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今日の出来事(1)

日付は出来事のあった日で、( )内は記事を書いた日です。

2000年2月17日(6/18記)

太平洋の国連未加盟国ツバルの加盟が9月の国連総会で承認される見込み

 国連広報センターの「毎日の動き」2月版によると、2月17日、国連安保理は決議1290(新加盟の承認に関する決議 )を賛成14、反対0、棄権1(中国)で採択し、総会に対してツバルの国連加盟を勧告した。

 国連総会の仕組みはよくわからないが、第54回総会が1999年9月14日(火)に開会し2000年9月5日(火)午前に閉会し、第55回総会が、同じ日の2000年9月5日(火)午後に開会するらしい。そして、この第54回総会を「国連ミレニアム(千年紀)総会」と呼ぶことに決めているらしい。ツバルの国連加盟は、第54回総会閉幕直前か、ミレニアム総会開幕直後かに決定されるらしいので、ツバルの国連加盟は2000年9月ということになる。

 ツバルが加盟すれば、オセアニアの未加盟国がなくなるだけでなく、世界的にも未加盟国はバチカンとスイスのみということになる。バチカンとスイスは加盟はしていないが、いくつかの国連活動には参加しており、分担金も割り当てられているので、実質的には加盟しているのも同然だ。そうなると、国連は名実ともに、世界の全独立国参加の世界組織ということになる。スイスも2002年に国連加盟を問う国民投票が予定されているらしい。

 なお、新ユーゴは認められていないが旧ユーゴが空席のまま形式的に入っているので、これは過渡的な未加盟にすぎない。また、ニューカレドニアなどの植民地や、台湾のように特別の事情があり地域は独立国ではないから、もちろん入っていない。

 ところで、オセアニアのミニ島諸国の国連加盟年は、フィジー1970年、サモア(旧称西サモア)が1976年、ソロモン諸島が1978年、バヌアツが1981年、マーシャル諸島共和国とミクロネシア連邦が1991年、パラオ1994年、 ナウルとトンガとキリバスが1991年である。

 このうち、フィジー、ソロモン諸島は独立年と同じ年に加盟、バヌアツが独立翌年に加盟している。ミクロネシア連邦とマーシャル諸島共和国はアメリカ合衆国が信託統治の終了宣言をした1986年に事実上の独立を果たしたが、国連安保理が信託統治終了を決議し独立が国際的に認知されたのが1990年なので、国連加盟は独立が国際的に認知された年の翌年ということになる。

 独立年と国連加盟年の間に大きなずれがあるのが、サモア(1962独立、1976加盟)、トンガ(1970独立、1999加盟)、ナウル(1968独立、1999加盟)、そして、ツバル(1978独立、2000加盟見込み)の、計4か国である。

 「これら4か国の国連加盟が遅れたのはなぜか?」これは未解決の疑問です。この疑問は、「トンガとナウルとツバルが1999年、2000年になっていまさらなぜ国連に加盟するのか?」と言いかえることができ、ひょっとして、その裏には日本の暗躍、すなわち、常任理事国入りをめざし1票でも賛成票がほしい日本の働きかけがありそうな気がするが、これも憶測にすぎません。

 毎年のように受けるのだが、未だ未解決の疑問がある。この「トンガやナウルはなぜ国連に加盟していないんですか?」の類の疑問もその一つだ。そして、今年も来ました来ました。地理マニアのK君から、「ツバルはどうして国連に加盟していないんですか?」っていう疑問が。「やれやれ、またか。困ったなあ。知らないものは知らないんだ。こちとら、オセアニアのミニステートの中に国連未加盟国があることは知っていても、それがツバルなのかそれともエロマンガ島で有名なバヌアツなのかも知らないのだ。」と、心の中で思うのである。でも、この疑問を受けるのも今年限りで、ツバルが入ってくれる模様だから、来年度以降はもう大丈夫、「知りません。調べておきましょう。」なんて空手形を出さずにすみそうだ。ありがたいことです。

* ツバルは、9月5日の国連ミレニアム総会初日に、つつがなく国連に加盟しました。(9/6付記)
  「総会は決議を全会一致で採択、ツバルの国連加盟を承認した。これにより、国連加盟国総数は、189となった。」(国連発表のニュース


6月13日(6/14記)

南北朝鮮首脳会談

 私は近頃、涙もろい中年になってしまった。たとえば、この前の長野オリンピック以来、ジャンプの原田という名前を思い出すだけで条件反射的に涙が出る。情けない限りだ。そして、このたびの南北首脳会談も、隣国のことながら、朝鮮民族の人はどんな気持ちでいるのだろうかと想像するだけで、涙が出てくる。新聞を読めば涙が出るわ、テレビを見れば目頭が熱くなるわで、我ながら、本当にどうなっちゃったの?オヤジさん?って感じであります。

