで「拾ってください」の一言。
絵に描いたような捨て猫だった。
雨の中を傘も無しに突っ立っていた。
ぼくは、ダンボール箱の中のこねこを見下ろし、ねこもぼくも見上げる。何分か。
あるいは何秒かだけかもしれない。意外と何時間かもしれない。
夜の闇の中。霧雨の降る真夜中。
辺りには誰も居ない。ぼくとねこしかない。誰も居ない。
何時の間にか何時間も、何日も、何年も、何千年も経っていても気付くことができない―――そんな馬鹿げた妄想を抱かせるほど、夜の世界は静かだった。何分か。
自分の体感を信じるならば何分か。だいたい5分くらい。10分も経っていない。
ぼくは、ねこを見下ろして、ねこも、ぼくを見上げ続けた。
ねこは、ぼくを見上げて鳴く。泣く。
ぼくはそれをただ聞いて、見下ろすだけだ。
結局、ぼくはなにも見なかったことにしてアパートに帰った。
その日は厄日だった。
仕事で失敗した。
正確には、仕事で失敗したことが発覚した。
ぼくの仕事は、一言で言えば「製造業」だ。
MC―――マシニングセンタと呼ばれるでっけェ機械で、金属を削って切って加工する。
マシンングセンタっていうのは、命令・・・プログラムを機械に入力して、金属をセットすれば後はプログラム通りに機械が金属を加工してくれるという機会だ。簡潔に言ってしまえば “コンピュータ制御された刃物” と言ったようなもの。
最初見たときは、この工場が正義の味方の秘密基地か、そうでなければ悪の秘密結社の秘密工場だと思った。
この機械がゴウンゴウンと動くたびに、次々にアンドロイドとか世界征服兵器とか作り出すに違いないと思った。ガガガガガガ、となにか破壊しそうな勢いで鉄を削っていく刃物や、シュゴーシュゴガシューと音を立てて刃物を交換する様子を見れば、誰だってそう思うに違いない。
・・・それにしても、「悪」は兎も角、なんでも「秘密」とつけば「世界征服」と連想されてしまうのはどうしてだろう。悪の秘密結社は秘密工場で世界征服のための兵器を作って、それおを正義の味方は秘密基地から飛び出して悪の野望を打ち砕く。そんなTVばっか見た影響だろうか。ここが会社の工場には違いない。
残念ながら、悪でも秘密でもないし、正義の味方も世界征服も関係ない世界だけど。
こーゆー形に加工してください。
そんな風に、注文先から図面が送られてきて、ぼくらはその図面を見て寸法を見て計算してプログラムを作って打ち込んで材料をセットして製品に加工する。
ぼくがやらかした失敗と言うのは、以前作った製品の寸法がいくつか間違っていると言う物だった。それも、発注先からのクレームだったから最悪だ。
例えばこれが、出荷前に不良品に気づくことができれば、作りなおせばコトが済むのだけど、製品として出荷した後の話になれば、ウチの会社の信用問題にもなる。工場長やらおエライさんが、先方まで出向いて謝りの一つも入れに行かなければならない。
ぼくはぼくで、おやッさん―――というのは、職場の責任者で、この道ン十年のベテラン。まだ五年も経ってないペーペーなぼくは頭があがらない―――に、ひたすら説教をくらった。三時間。よくそれだけ言葉が続くモンだなと、半ば感心しつつぼくは黙っておやッさんの説教の要点だけを残し、右の耳から左の耳へ流し続けた。要点は、つまり、「ちゃんとしろ」ということ。
言われなくても、2度と同じ失敗はしない。気ィ引き締めなきゃな。
寸法が違うということは、プログラムの計算が間違っていたか、或いはセットの仕方が悪かったか。
もしくは刃物が悪かったということもあるかもしれないけど、寸法が狂ってたのは五十個作ってたうちの十数個だった。
普通、注文は十数個、多いときは百を超える単位で来る。流石に千個一編に来たことはない。
で、そのウチの全部が不良だったのなら、プログラムが悪かったということになるけど、何個か、となると、材料をバイスに噛ませる時に少しズレたということだ。
一応、プログラムを二度ほど見直して見る。けど、特に数値に間違いもないし、プログラム自体もおかしい所はない。
