喜多源逸が京都大学工学部工業化学科の育ての親であるように書かれているが、私達のように昭和39年に同科を卒業した人間にとって、喜多源逸について学校で教えられたことは一度もなく、喜多源逸が京都帝国大学に移籍した大正19年は遙か昔のことであり、「喜多源逸のことなど知らない」といって切り捨ててしまうのが普通なのだが、記事を送ってくれた畏友に同窓会での講演を依頼した経緯もあり、私なりに喜多源逸のことを調べておくこととした。

緒言 喜多源逸

 だから、これをもってして、現在のドイツ人は、「これはドイツが生み出したカイゼル・システムのお蔭なのだ」と主張する。彼らにとってカイザー・ヴィルヘルム研究所は当時の世界の化学の中心であり、従って最高権威であった、としか考えられていない。事実、カイザー・ヴィルヘルム協会の後継機関であるマックス・プランク研究所はいまだに世界に冠たる研究所ではないか、と主張する。

 その通り、カイザー・ヴィルヘルム研究所により作り上げられたカイゼル・システムはいまでも日本の化学界に脈々と波打っているのである。

 では、どのようにして化学界のカイゼル・システムは日本において形成されたのであろうか。

 たまたま理論化学が創出されたのがドイツを中心とする周辺諸国であったことから、化学=ドイツと考える戦前・戦中の化学者のなかの中心人物であったし、私達の時代においても、化学の実験はドイツ語であったことからしても、私達もまた喜多源逸の影響下にあったのだ、と強弁できるかもしれない。

 事実、湯川秀樹、福井謙一、野依良治のノーベル賞受賞はこの流れから生まれてきた、と考えてよいから、喜多源逸は日本の化学界の基礎造りに多大の貢献をしたと断定してもよさそうだ。(湯川博士はその当時の外貨不足でドイツ留学ができなかった。だから、量子力学の理論と実際については、喜多源逸によってカイザー・ヴィルヘルム研究所に派遣された児玉信次郎が実地で学び、日本へ導入し、児玉の知識と児玉が現地で購入してきた書物によって日本の量子力学の研究がスタートした。湯川がノーベル賞を受賞した際は、児玉が湯川に付き添って授賞式に参列し、児玉信次郎が湯川の代役で記念講演をしたことも思い出すべきだ。)

画像

京都大学旧石油化学教室本館
明治22年建築(1階部分)
レンガ造り
京都市左京区吉田本町
ノーベル賞受賞者の湯川秀樹氏・朝永振一郎氏・福井謙一氏もすべてこの建物で研究したので別名「ノーベル賞の館」と呼ばれている。

画像:理化学研究所の構内(東京・駒込)
(敷地は三菱の岩崎家からの寄贈、設備は三菱造船からの寄贈。このほか三井や古河財閥も支援)

 専門外の方々にはご理解いただけないとは思うが、私共の目から見ると、化学という学問が錬金術師の手から解放されて、理論化学の領域に入った時代がすっぽり喜多源逸の生涯と重なっている。それまでの染料とか酵素の領域に限定されていた化学の領域に見切りをつけ、ドイツで開発された理論化学にいちはやく目をつけた喜多源逸は、日本の化学の基礎を構築した創始者であると断言してよかろう、と思う。

写真:喜多源逸の墓のある法然院

 私は、上記の喜多源逸年代記をつくづくと眺め、次のような結論をだした。多少の間違いは入っているだろうが、まず私の推定で間違いないような気がする。

 こうして作り上げたのが次の喜多源逸年代記である。

画像:繊維学会誌 Vo.52. No.4 1996, P180
岩崎振一郎:『繊維要論』共立出版, 1963.10
富久力松:東洋ゴム社長・工学博士

 私の畏友山根恒夫君が喜多源逸先生のことが書いてあるよといって、喜多源逸:「和光純薬時報」Vol.80, No.3 (2012)を送ってきてくれた。それは古川安によって書かれた化学大家「喜多源逸」という論文であり、冒頭にかかげられていたのがこの写真である。

写真:喜多源逸:「和光純薬時報Vol.80, No.3 (2012)