 韓国の金大中大統領が大政治家であることは周知だ。そして、前からうすうすそんな気がしていたが、北朝鮮の金正日総書記もなかなか愉快な人物だということが世界中に暴露された。発言の一つ一つがなかなか味がある。6/14の発言はなかなかふるっている。常人にはなかなか言えない言葉なので、「お言葉」と呼ぶことにしよう。

金大統領がいらっしゃって、隠遁生活から解放された。
外信や欧米の人はどうして隠遁生活をするかと言うが、私は過去、中国にも
行き、インドネシアにも行った。色々なところに行ったのに、どうして隠遁
生活をしているというのか
そのような言葉を聞いても構わない。知らないようにすることにしたから。

「私を変人扱いしないでもらいたい!」と言いながら、実は、変人扱いされていることを楽しんでいるみたいだ。

 6/13の会談でのお言葉もなかなかのものだ。

外国の首脳を「東方礼儀の国」の道徳心で歓迎している。
金大統領の勇気ある訪朝に対し、人民も勇んで飛び出してきた。警護の関係
で新聞・ラジオでは宣伝できなかった。南の方では広告をすれば良いのかも
しれないが、我々は実利だけ追求すればいい。

「東方礼儀の国」は健在だということを改めて認識した。父親の死後、丸3年以上も喪に服していた人物ならではのお言葉だ。中国の皇帝は父親に当たる先代の皇帝の死後3年喪に服すというが、この3年というのは足かけ3年のことで、実際は2年にも満たないことが多いらしいが、金総書記は丸3年以上だから、中国の皇帝以上に、儒教的帝王道をきわめんとする大儒なのだ。うらやましいなあ、「東方礼儀の国」って断言できるところが。今の韓国で自国をそのようにいう人は少なくなっているだろうし、日本に至っては「東方堕落の国」としかいえないような感じだもの。せめて「東方上品国」と言えればいいのだが、それも無理だね。「今日の発見」なんていうコーナーを設けて喜んでいる輩がいるところをみると、「東方下品国」というしかないのだ。

せっかくいらしたのだから、いかに今回の訪問を支持し歓迎しているか、し
っかりお見せする。長官の方々も金大統領に同行し、大変な道をやってきて
くださった。しかし、共産主義者にも道徳心があるし、我々は同じ朝鮮民族
だ。

「共産主義者にも道徳心がある」っていうところがなかなかいいですね。北朝鮮は「儒教共産主義国」なのだ!とおっしゃっているのだろう。でも、実は、「共産主義者は道徳心のかけらもない」と思われてきたことを楽しんでいるようなお言葉でもある。ひょっとして、金総書記はM(マゾ)の気があるんじゃないのかな自虐的悦楽趣味持ち主かもしれない。

 金正日ファンが増えそうな予感がする。今後もお言葉に注目ですね。


3月27日(3/28記、3/30・4/2付記)

OPECの定例総会開催

 石油輸出国機構(OPEC)の定例総会がOPEC本部のあるウィーンで開かれ、予想通り、今年4月以後の増産が決まった。「予想通り」というのは、3月2日に、主要産油国のサウジアラビア、ベネズエラ、メキシコが、3か国の石油相会談を行い、増産の意向を固めていたからだ。実は、この3か国は、昨年3月の定例総会前にも事前会談を行っており、そのときは減産の方針を打ち出して、昨年の減産と高値維持を主導してきた張本人なので、これらの国が増産と言えば、決まったも同然だったのだ。

 それにしても、変な話だと思いませんか? OPEC総会以前に、OPECに加盟していないメキシコを交えた会談が行われ、そこで意思統一されたことが、そのままOPEC総会で決まるのです。

 試験では、メキシコがOPECに加盟していないことがしばしば問われますが、最近は、そんなことは実際はどうでもよくなっていますね。OPEC非加盟国の産油量も多いので、昔のように、OPECだけで産油量を調整すれば原油価格が決まるっていうわけにはいかなくなっているんです。したがって、最近は、OPECに加盟していようがいまいが、主要産油国全体で方針を調整する必要があるわけです。

