「ストーブの灰」

(17枚)
平成十五年四月一日

 居間にドンと据えられた薪ストーブが、冬の間は家で一番偉そうに見えるが、見えるだけではなくこれは本当にエライとぼくは思っている。

 ぼくの家は標高1250メートル、諏訪湖の近くの原村というところにあるが、これが冬はだいたい零下十五度ぐらいになる。建物は吹き抜けになっていて、広さだけは六十坪もあるが、寒冷地に建てた家としては機密性も悪く、どこからともなく隙間風が忍び込んでくるような山形杉の家だ。そういう一軒家を丸ごと暖めてくれる薪ストーブは.やはり優れもので一応エライと褒めても良い。

この家に一歩踏み入れると誰もがこのストーブに否応なく目が行く。だいたい西洋人の考えたモノは無遠慮で、日本の風景をかきまわすワルイ癖があり、このストーブもおよそ日本的家屋の概念からはほど遠く、何かもうエラそうで恥ずかしいほどの存在だ。このストーブはアメリカのバーモント生まれのカウボーイだから、遠慮などしない、おれの力を見てくれとばかりに、にっこりと構えている風だ。こういうモノに心惹かれて家を建ててしまった私も相当な無知者だったが、しかし住んでいると、この暖かさもなかなか棄て難い力があることが分かり、その実力が身に浸みてもきた。日本の家には下品と映る遠赤外線ストーブだが、遠く離れた場所から先に暖めてくる具合はなかなかで、底の方から暖まって来るような野太い暖かさが、何やら癖になりそうになってきた。

 モノに対する執着など精神の堕落だと思いたいが、自分が今まで気を寄せたことのあるモノをあれこれと思い浮かべていたら、ふとオーディオに思い当たってしまった。
オーディオも相当な金食い虫で、ちょっとのめり込めば家一軒分くらいの金はたちまち注ぎ込まされてしまうらしい。そういう覚悟のないぼくはけちなオーディオの装置しか持っていないが、このストーブの味、ぼくの好きな音にかなり近いという気になってきた。

力強い、圧倒的な熱が通奏低音として流れ、その上にゆっくりとオーロラ風に燃える炎、気づかないが微かに聞こえているその燃える音。そしてそこはかとなく漂い初め、いつの間にか家の中を満たしていくほんのりとした木の香り。長い月日をかけて使い込む快感は、西洋モノに抵抗するぼくの気持ちを少しずつ溶かして行くようだ。
たかがストーブ、されどストーブ。この暖かさが日常となっていき、ぼくの家の冬に豊かな色合いをもたらしてくれるこいつに嵌っていく。

 ぼくは俄然火に心が向かうようになってしまった。
薪ストーブを燃やすということは、実は大変な手間と努力が要るもので、ぼくのようにこのストーブひとつだけで家中の暖房を賄おうとすれば、毎日欠かさずしなければならない作業が出てくる。薪ストーブなんて脇役に留めて、客でも来たときに見栄を張って焚いていればよかったのに、これしか暖房のない家を建ててしまったのだから、もう手遅れだ。最初私は薪ストーブのある暮らしとばかりに洒落込んだが、こいつを使い始めてみると、否応なしに「骨の折れる面倒くさい」仕事が必要なことをぼくは今頃になって思い知り、腹をくくった。

 先ず、すごい量の木材の確保。これはシーズン五トンくらいは必要だ。割った薪で五トンとは、おおよそ八畳間かそれ以上の空間をぎっしりと埋め尽くすほどの量のはずだ。
先ず春になると山形の友人が、山から切り下ろした長さ二メートルほどの丸太をトレーラーで運んできてくれる。家の前にはちょっとした丸太の砦のような山ができあがる。これを梅雨時から夏にかけてチェーンソーで切り、長さ五十センチほどの玉をつくる。今度はその玉を割れば薪は出来るが、やってみると凄い仕事量だ。
薪は乾燥していないと熱が出ない。その乾燥というやつが実は一番の曲者で、乾燥のために幾つもの骨の折れる仕事が必要だ。乾いていれば切るのも割るのも普通にできるが、湿っているとこの両方ともがめっぽう大変になる。だから、切る前に丸太をある程度乾かし、切ったらその玉を並べてシートをかけ、何日間か乾燥させる。

