Website説明文の翻訳)

P14352

Linear B tablet, known as the ''Tripod tablet''. Palace of Ano Englianos (Pylos)

「トリポ板」''Tripod tablet''として知られている文字板線形B。アノ・エングリアノスAno Englianos宮殿(ピロス)出土

「トライポッド・タブレット」という俗称は、繰り返してテキストに現われる三脚型の表意文字にちなんで付けられた。三脚型の表意文字を用いてティ--ポと読み下すと、ミケーネ・ギリシャ語を正確に解読したことになる。この粘土板には二つの形がある。大きいものは長方形であり、小型の板は引き伸ばした葉っぱの形である。板のいくつかには両面に刻まれている。そしていくつかのグループの板には同じ事柄が述べられている。これらの板は宮殿の公文書室に保管されており、籠のなかで題目別に整理されている。籠には粘土板のラベルが付けられていて、それぞれの籠の内容につき短い情報を付してある。テキストは湿った粘土板の上に鋭い骨あるいは金属筆を使って書かれている。その後、板は天日で乾かされた。ほぼ紀元前1200年に宮殿が火災で破壊されたとき、これらの粘土板は焼かれ、今日まで保存されることとなった。

注:Pylosの位置は、

ミケーネ関係その他の資料

 この中央集権の宮殿行政システムは紀元前13世紀の末、伝説によれば、トロイア戦争のすぐあと、に崩壊した。トロイア戦争はアカイア人君主にとってはなんでもない事業であったのだが。この崩壊のあり得る可能性として、地中海領域への海と陸からの人口の流入があって経済が弱体化した結果、小アジアと中近東のセンターを破壊した社会的な動乱があったのかもしれないし、また考古学的な発掘調査によって証明される大地震があったせいかも知れない。

なお、ミケーネ文明の位置づけについては次の説明に詳しい。

(アテネ考古学博物館の説明文の翻訳)


ミケーネ文明

ミケーネ文明(1600-1100BC)はギリシャで生まれた。それは現在の東と西の橋渡しをした。その光輝は、小アジア、中近東、エジプトから、西地中海、北西ヨーロッパまで達した。言い伝えによれば、その運搬人はギリシャ後を話すアカイア人であり、ギリシャに紀元前2000年頃に定住した。それより先のクレタのミノア文明は、紀元前16世紀に頂点に達し、ミケーネの(精神)文明の発達に深く影響し、両者相俟って最初の二つの偉大な欧州文明を構成した。

画像

さらにアテネ国立考古学博物館には、

ミケーネ文明を象徴する古代文字遺産

が保管されている。

発見場所はことなるのだが、

Vaphio
の黄金杯

 ペロポネソス半島のミケーネに最大のセンターをもつミケーネ文明の起源は、クレタのミノア文明と密接な関係をもっていた支配的な戦士集団が勃興して、最終製品、新しい思想、技術、並びに社会的組織に関する思想を取り入れたことに始まる。ミケーネ時代初期の富を印象的にイメージさせてくれるのは、紀元前16世紀のミケーネの王族のたて穴式墓地(円形墓AB)である。これらの貴重な墓からの出土品は、社会的な高い階級と富を示すもので、ホメロスのミケーネに関する形容辞「豊富な金」を確認するものであった。

 ミケーネ文明の最後の何年かのこのような変化は紀元前12世紀のギリシャに新しい時代の開始を標すこととなった。著名な城塞では生活は継続していた。特にミケーネとティリンスではこれは明らかである。しかしながら、ギリシャ本土、キクラデス、クレタでは、他の地方センターが自由に発達していた。紀元前11世紀のミケーネ文明の終焉は必然的に文明の後退をもたらした。しかしながら、ギリシャ市の発展の基礎が築かれたのは、引き続く紀元前8世紀にいたるまでの幾何学文様期(ギリシャ文明暗黒期)であった。これこそミケーネ文明が神話の領域に入った時代であった。ホメロスの叙事詩「イリアッド」と「オデッセイ」という紀元前8世紀の作品は、トロイア戦争と帰郷中のアカイアの英雄達の冒険を詩的に再生するものであった。これらの叙事詩的な戦士達と大胆な船乗りの行為の物語は、権力の頂点にあったミケーネの光輝とその没落から引き続く時代の両方のコンビネーションの時代に設定されたものである。ホーマーの叙事詩の英雄達とその他のギリシャ神話群は、古典的ギリシャ市民国家が自らのアイデンティティを探索するときの原型となった。これはまた、紀元前5世紀のアテネ悲劇詩がインスピレーションを探した場所でもあった。こうしてギリシャの英雄的な過去は古典期のギリシャと融合し、その延長上にわれわれの共有する欧州文明があるのである。

写真:
青銅後期の黄金杯

ヴァヘイオの墓出土
15世紀
高さ7.9cm(左)
アテネ考古学博物館

以上。

 アカイア人とミケーネ人は既にクノッソス宮殿を攻め落とし、紀元前14世紀初頭にクレタ島を占領した。ギリシャ本土では、ペロポネソスのミケーネ、ティリンス(ペロポネソス半島アルゴリス県にあるミケーネ文明の遺跡)、ピロス並びにボイオーティアのテーベの大宮殿はこの時期に建設され、壁画で装飾された。強固で巨大な城壁がこれらの都市を囲み、保護し、たえず拡張され、クレタ島のミノア文明のプロトタイプに倣い、広い地域の行政上の、経済的、軍事上の、宗教的センターとして機能した。この、王様を頂点におく階層的に組織された中央集権は線形B書体で粘土板に書かれた古文書を保持した。線形B書体はミノア文化の線形A書体をギリシャ語に適合させたものであった。組織された定住地と部屋式墓地、その出土品は社会的な階層化と繁栄した社会を示しているが、これらの都市のまわりに拡大していった。ミケーネのAtreusアトレウスの墓、ラコニアのVaphioのトロス(tholos)とか、テッサリアの伝承上のイオルコス(Iolkos)トロスのような、壮麗な円形丸屋根、トロスや墓とかはこの支配者階級のものであった。

画像と引用:

画像

(説明板の翻訳)

場所としてはミケーネから随分離れているが、スパルタの南5kmのところにあるヴァヘイオ(Vaphio)という土地で、1889年ギリシャ人考古学学者クリストス・ツォンタスがミケーネのアトレウスの墓と似た蜜蜂型(tholos)の古墳を発見した。この古墳から発見されたのが一対のヴァヘイオ黄金杯である。

ここに描かれているのは牛の像であるが、もっとも素晴らしいミケーネ・ミノア芸術の典型とされている。クレタ島から輸入されたものではないか、と考えられている。