 昨年3月に決まった減産の方針は、4月〜11月までは減産順守率は85〜60%で推移し、まあまあ守られていたので、今年は年初から原油の値段はかなり高くなっていました。これに対して、欧米諸国と国際エネルギー機関(IEA)は、「今度の総会でまたもや減産が決まれば世界経済は混乱に陥るから、産油国は増産すべし」と、OPEC加盟国だけでなく、メキシコやノルウェーなどOPEC非加盟産油国にも、圧力をかけていました。昨年の減産決定を主導したサウジアラビア、ベネズエラ、メキシコは、この要求に応えて、事前会談で増産の意向を固めたわけです。他の産油国のうち、イラン、アルジェリア、リビアは増産に反対していたが、27日の会議では増産に同意したそうです。

 昨年決めた減産の方針は11月までは守られてきたが、原油価格がかなり高くなった12月以後、遵守されなくなり、実際には、減産破りの増産が目立つようになっていたようです。今度のOPEC総会で、もし減産を決めたとしても、効力が薄く、恐らく、減産破りの国が続出するでしょうね。そうすれば、OPECの足並みの乱れや弱体化を露呈するだけでしょう。増産反対派だったイランやアルジェリアなどにもそれがわかるだけに、増産絶対反対!と、ごねるわけにはいかなかったのだと思います。

* 最終的に、イランはしっかりごねて、減産に同調しなかったようですね。さすが、イラン。おかげで、「イランはいらん国なんです」シリーズに、また一つエピソードが加わりました。(3/30付記)

* OPECの性格が変質しつつあるともいわれてます。加盟国の資源ナショナリズム実現のための生産国カルテルから、世界の原油価格を調整・決定する機関へ。そうなれば、加盟国の足並みは乱れているものの、世界経済に影響力を与える組織として、以前にも増して無視できない組織になる。OPECは原油価格を上げることだけ考えている組織じゃなく、価格を下げることもできるようになるのだ。上げるも下げるもOPECしだい、ってことになる可能性も出てくる。原油価格の低下は、輸入国にとってはありがたいが、原油の輸出を今後の経済建設の頼み綱としている国、たとえばロシアなど、にとってはたいへん困る事態なり。(4/2付記)


3月18日(3/22記)

台湾の総統選挙で民主進歩党の陳水扁氏が当選

 李登輝総統の後任を決める台湾総統選挙の投票が行われ、即日開票の結果、最大野党・民主進歩党(民進党)の陳水扁候補(前台北市長)(ちんすいへん)前台北市長(49)が与党国民党の連戦候補(副総統)らを破り当選した。陳氏は5月20日に総統に就任する。

 今回の総統選とその結果は、「李登輝破れて李登輝路線勝つ」とでもいったらよいだろうか。台湾初の政権交代により李登輝が率いる国民党は破れたが、李登輝が進めてきた「民主化・台湾化」路線は継承された。

 台湾は、1949年に蒋介石の率いる国民党とともにやってきた人々(外省人)が支配し、それ以前から来ていた人々(本省人。外省人も本省人も漢民族で、先住民はマレー・ポリネシア系高山族=カオシャン族)は抑圧を受けてきた。蒋一族の支配と国民党一党独裁が続き、北京語が公用語とされ、公の場での台湾語使用は抑えられてきた。こうした非民主的体制を改める動きは、蒋介石の後継者であり長男の蒋経国が始めたが、本格的な民主化は、その後継者で本省人出身の李登輝によって進められた。彼は、国民党一党独裁体制を改め、民主化・台湾化を進める政策を矢継ぎ早に打ち出した。

 今回の総統選は、半世紀にわたって台湾政治を支配してきた国民党が政権から転落するとともに、直接選挙で最高指導者が交代するシステムを確立したという二つの意義をもつ。総統選は「民主化された台湾」をアピールすることにより、民主化の進まない中国との違いを示して、国際社会における台湾の存在感を高める。政権交代は、民主制度の定着と台湾社会の成熟ぶりを証明し、李総統の民主化路線の到達点であったともいえる。

 また、陳水扁氏が属する民進党の支持層は本省人である。外省人は、自分は台湾人である前にまず中国人であると考えるが、本省人は中国人である前に台湾人であると考える人が多い。その意味で、民進党の勝利は、台湾人の勝利であり、李登輝の台湾化路線の帰結でもあった。国民党に属する李登輝は、外省人の国民党から、外省人でも本省人でもない全台湾人の国民党へと、党を変えようとしたのだろうが、選挙結果を見る限り、これは成功しなかった。

