プロイセン画集(2)
画像:左 ベルツ博士 右 スクリバ博士 、明治24年夏、一井にて
画像:
オットー・リリエンタール博物館website
画像:リリエンタールの飛行実験の最初の写真。
場所は、ポツダム近辺デルヴィッツ(Derwitz)の風車ヶ丘。
この飛行の目撃者は粉屋のヘルマン・シュバッハとリリエンタールの助手であったヒューゴ・オイリッツ。
デルリッツ 1891
撮影:カール・カスナーCarl
Kassner
写真番号: OLM F0019LF
112*75 mm albumen
1891
飛行術、
オットー・リリエンタール
画像:シャルロッテ・フォン・プロイセン。ザクセン=マイニンゲン公ベルンハルト3世の妃。ドイツ皇帝フリードリヒ3世と妃ヴィクトリアの長女(第2子)として、ポツダムで生まれた。「ヴィルヘルム2世」の妹。ヴィクトリア女王の孫娘。
1883
シャルロッテ・フォン・プロイセン
画像:『漂流奇譚西洋劇 パリス劇場 表掛りの場』河鍋暁斎。河鍋暁斎はベルツと親交があった。
1876
エルヴィン・フォン・ベルツ
東京医学校教授として着任、1902年退官。
画像:伝染病研究のロベルト・コッホ研究所、1900
画像:ロベルト・コッホ
近代細菌学の開祖
炭疽菌、結核菌、コレラ菌の発見者
1876年、炭疽菌の純粋培養に成功し、炭疽の病原体であることを証明した。このことによって細菌が動物の病原体であることを証明し、その証明指針であるコッホの原則を提唱した。
1882年3月24日、結核菌を発見
1883年、インドにおいて、コレラ菌を発見
1905年、結核に関する研究の業績よりノーベル生理学・医学賞を受賞
1876
細菌学、
ロベルト・コッホ
画像: 1876年にミケーネでハインリッヒ・シュリーマンによって発見されたアガメムノンのマスク。
1853-56年のクリミア戦争に際してロシアに武器を密輸して巨万の富を得た。クリミア戦争が終結すると彼は商売をたたみ、ギリシャに移住し、ギリシャ人と結婚して、趣味としての発掘を始めた。第一号はトロイアの遺跡であった。
1876
考古学者、
ハインリッヒ・シュリーマン
画像:ドイツ人パウル・ヘンラインが1872年12月13日、合成ガス(Syngas)を用いた半硬式飛行船を開発し、時速19kmの速度で飛行した。航空機に内燃機関が動力として用いられたのは、この飛行船が初めてであった。場所は(現在のチェコの)ブルノ。
1872.12
飛行船、
パウル・ヘンライン
画像:
1847年、軍医としてポツダム連隊に配属中、熱力学の第1法則を導き出した。エネルギー保存則の確立者の一人。
1871年ベルリン大学物理学教授。
1882年、系の全エネルギーを自由エネルギー、温度、エントロピーに関連付けることで、化学反応の方向の決定を可能とした(1882年)。ギブズ−ヘルムホルツの式
1871
物理学、
ヘルマン・ルートヴィヒ・フェルディナント・フォン・ヘルムホルツ
1870.09
普仏戦争で破壊されたサン・クロードの町
画像:
パリ包囲の際の郊外の町サン・クロードの破壊 (写真)
1870年9月19日から1月28日までパリはドイツの軍隊によって包囲された。
画像:
アドルフ・フォン・メンツェル
1870年7月31日、ヴィルヘルム一世王の戦争への出発
1870年7月3日、エムス電報によりビスマルクはフランスに宣戦布告をさせた。
人食い人種のヴィルヘルム一世王
風刺画
この風刺画はフランス人により描かれたもので、プロイセン王ヴィルヘルム一世を一人の人食い人種として示している。このドイツ小国家群を不法に併合する人食い人種は、外国において憂慮なしには見ておれない政治的な展開であった。
1867年2月12日、北ドイツ連邦議会は北ドイツ連盟の創設を完結した。
画像:
画像:日本橋付近の東海道、1861年頃『プロイセン・ドイツが観た幕末日本』中井晶夫他、平井晶夫他二名、ドイツ東洋文化研究協会(東京)2011年9月、P229。
さらに、
1870.07.31
ヴィルヘルム一世王の戦争への出発
1867.02
風刺画