「車たちよありがとう」
  (運転に救われ五十年)

(173枚)
平成十五年六月二十五日


1. 空襲 

 小学校四年生の六月、ぼくの住んでいた静岡のまちはB29の爆撃をうけ、住んでいた家はもちろんのこと、通っていた学校も、いや、町全体が消失した。ぼくはそのときのことをかなり克明に憶えているが、恐かったという記憶は残っていない。それは必ずしも遠い記憶のせいではなく、小学校四年生(満九才)というぼくには死の恐怖という実感そのものがなかったからだろう。
毎日のように華々しい戦果が報じられ、担任の先生が戦地に赴くというような経験はあったが、家族や身近なところの葬式なども一度も出したことがなかったから、死に関する実感というものがなかったのかもしれない。怖いというよりも皮膚感覚のない夢の中の出来ごとのような記憶なのだ。

 その日も、いつものように警戒警報で起こされ、空襲警報で庭に手堀りされた半地下の防空壕に、姉二人と母との四人で入っていた。どうせいつものようにまた警報が解除となり、ふたたび家の中に戻って寝るという繰り返しにうんざりしながら、蚊がさすので防空壕の中では兄弟ゲンカばかりしていた。
その夜はしかし何だか珍しく遠くの方で、「おー!」とか「早く・・!」とかいう怒鳴り声がしたので、そのむさ苦しい防空壕から出られる口実ができたとばかりに、ぼくは一人外に出てみたのだった。
すると隣の空き地の向こうの家並みは、まっ赤な炎の帯となり、浜にうちよせる波のようにこっちに押し寄せてきていた。そして隣の市場の八百屋のおじさんの塩辛い声が今度ははっきりと聞こえてきた。
「全員退避!全員退避! 逃げてくださーい!」
ぼくは防空壕にとって返し、母にむかって「燃えてきたよ」と伝える、妙に落ちついた自分の声が、いまでも体の底に残っている。
それから表の道路に出るため家のなかを一直線に通り抜け、靴のまま家の中を走るという生まれて初めての行為に、妙に心が弾んだことを新鮮な記憶として留めているのだが。

 道路に出るや、そこはお祭りのように人の波がひしめき合っていて、ときどき鋭い呼び声や怒鳴り声がひびきながら、人間の群れ全体が同じ方向に向かって移動し続けていた。お祭りの人波と明かに違うのは人びとの持ち物だった。
十文字に縛った大きな荷物を振り分けに担いでいる人、柳行李やなぎごおりを頭のうえに持っている人、大きなトランクを抱えている人、ネマキ姿のままの人、丹前のまっ赤なウラをオモテにかぶっている人、そういう格好が息づまる雰囲気を充満させていた。
ただ、あたり一面は明かりというものが一切なかったが、それでも人の顔が見分けられるくらいに明るくもあった。
ぼくたち四人がその流れに乗るように動き出してすぐに、カーッ!という不気味で強烈な音がひびき、人々はみな持ち物を頭の上に一斉にその場に伏せた。
すると一瞬の間をおいて、ガンガンガンッ!。ズブッズブッ!という鋭い音と共に、焼夷弾が家といわず道路といわずあたり一面に落下してきた。
ちょっと間をおいて、川の流れのような人波がまた起きあがり移動をはじめる。
見るとすぐ近所の大きな屋敷の屋根や庭から、チョロチョロと炎があがっている。
呆然となって見つめていると、その小さな炎はひと呼吸すると、強大な火柱となって無差別にありを焦がした。

 その有様を見た瞬間から、ぼくの中で何かのスイッチが切り替わり、すべての感覚が、うす膜のかかったような浮遊感に支配されてしまった。
そのあとはもう焼夷弾の落下音をきいても怖さは消え、落下音から火柱までのリズムを憶えてしまい、カーッという落下音を聞いたら伏せて、ガンッガンッガンッという音が鳴り止んだらまた歩き出すという風に進んでいった。
その人の川はある街角では更に合流し、また別の四つ辻でまた分散することを繰り返し、とうとうぼく達は街の東の外れまで来てしまっていたが、そこから遠く街全体が燃える様子がまるで夢の中の景色のように見渡せて、巨大なB29の胴体に地上の炎が反射してまっ赤にもえて落ちていくみたいだった。。
そんな大きな飛行機の機体を間近で見るのも、焼夷弾が落下して地面に突き刺さり、それが炸裂する音を聞くのも生まれて初めての経験で、強く記憶に刻み込まれたが、次第に夜が明け始めるとB29の姿は見えなくなり、まっ赤に、静かに燃える大きな街だけがとり残された。

 夜が白々と明けはじめた頃、ぼくたちは今度は来た道をまた戻り始めたのだったが、町の近くまで来ると、熱くてそこから先へは歩いて行けないほどだった。その上あらゆる物が道路上に散乱し、倒れた電柱が引きちぎった電線を踏むとシビレたりもした。しかし家の近くまでくるといっさいの建物が焼失し、いま燃え尽きつつある街角と、昨日まで見なれた街角とはまったく別の風景で、自分の家が何処だったのか分からないような、不思議な感覚に陥ってしまった。しかしたとえ場所は判明したとしても、そこまではとても熱くて近寄れなかったし、わが家が跡形もなく焼失したことは、疑う余地もなかった。

 家の近くの、そこは見おぼえのある大通りに面した焼け跡で、細長い筒のようなものをもって立っていた一人の少年が、その筒を無造作にまた焼け跡に投げ戻すのを、全身が火照り返るような路上にたってぼんやりと見ていた。
すると、その筒から大人の背丈ほどもある炎がドカッと炸裂した。それは焼夷弾で、ぼくも悪戯してみたい気持ちになっていたけれど、道ばたでその様子を見守っていたお兄さんが、その場で固まったようになり、それを見た私の胸には焼夷弾の底知れない怖さと、焼夷弾のサイズや、六角形の筒の形が強く頭に刻みこまれた。

 家に近寄れないことを思い知らされたぼく達は、しかたなく今度は父親の当直している学校に向かって彷徨うように歩き始めたものの、この逃避行の間中母は子供たちにほとんど話しかけることなく、ただ黙々と心に決めた唯一つの目的地に子供たちを誘導して行ったのだった。

2. 焼け跡遊び

 早く大きくなって戦争に行き、戦果をあげることを想像したことは子供心に幾たびもあったが、敵の飛行機によって町全体が焼き尽くされることなど、想像したこともなかったからだろうか、その夜からぼくの中では世界が一変し、胸の奥で一種の興奮状態がそれから何年も続いて行ったような気がする。

 戦災の日から二ヶ月たらずで日本国は米・英・ソ・連合国に対して無条件降伏。小学四年生の私の生活は、その敗戦を境にまったく別の世界に突入することになった。それからというもの、すべてが天井をとり払われたような、連日興奮した状態が日常となっていった。
住む家、生活の品々、食べ物、学校、友だち、遊び、町の様子すべてが、戦災と敗戦を堺にして、今までとは全く違ったカタチとなって、小学生の私に襲いかかってきたようなものだった。
そしてそんな中での大人たちの会話にも、微妙な変化が見え始めていたことも、小学生は小学生なりの胸で感じ取っていたのではないだろうか。
鬼畜米英」なんていったって、その正確な意味が解っていたわけではなかったが、大人たちの口からは米英を罵倒するコトバはすっかり影をひそめ、それと引きかえに、英語がちょっとだけ話せる大人が妙に幅をきかせ、米兵相手に声高にしゃべる姿は、子供の私でさえ違和感を感じ、恥ずかしくも情けなかったのをおぼえている。

 ひもじさのため、遊び友達と連日のようにケンカに明け暮れ、家では姉を相手の兄弟げんか、子どもの分際で母親を怒鳴りまくり、そのくせ父親には一言たりとも逆らえず、勉強は一切せず、栄養不足で寝小便が止まず、敬虔なクリスチャンだった両親の、朝晩の祈りには真面目な素振りでつき合い、盗み、モノを壊すという、いま思えばすさんだ暮らしだったが、私自身は別にそれが不便だとか不足だとか、ましてや不幸だなどと思ったことは一度もありはしなかった。
ただ、どことなく日常的にすさんだ感じがみなぎり、ぼくなどは、コトバの端々に「チキショウ、バカヤロー」をからめてわめいていた。一種の生活破壊の日常化ともいえるありようだった。

 そんなことよりも、日々おとづれてくる意外にして奇想天外な事柄に追いまくられたかたちで、今日は何が起こるか、明日は何が来るか、目を見張って過ごしていたような気がするのだ。
そいう日常の刺激がぼくを夜中まで興奮させたらしい。
「なにーッ!!できっこねえじゃねーか!」
「チキショウ!・・・バカヤローッ!」
といった、いつもケンカしている寝言だったと、後になって母や姉から何度も聞かされたが、そんな子どものイライラが幾つになっても止まらない寝小便の原因になっていたのかもしれない。

 学校から帰って、母の手縫いのズックのカバンを放りだすと、表の道路に飛び出しみんなで「棒野球」や「釘刺し」、「メンコ」「ラムちん(東京ではビー球のこと)」「台つぶし」「ゴムかん(東京ではパチンコ。木の又にゴムひもをくくりつけて石を飛ばす武器?)」「イチネンキ(いまだにどう書くのかも分からない)」、とにかく甲高いこどもの声を張り上げ通しで、近所では大勢の子どもが二時間、三時間怒鳴りっぱなしでケンカしているように聞こえていたはずだ。
さぞかしうるさかったことだろう。
どんな遊びでも最後は必ずケンカだった。だれかが泣くか怪我するかしなければ終わらなかった。そういえばどの遊びにも終わり方の記憶というものがない。あきらかな栄養不足と空腹でありながら、終わるというよりも、ただムキになって一つ一つの遊びにいつまでも熱中して止まなかった。

 その道路幅いっぱいを使っての遊びの中に、いつ頃からか黒塗りの自動車が来て向かいの家の前に止まるようになった。
その家は会社の社長さんだったか役所勤めの人だったか良く解らなかったが、その自動車にはハッキリとした記憶がある。
ダットサンだった。4ドア車などはあまり見かけなかったから、2ドアだったはずだ。黒塗りで運転手付きだから、相当の地位や力の持ち主だったのだろうが、そのダットサンはいまの小型車の、ほとんど半分ほどの大きさではなかったか。
その車は昼間からよくその家の前に停まっていたので、すぐに憶えてしまったが、ぼくはその車の窓から首をつっ込んでは運転席をあかず眺めていた。ものすごく興味があったのだ。運転しているおじさんがいればそのおじさんにしつこく話しかけていたに違いない。
そしてその自動車が出発していくときは、その手続きの一部始終を真剣に見ていたのだ。とにかく最初に真ん中にあるボタンをおすと、カカカカカといってエンジンがかかり、何だか長い棒をガチャンと動かして出てゆく。そんな一連の動作が、頭の中に少しずつだが組み上がってゆく。そのことにぼくはそうとう興奮していたはずだ。
ある日おじさんがなかなか家から出てこないので、その停車している自動車の運転席にスイッと座ってしまったのだ。
座ってみると、おじさんの流れるような一連の発車の手順なんてわかろうはずもない。
「こうだったかな?」「ああだったかな?」で、そこにある棒(レバー)をガチャガチャ動かし、ボタンを押したのだ。
すると自動車はウィ、ウィ、ウィ、と唸りながら少しずつ前に動くのだ。
「わー!動いたぞ、動いたぞ!」
たちまちガキどもがたかってくる。ぼくはすこし得意になって棒をべつの位置に動かし、またウィ、ウィ、ウィ、をやる。
こんどは後へさがる。そうか!わかった、わかった。
こっちが前進でこっちがバック。頭の中にそんなことをしっかりとたたきこむ。

 その日からぼくは、その自動車がやってくるのが待ち遠しくてたまらなくなったのだ。そんなある日、その自動車は又やってきておじさんはいつものように向かいの家の中に入ってしまった。
今度は少しばかり自信を持ってしまったぼくは、同じように慎重に棒を倒し鍵をひねりボタンを押したのだ。

 ちょうどそこにオート三輪に乗って颯爽と帰宅してきた二軒となりの「谷さん」のおじさんが、目の玉が飛び出すばかりの形相で、角を曲がりざまに急停車!。
そのオート三輪をかなぐり捨てて飛び降りてきた。そしていきなりぼくの乗っているダットサンの窓から、大きな頭を乱暴に突っ込み鍵を引きぬいた!。
谷さんはぼくの首っ玉をひっ掴んで自動車の外にひきずり出し、丸太ん棒のような腕をふり上げた。
「殴られるな」とっさにそう思って首をすくめたが、谷さんはその腕を空中でとめた。
「ダメじゃないか!こんなこと!もう絶対にやっちゃだめだ!!」
耳がつぶれんばかりの大声でそういって、
「お母さんは家にいるのか!」
そういいながら、ぼくを家の中に引きずり込んで行った。
おふくろにいわれるのは構わないがこのことが親父に知れたらまずい。それだけが頭の中をくるくるとかけめぐり、もう谷さんのいうこともおふくろのいうことも、何も聞こえなくなっていた。

 これがたぶんぼくの最初の「じどうしゃ」との出逢いだった。
その頃は「クルマ」という云い方もあまりしなかったのではなかったか。
そしてメーカー名や車種名というより、「ダットサン」だったり「トヨタ」などと呼んで用は足りていたはずだ。
そのなかでオート三輪だけは「ダイハツ」「くろがね」「マツダ」「オリエント」とメーカー名でよんでいたことが、妙な記憶として残っている。

 谷さんは「マツダ」に乗っていた。日焼けして腕っ節の強そうな笑顔のかっこいい大きな人だった。その谷さんは一軒おいて隣の友だちのお父さんだったが、勧銀に運転手として勤めていたはずだ。いま思えば銀行にそんな日焼けした男の人など、どうしていたのか不思議な感じもするが、一度だけ谷さんが勧銀の駐車場でべつの運転手たちと楽しそうに話しているところを見たことがある。やはり銀行の人だったのだろう。しかし、日本勧業銀行がどうしてオート三輪などを使っていたのか、まさかオート三輪で大量の現金を運んでいたわけでもあるまいし、今考えると何だか不思議な気もする。

3. 放課後

 ぼくの通っていた中学は「附属」だった。静岡第一師範学校附属中学校というのがその名前だったが、附属といえば「坊ちゃん学校」といわれ、勉強はできるがひ弱なケンカに弱い学校というイメージがあった。
ぼくは小学校も附属だったから、おやじやおふくろの子育てや教育の方針に「附属主義、附属崇拝」みたいな感じがあったに違いないが、それはともかく、坊ちゃん学校というイメージは中学のぼくには充分プレッシャーだった。
ただ附属中学に関していえば、坊ちゃんどころか総ゴロと呼ぶ学校同士のケンカやもめ事がおこると、いの一番にとび出すような輩が大勢いて、軽蔑されてしかるべき弱点と云えるのはむしろ裕福な家の子供が多かったことだと私は思っている。

 ぼくの父は静岡の女学校の校長をしていたから一応裕福な家庭の仲間入りをしていたらしいが、世間の見る目と自分の家の実態が違い過ぎることに一種の反発を感じていた。それだからというわけでもないが、ぼくはやっていることと勉強の出来は最低の部だった。
ぼくは中学では野球をやりたかったがグローブが買ってもらえなかた。それは別に情けないことなどではなく、むしろグローブを買ってもらえる家というのが特別という感じだったのではないだろうか。
サッカーはチョットやったがだめ、バスケットもチョットやり、背が低くこれまた駄目、足も遅かったのだ。
最後はテニスをやった。テニスというのも附属と通底するイメージ線上にあるスポーツで、やはりこれも挫折した。怪我をして指のスジを切ったのだった。

 そんなわけで、中学生活の中心は何といっても放課後、自ら見つけて愉しむ遊びの方だった。しかし足だけは無類におそく短距離はかぎりなくビリに近かった。が、長距離は得意でクラスで五番以内には何時でも入っていた。
2キロほどあるお堀一周のマラソンは三周くらい回っても疲れなかったから、一人でもよく自転車と一緒に走ったりしていた。

 そんな中学校にPTAの理事会か幹事会の集まりがよくあって、放課後数人の父兄が学校に来てはよく会議をしていた。
その中に、名前は知らないが清水から来ている父兄がいて、ぼくはその父兄が清水から乗ってくる自動車に興味をそそられていた。
今にして思えばガソリン車だったが、たぶん「オオタ」という名前の自動車だったと記憶する。トラックのようなピックアップのような車だった。
なぜぼくが興味を抱いたかといえば、その自動車の持ち主はいつも鍵を付けっぱなしで会議に出席していたからだった。
その鍵が目に入ったとたん、またもや例のヤル気がむくむくと頭をもたげてきて、ぼくの運転席でのいたずらが本格的に始まり、とめどがなくなっていた。