となると、かなり馬鹿みたいなチョンボだ。おやッさんにいうと、てめーは満足に仕掛けるコトもできねーのかとか説教。一時間。それから、クレームが来た分を作り直す。
作業自体はラクだった。
以前、使ったプログラムがあるし、あとは気を引き締めてやるだけ。
年のため、一つ一つ加工する度に寸法を測る。前回は、たしか最初と真中と最後の三回しか測ってなかった気がする。測るついでにバリもとる。楽な作業であっても、手間のかかる作業ではあった、定時間内には終わらず、残業時間が過ぎても終わらない。ぼくは超過残業を申請した。
誰も居なくなった工場の中で、夜食にとった店屋物の親子丼が美味かった。結局、超過残業をしても終わらずに、夜勤の人間に仕事の引継ぎをして帰るコトにした。
外に出ればやはり暗かった。
真夜中。暗闇。
空には月。星もはっきりと見える。携帯電話の時刻を見れば、10:02のデジタル表示。
まだ電車あったっけなー? と思いながら駅の方に足をむけて。
止めた。
立ち止まって、もう一度携帯電話の時刻を覗き込む。
10:09
真夜中だった。駅への道を外れて、二駅先のアパートまでの最短距離のルートを思い出しながら道を進む。
どうとういうこともない思い付きだった。
何故か、歩きたくなった。
真夜中。真っ暗。闇の中に一人残されて、なにか言い様もない苛立ちを抱えていたような気がする。
暗闇。深夜。夜の中に一人残されて、なにか自分が夜の帝王にでもなった高揚感があった。意味不明。
ただなんとなく、駅から電車に乗って帰るよりは、このまま歩いて帰ったほうが面白いと思った。
どうせ、もう夜も遅い。これ以上遅くなったって、大した違いはないとも言い訳した。
田舎の道。
国道ではない。農道の、白線で区切られた申し訳程度の歩道を歩く。すぐ傍には水路が流れている。ガードレールもないので、一歩間違えば転落。死にはしないだろうが、かなり痛いだろう。そんなコトを思っていると、自然にぼくの足は車道の方へと近づいていく。
白線の上を歩き、ふと後ろを振り返る。闇。
ここらへんは街灯も立ってないので、記憶を頼りに手探り足探りで進むしかない。
昔の人は、月の灯りと星の明かりで道を歩けたかもしれないが、現代人なぼくにとっては、月明かりの夜はなにも見えないのと同じだった。
背中からは車の光は見えない。音も聞こえない。
ぼくは白線を乗り越えると、車道の真中に立って歩き出した。センターラインをまたいで歩き出す。少しドキドキする。
ドキドキしながら、同時にすごく気分が良い。
普段は幾つもの車が支配する道を、今はぼく一人が支配している。
辺りには誰も居ない。この道を歩き、この夜の空の下を歩いているのはぼくだけなのだ。この夜はぼくが支配していた。不意に車のエンジン音が聞こえた。
反射的に歩道へ戻ろうとすると、光が見えた。
ぼくが歩道へ戻ると、それから幾秒後に、光が車のエンジン音と共に、ぼくの脇を通りすぎて行った。やはり、車道を支配するのは車だった。
やっと一駅ほどの距離を過ぎようって言う時。
雨を感じて立ち止まる。
雨が降ってきた。立ち止まり、手を開き、掌を夜空へ向ける。
目を閉じて、意識を、神経を掌に集中させる。
ぼくはぼくの掌が濡れるのを感じた。ぽつり、ぽつり、ではない。
ざーざーでもない。
霧吹きを掌に優しく吹き付けられたような感じ。霧雨。
空を見上げれば月はまだ見えた。
星も幾つか見ることができた。
でも、曇っていた。
雨ニモ負ケズ
傘なんて持ってない。傘を差すような雨でもないと思いなおす。
なにか、雨と言うのは人を打ちのめそうとするような意思が感じられる―――というのはぼくの錯覚だろうか。
それの「錯覚」はこんな霧雨にまで感じる。
まるで、電車も使わず、馬鹿みたいに歩きつづけるぼくを嘲笑しているみたいだ。いや、ぼくだって自分のしているコトがちょっと馬鹿なコトだって自覚はあるんだ。実は。へこたれなかった。
雨に負けないように、歌を歌いながら歩き出す。