 丸太切りと薪割り、乾燥のための場所づくり。割るための薪の運搬と割ったあとの薪積み。庭で乾燥させた薪を家の中に取り込むのもけっこうな作業量だ。実はこの段階で始めて薪と呼べるものになるのであって、それまではただの木、丸太だ。
実はその薪割りも初めの頃は手で割っていた。それを東京の友人が見るに見かね、田舎の空気と旨い野菜を出すというぼくのプランに乗ってくれ、年に十回も来てくれ、もう七年にもなる。が、本当に年を取ったら一人ではやり切れなくなる程の仕事量だ。(そのことは、あまり考えると生きていけなくなるから、考えない。)また、家の中に薪を運ぶといっても、家の中でそれを上手に積み上げなければ沢山の薪は取り込めない。少しだとしょっちゅう取り込むから面倒だ。たくさん取り込めば後がらく。ストーブを焚く熱で、取り込んで置いた薪が短時間で乾燥していく。
モノの本を読んだら「薪は三年間乾燥するのが理想」とあった。少なくとも一年間は乾かさないと充分な熱が出ない。せっかく出てきた熱を、薪が自分の水分を飛ばすために奪ってしまう。こんなことが大切だというのは、やってみるまで分かりはしなかった。

 我が家では十一月の下旬頃から薪ストーブに火を入れるが、一旦焚き始めたら、春暖かくなってストーブが要らなくなるまで、一日も絶やさず燃やし続けることになる。夜はどうするかといえば、寝る前に最後の薪を三本ほど入れておけば、翌朝まではそのまま放って置いても、ゆっくりと燃えて火は消えることがない。但し、我が家では火を燃やし継ぐためにいろいろな工夫と、面倒で楽しい、ちょっとした世話が必要になる。薪ストーブを使っている家は皆どうしているのかは知らないが、ぼくの家では寒くなってストーブに火を入れたその日から、暮らしは否応なしに薪ストーブ中心になってしまう。

 我が家の薪ストーブは前面に観音開きのガラスの扉があり、ストーブの上面は鍋ややかんが載せられるよう平らで、同時にそこは薪を入れるための蓋でもある。その他は空気の取り入れを調節するレバーが二つ、この二つを上手に調整すると、長く良く燃えるのだ。そしてそれをうんと絶妙に調節すると炎はオーロラのようになって、見るものを幻想の世界に連れ込んでしまう。これがこのストーブの最大の売りであり魅力でもあった。

 悪いことにぼくはなまじっか火が好きなのだ。それはぼくが経験した日本の敗戦と、そのために強いられた貧乏生活が体に刷り込まれているからかも知れない。
終戦を迎えた年、ぼくは小学校四年生だった。静岡の僕の家は終戦の年の六月に戦災で丸焼けとなり、その後人を頼って農家の納屋を借りたり、父の勤める学校の、焼け残った校舎の片隅を借りたりして暮らしていた。そんな中で、炊事はすべて七輪で薪を燃やし、来る日も来る日もムギ粒のかすかに浮かぶ雑炊ばかりを家族皆んなで食べていた。
あの頃はどこの家もみんな同じようなものだったはずだ。ご飯の釜も、鍋も、フライパン(これも昔は「フライなべ」って言わなかったかしら)も、魚を焼く網もすべてがこの七輪と薪。だから焼き魚(といってもほとんどはイワシ)はいつも真っ黒けだった。その七輪の火を熾こすのがぼくの役目だったが、見よう見まねで火熾こしだけは人に負けない、自称名人に仕立て上がっていたのだ。

 先ず七輪に小さく破いた新聞紙を丸めて敷く。薪といっても板っぺらで粗末な木片を、鉈でさらに細かく割って焚き付けを作り、新聞紙の上に上手に組み並べる。この並べ方が空気の流れを決定づけ、巧く火を熾こせるかどうかのキモとなる。さらにその上にこれまた粗末な、拾い集めた少し太いこっぱを絶妙に並べないといけない。
当時の薪は何故かすべてが湿っていたような記憶がある。ぼくも下手クソな時代があり、とにかくなかなか火がつかなかった。煙ばかりがもうもうと立ちこめ、やたらにむせたり涙をポロポロ流したりしたものだ。で、何とかしようと団扇で扇ぎ、火吹き竹なんかをやたらに使った覚えがある。
癇癪持ちのぼくは、いつもいらいらと火熾しに精を出し、うまくつけば黙っているが、うまくいかないときはいつも誰かに当たり散らしたりしていた。
その時に工夫したいろいろを、ぼくの体は覚えてしまったらしいのだ。その後、キャンプに行ったり焚き火をしたりすると、いつの間にかぼくが文字通り火付け役になっているが、そういう仕事をぼく自身宿命のようにこなしていたような気がする。

 そんなことが下地になったかどうかは分からないが、晩年の今頃になって薪ストーブという又もや因縁の火種が出現したというわけだ。
だからぼくは、ストーブを焚くにも何となく形に嵌ったようにしなければ気が済まない。別に火さえつけばどうやったって良さそうなものなのだが、そうはいかない。ついつい型みたいなものがあって、それに自分を無理やり縛りつけるのだ。因果なことだと内心苦笑しながらも、自然にそういう方向に向かってしまうから仕方がない。これは貧乏性の典型かと思うくらいだ。これほど貧乏臭い仕事が身についているというのだから、もはや救いようもなくストーブ仕事に没我となる日々だ。