 小学校の頃の自動車の知識に少しだけ磨きをかけたぼくは、まずその自動車のエンジンをかけて遊んでいたがあきたらず、とうとうというか、ぼくとしては慎重にクラッチなるものを踏んでギヤーをローにいれガクンガクンと車をうごかした。
それを見ていた運動場の悪ガキ、わる女たちが、わっと後の荷台に乗り込んできた。となりの助手席にも一人乗っている。
またもやお調子者のぼくは良い格好がしたくなってきた。そして思わずクラッチをポンとつないだ。
すると自動車はカックン・カックン、わっくん、わっくんと動き、乗っているみんなが一斉に首振り人形のようになった。後の荷台の奴らはキャーキャーいっている。
と、その助手席にいた奴が「オイッ!そのクラッチ、それをもっとそーっと離すんだってば!」と教えてくれた。
なぜ奴がそんなことを知っているんだろう。が、そんなことはどうでもいい。
今度は少し慎重にゆっくりとクラッチをつないだ。
走った!走った!うしろでは大騒ぎだった。こんどはまたクラッチを踏みギアーをセコ(二速のことを当時はこういっていた)に入れてクラッチを離した。
走る走る、面白いように走りまわる。そのままアクセルをふかして加速し始めていた。
と、運動場の端がたちまち迫ってくる!
「ヤバイ!」急いでハンドルを左に切った。すると後の荷台の奴らがぎゃーぎゃーいいながら、運転席の屋根をバンバン叩く。気がつくと自動車の車輪が地面から浮きあがっていた。
あわててハンドルを今度は右に。とたんにドッサーンと浮きあがった車輪が着地する。後ではもう大騒ぎのエクストラヴァガンザ。今度は次の連中が「乗せろ、乗せろ」と迫ってきた。乗客入れかえで三ラウンドもやって大満足。
自動車を元あった場所に止めてその日のいたずらは奇跡的に無事終了した。

 誰も教えてくれないことならば、こうやって憶えるしかない。
しかしこんなことが親父に知れないのが不思議だった。誰かが一言先生にでも告げ口したらそれでお終いだったはずだが、告げ口なんぞをする奴は一人もいなかった。
静岡のミッションスクールの校長という立場。真面目で短気で、クリスチャンというわけだから、いくらバカなぼくにも、バレたときの親父の反応は容易に想像がついたのだ。
「神様にあやまり、祈りなさい!」
そんなふうに云いそうだった。こういう宗教にたいする敬虔さが恐かったが、それでも好きなモノはやめられなかったのだ。

 またある日のこと、近所の工事現場の掘削作業を飽かずに眺めていたことがあった。そこにトラックがきて砂利を空けていく。工事現場を呆然と眺めている子どもを見とがめた運転手が、
「おい坊主、乗っけてってやらっか?」
そういったのだ。ぼくは何もいわずその運転手の横の席にとび乗っていた。

 トラックは静岡の町を西の外れまで走りぬけ、安倍川の河原へとおりていった。河原におりるとトラックは豆粒のように小さな存在となったが、その河原にはトラックで行かないと分からないような、トラックだけの道というか、踏み跡が延々と河原にできていた。
それは曲がりくねり、あぶなっかしい丸太の橋を渡り、水の中をバシャバシャと進み、アップダウンのつづくガタガタ道。
ぼくはそのガタガタの間中おじさんの隣で身を固くして、じっと前を睨んでいた。すると運転手のおじさんが突然、
「おい坊主、運転してえずら?」
そういったのだ。
ぼくは返事ができないまま頭だけで「うん」とうなずいて、あっという間に運転手と助手が入れ替わった。
運転席に座ってみるとまるで二階から運転するような感じだった。こんなに大きな自動車に乗るのも初めてなら、運転するなんて想像もできないことだったので、いくら広い河原だといっても勝手がわからない。
今思い出すと、そんな運転席でどうして足が届いたのか、どこをどうやって走り出したのか不思議で仕方がない。
ガタガタの路面を走らせていると、天井に何度も頭がぶつかりそうになり、その揺れでアクセルを踏む爪先が定まらない。車はワックン、ワックンとなってしまう。
「車が動いたっても、アクセルの足は動かしちゃだめずら!」
といいながらも悪ガキに運転させているおじさんの心の弾みが伝わってきて、子供心に嬉しくて仕方がなかった。

4. 焼津の風

 中学から高校にかけて電車や汽車で通学する連中が急増した。その一人焼津の「キンちゃん」こと望月欽太くんは中学からの同級生であり親友でもあって、彼の家に泊まりにいくことは我が家では無条件に許されていた。
彼の家は焼津の鰹節の製造卸として「太(カネタ)という暖簾スジの通った老舗で、静岡でもその名は知られていた。
焼津は静岡から汽車で二つ目の漁港の町であり、城下町の静岡とはがらりと雰囲気がちがっていたが、何よりも気取らない雰囲気は最高で、欽ちゃんの家に行くと家では味わえない自由で開放的な気分を満喫した。
また、欽ちゃんのまわりに集まってくる友達はクセも強く破天荒な男たち(といってもたかが中学・高校生なのだが)がひしめいていた。
そして焼津の友達に共通していたのは、女学生にめちゃくちゃに興味をもっていたことだった。

 何しろ行き帰りの汽車の中で、デッキにいる女学生を腕でとうせんぼうをして、ちょっとスケベな言葉を照れながらぶつけたり、メモのような付け文をセーラー服の胸のポケットに素早く差し入れたりしていたのだ。
その付け文の短い文面に何を書いたかを自慢し合い、大笑いをしたりしていたが、私なんぞは彼らのませ具合からみれば、とうてい同級生とは思われないほど子供じみていたはずだ。
なにしろ欽ちゃんは中学生にしてラブレターを書くために、書道のしかも草書を習うと云い出し本当にその道に突入していった。欽ちゃんが高校の三年になった頃には最早枯れた字を書くまでになっていて、年賀状などは和歌や漢詩を挿入したりした「粋な賀状」を配り、オトナ顔負けの片鱗をのぞかせていた。
 
 さて、その欽ちゃんのうちに遊びにいくハイライトは、何といっても夏の祭りだった。
焼津のお祭といえば御輿の雌雄決戦。白装束に身をつつんだ男たちが「あいぇーとん!あいぇーとん!」というかけ声とともに御輿をかついで町じゅうを走りまわり、二階から観戦でもしようものなら、「神さまの冒涜とばかりにその家の軒先めがけてぶっつけて壊してまわる。この漁師町の荒っぽさがたまらなかった。
夕方からはじまり、早朝の宮入りは熱気もテンポも最高潮に達して見ものだったが、その一部始終を夜通し見物して回り遊び疲れて未明の海岸でひと休みしていると、昼間汽車の中で一緒だった女学生がセーラー服を浴衣に着がえて、明け方の海岸に現れたりするのだ。
私なんぞは、いままで見たこともない女学生たちの発散する、そこはかとない色香にただボッと見とれる程度のくだらないガキだった。
真面目か不真面目、スポーツか勉強、軟派か硬派、そんな単純な対極軸でしかものが見られない稚拙な認識力では、とうてい太刀打ちなどできそうもない、多くの俊才が焼津に行くと大勢いたのだ。
いま思えば残念だが晩熟(おくて)の私は、未明の海岸などという極めつけの舞台にお色直しをして立ちあらわれる、少女とおんなの狭間にゆれる彼女たちを、ぼんやりとただ女学生として見ていただけであり、おんなの美しさや色気、存在感にたいして、男としての感受性をまるで持ちあわせていなかったことは残念の至極だ。
その代わりというのも変だが、そのぶん自動車やオートバイに関しては人一倍で、何しろ動く機械モノには目の色をかえていたのだ。
だから当時の楽しみは欽ちゃんの家のオート三輪を乗りまわすことであり、焼津の連中から見ればそれも楽しいことには違いないが、それだけに興味が集中するぼくみたいな奴は、極めて子供じみて見えたのではなかったか。
なにしろ思春期ざかりの小僧っ子が、自動車には異常な程の好奇心を示しながら、女の子に対しては何か手触りの薄い、ぼんやりとした好奇心しか持ちあわせていなかったという方がおかしいのであり、やはりぼくはどことなく変なガキだったのだ。

 同級生の仲間は一通りの文学全集などを読破していて、モーパッサンの「ベラミ」が良いから読んでみろなどと目を輝かせて薦める奴もいて、読んでみたぼくは「夫の目を盗んで浮気する貴婦人が、ベッドで愛人のチョッキのボタンに、自分の髪の毛を絡ませて引きちぎる」などという、ま、一種の恋のテクニックのくだりをよんで、なんでこんなに苦痛で、手の込んだやり方をしなければならないのかがまったく理解できなかったのだ。
あげくにはこの隠微な世界がただ暗いとだけ映り、こういう世界の話を読むことで、どうして友達がそんな世界に興味を持ち続けられるのか理解できなかったから、読書からはほど遠いところに日々自分を置いていたのだった。

 ま、今にして思えば性の何たるかなど分かるはずのないガキが、愛や性を、求めながらも悩み苦しむといった世界、色恋を踏み台にして出世を冷酷に目論む田舎出の男、そんな人間たちが織りなすこの世の色合いなど知る由もなかったのだ。

 それにしても、焼津から汽車で静岡の学校に通学するという、そのわずか二十分か三十分の時間とその閉ざされた空間。それがぼくなどには、自分はそこにいてはいけないほどの、隠微な空間であり時間のような感じだった。汽車通であること自体が何か大人びていて、とうていぼくなどには爪のかからない世界だったのだ。

 さて、欽ちゃんの家のオート三輪である。
欽ちゃんはぼくの知る限り、他の同級生の車持ちの奴らとは違い、運転したがるぼくに対してケチなことをいう貸し渋りということをしなかった。もちろんぼくは無免許だったが、欽ちゃんはそんなことは意に介さず、
「免許か?免許はみんなもってるらー、・・・・将来はナ。・・・アハハハハ!」
と変なシャレをいってはカラカラと笑った。
いかにも焼津っ子の欽ちゃんらしいシャレなのだが、その裏には「漁師町育ちは、ちいせえこたア云わねえ。」という欽ちゃん独特のスケール感を滲ませていた。
 
 スケール感といえばもうひとつ思い出すことがある。それは欽ちゃんの家の昼メシだ。
よく寿司屋の板前のうしろの壁に立て掛けてある特大の皿があるが、ああいう皿にかつをの刺身がギッシリとならべられたのが昼メシになると出されるのだが、欽ちゃんは決まって、
「喰ってくれー。足んなきゃもう一パイ船出すんてナ。」
そんな風に洒落のめしていた。
そしてその大皿を食べるのは欽ちゃんとぼくと、せいぜいもう一人友達が加わったくらいだ。
欽ちゃんの家に遊びにいくと昼メシはいつも決まって「かつを」だったような気がする。そのせいか、ぼくはかつをの刺身を旨いとかまずいとか、そういうふうに思ったことはなかった。なにしろ出てくる量がハンパではない。それをいつも平らげていたからだ。
今日のかつをは脂が乗っているとかいないとか、そんなふうに思ったこともない。
欽ちゃんの家のかつをはいつも羊羹のようにやわららかく、深い色をしていた。
焼津のかつをは味の質をシネクネ語るようなそんな食べ物ではない。
お醤油をほんのちょっと付けて一口に平らげ、旨いかまずいかを一瞬にして感じとり、活きのよさと黒潮の海を味わう。そういう粋な食べものなのだ。
そしてぼくは今でも、マグロよりはかつをの方が好きであり、大皿を静かに平らげてしまうのだ。

 三輪車が乗りたくて焼津まで行ったのだった。
そう、欽ちゃんの家の三輪はダイハツだった。ダイハツは四社のなかでいちばん音が勇ましかった。ダッ、ダッ、ダッ、ダッ、という炸裂音は、好きな人が聴けばすぐにそれと分かる。
くろがねはギュル、ギュル、ギュル、ギュル、とくぐもり、マツダはヒュル、ヒュル、ヒュル、ヒュルでとても静かだった。

 このダイハツは450CCではなかっただろうか。
いま、目の前にその当時のダイハツがあったらとても寸詰まりで短く、不格好なはずだ。 
運転席は限りなく雨ざらしに近く、後ろの荷台との境目あたりから、ハンドルの上あたりまで、ちょうど野球帽のヒサシのような屋根が出ていて、かろうじて上からの雨だけを避けている。もちろん運転手の正面はガラスも何もなく吹きさらしだ。
ちょうど雨が降ったら傘をさしながら乗る自転車に限りなく近い。
だからぼくのように遊びならいざ知らず、仕事でオート三輪を運転するということは、それほど勇ましい仕事だったはずだ。

 運転席に座るとまず両手をいっぱいに広げる程の大きなハンドルバーがある。
その下には自動車と同じ太いタイヤがあり、三百キロか、荷物を積載したら五百キロくらいの重量が三つの車輪それぞれにかかっている。
ハンドルには油圧はもちろんのこと、ギアによる減速もないから、ハンドルを切るといったって怪力を必要とし、地面からのすべての振動がじかに両腕に伝わってくる。このことがまた男の乗り物を象徴していた。

 思いっきり両腕を拡げてハンドルを握る恰好といい、ハンドルを切るときにかける腕っぷしの力といい、その上「ダイハツ」は勇ましい炸裂音が加わって、ぼくの気持ちをいやが上にも高ぶらせてくれる。
男らしさといえばもう一つ、機械モノによくある、始動前の一連の儀式のようなうやうやしい約束ごとがあるのだ。

 それは先ずおもむろにガソリンコックを開け、キャブレターのところに付いている小さな「イボ」(今はそれがティクラーだということを知っている)を押してキャブレターの小さなタンクにガソリンを導き、溢れさせる。
次は左側のハンドルバーの上にあるレバーの位置を決める。これが空気の取り入れを調整する「チョーク」。そして右側には二つのレバーがあり、短い方が電気進角を調整し、長い方のレバーがアクセルだ。
このアクセルは少しだけ引いた位置に調整する。アクセルは今の車のように、離せば戻るという仕掛けではない。決まったスピード位置に固定できるのだ。
そうしてキャブレターの、空気取り入れのラッパのようになった穴(これもエアーインテークのファネル、と今では知っている)を手の平で塞ぐ。
これがかなり低い位置にあるため、背中をすこし丸めた、陸上競技のスタートのような戦闘的な恰好になるのだが、これがまたタマラナイ!。
そうしておいてぶ厚い自転車のペダルのようなキックペダルを全体重プラス腰・もも・すね・足首その辺のすべての筋肉を動員して、渾身の力で踏み下ろすのだ。

 それ一発でエンジンが掛かればもうプロの腕前だ。
しかし普通はそうはいかない。プッシュン!といってキャブレターのあたりから白い煙が上がったかと思った瞬間、バチンッ!という鋭い音と共に、この車の全馬力が今踏んだばかりのキックペダルに跳ね返ってくるのだ。
これを「ケッチン」といいますナ。
「これでアキレス腱を飛ばした奴等が何人もいるぞ!」などと最初は脅かされる。
二回目はさすがに用心深く、キックを半分だけ下げておいてからもう一度最上点に戻し、意を決したように思いっきり踏み下ろすのだ。
ぼくは最初のとき幸いアキレス腱は切断しなかったが、キックが跳ね返ってくるとき、まだ少し体重がキックペダルにかかっていたのだ。そのためぼくの体は跳ね上げられ、屋根代わりのヒサシの鉄骨にいやというほど頭をぶつけのだった。
怪我にはならなかったがその時の痛みだけは今でも憶えている。

 しかしエンジンが掛かるとそんなことはすっかり忘れて走り回り、焼津の先の小川(こがわ)や相良(さがら)のあたりまで遠征していったのだった。
いま考えるととても無免許とは思えない、爽快にして痛快なドライブだった。

5. シボレー事件

 高校生時代、ぼくには一つだけはっきりと脛にキズ持つ話があるのであります。

 三年生の時だった。修学旅行の話がクラス中で次第に盛り上がってきて、気分もそれに連れて高まって来るはずだったのだが、なぜかぼくは盛り上がり切れずにいた。
今もってハッキリした不参加の理由が思い当たらないのだが、積立預金くらいは皆んなと一緒に以前から始めていたはずだ。それでも不参加と決めていたのだから、その理由はもっとハッキリと憶えていても良いのだが、憶えていないのだ。
もしかして、金の掛かることに対して親に遠慮したとも考えられるが、憶えているのはとにかく途中から自然にハグレる形で、その騒ぎからは一歩引いた気持ちになっていたことだけだ。
ほとんどの連中は次第に気分が浮き立ってきて、行った先で必ずといっても良いほど起こる他校とのケンカや、女学校の修学旅行と鉢合わせすることなど、期待も高まり盛り上がっていったようだった。

 しかし、自分が参加しない行事というものは何となく暗い雰囲気のものだ。
不参加も二十名ぐらいはいたと記憶するが、参加しない生徒は当然のこととして学校は休みだとタカをくくっていた。
ところが蓋を開けてみると出席して図書室で自習することになっているではないか。
「なんだ、なんだ!」
誰もがそう思ったのではないだろうか。
登校はするものの皆んなだらだらと一日を過ごしていた。
「図書室も良いけど、もっと面白い本をいっぱい置いておけよな、この学校も!」
そんな風に悪態あくたいをつきながらそれでも学校に出ていた。丁度梅雨に差しかかった六月の初旬のことだ。
何人か仲の良い連中が不参加残留組ということもあり、夜はそういう友達と遊ぶことには事欠かなかった。

