アシュールナシルパル二世
画像:Lamussu, from the North West Palace of Ashurnasirpal II in Nimrud, (883-859 BC) British Museum
アシュールナシルパル二世のカルフの宮殿
アシュールナシルパル二世の宮殿は、現在のイラク、バグダッドの北方近郊にあるカルフに、紀元前879年に建設され完成した。この宮殿の壁は雪花石膏(アラバスター)に彫刻されたレリーフが貼り付けられた。これらのレリーフは精巧な彫刻であり、その多くは翼の付いた守護神によって取り囲まれた王の姿、あるいは狩猟や戦役を行う王を描いている。その一枚一枚には、テキストが刻まれていた。このテキストはそれぞれのレリーフにあって、まったく同一かあるいは、非常に類似しているので、これを称して、王旗碑銘という。王旗碑銘はアシュールナシルパル二世の三代に遡る家系を詳説し、次に、彼の軍事的勝利を物語り、彼の帝国の境界を明瞭に示し、カルフの基礎作りと宮殿の建設について語る。アシュールナシルパル二世はまた、ニムルドに巨大な市門を建設した。
画像:ニムルドのアシュールナシルパル二世の宮殿内部想像図
カルフの発掘
英国人の考古学者であるA.H. Layardが1840年代にカルフを発掘し、アシュールナシルプル二世が建設した北西宮殿を発見した。ニムルドの発掘によって得られたレリーフの多くはロンドンの大英博物館のギャラリーに展示されている。他のレリーフは欧州(たとえばミュンヘン)、日本およびアメリカの博物館に展示されている。
アシュールナシルパル二世の戦役
アシュールナシルパル二世が反抗者に残酷な扱いを行ったため、彼の軍隊が存在しない場合でも、さらに叛逆が生じることはなかった。彼の軍隊は(援軍と外人部隊を含む)歩兵隊、重軽騎兵と二輪戦車から構成されていたが、これを率いてアシュールナシルパル王はヒッタイト族と北シリアのアラム族国家を征服した。
アシュールナシルパル二世は彼が征服したフェニキアとカナーンの諸都市を破壊せず、その代わり、彼の軍隊と建築計画が必要とする原材料の供給源とした。鉄は武器の製造に必要だったし、レバノン杉は建築に、また金銀は軍隊の費用に充当したのである。
アシュールナシルパル二世の統治
彼によって建設されたニムルドの宮殿、神殿その他の建物にはかなりの富と芸術が蓄積されている。残虐さで有名になった彼は、戦争捕虜を囚人として使い、メソポタミアのカルフ(ニムルド)に新しいアッシリアの首都を建設し、そこに多くの印象的な記念碑を作った。また彼は抜け目のない行政官であったため、彼の帝国を有効に管理するためには、貢税を支払う地方の支配者に頼るよりもアッシリア人の行政官を置くほうがうまくいくことを見抜いていた。
(翻訳)
アッシリア、865-860 BC頃
ニムルド、北西宮殿
B号室、パネル23
アシュールナシルパル王は二度現われる。儀式服を着用し、権威を象徴する職杖を手に持つ。彼の前にあるのは聖なる樹、多分生命を象徴しているのであろうが、であり、翼付きの円盤の中の神を崇拝する仕草をしている。多分太陽神シャマシュと思われる神は、片手に輪をもつが、これは古代メソポタミアの神に与えられた王権の象徴である。王の背後にはそれぞれの側に守護神がいる。象徴主義に偏したこの対称的な場面は玉座の背後におかれていた。玉座室のメインのドアの反対側にももう一枚があった。他のアッシリアの宮殿にも重要な場所にこれと似たレリーフが置かれていた。王の服には刺繍がされている。
アシュールナシルパル二世の極端な武力弾圧
彼の苛酷さがしばしば地元人の反乱をまねいたので、かれは断固としてこれを弾圧したが、彼の手口は通常二日間に設定した戦闘であった。記念碑の銘刻によると、アシュールナシルパル二世はこの虐殺を回顧して次のように述べる。「男子は老若を問わず、囚人にした。彼らのうちのいくばくかの者の足と手を断ち切った。その他の者のなかから幾人かは、耳と鼻と唇を切りおとした。若い男子の耳を切り落として山盛りにした。老人の頭部を使ってマリオネット(操り人形)(注:原文はmarinet)にした。彼らの頭部をトロフィーとして街の前に飾った。子供達は男の子も女の子も焼き殺した。街を破壊し、焼き尽くした。」このようにして勝利した結果、彼には刃向かう敵がいなくなり、地中海にまで進出し、フェニキアから貢税を取り立てた。こうして母国に帰ったのち、かれは従来のアシュールから遷都して新しい都をカルフ(ニムルド、Nimrud)に定めた。
アシュールナシルパル二世の広大な拡張主義
即位して直ちに小アジア北方のナイリ(Nairi)を含む諸民族を攻め落とし、(現在はトルコ、アナトリア地方の)フィリギアから年貢をきびしく取り立て、次に、(現在はシリアである)アラム地方に侵入し、カブールとユーフラテス河に挟まれた地区のアラム人と新ヒッタイト人を征服した。
アシュールナシルパル二世の素性
在位、883〜859 BC
西暦前883年に彼の父親、トゥクルティ・ニヌルタ 2世(Tukulti-Ninurta II)の跡を継いで新アッシリア時代三代目の王となった。ちなみに、彼の父親トゥクルティ・ニヌルタ 2世のモットーは、「あらゆる敵を殲滅し、敵の死骸を杭に刺す」。(参考文献)
画像:杭に挿された死骸と攻城槌の例
原典「Ashurnashirpal U」の翻訳ですが、画像と項目をつけて読みやすくしました。
画像:館内案内板から
アッシュールナシルパル二世(883-859 BC)の立像
ニムルドのイシュタール・シャラット・ニフィ神殿から
アシュールナシルパル二世肖像
アッシリア、紀元前875-860年頃
ニムルドの北西宮殿
(翻訳)
剣と杖を携えた王のこの肖像は、彼の私室であったろうと思われる部屋に置かれていた。
画像:(一部改変)ナイリ、フィリギア、アラム、カルフを赤下線で示す。