この前、友達と飲みに行ってカラオケに行った時に誰かが歌っていた歌。ノリがぼく好みの曲と歌。曲は殆ど覚えていたけど、歌詞は殆ど覚えてなかった。それでもうろ覚えで、わからない所は自分で適当に歌詞を作って歌った。
何度か繰り返して、何時の間にか歌うのを止めて、それに気がついてまた歌うというのを繰り返しながら歩いた。
辺りに民家はあまりないから、結構、大声で歌った。息が切れても歌った。
二駅目。ぼくがいつも通勤する時に電車に乗って、退社した後に電車を降りる駅。歌を歌うのはもう完全に止めていた。
雨は止まず、しかしそれ以上強くもならず、霧雨のままでぼくを濡らし続けていた。霧雨とは言え、すでにぼくの全身はズブ濡れの一歩手前で、染めてない短い黒髪は、水が滴り落ちていた。
駅はまだ明るかった。この街の中で今明るいのは24時間営業のコンビニと、この駅だけじゃないだろうか。駅の入り口の前で立ち止まって、改札口を覗き込む。
何が見えたと言うワケでもなく、客はおろか駅員の姿さえ見えなくて、キヨスクも当然閉まっていた。
特に何が見えたというわけではなかったが―――――それでも、なにかにぼくは満足して、アパートへの道を辿り始める。
駅から歩いて、車の通らなくなった道の、信号が黄色く点滅している十字路を右に曲がったその先。
赤く点滅する信号の光を背に受けて進んだ三つ目の電信柱。
全体の三分のニほどの高さに付けられた電灯に照らされて、その電信柱の足元にダンボールが一つ。その中には。
すてねこが一匹。
アパートに付いた途端、一気に脱力。
靴を脱ぐコトも億劫で、苦痛すら覚えたが、なんとか靴を脱ぎ捨てると、そのまま万年床となっている布団の上に倒れ込んだ。疲れた。ひたすら疲れた。
なんでこんな馬鹿なコトをしたんだろうかと思う。霧雨とは言え雨の中を傘もささずに歩きつづけるなんて―――――いや、雨の中って言うのは不可抗力なんだけど。枕もとの時計を見る。ミルクの缶を脇に抱えたウシの目覚まし。
目覚ましの音は「もぉぉぉ〜。一〜っ生寝ってろ」とか、逆に眠くなりそうなのんきな声で、なんともふざけたもの。ウシのちっちゃいツノが目覚ましのスイッチになっている。実は結構気に入っていて、小学校の頃からの愛用品だ。ぼくの場合、「とっとと起きろ」と言われても、起きる気しないけど、「好きなだけ寝てろ」とか言われると、ホントにこのまま寝ててもいいのか? と疑問、というか不安を感じてしまうのか、起きる気になる。
ただ単に天邪鬼なだけかもしれないけど。そのウシの腹にあるアナログの時計は12時丁度を示していた。この時計は5分ほど早く進めてあるから、今は11時55分ということになる。
寝よう。
そう、思った。
脂臭い上に濡れて湿っている作業服のままだけど、着替える気力ももうない。
足はジンジンするし、もう立ち上がるコトも、置きあがるコトすらできない。ぽたっ、と髪の先から雫が布団に滴り落ちるのが見えた。
このまま寝たら明日風邪引くだろうな、とも思ったけど気にしない。
あと、有給何日残っていたかなー、そんなことを考えながら。ぼくは、眠りに、落ち、ようとした。
雨が降った。
さっきまでの霧雨ではなく、本格的な降り。
ザーザーという、騒がしい雨音が外から聞こえて、夢現の状態で、ぼくは少しだけ目を覚ました。雨かぁ・・・運動会は休みかなぁ―――いや、運動会はもう終わったっけ。
運動会は学生時代と共に、もう何年も前から終わっている。
雨。ザーザーという、その雨音すらも、今のぼくには子守唄となって聞こえた。だんだん、だんだんと、眠りに落ちていく。
ふと。
さっきのねこのコトを思い出した。
雨に打たれて大丈夫かなとか思った。・・・・・忘れるコトにした。
そりゃ可愛そうだと思うけど、だからって通りすがりのぼくにどうにかしろと言われても困る。
だいたい、このアパートはペット不可だし、ペットを飼う余裕もない。第一、ぼくはねこの飼い方は知らない。犬の飼い方には心当たりもあるけど。結論・ぼくにはどうしようもできない。
忘れよう。
・・・・・・・
よし、忘れた。寝よう。ねこのコトは忘れた。
ぼくはゆっくりと眠りに落ちる途中で。ふと思う。