 ある晩、「サル」(本名は吉川君というのだが)というあだ名の友人と、何をするというのでもなく彼の家の門の前で立ち話をしていた。
静岡の高校生の頃の話だが、夜になって友達の家に遊びに行ってもその家に上がることはほとんどなく、門の前や板塀に寄り掛かっては、夜の更けるのも忘れ何時間でも他愛のない話しをしたものだった。
サルはなかなか物知りのところがあって、ぼくはサルの天文に関する蘊蓄うんちくを引き出そうとあれこれと話題を持ち出してはしゃべっていた。
サルは天体間の距離に関してやたらに数字が頭に畳み込まれているので、特にそれを知りたいわけでもないぼくは、ただ数字を引きずり出すことだけで一種の暇つぶしをしていたのだった。

 そういう会話がそんなに長続きするはずもなく、「帰るかな?」ということになった。
二人は連れだってぶらぶらとその住宅街をあちこちと歩き始めたが、その住宅街の一画でふと車がエンジンをかけたまま門の前に停まっているのを見つけた。
その車はもうだいぶ前からそこに止まっていたらしいが、多分運転手が主人を送り届けて一寸上がり込んで一服していたのだろう。
近寄るまではエンジンが掛かっているかどうかすら分からない、それほど静かな音だった。
二人は両側から車の中を覗き込んだが、見るとそれは左ハンドルのアメリカ車シボレーだった。

 その家は庭の奥の方に建物があり、夜中なのに明々と電灯をつけていた。
「おい、サル。乗ってみるか!」
唐突にぼくはサルにそう云った。
「なあるほど。」
サルはそう答えて、まるで本当のドロボーかプロの刑事のように、家と車を背にして通りの左右に代わる代わる素早い視線を送った。(いや、本当の泥棒でした。)
「オッケー!」
という風にサルは顎をしゃくって私は左側から運転席に飛び乗った!
左ハンドルは生まれて初めてだったが何とか車は発進した。何かゆったりとした感触を初めて味わいながら走り始めていたが、困ったことにライトが点かない。
スイッチの在処が分からないのだ。慌ててその辺のボタンを押したり引っ張ったり捻ったりし、やっとのことでライトは点灯した。
「おー、良かったよかった。」とサル。
しかしぼくは落ち着かなかった。ライトはいたが何となく前がよく見えない。
その時点でぼくは初めて小雨が降っていることに気がついた。
「おい、サル!ワイパーが動いてないぞ。」
サルは今度はダッシュボードに首を突っ込むようにしてスイッチを探し当てた。
やっとワイパーが動くと目が覚めたように道路や家並みが見えるようになった。
「おい、何処へ行くか?」
宛てなどあるはずもなく、車は静清せいしん国道(静岡清水間を繋ぐ国道)へと出ていた。現在の国道一号線である。外はしっとりとした霧雨が降り続いている。ぼくはアクセルに力を込めていった。
「おい、この車何だかあんまりスピード出ねえなあ。雨じゃあちょっと恐いし。」
「何キロ出てる?」とサル。
「七十だよ。」
「???おい!これマイルじゃねえの?」
サルは嬉しそうに笑った。
「ヒチイチヒチ・ヒチロクシジュウニ・・・百十二キロじゃん!」

 当時、オートバイで「ぶっ飛ばした!」といえば、せいぜい六十キロくらいのものだったから、百キロなどは未体験ゾーン。
何だか夢の中のような感動が次第に全身に満ちてきたが、二人はそのまま清水港の岸壁までその車を走らせていった。
岸壁で車を降りてみたが雨の中で別にすることなどなく、なんとも所在がない。それに今にもパトカーが現れそうで落ち着かない。
「この車、この岸壁から落としちゃうか!」
こんな恐ろしいコトバをぼくはなぜ吐いてしまったのか。
しかしサルはそれには何の反応も示さず返事もしなかった。
「帰るか。」
サルがそういった。
二人は又、パトカーが走り回り検問所が至ところに出来ているかも知れない国道を、もと来た方へと引き返していった。

 何も起こらなかった。でも、何処といって行く所などありはしない。仕方なくもう一人の友だちを誘うべく学校の方へと向かった。
なぜということもなかったが、自分たちの学校の周辺がいちばん手触りがあったこともあり、また同じ修学旅行を外れた仲間にこの気分を味合わせたかったのだ。
学校の二つの校舎の間の、ちょっと外からは見られないところに車を隠した。
二人は車を降り学校の直ぐ近くに住む「ツカ」(本名は塚原君)の家に向かった。
勝手を知ったツカの家は裏木戸から入った。ツカの寝ている八帖の離れに近寄って、ヒソヒソ声で呼んだ。
「ツカー、ツカー!!」呼びながら人差し指の爪で縁側の磨りガラスをそっと叩いた。
ツカはすぐに明かりもつけずガラス戸を開けた。
「ナンダおっちか。どうしただア? 何かやったら?」
「おお、ちいっとな。クルマ一台ギッて来たんてなア。」
「ホントかあ?・・・やいやい、やったじゃーん!!」
そう言いながらツカは、ズボンにシャツを押し込みながら出てきて靴を履いた。
「なんだヤイ、ショんねーなア、おっちゃ。」
そういいながらツカは嬉しそうにクックッと笑ったが、その笑いもヒソヒソ声だった。
三人はすぐさま又学校にとって返すと今度はツカが、
「待て、待て!。俺によく見せて見ろ!」
といってペンライトというのだろうか、小さな懐中電灯をかざして車の中を点検するような仕草で、恰好をつけた。
「ほんとかあ? やいやい、エーのをやったじゃん!」
ツカがそういって、三人は勇躍して又その車に乗り込み走り出した。
しかし今度は何故かまたスムーズに車が走らない。
スピードも出ないし、第一思った方向に車が走らない感じなのだ。
「パンクじゃねえのか?・・」
度重なるハプニングに、ちょっと弾んだ感じでサルがそういった。
「こりゃもう返したほうん、ええら。」
ツカのコトバに素直に従おうと思うのだが、今度は車が蛇行し素直には走ってくれない。
ぼくたちはパンクした車を県庁の裏まで引きずるように走らせていった。
三人はいとも簡単にその車を県庁裏に乗り捨て、しゃべったりキッキッと笑いながら駿府城のお堀端を肩で風を切るような気分で歩いて帰っていった。

 翌日三人は学校の図書室に集まった。何が何でも集まらないと朝から落ち着かなかったのだ。
「おい、出てるぞ!新聞に。」
小声でそういって、ツカは新聞綴じを差し出した。
「えっ!」
サルとぼくは急いで新聞綴じを受け取り、三面地方欄に目を走らせた。
「シー、シーっ!!」
回りの奴らに感づかれたらと、それが何より恐ろしかった。
朝日新聞の地方欄には、昨夜の自動車盗難のあらましの記事が小さく出ていた。
しかしいくら読んでも、乗り捨てられた事と、パンクの一件はどこにも書かれていない。
サツもチカンだでなア、何か掴んでるら。」ツカがそういうと、そのとたんに私は膝といわずあごといわず、次第に大きくガタガタと自分でも可笑しいほど震えてきて、それが止まらなくなってしまった。

 私は思わずサルを振り返った。するとサルは全く表情を消し「視野の中に知るひと居らず」のポカンとした目をつくって壁のポスターを見上げていた。

 このことがあってから、ぼくは平常心を取り戻すまで可なりの時間が掛かったと思う。修学旅行をさぼって過ごした五日間、思わぬ方向に行ってしまった自分に、ただ呆然と時をやり過ごしていたような気がする。

 警察に行って話しをしようかと、何回もそう思ったがとうとうそれはしなたった。
そしてその生々しい記憶はゆっくりと薄らいでは行ったが、その後もぼくはこのことを打ち明けもせず、自首もしなかったし被害者に謝りにも行かなかった。
法律的には時効であり、今は古傷のようになってはいても、このことに対しては未だに落とし前がついてはいない。

6. 箱根越え

 私は大学を卒業するまでだけでも十年以上も無免許で車に乗っていた。こんなことを別に威張るわけでも自慢したいわけでもないが、その頃は風通しが良かったというのか、はたまた隙間だらけとでもいうのか、平気でいたのはぼくだけだったのか?

 その間無免許で捕まったことは二回ほどあるが、呼び出された検察庁の、私に面接した検事氏がたまたま教会関係の知り合いだったため、二回とも始末書のようなものを書かされただけで無罪放免となっていた。
これが良いことだったのか悪いことだったのかは分からないが、少なくともぼくは世の中を少しばかりめてかかっていた節がある。

 その当時は例えば酒酔い運転で事故を起こすと、正気ではなかった分だけ刑が軽減されるという馬鹿なことが本当にあったのだから、ま、今では考えられない悠長な時代だったのだろう。
まあ、十何年間無免許運転といったって、毎日のように車に乗っていたわけではないし、折りある毎に車を持っている友達を捕まえては、「おい、乗せろ」と迫って拝借はいしゃくしていて、拝借するとなかなか戻ってこないので持ち主があわて、評判も悪くなり、だんだん借りづらくなってもいた。
しかし大学生にもなると今度は友達が免許を取る段になる。そういう友達に何くれとなく世話を焼き、運転のコツを伝授したりしていい気になっていたが、それでもなお免許を取りに行かなかったのは、一つには法規に関する学科試験に自信がなかったのだ。
いや更に云うと、何かにつけ落第の経験ばかりを持つぼくは、試験そのものが嫌いで嫌いでいつも結果におびえ、受ける勇気が全くといって良い程なかったのだった。

 そのうちにとうとう自分よりも先に後輩が免許試験に合格し、
「ムロちゃんは俺にああしろこうしろって教えるくせに、まだ免許持っててねーんだもんな。」
などと冷やかされたりした。

 そうこうするうち、免許制度そのものが大きく変わり、小型四輪免許に軽二輪免許が自動的に付帯するようになるとか、「教習所での教習が義務づけられるぞ」などと脅かされ始め、やっとのことで試験を受ける気になったのだった。
そう、当時はもちろん教習所などというものはなく、すべて試験場に行き学科と実地を受験し、その日に結果発表だけを聞いて帰ったものだ。
ただ、大型二種免許や自動車整備士免許などを取得する人は、一年間の自動車学校へ入学して頑張っていたが、そういうおじさん達に混じって、一気に大型二種免許(これは見栄のため)を狙おうかなどと考えたこともあったが、結局は皆と同じように試験を受けることになった。
そんな中で私は実地試験のとき、
「きみは無免許でずいぶん練習したろ?」
などと云われたのを憶えている。

 学科試験は構造問題以外は全く自信がなかった。試験が終わるとその場で正解が黒板に書かれていったが、ドキドキしながら自分の書いた答えを思い出し、
「やっぱり落ちたか!」と思ったが何故か受かっていた。
その日免許試験が終わって、心配した後輩がトラックで迎えに来てくれると、帰りにはそのトラックに飛び乗り自分が運転して帰ったのだった。

 それから免許証が実際に交付されるまでに三週間ほど待たされたが、その間にも「ドライブクラブ」(今のレンタカーの前身)の車であちこちと遊び歩き、遂にというか、目出度く免許が交付される前日に、又もやドライブクラブのトヨペット・コロナで静岡から箱根まで夜中に走り、頂上まで行ってしまったのだ。
ところが、そこで急に向こう側の小田原に降りて東京まで行きたくなったのだ。

 東京。それは静岡に引っ込んでしまった当時のぼくにとっては、やはりアカ抜けて洗練された都会だったのだ。
静岡ではどうしても味わえないものもある。それは「信号機」や「都電の軌道敷」だったのだが、そこを又走ってみたくなったのだ。  
 ぼくは友達を助手席に乗せたまま、いつの間にか箱根を小田原へと降り、大磯の吉田茂・ワンマン道路を走り抜け第二京浜国道に入っていた。
その頃にはもう夜も明けて明るくなり、ほとんど車のいない快適な二車線道路を飛ばすのは実に爽快だった。
するとどこからか一台のルノーに乗った二人組が横に並びかけて来た。清々しい早朝、ガラガラの国道はレースにはぴったりで、たちまち気持ちの良いバトルが始まった。あこがれの「信号グランプリ」である。   
ちょうど鶴見川の橋を渡ろうとしたとき、ルノーが私の車の鼻先へかぶってきて、かるーくブレーキを当てたのだ。
ぼくも素早くブレーキを踏んだが間に合わなかった。
「ボンッ!」と小さな音がした。
すると仕掛けてきたはずのルノーの方が急に安定を失い急激な蛇行に入った。
そしてたちまち一回転半スピンすると、歩道を乗り越え橋の欄干に尻の方から激突し、観音開きのドアーが二枚ともパカーッと開き男が二人転がり出てきた。
それを左手に見ながら「ヤバイッ!」と思ったぼくは、そのまま無視して逃げてしまったのだ。

 気はかなり動転していて「生きてる!」「死んでる!」が頭の中で回転しっぱなし。ぼくはいつの間にか逃げ続けていたのだった。
助手席の友人はフロントのウィンドーを全開にして身を乗り出し、左フェンダー部分にへこみがないかを確認しようとしていたが、変わった様子はないようだった。
と、バックミラーに赤色灯を点灯したパトカーが飛び込んできた。
「トボケちゃえ!」助手席の友人にそういってそのままのスピードを保った。
パトカーはたちまち右側に並びかけると、
「車を左に寄せて停車しなさい!」
見るとさっきのルノーの男の内の一人がパトカーの後部座席からぼくを指さしている。
万事休す。お終いだ!!!

 免許証がない無免許運転と判ると、質問した警察官はあきれたように私の顔を覗き込んだが、二人はそのままパトカーに乗せられ、乗ってきたレンタカーは警察官の一人に運転され、鶴見署へと連行されてしまった。

 取り調べは行ったり来たり遅々として一向に進まない、めちゃくちゃに時間の掛かるものだった。現場検証にも連れて行かれた。

 同じ事故でも免許のある相手と無免許のぼくとでは、その扱われ方の差は歴然だった。相手が先ず事情聴取されてからぼくが呼び出され聴取を受ける。
明らかに善良そうな相手方が先に事情を聞かれ、罪深いぼくは彼らの訴えを追認する形で色々と訊かれる。
異議を唱えようものなら、今度は相手が又呼ばれるといった繰り返しが延々と続いた。

 長いながい事情聴取が一区切りすると、警官が薄い和紙の便箋を取り出し複写用のカーボンを挟んでから、上着を脱ぎ腕まくりをして聴取の内容を要約しながらボールペンで筆圧込めて書いていく。
事故容疑の状況がほぼ固まり、正式な保存用調書が出来上がっていくのだが、書き終わると取調官はそれをぼくに読み上げて聴かせ、
「これで間違いないナ!?」
と脅すように訊く。
「違います」とでも言おうものなら取調官は真っ赤になってまた最初から、相手の聴取からやり直すのだ。
ぼくは「違います!」を一度やってこっぴどく怒鳴られたが、やり直した結果は信じられない程ぼくに有利な結果が出てきたのだが・・・・

 相手方が聴取を受けている間廊下で待っていると、事故のとき橋の上を自転車で走っているところをぶつけられて、軽い怪我をしたという爺さんがやって来ていた。
聴くと、うまくしゃべれないその爺さんは「しばらくは働けないから金をくれ」といっている。
これには驚いたが、そういえば橋の上に誰かいたような記憶がないでもない。
しかしこのことが今になって警察に知れるのはまことにまずい。ぼくはルノーのもう一人の男に話を持ちかけた。
「爺さんはこう云っているが、これ以上グズグズいわせるのはヤバイ。この際両者で幾らかの金を払って、すぐに追い返しちゃった方がいい!」
そういって両方で一万円ほどの現金を掴ませて、爺さんを追っ払ってしまったのだった。
警察の取り調べより、ぼくにはこっちの方が何倍も恐ろしかった。

 結局鶴見署を放免されたのは夕方の五時頃だった。総合的な判決は「ケンカ両成敗」。これは今思い出しても凄い結果だ。
「あとは両者で話し合いなさい」。
いつの間にかぼくの方に優しくなってきた取調官がそういったのである。
その結果、最終的に警察署の廊下でルノーの相手とギゴチない話し合いが行われ「損害はそれぞれを自分持ち」ということで決着した。
そこまでぼくは何とか漕ぎ着けることができたのだ。しかし車は乗って帰るわけにはいかない。

 取り調べの合間にそのことに気づいたぼくは、学生時代の下宿のおじさんに電話を掛けていたのだ。
「おじさん、おれ今、無免許でパクられちゃって鶴見署にいるんだけど、車の貰い下げに来てもらえませんか?」
「何だよ、ムロちゃん。一年ぶりの電話かと思や、そんなことかい?しょうがねえなア」
持つべきモノは下宿のおじさん、か?
 
