その他のプロイセンの特性
このようにプロイセン人の19世紀の活動を調べてみると、緒言で触れた化学分野での底抜けの理論作成能力もさることながら、医学において示される病源の解明能力、素人ではなにがゆえに招来されたのか察知に苦しむほど優れた自然現象の解析能力、リリエンタールが身をもって示した人間の未来能力開発への意欲など、人類の知的能力開発の最先端を担ったプロイセン人の面目が痛いほどに伝わってくる。間違いなく、ドイツ人の科学面でのアプローチは「世界一」である、と断言できるような気がする。
項目:
1821 作曲家ウエーバー
1835 数学の大天才ヨハン・カール・フリードリヒ・ガウス
1840 ハーナウのグリム兄弟 1850 画像:ケーニヒスベルク城
1856 病理学者、ルドルフ・ルートヴィヒ・カール・ウィルヒョー
1860 修好通商条約締結のため日本に派遣されたプロイセン国オイレンブルク伯遠征団
1861 画像:孛漏生国男女之図
1866 画家、アドルフ・フォン・メンツェル、「普墺戦争」
1867 風刺画(人食い人種のヴィルヘルム一世王)
1870 ヴィルヘルム一世王の戦争への出発(普仏戦争)
1870 普仏戦争で破壊されたサン・クロードの町
1871 物理学、ヘルマン・ルートヴィヒ・フェルディナント・フォン・ヘルムホルツ
1872 飛行船、パウル・ヘンライン
1876 考古学者、ハインリッヒ・シュリーマン
1876 細菌学、ロベルト・コッホ
1876 エルヴィン・フォン・ベルツ、東京医学校教授
1883 シャルロッテ・フォン・プロイセン
1891 飛行術、オットー・リリエンタール
ただそれだけに、ソフトの面でのプロイセンの低劣さがひどく目立つ。時代遅れというか、田舎者の無骨さというか、「シックさ」の欠如というか、社会的能力の発達の遅れを伴う「知恵遅れ」の少年のような低脳状態が暴露されてしまう。回りから見ると「馬鹿」なのだが、本人はその自覚が欠落しているところにプロイセンの悲劇があるのである。(1867年、「風刺画」を参照せよ。)
笑うなかれ、現在でもそうなのだ。たくさんの人達が一堂に会して談笑しているなかにドイツ人が一人入っていったときの凍るような雰囲気の変化がそれを物語る。
画像:竹内栖鳳(せいほう)「若き家鴨」(あひる) <部分>1937(昭和12)年
その他のプロイセンの特性を写し出す著名人とその関係する画像を年代順に収録する。
特筆すべきはドイツ医学であろう。日本は早々に明治3年(1870)ドイツ医学の採用を決め、ドイツ人教官によるドイツ語での医学講義が開始された。(日本の文明開化の項を参照せよ)
画像:プロイセン第一近衛歩兵連隊の閲兵式用帽子
画像:プロイセン王国近衛槍騎兵第2連隊将官ヘルメット、礼装用プルーム、飾り紐付