 中国人である前に台湾人であろうとすることと、台湾が中国の領土の一部であることを拒んで独立を求めることとは、まさに紙一重の違いしかない。李登輝が進めてきた台湾化の一つの帰結は、「中台は特殊な国と国の関係」とする彼の「二国論」である。陳水扁は、李登輝の「二国論」を支持し、「台湾の主権を永久に確保する。」と強調している。また、中国側が台湾との統一方法として提示している「一国二制度」については「受け入れない。第二の香港やマカオにならない」と拒否している。党は違うが、李登輝の台湾化路線の忠実な後継者なのだ。

 もちろん、中国が台湾独立をや「二国論」を認めるはずはない。もし、それを容認したら、中国の現指導部が「売国奴」の汚名をかぶせられることは必至であり、指導層内部で権力闘争が始まってしまうだろう。経済を軌道に乗せたい今の中国指導部にとって、台湾で独立派が力を得たとき、それに対してことをかまえる(すなわち武力に訴える)こともまずいし、かといって、これを容認すれば指導部転覆の恐れがあるからまずい。柔軟な経済政策をとることで知られる朱鎔基が、台湾問題では、鬼のような顔をして「許さん!」と力むのは、そうしないと自分ら改革派が失脚させられてしまい、せっかく軌道に乗っている改革開放政策(短期的にはWTO加盟など)がフイになるからだ。「台湾の身勝手を許せばチベットでも同様のことが」ということもあるにはあるが、少なくとも朱鎔基にとっては、そんなことよりWTO加盟などの改革開放政策をより一層成功させたい、あるいは自らの失脚だけは避けたい、ってことが最大関心事なのだ。と、私は思う。

 もちろん、台湾にとっても、「二国論」にしがみついて中国とことをかまえる(戦争になる)ことは避けなければならない。、陳水扁は、「二国論」による憲法改正は行わず、「中華民国」の国名も変えないと表明している。そして、李登輝政権が拒否してきた「三通」(貿易、交通、通信の中台間の直接往来)の解禁や総統就任前の訪中などを提案し、中台関係改善に意欲を見せている。

 中国と台湾は、かたや「一国二制度」、「一つの中国」、かたや「二国論」という具合に、まったく異なる建前を掲げながら、現実的利害はかなり一致している。どちらかの面子がつぶされるような、何か突拍子もないことが起こって、建前を表に出さざるをえない事態が生じない限り、中台関係は言葉の応酬に終始するだけで、たとえば雑誌SAPIOが好きそうな武力行使ということにはならない。と私は思う。

 以上、台湾総統選は、入試地理に関係が薄いので、とりあげたくはなかったが、重大ニュースなのでとりあげないのも変。仕方なく書きました。なお、私ごとですが、我が家の一部は、植民地時代の台湾に10数年間(もちろん私の生まれるずっとずっと前)、拠点を構えていたことがあります。カオシャン族のチャマルという人を子守として雇っており、叔母の一人は彼にたいそうかわいがられたそうで、今でも「チャマルはどうしているかなあ。もう死んでしまっているかもしれないし、まず会えないだろうなあ」と懐かしんでいます。ネットを駆使すればチャマル氏の消息がわかるかも。

7世紀初頭 隋代、台湾の偵察征略の試み。
1360年 元代末期、元が澎湖島に巡検司を置く。
1624年 オランダが南部台湾を占領。
1661年 明の遺臣鄭成功がオランダ人を駆逐。抗清復明の根拠地とする。
1683年 清が鄭軍をくだし、台湾を中国の版図に収める。
18世紀後半以後 大陸からの移住民の渡来が激増し、開拓が急速に進む。
1858年 アヘン戦争後の天津条約により台南と淡水港の門戸開放。
1874年 日本が、台湾南部に漂着した琉球人を先住民が殺害したことを理由に、台湾に出兵。
1895年 1894〜95年の日清戦争の結果、日本に割譲。以後51年間、日本の植民地統治下に置かれる。
1945年 日本敗戦の結果、ふたたび中国の版図に復帰し、台湾省として再出発する。
  大陸で国共内戦再燃。
1949年 中華人民共和国成立。大陸から蒋介石政権、官吏、軍人、商工業者ら150万〜200万人が流入。
  蒋一族と国民党一党独裁政権による統治開始。
1975年 蒋介石死去。長男の蒋経国が権力継承。
1971年 国連代表権が中華民国(台湾)から中華人民共和国(中国)に移る台湾は国連を脱退
1972年 米中接近(「ニクソン・ショック」)。日中国交樹立。台湾は日本と断交。民間関係は存続。
1986年 最初の野党民主進歩党が禁令を冒して結成される。
1987年 冷戦溶解を受けて38年間続いた戒厳令が解除され、結党規制の解禁など、民主化始まる。
1988年 蒋経国死去。李登輝政権誕生。民主化の動き加速。
1996年 第1回総統選挙。李登輝が圧勝。
2000年3月18日 第2回総統選挙。国民党候補が敗れ、野党民進党の陳水扁が当選。