 おじさんの家、つまりぼくの元の下宿は豊島区の東長崎にあったが、おじさんは現在の下宿人でぼくの知らない、静岡の後輩だという学生を二人も連れてやって来たが、これにはぼくの方が参ってしまった。
合わせる顔がないのである。面目まるつぶれ! 先輩カタなしである。

 しかしおじさんは嬉しそうだった。警察署の廊下だというのに、私の顔を見ては嬉しそうに笑ったり大声で話しかけようとしたりした。
「しかしまあ、ムロちゃんも変わってないねえ。」
「おじさん、もう良いよ。あっち行ってタバコ吸おう。」
二人は警察の入り口の石段のところに腰掛けた。
「どう?ムロちゃんは元気そうだけど、岡ちゃんも元気? お母さんは?」
「元気だよ。皆んな元気。それよりおじさん、まだ麻雀やってんの?・・・
だめだよ、あんまり大きいのを賭けてやっちゃあ。」
情けないほどの反撃しかできない。けれどもぼくはおじさんの優しさが身に沁みて、いつものようにはしゃべれなかった。
楽しいというのか、こんな風にして久しぶりのおじさんとの時間が過ぎていった。

 少し疲れてはいたが、楽しいような恥ずかしいような不思議な時間を噛みしめながら、おじさんがけ出してくれたレンタカーに同乗して鶴見警察署を出た。
第二京浜国道に出た二つ目の信号で、おじさんはぼくに車を渡してくれた。
「だいじょうぶかよムロちゃん?!静岡までかい?・・しょうがねー・・ま、気をつけてナ。しかし相変わらずハ・ゲ・シ・イ・なア!」
そういっておじさんはぼくの顔をまじまじと見て嬉しそうに笑った。
そこからぼくは又その友人を乗せ、無免許運転のまま箱根山を越えて静岡まで帰ったのだった。

 そんなことがあってぼくは「せっかくの免許も取り上げだな」と覚悟した。
何しろ免許証をもらう前日にクルマを運転し、しかも静岡から神奈川の鶴見までも行ってしまったのだ。往復300キロくらいになるだろうか。
挙げ句の果てに事故まで起こしたのだ。こんな奴は免許をもらう資格はない、取り上げだ。そう思っていたのだ。
それでも一応免許交付の当日に警察署に出向いたぼくは、静岡署の係官に昨日の事情を話した。するとその係官は、
「免許は受け取って行きなさい。いずれ呼び出しが来るから、その時その指示に従いなさい」
そういって免許証は取り敢えず無事ぼくの手元にやってきたのだった。

 当時の運転免許証は黒い皮の表紙に金箔きんぱくはく押しで「自動車運転免許証」とれいれいしく書かれていた。
中は薄グリーンのページだったと思うが、折り畳みになったページが入った、なかなか貫禄のあるものだった。
免許の種類の欄には「自動小型四輪車」と、歯並びの悪いゴム印が押されており、軽自動二輪車を運転する許しも付帯しているのに、その文字はその免許証には書かれていなかった。
そんな免許証を手にしてみると、免許年月日の日付が友人たちのそれと比較して後になっている。

 その後いつまで経っても、事故や無免許運転に関する呼び出しや、免許の停止処分はついに来なかったが、冷や冷やしながら呼び出されるのを待つ時間が、長い長い時間のうねりの中へと何時とはなしに消えて行き、そしてそこに何か黒い大きな穴が、ポッカリと空いたままになったのだった。

7. 銀行づとめ

 「大きくなったら何になりたいか?」という質問に対して、「電車の運転手」と答える男の子が大勢いた時代がある。
この「電車の運転手になりたい」という答えは、如何にも子どもらしい夢だと大人達はそう思っている。
「そんな可愛い他愛もない時期があった」として、大人になった自分を実感する。
他愛のない夢は消え、もっと現実的な手がかりを掴んだとばかりに安心しようとするらしい。
ところがぼくは幾つになっても子供の頃の夢から覚めていないのだ。
今だってそこにヘリコプターがあれば操縦してみたいし、新幹線だって運転しても見たいのだ。
事実いまだに、旅客機に乗り込んでいて操縦士が急死、誰もその飛行機を操縦するものがいない。「どうする!」という時に、無線連絡のやり方をかろうじて掴み、その指示で何とか緊急着陸させて、「オレだって、やればできるじゃん」なんぞという何処かで見た映画もどきのバカな夢を、六十を越えた今でも見ることがあるくらいなのだ。(しかしそんな奴とは誰だって同じ乗り物に乗りたくはないだろうなア。)

 一九五九年、大学を卒業したぼくは静岡の銀行に就職していたが、その時代はいわゆる日本のモータリゼーションの幕開けの時代だった。
日本の自動車メーカーは軒並み業績を伸ばし続け、日本に自動車会社が最も多くあった時代ではなかったか? 各社ともヒット商品を抱えて元気が良かった。
そんな中でぼくの勤務する銀行の支店にはスクーターが二台あった。スーパーラビットとシルバーピジョンだったが、ぼくは直ぐにそのスクーターの管理責任者となっていた。
車両の状態を記録する「日報」をあみだし、軽度のメンテナンスは自分でこなしてもいたのだが、その役得やくとくとして支店のスクーターを平気で自宅に乗って帰ったりしていた。支店長も私に対しては、
「気を付けてくれよ、ムロタくん」
とはいうけれど他に何のおとがめもなかったので、日曜日にはそのスクーターで箱根のてっぺんまでドライブしたりしていた。

 この銀行の支店というのは、静岡のお茶の中心地、製茶工場が集中する町の中にあったため、トップランクにいる会社はみな相当な鼻息で遊びが派手だった。
何かというと「クラブ」でドンチャン騒ぎ。支店の旅行というとお客の会社の社長さんたちが芸者を連れて参加してくる。
そして旅行は決まってお客さんたちの自家用車を連ねての派手な温泉旅行だった。
今だったら週刊誌のグラビアを「癒着の構造」か何かで数ページくらい飾れる話だが、当時はおおらかなものだった。
第一お客さんの方が下心なんて殆ど無い。せいぜい翌日に貸付窓口で、
「出資金の積み立て、ちょっと待ってくれない?」
くらいで、そんなことよりも「ムロちゃんも一緒に」夜な夜なクラブでギャーギャーやりたいだけなのだ。

 お客さんたちも一人ではない。同業・異業他社の社長さんたちがいつも五、六人一緒なのだ。
興が乗ればお姉さんとそれぞれが出来上がり消えちゃったりするので、「こりゃお金が足りるかなア?」などと心細く思いながら恐る恐る勘定を聞くと、ママが、
「良いのよ。そんなのお兄さんが払うことなんかないわよ!」
そんな具合なのだ。

 ぼくは趣味の「運転」を別にすればごく普通の、どちらかといえば銀行でも地味で目立たない存在で、仕事はけっこう真面目にこなしていたので、お客さんからは一寸目立たなくてやりにくそうな「カタブツ」に見られていたらしかった。
けれども社員旅行の帰り道などにクルマを運転させてみると、やたらに明るく派手になるぼくを見て、
「このまま何処かでもう一泊して行こう!」などと誘われたりもした。

 その当時のクルマといえば、縦目のヘッドライト、白のボディーに真っ赤なシートのニッサン・セドリックや、ドディオン・アクスルに上品なモケット・シートを乗せたプリンス・スカイラインなどが主流で、トヨペット・クラウンは少し地味な存在だったかも知れない。
各社がその個性を誇ってもいて、ギアのレイアウトやスイッチ類の配置やノブの形などそれぞれが皆違っていたが、ぼくはどのクルマのハンドルを握っても、それらの配置やレイアウト、さらにはそれぞれのクセやパワーの出方までも熟知していたので、運転席でまごつくことなどありはしなかった。
しかし、当時でさえもクルマは百万円以上もする高嶺の花であり、ぼくにとってのクルマは、常に他人のクルマであることに変わりはなかった。
只、その当時からのぼくの誇りは、どんな種類の車、どんなに調子の悪い自動車でも即座に運転できること、エンジンが付いていて動くものならば、例えそれが初めて触るものであっても、どれをどうしてどうすれば動かせるという、運転のポイントを即座に読み解く自信があったのだ。

8. 事故

 ところがである。その銀行時代にお客さんの一人に自動車の塗装屋さんがいた。
その人がぼくに格安で車を譲ってあげる、という。
十万円だが支払いは何時でも良いとまで云うのだ。その車というのは見るからにオンボロのプリンスだったが、これでも今なら流行の贈収賄だ。
(でも待てよ。その車は十万で売れれば御の字だったかも。)
しかし当時はおおらかなものだった。
それはともかく、このオファーのお陰でぼくは生まれて初めて父親に無心をしてみたのだ。
「ダメだ!」の見通しが九十九パーセントだったが、この時ぼくは生まれて父初めて親父に調子の良いコトバを口走ったのだ。
「これがあれば家族で出かけられるよね。」
これが大当たりだったのだ。
姉たちは「お前だけそんな甘いことは許されない!」と思っていたから悔しがったが、でも何故か本当に何故か十万円がオヤジのポケットからころがり出たのだ。
もちろん借りるという約束だったが、それにしても好きな本を古書店に行っても節約して、買いたい本のほんの一部を大事に買って帰ってくる父親の姿を見ていたから、バンザイするというよりはむしろ申し訳ない気分に浸った。

 その車は十万でも高いプリンスのオンボロだった。色もまた地味なグレーの軍艦色。
塗装の艶はすっかり消え失せ、ハンドルは不安定でブレーキはのしかかるように踏まないと効きはしなかった。
そのブレーキがある日命取りになった。

 夏の日の夜中、ぼくは自宅近くの住宅街の狭い道を走っていた。
ライトは蛍の光でブレーキは蒸気機関車、ハンドルは重く不安定なその車が丁度四つ角に差し掛かった。夜だし交差点の左右から光りらしきものは何も見えなかった。
四つ角を横切ろうとしたそのとき、「チラッ」と目の裏に何か黒いものが走ったかと思った瞬間、目の前にオンボロのスクーターが黒く小さな人影を乗せてあった!
「ガチャーン!」
一瞬、人影がスクーターもろとも、ぼくのプリンスのボンネットの下に消えて見えなくなった!
そのプリンスはそれでもまだ少し動いてから止まった。
ぼくは真っ青になって車を飛び出し、人影に走り寄った。年輩の男の人だった。
「だいじょうぶ、だいじょうぶ。」
そういってその人は立ち上がり、スクーターを起こして再びエンジンをかけようとしていた。
「待ってください!怪我はありませんか? すぐそこに交番がありますから行って来ます!」
そういって交番まで歩いて行った。
交番に明かりは点いていたが誰もいない。
仕方なく元の現場に戻ってみるとそのおじさんの姿が見えない。ただ近所のクリーニング屋さんが明かりをつけて、寝間着姿のまま眠そうな顔で出てきてぼんやりと立っていた。
おじさんもスクーターも消えるなんて。ぼくはとうとう車を運転して探し始めた。
おじさんはそこから二百メートルほど行ったところで見つけた。
「よかった。お怪我はないですか?家はどこなんですか?」
ぼくは矢継ぎ早に訊いた。
「家はこの直ぐ裏だよ。」
そういっておじさんはその家に入ってしまった。
それからおじさんの家で再度容態を尋ね名前や電話番号を交換し、ぼくは勤めている銀行名と支店を教え又来るといってその晩は家に帰った。

 翌日その家に行ってみるともぬけの殻で、となりの人に尋ねるとおじさんは日赤病院に入院したという。慌てて行って見ると、
「やはり具合が悪くなった。」
といってぼくの顔をまじまじと見つめ、
「ゆっくり話したいことがある。」
とだけいった。
それから何日かして職場に電話がかかり、ぼくはある喫茶店に呼び出された。

 おじさんの他に明らかにその筋の顔をした男が二人。おじさんはもう殆どぼくに向かっては何もしゃべらない。別の二人がやんわりだが、「これは相当な金が掛かるかも知れない」というようなことをぼくに云い、次ぎに会う場所と時間を指定した。
ぼくは「はまりそうだな」と思い、銀行の先輩にそのとこを打ち明けた。

 翌日、勤務する支店の一人のお客さんがぼくを訪ねてやって来た。もちろん「事故」の件で、である。先輩が彼に相談したからだった。
その人は我が支店の有望顧客で韓国系の朝鮮の人だった。
先輩と三人で応接間に陣取り先ずぼくが説明を求められた。
もちろんその人に面識はあったが、優秀な人で、ぼくは彼の事業計画書を高く評価していたので、何となく心強い感じはしていたが、事が事だけに話しにくかった。
それを察してか、彼は単刀直入に、
「あなたは全部をこの私に任せますか? 今までに一度だけだがあなた一人で直接相手に会ったのはいけなかった。でも、今後私に全て任せて頂ければ責任を持って解決します!」
もの凄く鋭い目で彼はそういった。

 翌日そのお客さんに伴われて、約束の喫茶店に出かけていった。席に着くとぼくは彼を友人として紹介し、そのままぼくだけ席を外し銀行に帰るよういわれ、云われるままに従った。
二時間ほどすると彼も又銀行に戻ってきた。今度は彼の方からその先輩を呼ぶように云われ、また三人で銀行の応接間に座った。
「これは三万円の領収書です。貴方が治療費として払うと約束してしまったお金です。
貴方がご自分で約束しなければもっとスッキリしたのですが、これだけは立て替えて払っておきましたから、このお金は済みませんが僕に払ってください。それだけです。
あとはたとえ事故が原因で死んでも一切の要求はしないという一筆を取ってありますから安心してください。・・先輩、これでよろしいですね?」
そう云いながら彼は三万円の領収書をぼくに手渡してくれたが、金額の横の摘要欄には、
「この事故の件に関しては今後一切の権利・要求を放棄します。」
と、読めないような汚い字で書かれていた。
今まで恐ろしかった気持ちが、怪我をしたおじさんに申し訳ないような、気の毒なような気持ちに変わってしまったが、正直に助かったという思いが湧いた。
しかし支店のお客に借りを作ったという、身動きの取れない状況を自分で作ってしまったという、後味のわるい重圧が残ってしまった。 
勉強になったで済まされたのは運が良かっただけではなく、当時のやわらかな時代のありようと、その人の人柄に助けられたからでもあった。
その後彼にどんな事情が発生したのか分からないまま、彼はぼくのいた支店からいつの間にか取引を撤退し、ぼくの事故の一件は忘れ去られたようになっていった。

9. 留学準備

 ぼくはしかし、その銀行を二年半で辞めることになった。それはかねてから心に暖めていたアメリカ留学の夢が現実のものとなって来たからだった。

 当時留学というと、文部省の留学制度での国費留学か、アメリカのフルブライト資金で留学するというのが一般的だったと思うが、ぼくの場合はそうではなく、一種の私費留学だったから周囲の皆は驚いた。
それにあの就職難の時代に、銀行という確かな職を手にしてまだ二年半しか経っていなかったのだから、周囲の人たちが首をひねったのも無理もなかった。

 たまたまだが、ぼくの母親が若い頃アメリカ留学を偶然経験したことが端緒だった。貧乏生活をしながら宣教師の手伝いをしていた母は、偶然アメリカで行われる「世界日曜学校大会」というものに派遣されることになったのだ。昭和の初期である。
ロスアンゼルスで一週間ほどの日程が終了する日、母はその宣教師からアメリカに残って勉強することを強く奨められたという。
その場で決断した母は単身オハイオ州にある大学で心理学を勉強することになった。
その当時母が使った二冊目の「コンサイス英和辞典」は今ぼくの手元にあるが、ページの角はすべて丸まり、殆どの単語に赤や青の鉛筆やペンで線が引いてある。
それは、アメリカはニューヨーク大恐慌、エリオット・ネス「禁酒法」の時代だった。

 そんな母の縁で、当時母と苦労を共にしたカナダ人の婦人にぼくは何通かの手紙を書いていた。そしてアメリカで勉強したい旨を伝え、その人はぼくを直接大学の学長に紹介、あとは自分で交渉しなさいと伝えてきた。
こんどは大学の学長を相手の文通が始まり、やがて交渉相手は学生部長となり、遂に学費と寮生活の全ての費用が免除される留学が許可されたのだった。
それは良く聞く「スカラーシップ」という学費免除よりも更に上の「フェローシップ」という待遇だったことが後になって解った。
ぼくはその間の約一年を、銀行の仕事の合間を縫って予備校で学んだ英語力を頼りに、喫茶店で手紙を書きまくっていた。
とはいっても、家庭財務状況報告だの、学力成績認定書だの、生活費宣誓供述書だの、聞き慣れない書類や英単語、当時のアメリカの行政や学校の様々な法律や規則に悩まされながら、辞書と首っ引きで頑張っていた。

10. 大陸横断バス

 でたらめ運転者のぼくにとって最初の刺激的な出来事は、ロスアンゼルスから大学のあるヴァージニア州のリンチバーグまで、二昼夜半のバス旅行だった。
ぼくは出来るだけ運転手の近くの座席を予約し、そのドライバーが巨大なグレイハウンド・バスを見事に操る様子に目を凝らしていた。
クルマがすべて右側通行というのもカルチャーショックではあったが、行けども行けども続くハイウェイで、速度が一番速いのがバス、次が乗用車、そして一番遅いのがトラックとなっていて、どんな所へ行ってもその暗黙のルールが完全に守られていたことに目を見張った。
トラックが性能的に遅いというのではない。人間と荷物との優先順位が自ずと人間にあり、その中でも大量に人間を輸送するバスが優先順位の上にある。
従って子供だけを乗せたバスすなわちスクールバスが、緊急車両を除いて最高の優先順位を獲得しているというわけだ。
こういう、子供が考えても解るルールがアメリカ全土のあらゆる道路の隅々で守られているという事実を目の当たりにして、突然日本からノコノコやってきたぼくに、強烈なカルチャーショックの一撃を食らわせたのだった。

 大陸横断バスはワンマンカーである。
大きな都市のステーションに着くと、夜中でも乗客は一旦降ろされそこのレストランに案内され、一時間ほど休憩をする。
そこで車両とドライバーが交代となり、再び出発すると、新しいドライバーが走りながら自己紹介をする。
けっこうウケることをしゃべり乗客を笑わせたりもするが、その乗客もほとんどがプアーな階層の人たちで、英語らしい英語をしゃべれない人も大勢いる。