ねこのことじゃない。ねこなんて忘れた。ねこなんてぼくは知らない。
ねこじゃなくて、ダンボール箱のコトが頭に浮かんだ。箱。
やっぱり、箱って雨が降れば水が溜まるんだろうか。
溜まるに違いない。だって箱だし。ダンボール箱に水が溜まる様子を連想した。
ふと。
犬かきってあるけど、果たして猫かきというのはあるんだろうかと疑問が浮かんだ。
そういえば、ねこは水が嫌いだって聞いたことがある。水が嫌いなねこが、どうして水の中の魚を好きなのか疑問だけどそれは置いといて。
ねこは泳げないのかも知れない。泳げないようなねこが、水一杯のダンボール箱の中に
ダメだった。
すごく怖い想像をした。
水が嫌いで泳げないねこが水一杯のダンボール箱の中に。しかもこねこ。目が開いた。
ヤだった。果てしなくイヤだった。
身体を起こした。
冗談じゃない。どうしてねこ一匹のタメに。
足は痛かったけど、それでも立ちあがる。
わざわざぼくが。
頭をニ三度掻いてから軽く振って、それからサンダルに、蹴り飛ばすように足を突き入れる。
行かなきゃならないんだか。頷く。
そうだ、わざわざぼくが、あんなこねこ一匹のタメに雨の中いく必要もない。ホラ、外だってざーざーざーざー雨が凄いし。
それが結論だった。
ぼくは全てに素晴らしく納得する。
それから、玄関に無造作に倒れているビニールの傘を拾い上げて、外に出た。
つまりこれは、ねこのためじゃなくて、ぼく自身のためにいくんだ。
我ながら、よく解らない結論だった。
土砂降りの雨の中を、ゆっくりとぼくは歩いていく。
凄い雨だった。
傘はなくてもあっても一緒だった。それでも一応さしておく。風がないのが不幸中の幸い。
霧雨のうちに帰ってこれて本当に良かったと思う。現場まではすぐ近くだった。
歩いて1分も掛からない所を雨の中3分は歩いた気がする。電信柱の下にダンボール箱はまだあって、その中にねこはまだ生きていた。
ダンボール箱に水は溜まっていなかった。
なんとなく裏切られたような気分で、ぼくはため息をついた。にゃー、とねこはぼくを見上げて鳴いた。
幻聴かもしれない。
だってこの豪雨の中、こねこの声なんて耳を近づけなきゃ聞こえないハズだ。「一晩だけだからな」
ぼくは呟いた。
もっとも、その呟きがねこの耳に届いたかは疑問だけど。
だってこの豪雨の中、ぼくの呟きなんて近くに居なきゃ絶対に届かない。一晩だけ。
そう、一晩だけだ。
ぼくは自分に言い聞かせる。一晩だけ、こんな雨の日に放っておいたら可哀想だから、一晩だけウチに泊めてやるだけだ。
明日になって雨が止んだら、すぐにまた捨てるなり保健所。だってウチはペット不可だし。
ぼくは片手で傘を持ち、開いた手でねこをダンボール箱の中から持ち上げる。こねこは抵抗もせず、逆にぼくの首もとに身体を擦り付けてくる。冷たい。
・・・あ。お腹を圧迫しちゃいけないんだっけ? そう、どっかで聞いたことあったな。などと考えながら、ふとダンボール箱を見た。ねこが居なくなって空になったダンボール箱。
もはや水が溢れんばかりに溜まっても、ねこが溺れることもないタダの箱。
ふと、持っていけば明日捨てる時に楽かな、と思ったけど、開いてる手はもう無い。もう一度取りに来るのも馬鹿らしい。まあいいか。
明日、捨てるにしても、ダンボール箱を新築してやるくらいの手間はかけてやろう。
くしゅっ。
抱き上げたねこが、ぼくの耳元でくしゃみのようなものをした。いやくしゃみか。・・・とりあえず、帰ったら毛を乾かしてやらないとな。
ドライヤーで乾かして良いもんなんだろうか? そんなことを思いながら、ぼくは豪雨の中をアパートへ戻って行った。
END
あとがき
ねこのはなし。そのまんまです。それだけです。
ちなみにこの話はフィクションです。
作中、主人公の性格とか、仕事とか、一部作者自身をベースにしていますが、2002/09/08/2:05現在、私はねこを拾った経験はおろか、一人暮しすらしたことないです(笑)。ちなみにこの話、もしかしたら続きます。
続くのか!?
続きません。
どっちですか。
解りません!以上。