3月17日(3/18記)

アメリカ合衆国が対イラン経済制裁の一部解除を公式発表

 アメリカ合衆国が、対イラン経済制裁の一部解除を公式発表した。アメリカ合衆国とイランの関係は、1979年のイラン革命以来ずっと険悪で、アメリカ合衆国は対イラン経済制裁を続けてきただけでなく、米大使館人質事件で80年4月に国交断交、84年にテロ支援国家に指定、95年以後は対イラン全面禁輸措置を実施していた。今回の経済制裁一部解除は、2月18日に実施、26日に結果が判明したイラン総選挙で改革派が圧勝したのを受けて、ハタミ大統領主導のイランの改革路線を支持し、関係正常化を目指す姿勢を示すためとみられている。

 発表された主な内容は、(1)じゅうたん、キャビア、ピスタチオなどの特産品のイランからの輸入解禁、(2)学者、芸術家、スポーツ選手や非政府組織(NGO)などの人的交流拡大、(3)凍結されている在米イラン資産の返還実現へ向けて法的問題の解決努力、の3点。石油や石油製品に関する制裁は引き続き行われる。

1926年  第一次世界大戦後イギリスに占領されていたペルシャに、パーレビ王朝成立。
1935  国名をイランに改称。
1960年代  親欧米派の国王による近代化、脱イスラム化政策。「白色革命」と呼ばれ、反対派を弾圧。
1970年代  イスラム教シーア派による反国王運動がもりあがる。
1979  イラン革命(シーア派革命)。イスラム共和国の成立。最高指導者はホメイニ師。
   欧米諸国との関係悪化。
1979〜81  アメリカ大使館人質事件。イランが在イラン米大使館を占拠。国交断絶。
1980〜88  イラン・イラク戦争。欧米諸国はイラクを支援。
1984  アメリカ合衆国がイランをテロ支援国家に指定。
1989  ホメイニ師死去。
1990  イラクのクウェート侵攻。イランはイラクを非難。
1991  湾岸戦争。イランは中立姿勢を保つ。
1995  アメリカ合衆国が対イラン全面禁輸措置を実施。
1990年代  経済状態悪化の中で、保守派と穏健派が対立。
1997  大統領選で、穏健派のハタミ師が当選。アメリカ合衆国との関係正常化をめざす。
2000.2.18  総選挙。穏健派が圧勝。
   3.17  アメリカ合衆国が対イラン経済制裁の一部解除を公式発表。

私のコメント

 入試問題の中には、政治ネタを知っていれば簡単に解けるものがある。たとえば、ある国の貿易統計が出て、その国がイランから大量に原油を輸入していたら、それはイランと仲の悪かったアメリカ合衆国ではないとすぐわかる。

 もちろん、地理の問題で、政治的な時事ネタがストレートに問われることは少ないので、あまり神経質になる必要はない。時事ネタをヒントに問題が作られることがあり、また、政治的事件が貿易統計などのかたちで地理ネタに影響を及ぼすこともある。だから、新聞でそういう記事を読むのは無駄ではない。という程度の話です。

 ところで、イランの総選挙といえば、今年は選挙の年である。本日3月18日は台湾の総統選があった。今月末はロシアの大統領選、11月にはアメリカ合衆国の大統領選、そして、日本でも、夏か秋か知らないが総選挙がある(と思うが)。

 このうち、ロシアはプーチンさんに決まりだ。女性選挙民を中心に国民にもてもてらしい。女性にもてもてと言えば怪僧ラスプーチン。名前も似ている。どうやら別物らしいが、プーチンさんってのは何者なのか? エリツィン時代に大儲けした悪徳政商の味方なのか、それとも? その点にはおおいに興味があるが、選挙自体は結果が分かっているので、あまり関心がない。日本は?といえば、不謹慎ながら、これまた、どうでもいい、って感じだ。脱線するが、最近の政治家をみると、宮沢、河野、細川、橋本、などの諸氏のように、前評判がよかったり、カッコよくて奥様方に人気があったり、マスコミ受けする人ってのは、首相や総裁などになると案外だめなものだね。その点、だめだ、小物だ、と言われる村山首相や小渕首相の方が、彼らに比べればというにすぎないかもしれないが、よほど大物で肝がすわっている。と、私は思う。イランにかこつけて要らんこと言いました。