 そんなバスの中でぼくは一人の黒人の青年と友達になった。訊くと彼はアフリカのケニヤからの留学生で、二年前からメンフィスの大学に留学しているという。
行けども行けどもの長旅でもあり、お互いにずいぶん色々と話をして過ごした。
長いながいバス旅行の時間の中だったけれど、別に大した話をしていたわけではない。
ただ向こうも留学生ということだけで、今二人がいるアメリカというところが、何かクールに見えてくるのが新鮮で面白かった。

 そんな中でバスはオクラホマの州都オクラホマシティーに入った。
そこには大きなバスターミナルがあり、そこで車両とドライバーの交代が告げられていた。
ぼくは彼と一緒にバスを降り、ターミナルのレストランへ一緒に入ろうと彼を誘った。
彼は一瞬躊躇したが、二度目のぼくの誘いに応じるかたちでターミナルのレストランへと入った。レストランの中はどこのターミナルも同じようだったが、そこはかなり広い半円形の明るい空間だった。
ぼくたちは中央の半円形のカウンターに席を取り、彼はドーナッツとコーヒー、ぼくはアップルパイとコーヒーを注文した。

 カウンターの中の男が彼に向かって何か口早に訊いたが、
「注文のドーナッツはあんたの方か?」
とでも訊いていると思ったぼくは、もう一度、
「彼はドーナッツとコーヒー、ぼくはアップルパイとコーヒー。」
と大声でいった。その時点でぼくは周囲の視線がこちらを向いていることを感じて「おやっ?」と思った。
その瞬間、ここは南部で、ぼく達は白人専用のレストランに入ってしまったことに気がついたのだ。彼はそのことを知っていて、尚ぼくの誘いに応じてくれたのだ。が、もう遅い!改めてゆっくりと周囲を見回した。
するとレストランの中の全員がぼく達二人に刺すような視線を送って、今にもこっちへやって来そうな男もいる。
しまった!まずかった!
当時アメリカの南部では、セグリゲーションという黒人差別が平然と行われていた。黒人が入れない学校、職場、レストラン、公園、劇場など、南部の一帯では当たり前だったのだ。
僕はそのことを、世話焼きなアメリカ帰りのおばさんから聞かされていたが、それは知識であって、それが皮膚感覚を伴った実感としていきなり襲ってきたのはこの時が初めてだった。
そんな中で日本人は何故か白人扱いだったが、アフリカ人は黒人だったため、ぼくは当時のアメリカの最大のテンダースポットに塩をすり込んでしまったのだ。
「野郎、ふざけやがって!」
そんな感じで周囲の注目を引いたのだった。

 一瞬恐怖が走ったが、今立ち上がるとケンカ腰にみえて返ってマズイ。ぼくは一番近い出口を確認しながら、途切れないよう彼に話し続けた。
「すまなかった。このレストランに入っちゃいけなかったんだ。」
そんな風に話しかけたぼくは、よほど緊張した顔をしていたのだろう。
「いや、いいんだよ。だいじょうぶ、そんなにたいした問題にはならないよ。返って心配をかけて済まなかったな。」
かれは反対にぼくを気遣ってにっこりと微笑んだ。

 その時ぼくは、ジェームス・ディーンの「ジャイアンツ」という映画の中で、ロック・ハドソンとエリザベス・テイラー夫妻が小さな街のレストランで、息子の身重のお嫁さんがプエルトリコ人だったため、殴り合いのケンカをするシーンを思い出していたのだ。
(今、急に気が付いた。あの映画は、一人の誰からも相手にされなかった貧乏青年(ジェームス・ディーン)が、石油を掘り当てて億万長者に登り詰めたとき、以前雇い主だった巨大牧場主(その奥さん「エリザベス・テイラー」に思いを寄せていたのだが)が落ちぶれながら、しかし確かな幸福を掴んでいくという、その持てる者の孤独と、持たざる者の幸せの対比を描いた映画くらいに思っていたが、そんなものではなかったのだ!
あの映画は、富を手にする者としない者、都会の知的な人々と地域で自然と闘いながら生きる人々、白人と黒人というだけでなく、人種の相違が引き起こす様々な問題。その当時のアメリカという巨大な国の葛藤の姿を描いた最高傑作だったのだ!)

「ま、とにかくここは落ち着いてコーヒーを飲もう。」
そういってぼくはパイを食べ、一生懸命彼に話し続けて、無理な笑顔をつくった。
彼がコーヒーを飲み終わるのを待って、一緒にゆっくりとレジへ向かった。
レジのおばさんはニコリともせず釣り銭を数えながら、
「この東洋人の若造に、今更何をいっても仕方ないけど。ほんとに、気をつけるのね!」そんな表情をありありと浮かべ肩をすくめた。

 出口のところでほんの一瞬、ぼくはレストランの中を振り返った。二、三人の女以外はもう我々を睨む顔はなかったが、
「さっさと出て行きやがれ小僧! もう、二度と来るんじゃねエ!」
ありありとそう吐き捨てている大きな背中が幾つもあった。

 「セグリゲーション」これは人種差別のことだ。
アーカンソー州リトルロックのセントラル・ハイスクールで、最初の象徴的な事件が起こったのは一九五七年九月のことだ。
その三年前の一九五四年、アメリカ最高裁は「黒人や全ての人種に共学を保証する」歴史的な判決を下したのである。
これは第二次大戦後、アメリカ最大の社会変革を意味する判決だったが、当時のアメリカ社会の一部のインテリ層を除けば、その実現を信じる者など殆どいないと思われていた。
そんな空気がアメリカ社会を支配していた一九五七年九月、九人の黒人学生がアーカンソー州リトルロックのセントラル・ハイスクールに通学することになった。
ところが、黒人との共学を拒んだ州知事オーヴィル・フォーバスが、州兵を出動させ黒人学生の登校を阻止、これに対しアイゼンハワー大統領は共学を遂行させるため、米第一○一空挺師団の派遣を要請したのだった。

 遂に九月二十三日、州兵と数百人の白人群衆が空挺師団の兵士らと睨み合い、騒然となる中、後に「リトルロック・ナイン」で有名になった九人の黒人学生が、セントラル・ハイスクールの裏門から登校することになったのだ。

 この事件で、アメリカ全土に戦後最大ともいえる緊張が走った。そして、これをきっかけに全米に公民権運動の嵐が巻き起こり、アメリカの南部諸州では人種差別撤廃の機運と、それに断固反対する白人社会との間に鋭い対立が各地に発生し、異常な緊迫状態が続いていた。

 オクラホマシティーでの一件以来、私はやはり緊張していた。それは目的地のリンチバーグは南部のヴァージニア州にあり、入ることになった大学は白人しか入れない、未だに黒人差別が厳然と行われていたからだった。

11. リンチバーグへ

 最終目的地であるヴァージニア州・リンチバーグ大学にほど近い田舎町で、ぼくはバスを乗り換えるべく下車した。
乗り換えといったってトウモロコシ畑の真っ直中。ただ真っ直ぐな道路が交差しているほか、見渡す限り刈り取りの終わったトウモロコシ畑。
ちょうどアルフレッド・ヒッチコックの映画「北北西に進路を取れ」に出てくる一場面のような場所だった。
ぼくの乗ってきたバスが発車して遠ざかり地平の彼方に見えなくなると、四方に延びる道路には、見渡す限り一台としてクルマの姿も見えず、微かな風のそよぎのほか何も聞こえてこない静まりかえった大地と共に、私はそこにたった一人ポツンと取り残されていた。
振り返るとその畑の中の十字路にたった一軒の小さな家があり、バルコニーに老人が一人、目を開いているのか閉じているのか、黙ったままロッキングチェアーに座ってじっとこっちを見ている。
ぼくは映画の一場面を見ているような、いや、映画そのものの中にいるような、思わず身震いするような気分を味わっていた。
そしてそのまっすぐに延びた四つの道のいづれかの先に、本当に目的の大学があるのかどうか見当もつかず、ただそよ風を頬にうけて立ち尽くしていた。

 一時間ほど経った頃、遙か向こうの陽炎かげろうの揺らぎの中に小さな点のようなクルマの影が現れた。少しずつ近づいてくるのだがバスではない。
車は見えているのだが音が届いてこない。ぼくはその小さな点に目を凝らしていた。
近づいて来るとそれはパトカーだった。
ぼくは何も考えずただ手を挙げてそのパトカーを止めていた。
中にはカーキー色に金の襟章えりしょう、金の肩章けんしょうを輝かせた制服、ボーイスカウトで見たことのある鍔広つばびろの帽子、その帽子に褐色に輝く革のリボン。がっしりとした体格のシェリフが二人ぼくに敬礼をしてくれた。
う〜〜〜ん、格好いい!!!
「リンチバーグ大学へ行くのだが、バスはここに来るのか?」
「ああ、ここで間違いない。」
「それは何時に来るのか?」
「解らない。だが来る!」

 ぼくは絶句した。
日本の列車やバスの運行とはどこか根本的に違う。
大陸を横断していれば色々なことがバスにも起こる。その一つ一つに対処しながらバスはやって来る。重要なのは正確な時間じゃなく、ぼくをここからリンチバーグへ確実に運ぶことなのだろう。
お客も運転手もまたバス会社もみなそういう風に考えて、乗ったり乗せたりしているのだろう。
「だが、来る!」その言葉は強烈なカルチャーショックの一撃だった。

「乗せていってやろうか?」とシェリフの一人がいった。
ぼくは小さなスーツケースをひっ掴んでパトカーの後部座席に飛び乗った。
パトカーの中はビックリするほど狭かった。でかい車なのだが見たこともない装備がビッシリ整然と納まっている。
前席のちょうど真ん中に、ダッシュボードの足もとから天井の中央に向かって、二挺のスライドアクションのライフル銃が突き出ている。
「学生か?」
「そうだ。明日から大学生だ。」
「どこから来た?」
「ニッポン。」
「アメリカは初めてか?」
「初めてだ。」
「気に入ったか?」
「驚いている。」
「リンチバーグで何を勉強する?」
「アメリカ。」
「オー、イェー! ザッツグッド!」
これでうちとけた。気が楽になった。英語でがんじがらめにならずに済む。
「その腰の拳銃、何ていうんだ?」
「45キャリバー。マグナム!」
「強いのか?」
「ああ。ある時おかしな車を止めたんだ、そしたら逃げやがった。追いかけて行って横に並んだんだ。止まらねーんで、ぶっ放してやた。」
「どうなったと思う?」
と、もう一人のシェリフ。
「で、どうなった?」
「弾丸はボンネットを抜け、キャブレターを吹き飛ばし、エンジンブロックに入り込み、ピストンを突き刺して止まりやがった!」
「オー、神様!」

 車は運転席に座りハンドルを握りアクセルを自分の足で踏まなくたって、こんなに素晴らしい運転を味わえるんだ!
ぼくはこのパトカーがずっと学校へ着かなければいいと思いながら、アメリカ映画の主人公になったような興奮。英語のセリフを機関銃のようにぶっ放している、主役気取りの自分を勝手に想像していた。

 パトカーがリンチバーグ・カレッジの校内に入って行くとき、数人の人影が見えていたが、彼らはギョッとしたようにその場でフリーズした。
そのときぼくは何も知らなかったが、その年も公民権運動はますます勢いを増しており、南部諸州全体にその火の手は拡大し続けていたのだ。
ヴァージニアも同じ南部諸州の一員として、「大学の自治」に関しては鋭い感覚を持っていたはずだ。
そこにぼくを乗せたパトカーはスイーッと入ってしまったのだった。
パトカーが無断で大学内に立ち入ることは、大学の自治を侵害する行為だったのだ。
そこにフリーズして立ちすくむ人たちは、変テコな東洋人があっけらかんとパトカーから降り立つ一部始終を見守っていた。
スーツケースを受け取り二人のシェリフにお礼をいい、パトカーが学内から立ち去ると、キャンパスの緊張が再び溶けて行くのが手に取るように感じられた。

 一九六一年八月二十六日、ぼくはアメリカ、ヴァージニア州リンチバーグ大学のキャンパスに立っていた。  

12. 留学生気分

 大学では学生寮で生活することになっていた。生まれて初めてである。
寄宿舎の名前は「カーネギー」。ぼくの部屋は一階の二人部屋、トム・アールズというルームメイトは生物学専攻のとても真面目なエックス脚の大男だった。
彼は大学に近い田舎町の出身で、ジョンウェインが発散する様な、正直でストレートで汚れを知らない包み込むような雰囲気と、ジョンウェインにはない田舎っぽい洒落をいうのが大好きな独特のユーモアを湛えた青年だった。

 ぼくの寮生活の相棒を学校側が考えたのだとしたら、世界のド田舎からやって来る、軽薄で勉強嫌いで軽率居士のぼくを、最初から見抜いていたとしか思われない絶妙の人選だったといえた。
「カーネギー寮」のぼくたちの部屋は一階の西側の角部屋で、その前には色とりどりの自動車が並び日本からのこのこやって来たぼくを圧倒した。

 「トライアンフのTR3」「ポルシェ356」「サンビーム・アルパインスター」「アルファロメオ・ジュリア・スプリント・スペチアーレ」「フィアット・アバルト」「ジャガーXJ」「フォード・ギャラクシー500」「丸窓のフォード・サンダーバード」「コルベット・スティングレイ」から、「ビートル・カブリオレ」「ダッジ」「デ・ソート」「プリムス」「スチュードベーカー」の穴あきボロ車にいたるまで、すべては学生たちの持ち物ということに先ず圧倒された。
映画「理由なき反抗」が目の前にあるみたいだった。(あれはハイスクールだったナ)

 希望の「社会学専攻」というのも現実を目の前にしていきなり挫折した。
日本の大学にいた時のようなカリキュラムを組むわけには到底いかない。
そこで再考、好きな学科を中心として「演劇系」に組み替えたがやはり興味の中心は社会勉強、つまりは遊びの方がぼくにとっては重要だった。
といっても学校の勉強をしなかったわけではない。せざるを得ない環境がアメリカの大学にはあったのだ。
いや、ここでこんな風に驚いているようじゃ仕方がない。日本の大学だって同じだった筈だ。ただぼくは大学を出たからといったって、勉強などろくすっぽしないスネかじりの馬鹿息子だっただけだ。
「ああ、もう少し勉強しておけば良かった」なんぞと思ったってもう手遅れだ。
留学なんて十年も二十年も早いぼくが、何かの間違いでここまで来てしまっただけ。ま、いいじゃないですか。

 「英語」「社会学」「演劇論」「話法」「音楽史」、全科目とも次の授業までには「ブックレポート」というものを提出しなければならない。
授業の終わりに教授から五、六冊の本のタイトルが言い渡される。
それぞれの本の何ページから何ページまで、というふうに読む箇所を五十ページから百二十ページくらいが指定される。
一冊読むのは最低限で、優秀な学生は全部読み更に関連書も読むのだ。
レポートには、そこに何が書いてあったかの要約、著者の論旨、そして自分の論旨をタイプ用紙にダブルスペースで十二枚以内、と指定されるのだ。
ぼくは先ずタイプが打てなかったから「手書きを認めてくれ」と教授に掛け合う。
ところが英語科のおばさんの教授はなかなかの傑物けつぶつで、
「それはダメです! タイピングを勉強しなさい。手書きは二ヶ月だけ猶予します。」
なんぞという。ぼくは必死になった。

 なにしろ一科目で最低六十ページは読まなければならない。それが週に五科目あれば三百ページ以上は先ず読まなければ話にならないし、第一そのレポートを書くことによって次の授業の中身が理解できるのだ。
そのレポートの幾つかを取り上げて議論するかたちで授業は進められる。
だから読書とレポートをさぼったら最後、授業の内容がさっぱり解らなくなり、授業に出る意味、学校に通う意味を失ってしまう。ぼくの場合は落伍して帰国ということになるのだ。

 これじゃあいやでも勉強せざるを得ない。ぼくは必死だった。
毎日図書館で懸命に読み、といっても普通のアメリカ人の五倍の時間は掛かる。それでも諦めず部屋に帰ってから読む、書く。毎晩二時、三時まではかかる。
それでも手書きで六枚、十枚というと、タイプライターの半分以下である。それでも何でも書いて行くと教授は読んでくれ「次回はあと二ページ頑張れ」などともいってくれた。

 そんな生活の中でも、やがて馴れてくると週末にはよく遊んだ。
例によってクルマを持っている奴に何やかやと出かける話を持ちかけるのだが、日本と一つだけ決定的に違ったことがあった。
それは、奴らはまず他人には、特に留学生のぼくには絶対にクルマを運転させてはくれないのだ。
最初は「この学校は田舎で、チンケな奴らばかり揃ってやがる!」としか思わなかった、がある時それはアメリカの裁判制度と保険に責任があることが判明した。(いや、もちろんアメリカ人はホントに皆「ケチ」です。日本は、国としてその事を忘れていはしないか?)