 ここで、毎朝のストーブの焚き方に触れないわけには行かぬ。何しろこれはぼくの因縁の「型」だからだ。
朝目が覚めると今日は外が暖かいか寒いかを感じ取りながら、ふとんを抜け出し洗面所で口をすすぎ、階段を下りてストーブに向かう。むかしの兵隊さんの朝の点呼みたいに体が動く。次ぎに外気の温度を見、そしてストーブの温度計を視る。まだ熱くてとても掃除のためストーブに手が入れられないことがあるからだ。それから前面のガラス扉をおもむろに開け、ストーブの灰を小さな鏝で目皿から下の受け皿へと掻き落とす。灰の中には次の種火となる赤いものがたくさん残っていて相当に熱い。
灰で一杯になった受け皿にふたをし、それを庭の畑に撒きに行く。畑は玄関を出てほんの十メートル程のところにあるが、雪の日はたいへんだ。棄てる前に、その十メートル余を雪掻きしなければ何ごとも始まらない。
灰を棄てると受け皿をストーブに戻し、こんどはガラスの掃除に取りかかる。ストーブ専用のガラス掃除用の、臭い洗剤をつけて手早く磨く。ガラスがかなり熱いのでゆっくりやると、その洗剤が乾いてしまい旨くいかない。灰を先に棄てるのも、少しでもガラスの温度を冷ますためだ。だからこの手順を変えるわけにはいかない。

次はいよいよ火をつける番だ。灰を棄てている間に残り火はどんどん元気づいて小さな炎が立つほどにもなる。そこに薪割りの時にできた木っぱや木の皮を貯めてあるのだが、そいつを残り火の上に一様に敷きつめ、つぎに細めの薪を選んで並べ、その上に太めのものを、だから都合5,6本の薪を置く。これで準備は完了、それからが火の調節に入るのだ。
先ずガラスの扉を専用のハンドルを使ってしっかりと閉じ、それからおもむろに空気取り入れのレバーを全開にする。昨日の残り火が充分あればこれで火はついてくれるが、充分でない場合は、下の灰受け皿の扉を少し開けてしまうのだ。これはやっちゃいけない方法らしいが、私はそれをかまわずやる。そうすると面白いほどあっという間にストーブの中が火の海と化す。それで一気にストーブ内の温度を上げてしまうのが、ぼくのやり方だ。

そしてこのストーブの最大の売りは完全燃焼、そのために魔法のレバーがあるのだ。一度燃やして出てきた煙を、もう一度呼び戻して触媒を潜ぐらせると、あら不思議、一度で二度おいしい、五割増しの熱量が手に入る仕掛けだ。そればかりではない。この二度燃し(二時燃焼)のときに温度が三百度かそれ以上にも達して、例のオーロラ現象が楽しめるのだ。
魔法のレバーを倒し、空気をうんと絞ってやると、ストーブは燃えたいのに空気の量を絞られているから苦しがる。そして僅かづつ入り込む空気を吸い溜めてから、ボワッと燃え上がるのだ。考えてみれば、これは無骨なカウボーイには似合わぬ、ちょっとシティーボーイ風な、女を繋ぎ留めるためのセコイやり方みたいだ。火がついてしまった女の体をいたぶっているよじゃないか、と思ってしまう。で、その時に青白い炎がオーロラのように、幻想的にストーブの内側をなめまわすように立ち上がる。それと同時に広い部屋の中がズシーン!と暖まり始める。この醍醐味がまたたまらない!もうやみつきだ。

 我が家のかみさんもこのストーブの大ファンなのだが、燃やすための「型」など持ち合わせてはいない。灰を先に棄てようが、ガラスを先に拭こうが、そんなことはどっちだってかまやしない。「暖かけりゃいいんじゃない?目に楽しいのも良い匂いも、それはそれで結構だけど?」なのである。「それで良いのだ。正解!」そう思うのだが、やはり手順を逆になんかできっこないし、ぼくがやるとどうしてもそうなってしまう。
雪掻きだって、歩いていけるならしなくったって良いのに、その方がよっぽど樂なのに、何の因果かそれがぼくにはできない。年のせいで頑固になっているのかも知れない。
「でもその分オレはオーロラ燃焼を眺めて恍惚となれるのだ」、と思い決めている。これは閉じこめられた、暗くて長い冬の間の最大の慰めでもあり、何だか暗い感じなのにジンワリと心に沁みる独特の暖かみが、我が家の隙間風を追いやって、ぼくの胸の奥にいき渡るのである。

 今年それ程大雪は降らなかった。その代わり、雪の日がいつもよりずっと多かったので重労働が続いた。その冬ももうすぐ終わりになろうとしている。
今月はもう東京を初め日本各地でサクラの便りとなってきた。長い冬の辛い仕事も、終わるとなると何となく寂しい。
冬の間に畑に撒いた灰が、やがて夏のナスやキュウリや豆の味となって、食卓に上ることを楽しみに、いって見よかっ!