 イランの総選挙や台湾の総統選は、その結果が、一国の将来を決めるだけでなく、世界各地のいろんなことにも影響する可能性があるから、ちょっと興味があります。

 イランついでに要らんおまけ。ジオゴロの神様であらせられるもっくん氏ご教示の傑作に「イランはいらん国なんです」シリーズがあります。「イランは入試に出ないから要らない国」というのではなく、「イランは中東でちょっと変わった国で、その点が入試で出るから注意!」ということです。

イランは中東の要らん国なんです
 連想ゲーム(カワイックワールドの「ちりちりいもづる」もよろしく)では、「中東といえばアラブ」と来るが、イランの公用語ペルシャ語はインド・ヨーロッパ語族に属し、民族的にはインド・ヨーロッパ(アーリア)系であってアラブ民族の国ではないんです。

イランはいらんことしーあ
 連想ゲームでは、「中東といえばイスラム教、イスラム教といえばスンニー派」となり、大半のイスラム教国ではスンニー派の信者が多いが、イランは変わっていてシーア派が多い。要らないことばかりするやつだ→要らんことしいや→いらんことしーあ。

中東で最初に油田開発が行われた国は?
 連想ゲームでは、「中東といえば油田」とも来ます。イランは中東で最初に油田開発が行われた国です。

水はいらんかな〜っと
 イランの伝統的な灌漑用地下水路の覚え方です。北アフリカやシリアではフォガラと呼びますが、イランではカナートと言います。ついでに、アフガニスタンではカレーズ、中央アジアではキャリーズ、中国のシンチャンではカンアルチン。


2月28日(2/29記)

サウジアラビアのカフジ油田、アラビア石油の原油採掘権益が失効

 サウジアラビアのカフジ油田とフート油田に保有してきた石油採掘権益の更新交渉が不調に終わり、27日に契約期限が切れ、28日に権益が失効した。交渉において、サウジ側は更新の見返りとして日本の全面負担による鉄道事業を求め、日本側は「採算の見込めない事業に税金を投入できない」と主張し対立した。日本は「別のかたちで大枚を投資しまっせ!」と提案したが、これは、「それっぽちじゃダメ」とサウジ側に拒絶された。

 この油田は、日本の自主開発政策のもとで、アラビア石油が開発し、約40年間にわたって操業してきた日本企業による最大規模の自主開発油田である。油田はサウジアラビアとクウェート国境(旧中立地帯)の沖にあり、クウェート側の採掘権は2003年まである。

1957年12月 サウジアラビア政府と原油採掘協定を締結
58年2月 アラビア石油設立
7月 クウェートと原油採掘協定
60年1月 大規模油田を発見し、カフジ油田と命名
61年3月 カフジ油田の原油積み出しを開始
73年10月 第1次石油危機第4次中東戦争が契機)
79年12月 第2次石油危機イラン革命が契機)
90年8月 イラクがクウェートに侵攻(湾岸戦争へ)
2000年2月27日 サウジとの採掘権契約終了
2003年1月 クウェートとの採掘権契約終了

 サウジアラビア側のカフジ油田からの輸入量は、日本の原油輸入量全体の約3.5%(クウェート側を含めると約5%)にすぎず、また、現在では自主開発しなくても容易に輸入できるので、権益が失われたからといって、日本の原油供給に与える影響はたいしたことはない。

 また、自主開発は民間企業(カフジ油田の場合はアラビア石油)が担当するが、投資リスクは国が負担する構造になっており、経済効率性や透明性を疑問視する声も出ていた。日本が現地に進出し、そこで開発したものを輸入することを、開発輸入と呼び、石油以外の資源についても行われているが、日本や現地国のおえら方の政治力が介入するなどの理由により、採算が度外視されやすく、多くの場合、「カネの無駄遣いではないか」と言いたくなるほど効率が悪い。

 日本にとって、今回の権益失効の最大の注目点は、1973年の第一次石油危機を契機に強化した日本の原油自主開発政策に転機が訪れたことである。「独自の資源確保は今後も重要」という主張が後退し、「石油は市場で調達できるから輸入すりゃいいじゃん」という主張が前面に出て、「資源派」路線から「市場派」路線へ転換しつつあるというわけだ。

 自主開発油田(日の丸油田)とは、日本企業が海外で開発から操業までを手がける油田のこと。石油のほぼ全量(99.7%、1997年度)を輸入に頼り、1970年代に2度にわたって石油危機を経験した日本は、エネルギー安全保障の観点からも、自主開発路線を推進し、原油輸入量に占める自主開発原油の比率を引き上げることを目標に掲げてきた。今回の採掘権益を失ったのを受けて、 政府(通産省)は、非効率さが目立つ石油の自主開発政策の見直し(開発の数値目標を廃止、石油公団の事業を縮小、など)に乗り出す。