 無免許で事故を起こしたときの賠償責任が日本とは雲泥の差であること。もう一つは保険制度が発達しすぎて保証の範囲が細分化され、補償対象の運転者を細分化して保険に加入している。従って外国人は保険対象から除外されていることなどが解ったのだ。
(これも今の日本なら当たり前か。)
「チキショウ!」と思っても仕方がない。最初の一年間ぼくはもっぱら助手席で様々なクルマの感触を体験することになった。
しかしその一年間がぼくにとって、アメリカで最もいろいろな種類のクルマに遭遇することになったのだった。

 ある時ガールフレンドがやって来て「彼氏がコルベットに乗ってきたから一緒に乗らないか?」と誘ってくれた。
ぼくは勇躍して乗せて貰ったが、コルベットは二座の純粋・大型スポーツカーだ。
だからぼくは彼氏と彼女の間の、ギヤボックスの上でシフトレバーをまたいで乗る羽目になった。それでもこのコルベットに乗って走り回ったことは嬉しかった。

 しかしそれにしても一九六〇年の当時五、三〇〇CCのC1シーワンコルベット。こんなとんでもない排気量の二座のスポーツカーがどうして存在するのか?
今どきのモノ識り顔の若者にだって、車種やメカニズム、装備、スタイルといったことならばいざ知らず、一九六〇年当時の、アメリカという国の輝きと勢いが解るだろうか?
戦争がやっと終わってアメリカにも平和が訪れ、戦争に向かっていた経済力が一度に平和産業に向かっているそのすさまじいまでの勢い、その当時のアメリカ人の気分というものが解るだろうか?
今では六〇年代のレトロブームなどと云う。しかしその当時のアメリカはレトロでも何でもない、日本とは全く違った意味で苦しく長い戦争が終わり、アメリカという国全体が史上に例を見ない自由と豊かさのダイナミズムに向かって、爆走ばくそうを始めている雰囲気に満ちあふれていたのだ。
ジョン・F・ケネディーもまた、そういう時代の象徴として大統領に躍り出る、そんな時代でもあったのだ。

「どや、楽しかったか?」
彼氏が聞いてきた。
「アクセル・レスポンスにシビレた。」とぼく。
すると、やおら彼氏はコックピットから踊り出てボンネットを開けた。手には三本のベルトが握られている。
ぼくの目は、その開けられたエンジンルームの凄さに釘付けになった。
「これをスーパーチャージャーに掛けるんや。」
そういって彼氏は三本のベルトを一本ずつプーリーに掛けていった。
「よっしゃ。ほんなら、もういっぺん乗ってんか?」
ぼくは又もやヘンテコな中央の堅いふくらみの上にまたがった。
「しっかり捕まってえな!」
そういうと彼氏はアクセルを踏んづけた。
ヒュイーンという甲高い吸気の唸りを上げ、コルベット・スティングレイは比較的スムーズに発進した。
彼氏はすぐさまセカンドへとシフトアップした。すると今度は叩き出されるような、ガッツーン!というすさまじい加速。
ぼくは、今まで一度も体験したこともない圧力ゾーンへといきなり引き摺り込まれて行った。
「 Feel'n good? 」
クルマを降りると彼氏が聞いてきた。
「Perfect !Magnificent!」
そう答えたものの、こういう車を楽しむアメリカ人、そしてカーレースなどを楽しむための全米に散らばる無数の組織、徹底的に趣味にのめり込む彼らのスピリット。そういう総てをこの時に理解していた訳ではなかった。

13. ニューヨーク

 渡米三年目の夏、ぼくはニューヨーク・マンハッタンに一間のアパートを借りて住んでいた。
二年間の留学生活を無事終了し、その後の方針としてニューヨークでアルバイトをしながらテレビ番組制作の専門学校を狙っていたのだ。
ここでは、もう一つの貴重な体験が僕を待ちかまえていた。
それはニューヨークの「出前持ち」のアルバイトである。マンハッタンにある日本食料品店の出前持ち、すなわちデリバリー・マンである。

Japanese Foodland というアッパー・ブロードウェイにあった日本食料品店の、今あれば大変な老舗である。
ここのオーナーは苦労人の日系二世・独身のおばさんと、ぼくより三つ年上の二世夫妻との共同経営の食料品店だ。この世代の日系二世は、第二次大戦中財産を合衆国に没収され強制収容所送りを経験している。
母国日本のアメリカに対する宣戦布告にどんな思いを抱いたのか。
また強制収容所ではどんな苦しみを体験していたのか、彼らは語ろうとはしない。。
ただ彼らはぼくに対して、日本では感じることの出来ない独特のシンパシー(これを正確に表す日本語が見つからない)を示してくれた。
明日をどう食いつなごうかという貧乏留学生のぼくに、何が一番必要かを知っていた。
ぼくは他人に対するお金の面倒の見方を、この時この人たちから学んだと思っている。

 さて、このお店ではおよそ日本の食料品なら何でも揃う。ニューヨーク在住の日本人にとっては外すことの出来ない貴重なお店だった。
今なら別に驚くことでもないだろうが、何しろ一九六三年だからケネディーが暗殺された年の夏のことだ。
その時代、マグロのとろ・中とろ・赤身が揃い、タケノコ、ゼンマイ、ワラビがあり、豆腐、納豆、あげ、醤油。味噌に、くさやに、タコ、シラス、と来りゃ怖いものナシだ。何でも持ってけお母さん、早いモン勝ちだよマグロのとろは、子持ち昆布で一丁あがり!

 そうなんです。北大西洋の子持ち昆布は、数の子がびっしりとついて二センチほども厚味があるのだ。これ、ニューヨークじゃ「さざ波」と言いますナ。
「さざ波」たア良いじゃありませんか、ネーミングが。
「子持ちこんぶ」と比べてどうです?
「子持ちこんぶ」なんて海底のヘドロのような響きじゃあございませんか?

 そういうわけで、ぼくはそれらの食料品をニューヨーク中に散らばる、主として日本人家庭に配達して歩くわけなのだ。

 勤め始めた初日、注文の電話が掛かってくるとぼくが全部その注文を受ける。
何しろ日本人が日本語で注文してくるのだから、ぼくにとっては電話の注文をメモするなんて「オチャノコサイサイ」だ。
注文は朝八時から十時半までで、次は電話でメモした伝票を何枚も握りしめ、今度は注文してきたお客さんに代わって、皆んなして自分の店で片っ端から買い物をするのです。買い物を段ボールに放り込んですべての買い物が終了したところで昼飯。

 そこの昼メシがまた豪華絢爛ごうかけんらん
マグロのとろに霜降り肉のすき焼きの食い放題だ。何といってもマグロは自分の店で仕入れるのだからバカみたいに安い。それに当時のニューヨーク・マグロの品質は、ポット出の日本人には一寸信じがたい程のものなのだ。
これは念の為に云っておかなければならないが、マグロはすべて「本マグロ」だ。
冷凍でしょ、だって? 冗談じゃない。
当時そんなもの冷凍にするなんてソロバンに合わなかったんじゃないだろうか。だからマグロは全部本マグロのナマなのだ。
しかし安いからかどうか知らないが、残るとそれをみんな棄ててしまう。
明日は明日で又新しいマグロが来るので残してもしょうがないから食い放題なのである。
すき焼きの牛肉なんていうのも、アメリカには霜降りなんかいくらでもあり、これまた安い。
ニューヨークまぐろの品質のことをご存知の方ならお解りだろう。下世話な話だが、この昼飯はさしずめ今の日本のお値段なら一万円の豪華昼飯セットというところか。
それを毎日のように頂いて、それからやおら出前出発なのだ。

 最初の日、指定されたステーションワゴンに例の二世の恐そうなおばさんが同乗してきた。おばさんは左足が悪いので松葉杖につかまっている。
何とニューヨークで開催された「ニューヨーク大物釣り大会」で優勝杯を手にしたものの、その代償として左足の神経を切ってしまったのだそうだ。
そう言う趣味だから独身なのか、独身だからそう言う趣味なのか、それは訊くわけにいかない、このおばさん実に悠然たる生き方なのだ。

 おばさんはぼくに一枚のニューヨークの地図を渡した。
「これを常に持ち歩きなさい。最初の伝票の住所はどこ?」と訊く。
「ええと・・・ルーズベルト・アヴェニュー22」
「あ、それはフラッシングよ。クイーンズボローを渡って!」
などと命令する。何のことだかさっぱり解らない。
「解らない?レキシントン・アベニュー下がるのヨ。そしたらフィフティナイン東。セコン・アベニューのところで、クイーンズボロー・ブリッジ見えるから。」
英語のところはアメリカ人、あとは変な日本語だ。マンハッタンからどの橋を渡ってクイーンズに入るかの、その「スジとキモ」を話しているのだ。でも解らない。
「停まんなさい。パーキンして、地図見る!」
おばさんは別に怒っているわけでないのだがぼくを急かせる。  
停車して車を歩道脇に寄せ、ニューヨーク全体の道路地図を広げる。
「あ、わかった解った。クイーンズボロー・ブリッジ渡って、ノーザン・ブールバール入っていくんだ。」
「わかった?エグジッ(EXIT)間違えちゃだめよ。」
こんな感じである。

 分かりますか?「エグジット」なんて云わないんですよ。「ト」なんてね、英語だからね。

 とにかく二世のおばさんの英語の発音は「カタカナ」で全部書ける感じなのです。
「ルーズベル入った?番地は?トゥウェニセコン?・・・ノー、ノー右側」
ぼくはおばさんから初めて教わった。
そう、アメリカでは住所の数字で奇数が左なら偶数は右側と揃っているのだ。これ、アメリカ全国そうなのだった。二年間も住んでいて気がつかなかったが、ぼくはニューヨークでそのことを教えられた。
おばさんは最初の日は、助手席からいちいち指示を飛ばして教えてくれた。
しかし二日目は目を閉じて何もい云わなくなった。どうしても分からない時だけおばさんを起こして訊く。
「このアパートは普通のエレベータ使っちゃダメ。サービス用エレベータあるでしょ?」
「チェリー・アベニューはこっちからしか入れないよ!ワンウェイよ。」
こんな感じでしゃにむに二日目をこなした。

 三日目である。三日目には配達商品の段ボール十六個をワゴン車に積み込み、地図を持たされ、一人でニューヨークへと放り出された。
ニューヨークには五つのブロックがある。
マンハッタン、ブルックリン、ブロンクス、クイーンズ、ステイトゥン・アイランド、それに配達地域にはニュージャージーも含まれていた。
ハイウェイに乗ってエグジットを降り損ない、とんでもないタイムロスをしたり、同じアパートの名前で別の建物があることを知らなかったり、失敗はた沢山やった。
しかし二週目にはあの広いニューヨーク中、何処へ行ってもまごつかなくなっていた。
上手な運転と云うが、その重要なファクターとして、道を知ることがどれ程大切かをぼくはこの経験から学んだ。
しかし、もちろんアメリカの道路が日本と違い、「近代都市の哲学」に支えられていたことが、どれ程助けになったかは云うまでもない。

14. リバティー船

 一九六三年十月五日、太平洋横断に五十三日もかかる、とんでもない貨物船に乗ってぼくは再び日本に帰ってきた。
貨物船は自動車ではないので、ここでの詳細は割愛させていただくつもりだったが、この船はリバティー船といって第二次世界大戦当時、アメリカが戦争物資の輸送船として盛んに運行させた船であり、どうしてももう少し触れておきたいと思うのです。

 この船は当時のアメリカの威信をかけて設計・建造され、大戦中だけでも二、七一一隻も建造されたことは世界にも例がなく、その数は何よりその設計の信頼性の高さを物語っている。

 一万八百トン、一〇・五ノットという性能で、当時としても航行速度が遅く敵の攻撃の恰好の標的とされたが、その堅牢さと貨物船としての資質に優れたため、世界の七つの海はもちろんのこと北極海での活躍も商船としは他を圧した。
第二次大戦中は、米国兵站へいたんの隠れた最大の担い手として現役を続け、ぼくの乗った一九六三年まで、何と三十年余もの間、同じ設計の商船としてその任務を完遂した。
リバティー船の活躍は日本では殆ど知られていないが、アメリカでのリバティー船の従事者は百万人を優に超え、又この船で戦死を遂げた多くの戦没者を記念して、五月二十二日オレゴン州のポートランドでは、米国大統領も出席する「商船の日」の式典で、その成績は現在でも賞賛し続けられている船だ。
しかもだ、このリバティー船の生き残り「エレミア・オブライエン号」は現在もサンフランシスコの港で「動態保存」され、毎日見学者が絶えず、あろうことか年に二回も体験航海まで行われているのだった・・嗚呼!!!

 しかしぼくは、自分の乗る船が何であるかなど知る由もなく、乗船して始めてその名前を知ったくらいで、全員ギリシャ人の乗員や船長もこの船の歴史を知らず、自分たちの乗っている船を誇らしい言葉で語ったことは一度もなかった。
しかしエンジンものなら何でも興味津々のぼくは、やはりこのボロそうな船に興味を感じて、船長や副船長を相手に質問の矢を放つことを忘れなかった。

 このリバティー船は先ず重油を燃料としてはいるが、ディーゼル・エンジンを搭載していない蒸気船だったのだ。
本当です。重油バーナーでボイラーを加熱し、そこで発生した蒸気をシリンダーに送りピストンでクランクをまわし、スクリューを回転させる構造だ。
メカの苦手なひとには「ごめんなさい」なのですが、船底の機関室に行って色々と見せて貰った。クランクの長さが四メートルくらいはあるんじゃないだろうか。ウルトラ・ロングストローク。
あの映画「タイタニック」の一シーンに、このリバティー船「エレミア・オブライエン号」の、巨大なエンジン・クランクの回転する様子がじっくりと撮影されていたから、ご記憶の方もいるかも知れない。
この船のピストンは鉄だから(これは外からは見えないが)ピストンとシリンダーのクリアランス(隙間)が一センチ近くもある。今までそんなエンジン見たことがなかったからぼくは驚き感激した。
乗っていると最大十ノット(時速約十八キロ)。今どき日本の小型漁船だって遅くても二十ノットは出ているのだ。
何が違うかっていうと、これがバツグンに静かなのだ。
ビリビリというディーゼルエンジン特有の、エキセントリックな振動がゼロ!
「スットントントン、スットントントン」
と心地よいリズムと共に走るのだ。
スロー・バラードをこの船に乗って歌うとちょうど良い。
"The Days Of Wine And Roses"「酒とバラの日々」
"Vaya, con Dios"「ヴァヤ・コンディオス」
"Beyond The Reef"「珊瑚礁の彼方」
こんな唄がよく似合う。
一日中歌っていても良いくらいに合うのだ。
"Vaya, con Dios" なんてワルツでしょ?波間に漂いながら歌ってみるとこのワルツが良いの何のって、もう自然に涙が出て来ちゃうぐらいなのです。
(これは小声で云っておくと、女の唄はだめ、バツ!。男の恋歌でないと、これがこの船のゆったり感にはシックリと来ないのです。)
良い点はこの「静か」の一点だけ。ほんとうにそれだけです。
それ以外はあまりにも装備が老朽化していてお話にならない。無線やレーダーは真空管。故障した時、このぼくに相談してきたくらいだから推シテ知ルベシだ。
そして、そのレーダーの故障のお陰で、あと二日で日本というところまで来て、大圏コースから外れて進路を失い、台風の目に入ってしまったのだ。
一九六三年十月、日本にやって来た台風十六号です。
一万一千トンの鉄製の船が文字通り木の葉のようになる。船全体の高さの二倍は遙かに越える波が次々と襲ってきて、船はその波の頂点に押し上げられ、それから巨大な壁のような波の斜面を、そのお鉢の底めがけて一万一千トンが一気に下降して行く。
波のいちばん底に降り切ると、舳先へさきの四分の一ほどが水中に没してしまう。
そして、もう駄目かと思うほどゆっくりと、船全体に響き渡るミシミシという音と共に、その舳先が水面に浮かび上がってくる。
ゆっくりだが、いつ果てるとも知れずそういう状態が続き、そうなると船は、もはや進路も予定も一切を無視して、波に対して三十度の角度を保つための、ギリギリの速度を保ち続けるだけで、いつ果てるとも知れない漂流をしたのでした。

 そんな状態が丸二日も続いただろうか。突然海面が嘘のように凪ぎ渡り、空には星が瞬き始め、そして船の行く手に黒々とした八丈島の島影が薄暮の海面に浮かび上がった!
ぼくは魂を抜かれたようになり、一人甲板に立って黒い島影にまたたく幾つもの電灯の光に何時までも見入りながら、
「やっぱりぼくは生きて帰ってきたんだ!」という想いに満たされていた。

 しかしこの「SAPHO号」は救命ボート一艘と、船倉に空気を送るベンチレーターのあの巨大なラッパ型の先端と、船体に強固に溶接されたナビゲーション・ライトが吹き飛ばされて、なくなっていた。

 船が最終目的地の大阪港に碇を降ろし、小さなハシケに乗り移って港に向かうとき、ぼくは自分の乗ってきたギリシャ船「SAPHO号」を初めて振り返った。
そこにあったのは、船の積み荷よりも更に更にスクラップな、赤錆あかさびにまみれた、この世のものとは思われないボロボロの船だった。

 しかしぼくはこの船に感謝したい。
「SAPHO号」にというよりはリバティー船に、である。
敵の餌食になるほど遅い船だったかも知れないが、そのコンパクトにして堅牢そのものの設計に心底感動し、そして感謝したいと思うのだ。

 図面台に向かって、軍艦でもないこの地味極まりない、たった一万トンの貨物船を設計した男達のことを思わずにはいられない。
目的を極限にまで絞り込み、洋上での戦争状態を冷静に分析し、素材や部材の製造者にもこの船の設計思想を伝え、技術者や職人を説得し、常識を疑うほどの短時間に作り上げていった大勢の男達、(いや、製造従事者の三分の一は女性だったと記録にある)の働きを思わずにはいられない。
大西洋に群雄割拠ぐんゆうかっきょしていたユーボートや、西太平洋地域を占領していた日本との戦闘のために立ち上げられた、アメリカの国家的なプロジェクトの一端だった。
戦時体制ゆえ、竜骨が完成してから僅か十日で完成させたという記録まであるこのリバティー船は、一種のプレハブ構造であり、自動車のように何千隻が寸部違わぬ構造を持った船だったのだ。
太平洋上で台風の目に突入してしまった「SAPHO号」は、その堅牢さを目の当たりにぼくに見せてくれたのだったが、この間まで敵国だったアメリカの、「優秀な船」に身を委ねて太平洋を横断したことは、どう評価したら良いのか。
惚れてばかりもいられない、不思議な、内心忸怩たる思いにも駆られてしまう。
しかしそんな船に五十三日も揺られて、一九六三年十月五日、ぼくは無事に再び祖国の土を大阪港で踏みしめたのだった。

15. 再就職

 帰国後再就職したのは広告代理店だった。日本テレビでディレクターをしていた大学時代の友人が、面接試験のみでその広告代理店にねじ込んでくれたのだが、この会社で最後まで三十一年間勤め上げたのだから、ぼくのような「でたらめ人間」としては上出来だったと褒めていただけないだろうか?
そしてぼくは、人生の大事な部分の生活の基礎を準備してくれたその友人に、今でも感謝せずにはいられない。

 ぼくが曲がりなりにも自分の車を自分で買えるようになったのも、この会社に勤められたお陰と時代のお陰だと今も思っている。
あんな日本中の町が殆ど破壊され焼失するような戦争をして、しかも負けたのだから、クルマなど自分で持てる時代が来るなどとは誰も夢にも思わなかったはずである。
世界の目だって、日本はやがて復興する、またそうさせなければいけないとは思っていただろうが、例えば経済の面で、戦勝国アメリカをどんな分野でも良い、抜き去るなどと考えた人がいただろうか?
今の子供たちはそんな日本を正確に教えられていないから、現在のような日本の経済的な力、今の自分の生活が当たり前だと思っているかも知れないが、たった五十年前の日本は、現在の北朝鮮に限りなく近い状態だったのだ。

 喰うものがまるで無く、その当時のガキどもは、いつでもイライラとして寝小便が止まらず、鼻からは青い鼻汁がたれ、使っている石けんがあまりに粗末なためと栄養不足のために、寒空さむぞらでは頬っぺたは真っ赤でひび割れていた。そういう時代にも、数少ない戦争で潰されそこなった自動車が生き残っていたのだ。
自動車を、自分のものという風に想像する頭さえ持ち合わせていなかったから、戦後僅か三十年かそこらで、しかも自分の給料からポンコツでも良い、クルマが買えるなんてことは、それは地に足が着かない程の実感ではなかったか。
「マイカー」とは、そういう世代の胸に響く革命的なコピーだったのだ。

 ぼくたち世代は「働くようになったらこのクルマを買おう」などと平気で思える、そんな世代とは世代が全く違うのだ。
だから今どき、ぼくたち世代の「クルマ感覚」なんぞというものは、子供たちにさえ
「ワケわかんないぜ!」などといわれてしまう。

 閑話休題、ぼくの最初の、自分の働いた金で買ったクルマは「ルノー 1300、四ドアセダン」。ミケロッティがデザインしたスマートなクルマは、六年落ち。それでも何と当時(一九六八年)五万円足らずの給料に対し四十万円もした。
買って最初にしたことは今でも憶えている。アクセルワイヤーとオルタネータ(発電機)の交換だった。かなりくたびれきった車だったわけだ。
狭い国土に一億余人、六畳一間の生活なのにクルマを所有。日本は基本的な構造のところで「どこか間違ってしまった」国なのだろうか?
この当時から日本の経済もどこか狂っていたのかも知れない。
所得に対する食費の割合・エンゲル係数は立派に「貧民階層」だったが、それでも何でも車なんぞを買い嬉しくて落ち着かなかった。

 ぼくはそのルノーを擦りきれるまで乗った。最後に同じ中古車センターの下取りに出したら、一週間目に完全に動かなくなったのだ。
何故一週間目だと分かるのか?
それは、たまたま同じセンターで2台目の中古車を買い、それの修理のために代車として借りたのだ。そうしたら、そのルノーが目の前で動かなくなったからである。つまり下取り金額はセンターの「サービスの気持ち」だったというわけだ。

16. モダン・バイク

 クルマを買うことを諦めて暮らすのには馴れていた、考えなければ良いだけだ。
そんな季節の中でのある日、ぼくは雑誌の広告にヒョイと目がとまった。
「ホンダ・スーパーホーク・スリー 、三十九万八千円!」月賦なら何とかなりそうだった。
400CC、スリーバルブ2気筒40馬力、日本初のダブル・ディスクブレーキの採用。
あとから考えれば決してスマートな選択ではなかったが、広告に参ってしまったのだ。
広告屋が広告にだまされる、ぼくは恥ずかしいアヤマチを冒したことになるのだろうか?一九八十年、四十五歳のときの話だ。

 高校生のころ、焼津の欽ちゃんが所有していた「昌和のクルーザー」という、極めて軽量級のバイクで遊んでいたことを突然思い出した。
エンジンの掛け方、ギヤの入れ方、クラッチのつなぎ方、ブレーキのかけ方、カーブの曲がり方、坂道の昇り方、それらすべてが車とは違って「乗っている!」という実感が濃いのだ。悪いことにそれを私の体は強く憶えていた。
体の憶えた感覚がある時ムックリ頭をもたげるのを押さえ込むのは難しい。
男の子が一旦オートバイで風を切る経験をしたら、そう簡単には止められない。
ぼくも勿論そうだった。すぐさまその雑誌にある販売店に電話を入れた。
「今日の夕方なら何時でもお待ちしてます」なんぞというんだ、この親爺が。

 早速ホンモノを見に日暮里へと飛んでいった。試乗こそできなかったが私はその場で月賦の書類にごちゃごちゃと書き込み、ハンコを押してしまった。
「お届けは金曜日になりますが、どこへお持ちしましょう?」と来た。
これは一世一代のめでたい目出度い日だ。
納車当日急いで家に帰って汚いアパートの前の路上で、というのではあまりにも情けない。
ここはイッチョ見栄を張っても良い場面ではないか!ヨシッ、わかった!
「ならば、会社に届けてください!六時ジャストでどうです?」
「かしこ参りました。じゃ、ヘルメットとグローブ持ってきてくださいね。」
ご心配はご無用にとは云わなかったが、弾む心をどうすることもできなかったことは云うまでもない。

 とうとうその日はやって来た。会社は赤坂で青山通り沿いにある。見栄を張る場所として申し分ない、派手で大変によろしい。が、待ち遠しくて仕方がない。
ヘルメットは買ったグローブも買った。でも何か忘れているような、オートバイが何かの都合で来ないような、嬉しいような怖いような気持ちだ。
それに月賦(これも当時は新しいシステムだったが今は既に死語)も初めてのことで、払えるかどうかも自信などありはしない。
 
 会社の友達が二人三人と、話を聞きつけて歩道に出てくる。
「ムロちゃん、バイクどこよー?」
「慌てるんじゃねえ、バカヤロー!」
そういってやりたいが、自分の方がよっぽどバカヤロー状態だ。
「来た、来た。キター!」
そのトラックは荷台にシルバーに輝く400CCのスーパーホーク・スリーを乗せて、会社正面玄関に横づけされた。

 ブルーのツナギを着たバイク屋のオヤジさんと若い男の子が一人、手際よく慎重にアルミの梯子をトラックの荷台にかけ、静かに「ホンダ・スーパーホーク・スリー」は降ろされた。オヤジさんの一通りの説明が始まる。
キーを差し込む位置、ガソリンタンクの開け方、スイッチ類の操作の仕方、シフトペダルとギアのポジション、ヘルメットホルダー、小物入れ、けっこう色々あるものである。「説明は要らないよ。」なんていわなくて良かった。

 では!ということでぼくは背広の上着を同僚に預けジャンパーを羽織り、ヘルメットをかぶりグローブをはめた。
「じゃ、ちょっと乗ってきますから。」
「気を付けてくださいね。」
「ハイ、ハイ」
エンジンをかける。
ヒュイーンという感じの回り方。吹け上がり吹け下がり共けっこうメリハリがあってよろしい。
滑り出す。二速に上げるとすぐに青山通りの二つ目の車線へとあがる。
三速で追い越し車線に乗り全開にする。静かだがヌメーッと加速する感じ。決して悪くはないが、かつて静岡で色々と体験したオートバイ達とはまるで味が違う。
「これは全くの別物だ」ぼくはそう思った。
「これはやはり、ちゃんと練習しないとやられるぞ!」
加速もいい、青山通りじゃ最高速は無理だが多分百八十やそこらまでは出るだろう。
ブレーキも利く、すべて申し分のない出来映えではあるけれど、私が以前に親しんだオートバイとは全くの別物だった。
嬉しい。自分がバイクを買えたことはスゴく嬉しいのだが、そのバイクが私に語りかけてくる何かが抜けている。そのことがちょっと寂しかった。

 「こういうバイクならこういうバイクで、もう一度最初からちゃんと捕まえておかないとヤバそうだ。」
そう感じたぼくは、それから週末には必ず箱根に出かけて行った。
季節はもう十月でかなり寒く、防寒用のウェアーを新たに買って挑戦し始めた。
バイクはやはりワインディング、つまり曲がりくねってアップダウンの烈しいところで練習するのが一番だ、そう思って箱根を選んだのだった。
その意味では日光の「いろは坂」でも勿論素晴らしかっただろうが、ぼくは何といっても「箱根」だった。
箱根と車に関しては、以前から数え切れない記憶がぼくには張り付いている。
その箱根を今度は小田原側から味わうことになったのだった。

 箱根の頂上の大観山から湯河原に抜ける、カーブの一番たくさんある道路がある。
正式な名前かどうかは分からないが「椿ライン」と呼ぶ、国道一号線から外れた、なかなか難しいワインディング道路だ。
バイクの飛ばし屋連中が、密かに愛して止まないその秘密は、色々な半径のカーブが連続するテクニックを必要とする道路だからだ。
高低差と急カーブが組み合わされた絶妙なヘアピンコーナー、半径のやや緩やかな中速コーナー、そしてカーブの大きな高速コーナー。
「日光いろは坂」にはかなわないが、それでも大小七十くらいあるコーナーを攻め上り攻め降りると、最初緊張でコチコチに固まっていた体が、攻めることでいやが上にもほぐれ、素直なテクニックが発揮されて行く。
つまり巧くなったように錯覚出来るのだ。慣れによって、ま、少しは上達するのだろうが。ぼくも「椿ライン」に惚れ込み通いに通った。

 毎週末はもちろん、平日も仕事の様子で会社をサボって通ったことは何度もあった。
やがて十一月になると箱根は冷え込み始めた。当然のことだがバイクは風を切って走るので、その寒さはちょっとたとえようがない。
仮に外気温が零度なら、体感温度はマイナス五度か十度くらいに感じる。
普通のウェアーではとうてい我慢が出来なくなって、革のウェアーが買えないぼくは、動物油をベタベタに塗りたくったようなレインウェアーを手に入れた。
防寒用と雨用の一品二役、これがぼくの経済戦略というわけだった。
これを着用に及んで出かけるのだが、大観山へ上がり湯河原へ駆け下りると、体が冷え切ってものも云えず歯の根が合わなくなる。そこでラーメン屋に飛び込みアツアツの「湯麺たんめん」をすするのだ。そしてガソリンスタンドで給油。ついでにスタンドのストーブにあたらせてもらい、足を暖めようとして何度もブーツを焦がした。
再び「椿ライン」の登りを攻める。そんなことを飽かず繰り返した。

 幸いというべきか、その年は箱根は十二月になっても雪が降らなかったので回数をこなしていったが、ウィークデーのある日、大観山のガラガラの休憩所で休んでいると一人のバイク乗りが話しかけて来た。
「一緒に走りましょう!」
ということになり、走り始めた。
当然のようにぼくは先頭引きになって椿ラインを降りていった。いくつかのカーブを夢中でこなしていると、彼がいて来ていないことに気づきバイクを停めた。
しばらく経っても彼は来ない。すると一台の乗用車がポツンと通り掛かった。
「バイクが転んでますよ〜。」
運転手はそういって通りすぎた。私は急いでUターンし、とって返した。
するとその彼はバイクをコーナーの頂点付近で転倒させたまま、コーナーの土手を転がり落ちて助けを呼んでいた。
「大丈夫ですか?!!」
こういう時ライダーは決まって、自分の体よりもバイクの方を心配するものだ。
彼も又そういうバイク乗りだった。二人でバイクを色々と点検したが、タンクが少し凹みステップが曲がり、ハンドルのレバーがねじれていぐらいで、特に走れないほどの異常はなかった。
「よかったですね。気をつけて行きましょう。」
こういうことがあると、そうでなくても「まだまだ乗れていない」ぼくは、ビビって走れなくなってしまう。その恐怖心を克服するためにも、ますます箱根に通い詰めることになった。

17. 戦前のオートバイ

 バイクを横側から見てエンジンの辺りに隙間がなく、向こう側が見えないようなものをぼくは「近代バイク」と呼ぶ。
オートバイは本来キャブレターからちゃんとガソリンが送られ、スパークプラグから火花が飛び、圧縮があれば(ちょっと難しくてすみません)、つまりキックペダルを踏むと急にはペダルが降りないくらいの重さがあれば、エンジンは必ず掛かるものであり、エンジンと車輪をつなぐメカがあればちゃんと走るモノなのである。
ところが「近代バイク」には、なくても良いが有れば便利という部品で埋め尽くされてしまっている。
戦前のオートバイを見てみると、エンジンにはキャブレターと、スパークプラグに火花を発生させるマグネトー(発電装置)以外は何も付いていない。実にスッキリとした姿をしている美しいものだ。
あとはガソリンタンクにギヤボックスと、エンジンの力を車輪に伝達するチェーンやベルト、そしてブレーキ、それですべてだ。
灯火(ライト)や警報器(クラクション)は本来はよそからの移植品だ。本当に古いオートバイにはこの二つもない。
では、そんなオートバイは自転車に毛の生えた程度かといえば、それは大間違い。
今から百年も前にそういうオートバイによるレースが盛んに行われ、時速百マイルくらいの記録は平気で出していたのだ。時速百マイルとは時速百六十キロのことだ。

 さて、この古い戦前のオートバイとはどんな乗り心地なのか?
あなたが男の子ならば、そういう一台にまたがってひとたび走り出せば、体中の血がピチピチの新鮮な血液と入れ替わってしまうほどの衝撃を受けるはずだ。
その裸馬のような力強さ、その気を許すわけにいかない操縦性、暴れまくる振動、そして腹の底から胸の奥を一直線に貫通する爆発音。
その瞬間から、取りかれたが最後生涯離れることのない、さまざまな苦労を背負い込むことになるのです。

 そんなオートバイを、友人の一人がぼくたちに世話してくれることになったのだ。
彼は古いオートバイのウェアーや部品などを輸入販売する店を持っていたが、
「何人か集めれば、まとめて輸入してあげるよ。」
と提案してくれ、早速五人の友だちが手を挙げた。ぼくもその一人だったが「モノ」はちっともやって来なかった。
その間彼はいろいろと物件をイギリスで探し、手頃なものを廉価で入手できるよう奔走していたのだ。
「オートバイは揃ったけど、メーカーも、排気量も、年式も、値段もバラバラなんだよね。希望はもちろん聞くけど、希望者がだぶった場合は抽選でもいい?」
と訊いてきたのだ。
皆んな誰もが即座に「それで良い、お願いします!」ということになった。
抽選の結果ぼくのオートバイは一九三一年製のBSA・250CCと決まり、写真と当時のカタログのコピーが送られてきた。
ぼくはカタログと写真を食い入るように眺め、読み尽くし、メカニズムのあれこれを全て頭にたたき込んだ。

 その日、五台のオートバイは遙々はるばるイギリスから送られてきた。
五人は一斉に彼の店の前に集まった。
オートバイは全て木枠に納められて、動物園に輸送される熊のように、その黒々とした姿を木枠の隙間から覗かせている。
やがてみんなは夢中で自分のオートバイの入れられた木枠を歩道の上で解体し、やがてぼくのBSAもその全容を現した。
見ると皆な自分のオートバイを前にして点検を始めている。けれどもぼくは胸が高鳴り過ぎて、見るべき部分が目に入らない。
そんな中、ぼくはガソリンタンクの蓋を開けて中を覗いてみた。
何だかガソリンが入っているみたい。BSAを少し揺すってみたらかすかにポチャポチャという音がする。
やおらぼくはガソリンコックを開き、ティクラーと押してキャブレターいっぱいにガスを送り込んだ。そうして置いてBSAにまたがりキックペダルを勢いよく踏んだ。
パン!パン!パン!パン!パン!一発でそのエンジンは息を吹き返した。
取り憑かれたように、ガソリンタンクの横にあるギアのレバーを右手で向こうにガチャンと倒し、左手のクラッチを静かに離した。
ダンッ!ダンッ!ダンッ!ダンッ!
走り出すと更に力強い音に変わり、軽快に、弾むようにそのBSAは走り出した。