 一方、サウジアラビアにとって、カフジ油田は、同国が外国企業に与えていた唯一の油田採掘権であり、これを取り戻すことは、権益はあくまでサウジ政府が握り、外国企業はその下で契約にもとづき開発などに参加するという基本方針を国際的に印象づける意味合いがある。さらに、権益更新の見返りとして日本側が提示した投資をも拒絶したことで、「石油・ガス資源を安売りしない」という強い姿勢を示し、将来の石油権益獲得を目指す米欧のメジャー(国際石油資本)をけん制する効果がある。

私のコメント

 カフジという地名は日本の富士山にちなんで命名されたわけではありません。こんなことしか書けない自分が情けない!


UNCTAD10続報(2/22記)

 バンコクで開催されたUNCTAD10も19日に終わったようだ。学生時代の友人U氏(バンコク在住)に、日本の若者に対して、バンコク最新情報を教えてもらえないか、と乞うたところ、すぐさま送信してくれた。ありがたいことです。さっそく紹介させていただく。

 UNCTADについてコメントするならば、バンコク一市民としては非常に迷惑でし
た。会場の Queen Sirikit Convension Center前の道路が期間中通行止め(時間により
一方通行)になったため、迂回路が渋滞し、買い物しに行くのに時間が掛かったり、友
達との約束に大幅に遅れたり、迷惑至極でした。

 バンコクは只でさえ道路密度(市街地面積に対する道路面積)が低い上に行き止
まりの道がやたらに多い
。日本でなら車に乗っていてうっかり目的地を通り過ぎても
次の道を左折左折左折左折と繰返せば大概目的地に戻れるものだが、バンコクではそう
はいかない。まず目的地には達しないと思った方が無難だろう。大体が行き止まりか、
訳のわからない通りに出てしまうか、一方通行に阻まれるか、だ。
 前記会場は幹線道路を結ぶ数少ない道路に面している。従って、ふたつの幹線道路間
を移動しようとする車が次の道路に殺到した。そして、この次の道路までがまた遠いの
だ。

 植民地にならなかった、戦災にも遭わなかった、震災もなかった。それは良いこ
とだったのだけれど、マイナス面も歴然と残っているのだ。洪水のおまけをつけて。
                (入試に役立つ部分に彩色、など、ごく一部改変)

 U氏には、拙オナページにもお越しいただいている。タイに関していろいろ教えてくれるよう、お願いしたところ、「若者のためにひとはだ脱ごうじゃないか!」とは言わなかったが、そういう感じで快諾してくれた。うれしいじゃ、ありませんか。U氏の力を借りれば、タイ関連の疑問に、詳しく答えることができそうです。と書けば、疑問殺到は必定、かな? 楽しみだ。


2月11日(2/15記)

北アイルランドの連立自治政府が崩壊、イギリス政府による直接統治が復活

 イギリス領の一部、北アイルランド地方には、多数派(約6割)のプロテスタント(イギリス国教会)系住民少数派(4割)のカトリック系住民が居住する。両者は、宗教だけでなく民族系統も異なり、プロテスタント系住民は、先祖がグレートブリテン島から移住してきたアングロサクソン系で、カトリック系住民は、先住のケルト系民族である。ただし、現在は両者とも英語を話しているので、言語面での違いはない。

 カトリック系住民の一部は、反英武装組織「アイルランド共和軍」(IRA:Irish Republican Army)を組織して、イギリスからの分離、アイルランドへの統合をめざす武力闘争を展開してきた。一方、プロテスタント系住民はイギリスへの残留を希望し、うち一部住民はカトリック系住民に対するいやがらせや暴動を繰り返した。こうした両者の対立を北アイルランド紛争と呼ぶ。対立の歴史は古いが、現在の紛争は、IRAがテロ活動を強化した1969年に始まる。

 ところが、突如として、紛争解決への動きが始まり、1998年4月、敵味方を超えた連立政府を作り、そこにイギリスが自治権を委譲する方向で話がまとまった。そして、紆余曲折はあったが、1999年12月、それが実現し、プロテスタント系のユニオニスト政党とカトリック系のシン・フェイン党が連立政権を作り、自治が始まった。約30年続いた紛争に終止符が打たれたのだ。