 この時の感触と興奮をぼくは一生忘れることはないだろう。
そのとき思ったことを一言でいえば、
「そうだ!これがオートバイなんだ!」だった。
その思いはその瞬間ストレートに深く心に刻まれた。それは旧車を手放してしまった今でも、胸の奥深くにとぐろを巻いたようになってうずくまっている。

18. オフロード体験

 オフロードバイクは車体が軽く背が高く、不整路面をスピードで走破するのに適している。
ぼくがオフロードバイクに乗るようになったのは四十八歳、普通ならバイクを降りる年齢でもある。やることなすことずっこけているのは生まれつきとしても、これはかなり遅い方だ。従って走りも遅い。それで良いと思っている。

 ぼくは当時広告代理店に勤務しており、営業として自動車カーメーカーのマツダを担当していた。そのカタログ撮影でお世話になった会社の全員がオフロード狂だった。そこで誘われるまま彼らのツーリングに参加したのが運の尽きだった。
そこの社長のバイクの一台を譲り受け、宿の手配から何まで全てお任せ。ただ行けば良いというそのツーリングは又しても箱根だった。
箱根はかなり知っているつもりでも、未舗装路には経験がない。
行った先は箱根仙石原の裏山と、箱根湯本からまっすぐに南下して「椿ライン」の途中に突き刺さる、当時はだーれも知らないオフロードだった。

 舗装路から砂利道へ入る入り口で、
「じゃ、行きまーす。」
誰かがそういって、全員八人で走り出すと、ぼくはたちまち置いて行かれた。
なにしろ泥の道に二十センチもあろうかという、深くえぐられた車のわだち
そんなところを二輪車でどうやって走ったらよいのか、ぼくのオフロード・テクニックはゼロだったのだ。
こんなにひどいハンディを背負った遊びが楽しいはずはないが、それが楽しかったというか、刺激になってしまったのだった。
何しろその中には、元二輪車レースのライダー、その後カーレーサーとしても有名ないくざわてつ、その後アフリカで毎年行われる「パリ・ダカール・ラリー」で有名になった横川啓二、トラック部門(カミオンという)の菅原通正みちまさ、それにアフリカ、ファラオ・ラリーの高橋こうさんなどが一緒に走っていたのだ。
それはともかく、ぼくがはまった理由は、またこの連中が早いの何のといったって、山道を満載のダンプが登っていくその横を、次々にブチ抜いて行くのだ。これなんかは早いというよりは、ただ乱暴なだけなのかも知れない。しかし、ぼくはそれにはまってしまったのだった。

 今までバイクで知り合った連中とはひと味もふた味もちがい、カラッとして男っぽい。連中のお陰でぼくもアッという間にそこそこ乗れるようになったのだ。
それにもう一つ、「どんなバイクでも、巧く乗りこなせるようになるには、オフロードバイクを練習するのが一番!」と高橋曠さんに教えられたからだ。
そしてぼくはオフロードバイクによって、転び方を覚えたのだった。
 
 この中の幾人かは、いまだに大変な近いお付き合いをさせて貰っているが、横川啓二さんとは特別親しくなった。そして彼が企画したオフロードバイクのイベント「レイド・カムロ」を山形県の金山町の青年部の若者たちと一緒に立ち上げた。
これなぞは参加台数が八百台を越える日本最大のイベントまで成長したが、主催地域の複雑な事情が絡み十三年でその幕を閉じた。
このお陰でぼくは山形の山林王の川崎俊一氏とも知り合い、彼の広大な山林を走らせて貰ったり、彼の周囲の大勢の若者たちとイベントづくりで一緒に良い汗を流すことができた。
イベントをつくる側にいたため、バイク乗りが引き起こすさまざまなトラブルやその対処の仕方なども学び、それが思わぬ所で役に立ってもいる。

 今から振り返ればこういったオフロードバイクの経験は、ぼくの二度目の青春の中心の座を占めることになったのだった。

19. バイク旅

 ぼくなりに色々なクルマやバイクに乗ってきたけれど、ひと様を凌駕りょうがする程の経験は持ってはいない。ただオフロードバイクは意外にも、最も息長く付き合える乗り物ではないかと今頃になって思っているのだけれど。
それは先ず軽いこと、走破性の良いこと、経済的なことなどいろいろ思い当たる。
ぼくは山形の経験を生かして、今でも一人バイクで山の中に行くことが好きだ。

 特に夏のバイクの一人旅は格別で、バイクであるため装備はほんとうに必要最小限に絞る。この持参する装備の極限までの切り詰めは、洗練というところまで行けば最高なんだろうけれども。
装備というお供を連れて行って、一度も使わず帰ってくると何だか最低な気分。料理だったら、さしずめ作ったものに一口も手をつけなかったのと同じだからだろう。
道具類ももちろんだが、食材や水の入れ物の大きさ、酒類などのミスチョイス、これも気分がよくない。
このお酒が、行った先の状況にピッタリとくればこれはもう相当なレベルでしょう。
日本酒なんてどんなに上等な純米吟醸酒だって、野外では普通の酒とそんなに変わりはしないし、ある種の洋酒などと比べて野外ではそれ程美味しくも感じない。
しかしそのキャンプが異常に寒かったりすると、燗酒かんざけは美味しいだけではなく大変な助けにもなって来ることがある。
いい年のじじいになっての若作りや、妙なスタミナ気取りをしたって仕方がないし、第一疲れる。それよりも自分だけの「格別」を見つけると、これがまた楽しくなってくるものなのだ。

 たとえばキャンプでポケットに忍ばせたハーモニカで子供の頃の歌を一曲やるのも悪くない。ぼくの友人でいつもハーモニカをポケットに忍ばせて、河原で焚き火なんかをするとそいつで一曲やってくれる男がいる。
「いいなア」と思う。
また一冊の文庫本を片手に「ニヤリ」としながらリキュールの強い奴をグビッとやるのもそれはそれで楽しい。
ぼくはこんな時用に二〜三種類の洋酒を適当に混ぜた、かなり甘い酒を水筒に入れて持ち歩き、悦に入っているノーテンキ野郎だ。
オフロードバイクに乗り山の中で過酷な運動をした後などには、普段は見向きもしないような、甘くて強い洋酒が驚くほどピッタリと来る時があって、胸の中に陽が差したような気分になれる。

 ナイフなんかも、一人だと先ず怪我をするようなことはない。暇だからゆっくりと研ぎ直したりすると落ち着いた気分になってしまう。
火なども必要以上の「大焚き火」なんてする気も起こらないから不思議で、チョロチョロの火が長く燃えているのがいい。

 ぼくは釣好きだけれど一人の時はあまり釣りはしない。これはぼくに限ったことかも知れないが、釣った魚を誰かに喜ばれる場面が想像できないと釣る気がしない。(これは、本物の釣師とは逆だろう。)
ぼくはどちらかというと、友だちと大勢で一緒に酒を飲んだり、料理を作って楽しむのが好きなのだが、立ち止まってしまったようなときに、一人でひょっこりと出かけたくなることだってある。
バイクをトコトコと走らせて山が迫ってくると、少しだが元気が出てくる。その元気を元手に奥へ奥へと進んで行くと、いつの間にか峠に出てしまう。
田舎のコンビニみたいに何でも置いている店(あれ、何ていうんだろう)で売っている食材を見て、ちょっと献立考え、買い物をする。それを持って山へ登るか谷底などへ降りてゆく、そんな時の気分は最高だ。

 三年ほど前、ぼくは伊那の尾根道を走ったことがあった。遙か眼下の五百メートルほどの谷底に小さな部落が見える。そこへ降りていった。
まだ太陽は真上にあり、そんな場所でも結構暑かったが、ほどなくその部落に辿り着いて見るとやけに静かだ、人がいない。バイクを停めて木陰で一服した。
「この谷川を上ろうか、下ろうか。」
ちょっと迷ったけれど何となく昇る気持ちが湧いてきて、バイクで谷川の左側の細い道を昇り始めると、幾つものトンネルがあった。
昼のトンネルは恐い。入ると暫くは何も見えないからだが、そんな風にしてしばらく渓谷をさかのぼると谷川に砂州さすのあるところをを見つけた。
ここでキャンプは良いかもしれない。ただ時としてダムが突然放水し、小さな谷川が鉄砲水のように満水になることがある。
その場所に立って、そんな状況を頭の中に組み立ててみる。安全確認には違いないが、ぼくにとっては一連の楽しい自分を落ち着かせるゲームみたいな感じなんだけど。
道からは目線が遮られていることなどを確認して、キャンプはそこに決める。
四、五百メートルはある切り立った断崖の谷底だった。
テントを出して張り、火場をつくったり、あとは気ままな自由時間だ。
何かしても良いし、しなくても良い。ぼくはとりあえず昼寝をすることにした。
未だ明るい日差しがあり少し寒いくらいの谷底なのに、今日は暖かくて気持ちが良い。
砂の上にシートを敷き、タオルで柔らかい枕をつくり横になると、バイクの疲れであっという間に深い眠りに落ちてしまった。

 普段よりかなり早いが夕食をとる。暗くなる前に片付けを終わらせたいからだ。
こんな時、ぼくは調理するものはあまり刻まない。デッカイままのものが美味しく感じられるから、ソーセージなどは丸ごとに限る。フライパンで音立てて焼くよりボイルの方が美味しい。

 谷底から見上げると山が両側から迫っていて、見える空が狭く細長い。
夕暮れが迫ってきたのか急激に暗くなり始めると、ちょっと「ヤバイかな?」という気持ちが胸をかすめる。このちょっとした怖さが又なかなか良い。
自然の中でその恐ろしさと素晴らしさを同時に感じながら、見上げる空に夕焼けが走る。たった一人でそんな光景を見ると急に酒が飲みたくなって来たので、甘いリキュールを混ぜたコニャックをグイッとやってみる。甘くて火の点くような酒が美味しい。
お腹のあたりがジンワリと溶けて、穏やかな酒精がからだ全体に満ちてくるようだ。
もう一度細長い空を見上げるともう星がきらめき始めていた。

 旅というと持ち歩く一冊の本を開いてみたけれど、こんな所でランプの明かりでは全く読めないことがすぐにわかる。そのままランプを吹き消して横になった。
暗闇の中にぼんやりとした明るさが感じられ、流れの音が急に大きく耳に入ってくる。
「今夜はこの音に包まれて寝るのかな」そう思うと、満ち足りた体が急に眠りに落ちていった。体は十分に疲れているようだった。

 夜中にフワッと目が覚めた。テントの中で何も見えないけれど、今度は流れの音がうるさいくらいに響いている。
そのとき不意に気がついた。川の中を何か大きなものが歩くような、ゴトンッ!ゴトンッ!という何だか恐ろしい音がしている!
急に心臓の鼓動が耳に響いてくる。手探りで登山ナイフを探り当て、腰の脇に引き寄せ、懐中電灯の在処ありかを手探りで確かめる。
耳を澄ませるとしばらくしてま又ゴトンッ!ゴトンッ!と繰り返してくる。
目はもう完全に覚めきっている。
しばらく耳をそばだてていると、次第にその音が間延びして聞こえてきた。
ズボンを穿きナイフを握ってテントの外へ乱暴に飛び出してみると、うっすらとした星明かりに川の流れがぼんやりと見えているだけだった。
「そうか、流れの中で石が動いていたのだ。なーんだ、そういうことだったのか!」
そう気付いた瞬間から、その小さな渓谷に真っ暗だけれど柔らかい夜が戻ってきた。
「そうだ、明日はここで少し釣りをしてみようか。」
なぜか不意にそう思った。

20. エピローグ

 あんなにクソひもじい時代だったのに、なぜか自動車に取り憑かれたように夢中になり、あれやこれやを経験して、死に損なったことすらずいぶんあった。しかし、取り憑かれたといっても、自動車の知識に興味があったのではない。ぼくにとっては知識などどうでも良かったのだ。
そんなことではなく、「エンジンが回りそれが動く」という一事に底知れない興味を持ってしまったらしいのだ。
いかんせんぼくの時代、日本の自動車事情は未成熟だったし、第一貧困だったから、何かスジが通った接し方や憶え方もできなかったように思う。
今の人たちの方が自動車に関する車種や構造、歴史にも精通しているに違いないし、楽しんでいるようにも見える。
それに引き替えぼく達の時代はひどかった。金もない、何にもない、知りたくたって家には自動車はおろかオートバイや自転車すらもなかったのだ。
では、不幸かと問われれば、不幸どころか好き放題、やりたいことを躊躇ためらうことなくやって来たという思いがある。
人の命こそ冒さなかったものの、人のものを壊し、傷つけ、盗みまでするという、自他の区別なく、ただ周囲に甘えていただけという、わがまま三昧ざんまいの好奇心だった。
母親が見ていたら体をおかしくしたか早死にしていただろうし、父親だったらその実直さ故に、不肖の息子を嘆き割腹自殺くらいしていたかも知れない。
事実父は、「もし学校に火を出すようなことがあったら、腹を切ってお詫びする。」
いつもそう云っていたくらいだ。

 しかしその当時「じどうしゃ」を通じてぼくの周りにいた人たちは、どこか暖かかったし純粋で、大人も子供も一緒になって好奇心を燃やしているようだった。
過去のことは何でもよく見え、懐かしく思い出されるのかも知れないが、あのころ自動車は大切にされ、長く使われて輝いていた。高嶺の花であり希望の星だった。
爆撃で焼けた自転車の錆びたリム(車輪)を、棒で転がす遊びと、本物の自動車をいたずらする楽しみは同じだった。生き生きとして興じ、まるで邪念がなかった。
ぼくを怒ったり叱ったりした大人たちは、目に憎しみやさげすみの色がなかった。
ぼくに悪戯いたずらされる自動車の方も夢のような装備に輝いていたが、今の自動車にみる虚飾はなかった。
価格は今とそんなに変わらないぐらいに高価だったが、庶民のふところから何かを奪い去るようなところはなかった。

 こう考えて来ると、過去はやはり輝き始めてしまう。
いまぼくの回りにいる友人たちは、運転も実に見事だし車の知識も正統派で相当なレベルにあるといって良い。
そのオートバイがどのレースでどんな戦い方をして勝利を収めたのか?
その年はイギリスにとってどんな年だったのか?
そういう歴史を知るのも素晴らしいことだ。
イギリスに出掛けて行って、そこに住むイギリス人と付き合いを深め、歴史の中に生きていた懐かしい車を共に語り合い、一緒に草レースや数多くのイベントに参加する。
またアメリカに行って、コルヴェットの一九五三年から六二年までをC1と呼ぶことを知り、それを買い求め、アメリカのC1クラブに入って彼らと一緒に楽しむ。
これも良いだろう。
しかし、ぼくたちの頃はそんな余裕もなかったし、知識も整備されていなかった。
けれどもその時代に、実際に生き生きとして活躍していたオンボロ自動車で存分に楽しんできたのだ。それで良いのかも知れない。
今、自動車を楽しむ人たちはいったいどのくらいの数に上るのだろうか。
彼らは驚くほど多岐に渡り深い知識を身につけ、そして以前にはあり得なかったような、普遍的な価値を身につけた自動車すら所有してもいる。
「どうしてそんなものが日本にあるの?!」そういう一台を所有している人が何人もいる。結構なことだ。
でもそういう自動車は、毎日その辺で乗り回すわけにはいかないのだろう。
乗り回すどころか、空調や湿度調節まで行き届いたガレージに静かに眠らされ、何かの大きなイベントでもあると引きずり出されたりしているのではないだろうか。
ぼくはそんな自動車のオーナーや、それを取り巻く人たちと知り合う機会を得ているのだが、皆んなが目を輝かせる自動車の話になると、きっとお金の話が出てくるのはどうしたことだろう。
ぼくが接してきた古い「じどうしゃ」は、どれ一つをとっても「幾らしたのか」「今なら幾らするのか」など全く縁がない。
けれども、ぼくが実際に触れてきた自動車たちは、歴史上に燦然さんぜんと輝く勲章を身につけていたわけでもないし、それほど記憶すべき特質も持ってはいなかったと思う。
それにも拘わらずその自動車たちは、今では考えられないほどに生き生きとしていたのだ。
オートバイなどは、半世紀も前の中古車を走らせてみると、弾けるほどの活力を乗る人にぶつけてくる。これがもし本当の新車だったらどんなに凄かっただろうと、想像しただけで心は爆発をおこしてしまう。

 ぼくは六十歳をとうに越えており、オートバイもそろそろ降りなければならない時期にさしかかっている。自動車についても間もなく同じ時期が来るだろう。ぼくはそういう時が来たらいさぎよく車から降りようと思う。
山ほどある想い出を一つ一つ辿るだけでも相当な時間を要するし、それらはぼくに更に珠玉の楽しみを与え続けてくれるはずだ。
そして知識を楽しむならこれからの時間はたっぷりとあるし、これからの時間はそれに最も適してもいるだろう。
戦争を起こした馬鹿な大人たちがいなかったら、もっと車たちと楽しい触れ合いがもてたに違いない。しかし、それにしてもぼくは十分滅茶苦茶だったし楽しかった。
自動車が、戦争にまつわるさまざまな苦境からぼくを救い出してくれたのだから。