 ところが、ところが、「奇跡が実現した」とまで言われたこの自治政府は、成立後たった72日目にして、この2月11日に崩壊して自治凍結とあいなり、北アイルランドは再び、イギリス政府による直接統治に逆戻りした。崩壊の理由は、連立の条件であったIRAの武装解除が行われなかったためらしい。シン・フェイン党は穏健派カトリック政党と言われるが、IRAの政治機関みたいなところがあるので、ユニオニスト政党から見れば、IRAの武装解除が連立維持の必要条件だったのだ。ユニオニストは「早く武装解除しろ」と急きたてすぎ、IRA側は「急にはできませんが、いつか解除しましょう」と言うだけで実際に行動に移さなかったようです。

私の床屋談義ないしはアル中オヤジの政治評論

 戦いに 命かけてる人々は 武器が命で 生き方も不器用なもんだ。「武装解除しましょう」と言われて、「はい、そうですか」って、素直に武装解除できる軍隊は、古今東西捜しても、ありません! いっぺん、軍隊を持ったら、負けるまで、持ち続けるわけだ。だから、軍隊を持つ場合は、自分たちか、または、子々末孫が、いつの日にか、敗戦の憂き目をみるんだ、っちゅう覚悟が必要なんだ! その覚悟があるかってぇんだ! え〜っ? べらぼうめ! 軍隊は、なくても辛いが、あっても辛いんだな、これが。う〜い、べろべろ、わかったか! この野郎! 


2月12日(2/14記)

国連貿易開発会議(UNCTAD)の第10回総会がタイの首都バンコクで開幕

 国連貿易開発会議United Nations Conference on Trade and Development)は、1964年に設立された国連総会の直属の常設国際機関である。本部はジュネーブにあり、現在188ヶ国が加盟している。この会議の主な役割は、発展途上国の経済開発の活性化の為に、途上国の貿易を促進させ、「南北問題」の解決、すなわち、南北間の経済格差の縮小を図ること、である。第1回総会はジュネーブで開催され、以後4年毎に開催されている。第1回会議以来のスローガンは「援助より貿易を」であるが、のちに「援助も貿易も」も強調されるようになった。

第1回 1964年  ジュネーブ
      発展途上国の赤字を解消するための新しい貿易政策が提唱され、一次産品の品
 価格安定、途上国からの工業品輸出を容易にするための一般特恵制度の導入、な
 どの提案が行われた。
  以後、「発展途上国」「開発途上国」(Developing Countries)という用語が
 「後進国」「低開発国」に代わって一般に使用されるようになった。
第10回 2000年  バンコク(2/12〜2/19)
      先進国主導の貿易自由化に対する途上国の不満に配慮し、アジア経済危機や、
 決裂した世界貿易機関(WTO)シアトル閣僚会議の教訓を踏まえ、急速に進む
 経済グローバル化の功罪を検証して、貿易や投資の自由化や金融市場の開放を途
 上国の経済発展にうまく結び付けるような「発展の新戦略」の構築が課題。
  会議場周辺では、貿易自由化によって環境汚染が進むと主張する自然保護団体
 など非政府組織(NGO)約500人が、「貿易自由化反対」「環境保護」など
 を叫んでデモ行進したが、大きな混乱はなかった。
  第5回のマニラでの総会以来20年ぶりに日本の首相(小渕首相)が出席。

私のコメント

 「自由化・国際化」時代における人生の選択肢は3つ。第1、その波の乗って大儲けする(大損の危険も伴う)。第2、その犠牲となって損をし続ける。第3、その波をあまり受けない暮らしをする。国レベルでおおざっぱに言えば、第1が今のアメリカ合衆国、第2が多くの途上国、第3が、たとえば、ブータン。

 UNCTAD10で、途上国は、「犠牲はごめんだ。自由化・国際化を規制せよ!」と主張し、先進国は、「お前さんがたにも第一グループに入れるチャンスを与えるから、そう怒りなさんな!」と主張するんでしょうね。

 「自由化・国際化」ってヤツは、地理の教科書でも大きくクローズアップされていて、なんかすごくいことのように思えますが、どういうもんなんでしょうかねぇ。私の友人に門田さん(故人)という人がいて、ネパールで嫁さんまでもらって、かの国の発展のために活躍していたんですが、もう10年ほど前だったか、この彼が、うまい句を詠んでくれましたので、ここに紹介します。
   
国際化 言うほど臭う 肥臭さ
 「国際化、国際化・・・」って言って力んでいる人も、実は、自分のことしか考えておらず、「国際化」どころか「国内化」すら頭になく、己の畑を肥やすことしか考えていない田舎のおやじ以下であることって多いですよね。「こくさいか」が「こえくさいか」に通じるっていう場合もあるのであります。